エピローグ 喪った者、突き進む者
嫉妬の悪魔、レヴィアタンとの戦いから一週間が経った早朝。
いやに早く目が覚めてしまったトーヤは、今日も剣の稽古を行うべく中庭へ足を運んでいた。
そよ風が青々とした芝生を撫で、眩しいくらいの朝日が暖かく差してくる。いつも通りの朝を心地よく感じながらその柔らかな芝を踏んだ彼は、ふとそこで先客の存在に気づく。
「あ、エイン……随分と早起きだね」
「おはよう、トーヤ君。本当はもうちょっと寝ていたかったんだけど、何だか目が冴えちゃってね。やることもないし、鍛錬でもしてようかなって」
「あは、考えることは同じか」
トーヤの挨拶に、白髪の少年は苦笑混じりに返す。
植え込みの側のベンチで【紅蓮】の刃を磨いていたエインは、トーヤが隣に座れるように置いていた荷物を脇に寄せた。
「ありがと」と目を弓なりに細め、トーヤはそこに掛ける。彼は剣の他に持ってきていたバスケットを膝の上に出し、その蓋を開けてみせた。
「じゃーん! 僕特製のアップルパイだよ。昨晩、エルと一緒に厨房を借りて作ったんだ」
程よく焼けた網目状の生地の隙間から覗く、瑞々しい林檎の果実。トーヤが得意げに示したそれは、街のパン屋で売られているものと遜色ない出来だ。
バスケットに丁寧に詰められたパイに、エインは目を輝かせてトーヤを見やる。
「わあ、凄く美味しそう! 二人にパン作りの才能があったなんて、びっくりだよ」
「ありがとう。……で、でも、実はエルが焼いたのは別にあってね」
「え? ……あぁー……」
何とも言えない表情になるトーヤ。その顔にエインも流石に彼が言わんとしているところを悟り、聞かなかったことにした。
「エルは魔法以外は割とポンコツなんだよねぇ……。一人じゃ生活していけないタイプの人間だから、僕が支えてあげないと」
そう言うトーヤの声は穏やかで、彼がそんな欠点も込みでエルを愛していることがひしひしと伝わってきた。
彼と一緒にアップルパイを頬張りながら、エインは内心でどうしても羨望してしまう。
――トーヤ君とエルさんは相思相愛だ。二人の間には他の誰も割って入れない。ましてや同性のぼくなんか……。
悶々とした内心を押し殺し、エインは話題を別のものに変える。
一転して真剣な横顔を見せる白髪の少年に、トーヤも表情を改めた。
「あの、ルーカスお兄さんのことなんだけど。彼、やっと気持ちの整理がついたって。アマンダさんの日記……あれを見て、ようやく彼女の死を受け入れられたみたい」
ルーカスはあの戦いの後、3日と経たずに目を覚ました。覚醒直後は意識の動転があったものの、すぐに落ち着き、今は悪魔に憑かれる前と変わらない平静さを取り戻している。
やはりルーカスの精神の異常は悪魔によるところが大きかったようだ。レヴィアタンが死んだことで憑き物が落ちたかのように彼の狂気は収まったが、しかしまだ姉を喪った心の欠落は埋められていない。
アマンダの死を受け入れられたことで、これから彼は前に進んでいける可能性を得た。それをサポートしていくのが自分の償いだろうと、トーヤは語った。
「出来ることならルーカスさんを助けたい。でも……僕を殺したいほど憎んだ人だ。僕と会うことでその憎悪を再燃させてしまったら、また逆戻りになるかもしれない。僕はそれが怖い」
「でも、ぼくは……君とルーカスお兄さんが前みたいに仲良くしててほしいな。君だって、出来るならそうしたいでしょう?」
トーヤはもちろんだが、ルーカスも血の繋がりを持つ家族でエインにとって大切な人だ。その二人にいがみ合って欲しくないというのは、心優しい少年からしたら当然の思いである。
トーヤはエインの問いに静かに頷いた。何度も繰り返していることではあるが、彼はルーカスとの間にあった信頼を本物だったと信じている。共に鍛錬に励み、共に戦った絆は偽りではなかったのだと、信じている。
「さ、そろそろ練習始めようか。まずは準備運動から」
「うん。もっと強くなっていくために、今日も頑張ろう!」
トーヤの促しでエインも席を立ち、普段通りに軽い体操をこなしていく。
