20 原罪の魔女
微笑みと共に、グリームニルの魔法は放たれたはずであった。
しかし、魔法を使用する際に発生する光はなかった。
「えっ……?」
虚を突かれるトーヤは、直後、全身が仄かな熱に包まれるのを感じた。
次いで頭が急速に冴え渡っていく感覚に、彼は何かがおかしいと思い至った。
「これは――」
この感覚はつい先程も味わったばかりだ。いや、その癒やしは先程のそれを遥かに超えている。
グリームニルを背中で押し倒しながら目を開き、首を回して見ると、浅葱色の髪の少年は眉を下げて引きつった笑みを浮かべていた。
「私は演技派なのでな。……ともかく、おめでとう少年。君は今、ようやくシル・ヴァルキュリアの領域に足を踏み入れたのだ」
「演技派」という言葉の意味をトーヤはすぐに呑み込めなかった。
先程までの口調や声音からして、グリームニルは洗脳状態から脱しているようにしか捉えられなかった。
だが、防壁が破られる丁度のタイミングで【服従の魔法】が解除されるなど、本当に有り得る話なのか。【服従の魔法】に重ねがけする形で彼は「女神フレイヤの幻覚」を見せられている。その状態では、術者が倒れるまで自己を取り戻すのも不可能なはずだ。
しかし、最初から魔法にかかっていなかったとしたら。
信じがたいがその言動の何もかもが演技だったとすれば、グリームニルの台詞は辻褄が合う。
浅葱色の髪の少年はいたずらっぽい笑みを浮かべ、極小の声でトーヤに耳打ちした。
「私はここで倒れたふりをする。君はノエルの注意を私から逸らせ。いいな」
トーヤは声や仕草で応えることはなかったが、グリームニルの身体を丁寧に横たえさせると立ち上がってノエルを見据えた。
白髪の男はカイを翼で束縛し、その心を蹂躙する悪魔の魔法を発動している。
「っ、やめろぉぉおおおおおおッ!!」
少年は絶叫し、グリームニルを放り捨ててノエルへ突進していく。
――カイは、彼だけは、悪魔の支配下に入れさせるわけにはいかない。彼がノエルに付いて大切な人たちに刃を振るう光景なんて、絶対に現実になっちゃいけない。
「ふふっ、来たかトーヤ君! こうでなくては!」
ノエルは翼で掴んだカイを自身の頭上正面に据えつつ、身体を少年へ翻す。
お気に入りの玩具を見つけた子供のように輝いた目に射抜かれ、トーヤは眉目を歪めた。
どういうわけかグリームニルは正気に戻っている。ノエルを守る防護フィールドは既にない――今が攻める好機だ。
少年によるコンマ一秒の肉薄。
【神化】で筋骨隆々な武神の化身となったトーヤは、ノエルの背後に回り込んで翼の根本を切断しようとする。
「ほぅ、面白い!」
ノエルがカイを盾にする可能性を、最初からトーヤは切り捨てていた。
仲間を傷つけてしまうリスクを鑑みず、彼はノエルを殺すことだけを考えて行動したのだ。
いや――カイという青年の価値をノエルが認めていると信じたから、そう出来たというのが正しいか。
激情に駆られていながら、冷静な目で敵を見ている。期待通りの少年の動きに、ノエルは胸が踊るのを自覚した。
「っ、やっぱり一筋縄ではいかない……!」
剣が翼に触れる寸前、ノエルは漆黒の盾を背面に展開した。
六角形の魔力の防壁が蜂の巣のように繋がった、頑強な大盾。
シル・ヴァルキュリアが【ユグドラシル】時代に度々使用した、【絶対障壁】である。
「グリームニルを倒したとしても、君の剣を拒む壁はまだ残っているというわけだ」
「随分と余裕ですね。それに、その魔法……」
トーヤは忌々しげに舌打ちする。
シルがノエルと接触していたことが、これで確定的となってしまった。今のノエル・リューズは前回とは全くの別物、そう断じても間違いではないのだろう。
「……それでも、負けるわけには、いかない!」
