16 永久の魔導士・イヴ
飛翔する魔導士たちの影が、ストルム上空に出現している。
いきなりの出来事に兵たちが拠点とする西の大広場が騒然とする中、エルから連絡を受けていたルプスは日が沈んでも街明かりで黄金に輝いている王宮を睨み据えていた。
目に見えた異常はない。が、あの建物の中で何かが起こったのだ。
ただならぬ「何か」――それが判然としないことに微かな苛立ちを覚えつつも、悪魔に対抗する術を持たないルプスは黙って見守るしかなかった。
「ルプス殿、私も参ります」
幹部による会議が終了してもなお司令部に残っていたルプスに、エミリアが申し出た。
一日中兵を率い、且つ敵兵を魔法で支配下に置いていた彼女の負担は大きかったが、その表情に疲労の陰は浮き上がっていない。
可憐な見た目に反して強靭な体力を持つ王女に感嘆するルプスは、逡巡せず頷いた。
「はい、頼みます。しかし、決して無茶をしないようにお願いします。貴女はフィンドラ国民の希望の象徴……もし失われてしまえば、俺たちゃフィンドラから途轍もないバッシングを食らってしまいますから」
「そうはさせませんよ。大船に乗った気持ちでいることです」
冗談交じりに忠言するルプスに、エミリアは不敵に微笑んでみせる。
皆に愛されることを望み、【魅了】し、あどけなさで媚びを売るような真似をしていた少女の姿は、既にそこにない。
今、ここに凛と立つのは未来のために戦う一人の軍人だ。国と仲間を背負って悪魔に反攻する彼女は、この場にいる誰よりも強い――ルプスはそう確信していた。
「ルプス殿、私がトーヤ君たちを呼びに行きますから、貴方はそろそろ休んでください。カイ王が戦闘に専念する可能性が高い以上、兵たちを取り纏めるのは貴方です。貴方も十分、兵たちの精神的支柱となり得ていること……それを忘れぬよう」
エミリアの口調は厳しいが、声色には温かい労りの気持ちが滲んでいる。
彼女の言葉をありがたく受け取ったルプスは、その背中を見送った後、簡易ベッドに寝転んで瞼を閉じるのであった。
*
ミラは走っていた。
ひたすらに、誰の助けを求めることなく、一人で敵の居城から脱出しようとしていた。
上階で何が起こっていたのか、彼女は魔道具の音声通信を介して知ってしまっている。
暴かれたイルヴァ少佐の正体に、勃発した戦闘。そして、その果てに齎された結末――。
「はぁっ、はぁっ……!」
次にノエル・リューズの毒牙の餌食となるのは、間違いなくミラだ。
『玉座の間』の階下に彼女がいたことは、イルヴァの呼号によってノエルにも割れている。
あの悪魔は今にもミラの前に現れて、心の尊厳を踏みにじる禁術を発動するかもしれない。
――逃げるのだ、何としても。自分が生き残って、父なき後のスウェルダ王国を作らねばならないのだから!