ドリスがレヴィアタンの力を振るって都市へ齎した災厄――その被害は、トーヤたちに彼女以上の実力があれば抑えられたものだ。現在、エミリアの主導でフィルンの復興は進められているが、このような悲劇を二度と起こさないためにトーヤたちは一層研鑽していかなくてはならない。
「――英雄になりたいって、あの人は言ってたね」
素振りされた剣が空気を切る音と、その合間に挟まる規則的な呼吸音。それらを中断して口にしたトーヤに、エインもつられて動きを止める。
ドリス・ベンディクスという女について、結局、詳細な過去は判明しなかった。分かったのは彼女の正体が怪物と人間のハーフであったということだけ。怪物との間に子を持った人間がいたとは信じがたいことだが、しかし彼女の身体を調べた結果はそうとしか考えられない――というのが、フィルン魔導学園のヘルガ学長の見解であった。
悪人の過去に思いを馳せることに果たして意味がないかと聞かれれば、トーヤはノーと答える。彼女が何のために力を手にし、何故戦ったのか――悪魔を討つ使命を掲げる者として知る義務があるだけでなく、トーヤはドリス・ベンディクスという人間を深く理解したいとどうしても思ってしまう。
その強さの理由は何か。彼女の残虐性は先天性のものなのか、後天的に得たものなのか。後者だとしたら、どういった要因で変わってしまったのか。他にも考えれば考えるだけ疑問は湧き出してくるが、トーヤが最も興味を引かれたのは、彼女の瞳が帯びていた暗い光であった。
――断言できる客観的な根拠はない。でも、彼女も僕と同じように喪失の痛みを経験している気がする。それも、僕以上に悲痛な思いを抱えて生きていたような……穿ちすぎだと言われれば、それまでなんだけど。
時折トーヤは恐ろしく思うのだ。エルと出会う前の、家族を失い、抗えない暴力という恐怖に絶望を強いられる日々の中で、もし悪魔の囁きが齎されていたら。
間違いなくトーヤはそこに救いを見出し、その手を取ったはずだ。暗闇の中に現れたさらにどす黒い闇も、痛みに麻痺した感覚ではそれを光明と錯覚してしまう。
ドリス・ベンディクスはそうだったのではないかと、トーヤは思わずにいられなかった。
「あの人は過酷な運命に抗うことで、何らかの希望を掴もうとしていたのかもしれない。その手段は間違っていたけど……一概に彼女の全てが悪だと決めつけて思考停止してしまうのも、違うと僕は思うんだ」
「……ねえ、トーヤ君。もし悪魔がいなくなったとして、ドリスさんみたいな人はいなくなるのかな。彼女のような凶行に走る人は、どうしたらいなくなる……?」
「変えていくしかないさ。その人たちを取り巻く環境を、少しでもね。僕たちが直接なにか働きかけられなくても、悪魔と戦い、フィンドラやルノウェルス、スウェルダの王様たちと関わる中で少しでも良い方向へ進んでいければ……間接的だけど、変えていけるかもしれない」
『亜人』と人間の距離が縮まり始めているように、トーヤたちの影響で変わっていっている関係もあるのだ。悪魔から解放されて救われたマーデルやルノウェルスの沢山の国民たちもいる。
こんなふうにこれからも誰かを助けることで、悲劇に陥る人を地道に減らしていくしかない。どれだけ険しい道になろうとも、諦めずに進み続ける――先の時代から託されたその願いを背負って歩んでいくのが自分の使命だと、トーヤは信じている。
「そう、だね」
そしてエインは、トーヤのその信念に共鳴している。
彼と同じ場所にいたい。同じものを見据えていたい。惹かれた人の真似事をしているだけと言われれば嘘だとはいえないが、それでも、彼はトーヤの理想を共に追いたかった。
と、そこで。
エインの懐で、魔法道具の水晶が仄かに熱を発した。
「どうしたの?」
「ラファエルさんから、連絡が」
弄りだした水晶玉を手のひらに乗せて覗き込むと、そこには既に見慣れた男の顔が映っている。
おはよう、と挨拶から入ったラファエルの声色は、若干疲れを滲ませていたが、覇気は失せていなかった。