少年は吼える。自分がノエルに勝てる保証などないが、それでも彼は己の意志を表明した。
脅威に抗わんとする、確固たる覚悟。
その挑戦的な眼差しに居抜かれ、男はかつての自身の面影をそこに見た。
「君と私は似ている……いや、似ていた。君には同じ匂いを感じる。同じ傷を抱えて生きてきて、その元凶に反逆したという過去を持っている。私が君にどうしても興味を抱いてしまうのは、そういう所があるからなのだろうな」
防壁越しにノエルはトーヤを見つめ、感傷に浸っていた。
少年は静かに目を見張る。傷という単語に去来する痛みが胸を衝き、彼の表情を歪めさせた。
「私はここで君を手に入れる。君は、これから私の息子となり、王佐の英雄となるのだ。拒否はさせない」
白髪の男は光芒に包まれ、ギャリソンキャップを被った白いマントの姿に変じていく。
王を超えた【皇帝】のノエルと、神威を宿した【英雄】のトーヤ。
二人の対決には他の誰も立ち入らせられない。
ノエルは翼で掴んでいたカイの目を一瞥し、苛烈な語気で命じた。
「悪魔ルシファーの名において命じる! 全力で邪魔者を排除せよ!」
びりびりと空気を震わす大音声が帯びる魔力に、カイの身体が一度激しく痙攣する。
束縛から解放されて床に落下した青年は、光のない赤の瞳でノエルと視線を交わし、そして『玉座の間』の扉へと疾駆していった。
「これで、外でエインの治療を行うエルの妨害も防げる。さあ、トーヤ君――思う存分、戦おうじゃないか」
笑みを深めるノエルに対し、トーヤの表情には焦燥感が色濃く滲んでいる。
当然だろう。彼の戦友にして親友の青年が、悪魔の洗脳に犯されてしまったのだから。
【神器使い】をも屈服させたルシファーの力は、先日に少年と相対した時よりも格段に強化されていた。何もせずとも無尽蔵に湧き、発散される彼の魔力は、対峙する者の肌をじりじりと焼く。
トーヤはそれに汗を流しつつも、眦を吊り上げて毅然と声を上げる。
「望むところです。――本音を言えば、僕もあなたとは一対一で決着をつけたかった」
そう吐露する少年が指を鳴らすと、彼とノエルを囲むように立方体をした光の格子が描き出された。
【グリッド・ケージ】。高出力の魔力を帯びた光の檻は、術者が倒れるまで内外からの干渉を拒絶する。
自ら外部との接触を絶ったトーヤに、ノエルは好戦的に口角を上げた。
「ノエルさん――。きっとこれが最後になるでしょうから、僕のお願いを聞いてくれませんか?」
と、少年は持ちかける。眼鏡を軽く押し上げ、「構わんよ」と男は鷹揚に答えた。
「リューズ邸を離れてから、僕はあなたを討つことを目標に強くなろうとしてきた。【神化】を習得して、沢山の仲間を得た。それは一貫して、エルから授けられた使命のためだった。
――でも、僕はそれを抜きにしてあなたという人間を知りたいんです。神と悪魔のしがらみを無視した、トーヤとノエルという人間同士でぶつかり合いたい」
「……私に悪魔の力を使うなとでも?」
「まさか、悪魔に頼りきりじゃないと戦えないわけじゃないでしょう? 安心してください、僕も【神器】は使いませんから」
眉を潜めるノエルに、トーヤはあっけらかんとした口調で言ってのけた。
その言葉通り【神化】を解除した彼は、右腰に差していた剣を抜いてみせる。
黒髪の少年の得物はノエルにとって見覚えのないものであった。刃も柄も白銀に輝く、細身の長剣。
高い魔力は感じられたが、【神器】が秘める神の気配はしないようだとノエルは分析した。
「君の言葉に嘘はないようだね。……いいだろう、私も【悪器】は使わない。このノエル・リューズがまがい物の王でないことを、証明してみせようか」
ノエルの翼は消失し、彼は白いマントを纏った人間の姿に戻った。
男が腰から抜き放つのは黒鉄の片手剣。それは、彼がこの世で最も愛した女性の形見であった。