廊下を抜け、階段を駆け下り、門を目指す。
向かう先に衛兵が待ち受けていようが、関係ない。【神器】の前には全てが塵芥となる。その力の使用を躊躇うという選択肢は、どこにもなかった。
足がもつれかけるが必死に立て直し、先へ。
中庭の渡り廊下を疾駆するミラだったが――その進路を阻む女が一人、眼前に現れた。
何の前触れもなく、音も光も発生させずに突如として虚空から出現した黒ローブの姿に、ミラは足を止めなかった。
渡り廊下から中庭へ躍り出て、芝を蹴り付け外へ繋がる通路へ直進する。
「あらあら……この私を無視するなんて、大した度胸ね」
が――その女は、彼女の逃走を許さなかった。
見えざる手に脚を引っ張られ、ミラは芝生に倒れ込む。
顔から地面に突っ込んだ痛みに悶絶している王女に、女は慈悲深い微笑を向けた。
「ふふっ、怖がらないで? 別に殺しはしないから。ちょっと都合のいいように利用するだけよ」
悪びれずにのたまい、金髪碧眼の魔女は【浮遊魔法】でミラを浮き上がらせると、空中で逆さまに吊した。
赤いドレスが捲り上がり下着が露出するが、もはやそれを気にする余裕もなくミラは喘ぐ。
「……あ、あなた、はっ……!?」
「知らないの? なら教えてあげるわ。私は【永久の魔導士】。この世界で最強の魔女よ」
三国会談の際、トーヤから聞いた話に登場した名。
もしこの女が本物の【永久の魔導士】だったとしたら、ミラに勝機は絶対に訪れない。
考えうる限り最悪の相手だ。
どうすればこの窮状を打開できるのか。ミラは懸命に頭を回して思索していく。
「そういう顔、嫌いね。私の名に覚えがある癖に、足掻こうとしてる。世界を統べる女王である私に、楯突こうとする愚か者……」
そんなミラの様子に、シルは顔を憎らしげに歪めた。
彼女の精神に住まう【神の母】イヴの魂は、己が世界の中心になるべきだと未だ思っているのだ。その栄光が千年も前に崩壊しているにも関わらず。
「私の下僕となるか、永遠の時の狭間に閉じ込められるか……それ以外の選択肢なんてないの。さあ、選んで?」
ミラの目に逆さまに映る女の口元が、弓なりに曲がる。
麗しき絶世の美女の微笑み。しかしそれは、王女にとっては悪魔の哄笑に等しかった。
頬を這いずる冷たい手に表情を硬直させるミラは、悟らざるを得なかった。
ここで終わるのだ。彼女の誇りも、信念も、愛も、使命も、何もかもが踏み躙られ、「ミラ・スウェルダ」という一人の人格は【永久の魔導士】の手に落ちる。
「わ、私は……」
永遠の時の狭間に閉じ込められる――その真意は恐らく、悪魔が封印されていたのと同質の異空間に囚われる、ということだろうか。それは、この世界からミラという人間が永遠に追放されるのと同義。
心を殺されるか、身体を永久に縛られるか。
ミラが【神器使い】である以上、敵の洗脳によって利用されれば甚大な被害を生む。
――選択は決まっていた。
「わ、私は……っ」
声が震える。視界が涙に滲む。
――嫌だ、とミラは内心で慟哭する。まだ生きていたい。この世界の未来を見たい。三国同盟を結んで、皆で結託して悪魔のいない平和な世を作ると、決意していたのに……!
「迷っているの? 手間をかけさせないで頂戴」
シルの手がミラの首にかけられる。掴む手の力を強め、激しい語気で詰め寄った女の青い目を直視してしまえば、ミラは答えるしかなかった。
「私は……永遠の、時の――」
「それ以上は言わないで、ミラ!」
と、その瞬間。
ミラの首を絞めていた女の力が緩んだ。次いで、王女はドサリ、と地面に落下する。
幸いにも背中で着地できた王女は首をシルの方へ向け、何が起こったのか確認する。
「へぇ……来たのね、あなた」
風になびく金髪の後ろ姿は、その来訪者の登場にも動じていない。
ミラが見つめる先――そこには、彼女がかつて恋した黒髪の少年が毅然と立っていた。
