3 皇子の理想
激震が世界中に響き渡った。
悪魔と結託している勢力によるクーデター。それによりケヴィン・スウェルダは命を落とし、ノエル・リューズは自らを『リューズ王国』の国主と宣言、ストルムは僅か一日にして彼の支配下に置かれた。
現在、ノエルが制圧したのは一都市のみ。だが、それがストルムという国の全ての機関の中枢を担う都市であるとなれば、彼がスウェルダ王国を手中に収めたも同然であった。
反乱を起こした軍の一部だけでなく、今やストルムに駐在している全ての兵がノエルの意思に従い、王都を封鎖しているという。封鎖されていながらこの情報が外部に届いているのは、ノエルが自身の偉業を喧伝したかったがためにほかならない。
ある王は旧知の王の死に悄然とうなだれ、ある黒髪の少年は怒りに身を震わせ、またある白髪の少年は素振りしていた剣を取り落とした。
そんな中、この事態を好機と見なした者たちもいた。『魔導帝国マギア』――スカナディア半島の侵略のために海を北上している最中の彼らは、現地のスパイから送られてきたこの報に歓喜した。
「まさか俺たちが攻め込む前に内輪もめしてくれるとはな! 天は俺たちを味方してくれたってことか!」
「これで三国連合の連携も崩れるわね! 早期決着も夢じゃなくなる。陛下の理想により近づける!」
「よし、今宵は祝杯だ! 今日ばかりは上官殿もお許しになられるだろう!」
浮かれた様子で顔を見合わせて騒いでいる海兵たちを、エウカリスは呆れた目で見ていた。
軍人たるもの、どんな場面でも剛毅木訥であるべきではないのか。こんな馬鹿騒ぎをしだすのは、間違いなく兄のカタロンの影響だろう。
「はぁ……調子に乗って海に飛び込む輩が出なければ良いのですが。航海中に事故死だなんて、恥ずかしくて報告もしたくありません」
「……胃薬、要りますか?」
と、エウカリスにそっと錠剤を差し出す者がいた。
左目を覆うように伸ばした前髪が特徴的な、黒いショートヘアの女性兵士。
イスィホという名の寡黙な副官の親切に、エウカリスは心底ありがたく思いながら薬を受け取った。
「嗚呼、心の友よ……! あなただけが私にとってのオアシスですっ」
「そんな、大袈裟です……。でも、嬉しい……」
眼鏡の下で瞳を潤ませる皇女に、イスィホは照れ臭そうに控えめな笑みを浮かべた。
彼女とエウカリスの付き合いは長く、神殿アルテミス攻略時も共に戦った間柄だ。その信頼は厚く、エウカリスは彼女に家族同然の親愛の情を注いでいる。彼女もまた、皇女に応えるべく、軍の任務と並行して魔法薬の開発に勤しんでいた。
「やぁ、イスィホちゃん! 衝撃のニュースが飛び込んできたけど、君はあんまり驚いてないみたいだね?」
と、快活な声を割り込ませて来たのは、太陽のごとき豊かな橙黄色の髪が目印の皇子、カタロンである。
誰にでも心を開かせてしまう無邪気な彼の笑顔にも、イスィホは動じることなく丁寧に応じた。
「……あなたが何か、企んでるのは……分かって、いましたから」
「ほぉー、なかなか鋭いね。流石はエウカリスの副官!」
「お、お兄様……では、昨日のあの台詞は演技だったのですか? 私の考えを炙り出すための」
感心した様子で手を叩くカタロンに、エウカリスは訊ねた。
若干の不信感を窺わせる妹の問いかけに、兄はいたずらっぽく笑って答える。
「まぁねー。敵国内の不和を誘導しようという目論見は以前からあった。それを実行に移せたのは、ノエル・リューズという異端児を刺激する事件が重なったから。オレたちはノエル氏を利用してスウェルダを弱らせ、彼もろともその国を版図に収める。
だからオレたちは感謝しなくちゃ。『神器使いのトーヤ君』たちにね」