付与魔法による白い光粒を纏い、ノエルは不敵に微笑む。
「――行くぞ」
トーヤとノエル、両者が同時に床を蹴り、飛び出す。
切り込んだ一瞬に相手の速度を上回ったのは、ノエルであった。
男の赤い眼は少年の剣の軌道を完璧に予測し、蛇のごとく滑らかな動きで相手の剣を掻い潜る。
――せめて苦しめずに殺してやろう。
黒鉄をトーヤの首元に肉薄させ、彼への慈悲を込めて男は内心で呟いた。
*
「もっと強く、もっと激しく――【大旋風】!」
ノアの剣は風を纏い、その叫びに呼応するように渦を巻く。
女傑が見上げる先にいるのは、彼女が最も敬愛した女性だ。彼女を作った存在にして、超えるべき最大の壁――「イヴ」。
親友の肉体を乗っ取って【アナザーワールド】に干渉している【ユグドラシル】の女王は、風の大魔法を放とうとしているノアに慈悲深い微笑みを向けていた。
「ノア……ダメじゃない、お姉ちゃんに逆らっちゃ。妹というものはいつだって、姉に従順であるべきでしょう?」
イヴの愛は倒錯している。彼女はノアを一人の人格として見ていない。愛を注ぎ、自分の都合のいいように育てる「器」としてしか捉えていない。
人らしい温もりに満ちたシルの肉体の中にいながら、彼女の精神性は千年もの間変わることはなかったのだ。
固着した意識、呪縛の如き支配欲――【神の母】をそれらから解放するのが、ノアのやるべきことだ。
女王の八つの魔法陣が虹色の光輝を降り注がせる。
莫大な魔力を包含した砲台に照準されるが、それでもノアは屈しなかった。
「あたしは、昔の優しかった姉さんが好きだった。その優しさが姉さんの心の中に一滴でも残っているのなら――あたしはそれを引き出してみせる!」
風は突風となり、突風は竜巻と化す。
ノアを中心として発生した巨大な竜巻が天を衝き、上空のイヴをも容赦なく巻き込んだ。
中庭の植木が根元からへし折られ、渡り廊下の柱も暴風によって大破する。吹き荒れる風の音は兵たちの喧騒をかき消し、黒い風雨は視界の全てを塗りつぶしていく。
王宮の南側――ノエルらがいる『玉座の間』は北側――を一瞬にして半壊させたハリケーンに、発射間際だったイヴの魔法も不発に終わったと思われた。
――だが。
破壊の権化となった竜巻の中にあっても、イヴの魔法陣の輝きが失せることはなかった。
「…………そんな」
ノアの乾いた呟きが漏れ出す。
あの中にいて魔法陣を完璧に維持する余裕など、到底持てるはずがないのに。たとえ防壁魔法を使用したとしても、空中ではその防壁ごと吹き飛ばされるのが当然なはずなのに。
「シル・ヴァルキュリアの身体というパーツ……その力を甘く見たわね。幸いなことに、私の精神と彼女ん肉体の相性は抜群だった。今の私はシルの実力を余すことなく引き出せるの」
その空間の座標自体に貼り付けたかのように、イヴの球形の防壁は微動だにしていなかった。
独り言つ彼女は右腕を高々と挙げ――振り下ろすと同時に、命じた。
「【殲滅せよ、無限の陣】!」
威力ではシル・ヴァルキュリアの【時幻展開】をも凌駕するイヴの砲撃が、無情にも撃ち出された。
七色の光の大瀑布。
自身が「台風の目」となってしまっているノアは、魔法を発動している限りその場を動くことが出来ない。「移動不可」という枷を代償に引き起こされる天災は食らった者を確実に倒し、そのデメリットを帳消しにするはずであったが――通用しなかった場合、その枷は彼女の首を絞め殺す。
――あたしは、こんなところで……
唇を噛み、拳をぐっと握り締めるノアは、なけなしの魔力で防壁魔法を展開した。
それが焼け石に水だとは分かっている。が、抵抗せずに撃たれるままでいるのは彼女の矜持が許さなかった。
――負けてしまう、つもりなのか!