月明かりが対峙する二人を照らす。静謐が降り、王女は途端に蚊帳の外に置かれた。
この二人には因縁がある。ミラが立ち入ることすらできない、深い確執が――。
「今の貴女は、シルさんなんですか。それとも……やはり、イヴさんなんですか」
「うふふ……聞くまでもない問題でしょう?」
距離を保ったまま問答するトーヤとシル。
腰に差した黄金の剣を少年が抜くのを眺めつつ、【永久の魔導士】は話を続ける。
「『イヴ』として話すのは初めてね、坊や。嗚呼……あの女とそっくりな目をしてるわね。本当に憎らしい……今すぐにでも、叩き潰してやりたいくらいよ」
女の足元に緑色の魔法陣が描き出され、圧倒的な魔力が立ち上る。
脈打つ魔力の波にトーヤは顔をしかめ、歯を食いしばった。
【ユグドラシル】が崩壊した全ての元凶の魔女が、目の前にいる。ここで彼女を討てば、二千年間続いてきた悪魔による悲劇の連鎖は断ち切られるのだ。
「トーヤくん、姉さんは必ず助け出す。彼女を生きたまま無力化し、捕らえるんだ」
「分かってる。きっと困難な戦いになる――それでも、やるんだ!」
遅れて到着したエルがトーヤの隣に立ち、念押しする。
無二のパートナーに頷きを返した少年は、それからイヴへ高らかに叫んだ。
「僕は、トーヤ――神オーディンとテュールに選ばれし、【神器使い】! イヴさん……この世界は貴女だけのものじゃないってことを、今ここで証明してみせる!」
詠唱抜きで発動されるトーヤの魔法。黄金の光輝が刃に纏い、それは腕を伝って彼の全身へと伝播する。
光に包まれて【神化】を遂げていく彼に対し、イヴは口元の笑みを絶やさないまま腕を横に振り払う。
「さあ、遊びましょう?」
放たれるは魔力の緑玉。単純ながら莫大な威力を秘めたそれが一気に十発、トーヤとエルへ飛来していく。
「させない!」
イヴが魔弾を撃つと同時にエルは【戦女神の防壁】を展開し、その一斉掃射から自身と少年を護った。
純白の防壁は緑玉の着弾に激しく震動したものの、表面がひび割れることはない。彼を守りたいというエルの【心意の力】が防壁の力を本来以上に引き上げているのだ。
そして敵が魔法を放った直後に生まれるインターバルを突き、少年は黄金の斬撃を撃ち出す。
「はああああッ!!」
鋭く迸る気合。光の一刀が芝の地面を削って驀進し、黒ローブの魔女を狙撃する。
しかし勿論、イヴは一度の攻撃で沈むほど甘い女ではなかった。
彼女の全身には萌葱色の魔力のベールが帯び、「力」と「光」の二属性の融合技を遮断してしまう。
少年の攻撃を一笑に付し、イヴはあまつさえ彼を挑発してみせた。
「ふふっ、あなたの実力はそんなものじゃないはずよね? もっと力を出しなさい。出し惜しみして勝てる相手だと思ったのなら、それは愚考よ。即刻、改めなさい!」
語気を強めたと思えば次の魔法の射出体勢に入っている。
たった今受けた魔法から魔力を回収し、そのまま次弾へと転換。魔力消費を抑え、長期戦も見据えたイヴの一手に、少年は内心で舌打ちした。
「づっ――き、君の攻撃は、なかなか強いねッ……!」
ドガガッ!! と激烈な衝突音を上げ、光の刃と白き防壁がぶつかり合う。
どうにか踏ん張って耐えるエルだったが、その頬には早くも汗が伝っていた。
「どうする、エル? 生半可な攻撃じゃ耐えられて、逆に利用されるだけ。彼女の言う通り出し惜しみせず、でかいのを叩き込んだ方がいいと思う」
「いや、それだと姉さんを死なせる可能性がある! ごめん、トーヤくん――」
謝ってくるエルにトーヤはただ一言、「謝らないで」と呟く。
防壁越しに臨めるシル・ヴァルキュリアの体を見据え、トーヤは頭を最大速度で回転させていた。
――僕の全力ではきっと、彼女の防御を打ち破るだけの威力は出せない。でも、魔法には必ず弱点がある。それを探り、防壁さえ突破できれば……彼女の間合いに侵入できれば、勝機は見える。