顔も人となりも知らない異国の【神器使い】の名を挙げて、カタロンは目を弓なりに細めた。
少年の皮を被った策士――イスィホは彼への認識をそう改める。同時に、時機を正確に見極めた帝の手腕に舌を巻く。
だが、カタロンはイスィホの内心を読んだかのように首を横に振った。
「そこまで褒められたことでもないよ。オレたちは漁夫の利を得ようとしてるだけ……それに、ノエルが必ずしも行動を起こしてくれるとは限らなかった。兵どもが喜んでいる通り、運が良かっただけだよ」
容赦なく照りつける太陽を睨みながら、カタロンは掠れた声で言う。
こんな場面でエウカリスは彼にどう声をかけたら良いのか分からなかった。
唇を引き結ぶ妹の頭を左手でそっと撫で、彼はもう片方の手で眩い太陽を指差す。
「オレはマギアの民たちの太陽になる。人々を照らし、導く光にね。オレは皆が楽しく過ごせる国を作りたいんだ。どんな人でも卑屈にならず、誇りを持って生きられる世界を望む。
――力を貸してくれないかい、エウカリス。ここで手柄を挙げれば、オレは理想に一歩近づける。いや……近づかなきゃ、ならない」
エウカリスは息を呑み、少し高い位置にある兄の横顔を見上げた。
そこに刻まれているのは、決して揺らぐことのない覚悟だ。そして、その発言に込められた真意は――帝の意思とは明確に異なるものだった。
「お兄様、私は……」
カタロンは帝の願いを叶えた上で、己の理想も実現しようとしている。
傲慢にして強欲。だが、エウカリスにはそれが眩しく、尊いものに思えた。
しかし、それでも、帝に抗う覚悟はなかった。
「ごめんなさい……今はまだ、陛下のためだけに戦いたいのです」
「ああ、それでも構わないさ。オレが掲げるのは『自由』だ。誰の思想も縛らない」
妹の返答にカタロンは歌うような口調で言った。
盛り上がる兵士たちのもとへ軽い足取りで向かったカタロンは、彼らに混ざって騒ぎをさらに大きくする。
火に油を注ぐ真似をしている兄に溜め息を吐くエウカリスだったが、それを咎めようとはしなかった。
「カタロン殿下、見ていてください! 今から俺が飛び込んで魚捕まえて来ますから!」
「おー、いいねー! じゃ、この辺で船止めて休憩にしようか。今日は特別にお酒も出そう! 一日限りの宴と行こうじゃないか!」
「で、殿下! 流石に羽目を外しすぎては宜しくないのでは? たまには自重して頂かねば」
「そうニャー! 殿下の遊び人っぷりは尋常じゃないのニャ!」
「えーっ、そんなこと言うなら今日の夜のご褒美あげないよ? それでもいいの?」
兵士の一人が腕まくりしながら名乗りを上げ、それに乗っかってカタロンの暴走もエスカレートする。
見かねた彼の副官の二人――カタロンと年の近い猫の獣人のコンビだ――が注意するものの、意地悪な顔でそう言われてしまえば、二人も口を閉ざしてしまう。
「スキア、フォス……君たちは欲求に正直だなぁ。ふふっ、そういうとこ好きだよ」
本心から口にされる『好き』というストレートな言葉に、未だに免疫のない兄妹はかあっと顔を赤らめた。
褐色の肌に黒髪の少年がスキアで、白い肌に金髪の少女がフォス。小柄で愛くるしい容姿の彼らは皇子に一目惚れされ、副官に抜擢されたという経緯がある。もちろん、魔導士としての実力も申し分なく、カタロンは二人に全面的な信頼を置いていた。
「戦では否応なしに人が死ぬ。この中の誰が生き残り、誰と別れるかなんて始まってみないと分からない」
こうやってはしゃぐのは思い出作りの一環なのだと、カタロンは言外に語った。
そんな彼の台詞に睫毛を伏せるスキアとフォスの肩をポンと叩き、王子は破顔した。まるで太陽のように。
「さぁ、楽しもうか!」