心が叫んでいる。
ここで諦めれば全てが終わってしまうのではないか――。それはノアの予感でしかなかったが、イヴという人間の「優しさ」が、彼女の支配欲によって復元不可能なまでに掻き消されてしまう気がした。
「姉さん――――!」
虹色の砲撃がノアの防壁を穿つ。
耳を劈く轟音と肉体を溶かす灼熱、そして全身の骨を粉砕する衝撃が彼女を襲った。
そこに、慈悲など存在していなかった。
ノアの意志を否定し、拒絶したイヴは、妹の肉体を跡形もなく焼き消した。
対象を喰らい尽くした大魔法の光が失せた後には、女傑が生み出した暴風も微風となって魔女の金髪をなびかせていた。
「不死者といえど、肉体を戦える状態まで復元するには少なくない時間がかかる。ふふっ……これであの子たちを追えるわね」
妹として作ったノアを倒したイヴは、悪びれずのたまった。
木っ端微塵となったノアの身体の復元は、残った魔力から細胞を再生させるところから始まる。修復がどれほど早かろうが、丸一日はかかるだろう。
荒れ果てて原型を止めていない中庭に降り立ったイヴは、脳裏に少年の姿を浮かべながら王宮内へ足を運んでいこうとした。
しかし、その時。
「どこへ行くつもりだい?」
よく通る滑らかな女性の声が、イヴを呼び止めた。
彼女が振り返ると、そこに立っていたのは空色の長髪を腰まで流した魔導士の女――リリスであった。
「可愛い息子のところよ、リリス」
睥睨してくるリリスに、イヴは含みを持たせた口調で言ってのけた。
眉間に皺を刻む青髪の女は絶句したが、立ち去ろうとするイヴにつかえる声を無理やり絞り出した。
「ま、待つんだ。君の息子は、この世界には存在しないはずだろう」
「ええ。でも、似たようなものでしょう? トーヤ君はセトの写し身よ。彼は特別なの、あなたにも分かるでしょ?」
イヴは、トーヤを【特異点】と呼称して特別視している。彼女がトーヤに何を望んでいるのか、それはリリスの知るところではない。
かつて、セトはイヴの息子として帝を弑逆し、世界の覇者となった。彼は「魔導士主導の世界」を12人の兄弟と共に築き上げ、【原初の神】として自らを神格化した。
もし、イヴがトーヤにセトと同じ役割を望むのならば――彼女の内に宿った【憤怒】を以て、阻まなくてはならない。
リリスは【神】や「魔法」が世界の命運を握るこの世界が嫌いだ。魔導士とそうでない者の格差が拡大し続ける社会など、唾棄すべきものだと思っている。悪魔を用いて【神器】を破壊し、【神】の支配から世界を解放する――それがリリスの悲願であった。
「君は傲慢な女だよ、イヴ! トーヤはセトではない、見た目が似ているだけの別人だ! 彼には彼の意志があり、それは決して君の願いに沿ったものではない!」
「そんなの関係ないわ。私は彼に意志を求めない。必要なのは実力と、偶像に相応しいカリスマ性だけだもの」
リリスは魔女の碧眼を鋭く睨み、訴える。しかし、それはイヴに無感情に跳ね除けられた。
その瞳を前にしてリリスは悟った。
――この女とは対話できない。彼女の意思は他者の言葉で変化する可能性が一切ない、精神に固着したものなのだ。
「さぁ、おいで……私の【憤怒】」
関節が白く浮き出るほどに拳を強く握り締め、リリスは呟く。
背後に立ち上るのは青き炎。いつの間にか足元に現れた同色の大蛇を身体に這い上がらせる彼女は、その蛇に自らの腕を噛ませた。
彼女の血を吸った蛇は、炎に包まれながら変貌していく。
闇を体現したかのような、漆黒の杖。それを構えたリリスは憎悪の眼光をイヴへ注ぎ、宣戦布告した。
「君の傲慢もここで潰える。逃げるなよイヴ――決着をつけようか!」