「……エル、僕の魔力をすぐに補充できるよう、構えておいて」
そう囁きかけられたエルは首肯を返した。
トーヤはエルの意思を汲んだ上で、イヴに勝とうとしている。今は彼を懸命に支援するだけだ。
「【窮境を明転させし黄金の剣は、輝きをもって輩を導く】――」
少年の口から戦神の歌が紡がれる。
玲瓏に詠唱していく彼は防御の全てをエルに委ね、魔力を練り上げることに全神経を注ぎ込んだ。
エルは杖剣を掲げ、唸るように叫びながら亀裂の走る防壁にあらん限りの魔力を送っていた。
敵の苛烈な連撃にひび割れるそばから、修復していく。
魔力の過剰消費によって頭に鋭く刺す痛み、明滅する視界。だが、それを意に介さずに彼女は少年を守護し続けた。
少年への想いが強化する防壁の白雪のごとき輝きに、イヴは目を眇める。
「へぇ、やるじゃないの……! うふふっ、じゃあこんなのはどうかしら!」
天空へ舞い上がった女が腕のひと振りで描き出したのは、都合八つの魔法陣であった。
炎、水、風、土、光、闇、力、命。あらゆる属性を備える砲身が少年を照準し、魔力の急速充填を開始する。
「【黄昏の英雄、これに続き邪悪なる悪魔を滅ぼし去る。今、伝説は再誕する――】
トーヤの目にもイヴの虹色の魔法陣が映っていたが、それに一切動じずに彼は詠唱を進めていく。
敵が魔力の充填をしている今が好機。少年は息継ぎなしの早口で詠唱を締めくくった。
「【護るため救うため我はこの秘術を解き放とう。神よ、降臨せよ】――【武神光斬】!!」
咆哮が放たれ、光の一刀が夜空へと伸び上がる。
光速で直進するその刃を避けることは不可能だ。エイン・リューズもドリス・ベンディクスも防ぐことの出来なかった、トーヤが持ちうる最強の魔法。
無論、イヴにもそれを回避することは叶わなかった。
だが、回避不可能だと初めから分かっていたならば――そもそも躱そうとしなければいい話だ。
女は少年がテュールの究極奥義を打ち放った瞬間、無詠唱で防壁魔法を起動していた。
通常、魔法を発動する際、呪文を唱えるのに短文詠唱でも最低一秒は要す。が、【心意の力】のみで発動してしまえば、そんなラグは生まれない。
「うふふっ……【大いなる大地の盾】」
分厚い岩盤のごとき巨大な盾が、光の刃を遮った。
見上げた夜空の殆どを覆い隠した岩盤の向こうで、女の哄笑が響く。
「あれは神オーズの……まさか、イヴは他の神様の魔法まで扱えるのか!?」
「エル、止まらないで! 僕に魔力を――早く!!」
驚愕に揺れるエルに、トーヤは有無を言わせぬ口調で叱咤する。
自身の最大火力を封殺されたにも関わらず、少年の瞳から戦意の炎は消えていない。肩で荒々しく呼吸する彼は、テュールの剣をしまうと次の得物――【白銀剣】に持ち替える。
彼の言葉に無駄な思考を断ち切ったエルは、すぅ、と息を吸い込むとこの街に潜む「彼ら」へと呼びかけた。
「精霊よ!」
精霊は元々、都市部には殆どいない。だが、現在は例外だった。ノエルによるスウェルダ兵や市民の虐殺により、怨念を抱いたまま地上に残ってしまった魂――ヘルガ・ルシッカが「悪魔」と呼称していたものだ――が、大量に湧き出ていたのだ。
彼らにとってノエルら悪魔は仇であり、それに対立するエルたちに力を貸すのを躊躇う理由はない。
黒い光粒のような精霊たちがエルとトーヤの周囲に寄り集まり、魔力を与えていく。
直後。
「――【殲滅せよ、無限の陣】!」
女の号令により、魔法陣という名の砲が一斉に火を噴いた。
大地の盾が消え去り、遮蔽物がなくなったことで魔法陣の溢れんばかりの光が降り注ぐ。
カッ――――!! と光が鋭く瞬き、そして。
「消し炭になりなさい」
少年たちへの死刑宣告が、無情にも言い渡された。