『リューズ家の不祥事が今朝の新聞に載る。三国同時とまではいかないが、スウェルダの最大手を押さえることが出来た』
「ほんとですか!? やりましたね!」
『あぁ、なかなかに骨が折れたよ。元々諜報畑の出身とはいえ、相手取る者がこうも多くてはな。さて……細かいことは後でまた連絡する。いい加減、ぐっすり眠りたいからな』
「は、はい。お疲れ様です! では、また後で」
経済界の頂点に座していた、リューズ家の悪魔にまつわる秘密。
それが暴かれることによって、この時代の運命は確実に動き出していく。
回された歯車は果たしてどのような結果を齎すのか――希望的観測をしていた白髪の少年だったが、『リューズ』はその期待を容易く裏切ることになる。
*
「裏切り者の雑種犬が動いたか。どの道、いつかはそうなると思っていたことだ。それが少し早まっただけの話さ」
ノエル・リューズは独りごつ。
彼の居城にはもう、最愛の娘も、嫉妬の器として育てた息子も、最も信頼していた副官もいない。
一人きり。これでは振り出しの日に戻ってしまったようだ。
ノエルはこれまで、あの頃に持ち得なかった様々なものを手にしてきた。財産、名誉、地位、悪魔の力、思うがままに操れる沢山の駒たち。
誰もが羨望する経済界の頂点、それがノエル・リューズという男なのだ。自分は満たされている――客観的な目で見ればそうなのだと、ノエルは自覚している。が、心に抱える空虚さを無視して玉座に着いていることは、彼には出来なかった。
「私は……いや、俺は。全てを統べる王者になると決めた。この虚しさを埋めるには、進み続けるしかない。歩みを止めれば、そこで終わる。何も出来なくなる。そんな結末は、御免だ」
今、彼を突き動かしているのは、その恐怖だった。
欲望のために世界の頂点を目指す――その覇道を行くことを止めれば、ノエルは確実に死ぬ。自我を喪ったガラクタになどなりたくない。
『……それでいい。お前は世界の覇者になるべき人間だ。ただ欲望のままに、戦い続けるがいい』
彼の頭の中に、青年の強い声が響いた。ノエルの精神が揺れている時、決まって悪魔ルシファーは意識の表層に現れる。
悪魔は何度もノエルの行動を肯定する言葉をかけ続ける。今やそれだけが、ノエルの心を安定させる薬となっていた。
「…………」
執務室の机に頬杖を突きながら、ノエルはぼうっと目の前の書類を眺めていた。
室内には、時を刻む秒針の規則的な音だけが響いている。照明を消した部屋を仄かに照らすのは、窓から差し込む斜陽だ。
――夕日は嫌いだ。もう戻らない過去ばかりを思い出してしまうから。
男を殺し、屋敷から脱出した時の汗と鼓動。後に妻となる女と交わした、最初のキスの味。そしてその妻を喪い、真新しい墓石の前で涙を流したこと――それらの記憶全てには、夕暮れの赤い陽が差し込んでいる。
ノエルが頭を振り、その記憶たちをどうにか胸の隅に追いやろうとしていた、その時だった。
「取り込み中……というわけでもないようだな。ごきげんよう、ノエル・リューズ」
彼が顔を上げると、後ろ手にドアを閉めている空色の髪をした女性がそこにいた。
白いローブを纏った魔女、リリスである。珍しく微笑みを浮かべて歩み寄ってくる彼女に、ノエルは僅かに驚きつつも応じた。
「久しぶりですね。一体、何の用で?」
「少し、君の力を借りたくてね。……シル・ヴァルキュリアのことさ」
机の端に腰を乗せ、ノエルを見下ろしてリリスは告げた。
彼女の口から出た名に、白髪の男は胡散臭そうに眉をひそめる。彼はシル・ヴァルキュリアと表向きは協力関係にあるが、実際のところ彼女を信頼しているわけではない。自分の覇道を阻む可能性のある実力者として、彼女には最大限の警戒を払っていた。
それを知ってか知らずかリリスは目を細め、ノエルの頭をポンと叩いた。
「同じ『白の魔女一族』の血を引く者として、私は君を信用している。まぁ、肩の力を抜いて聞いておくれよ。君にとっても損のない話だからね」
ノエルは押し黙ったままだったが、それをイエスと捉えたリリスは話を切り出した。
彼女がノエルに提示したのは、至極単純にして困難だと思われる一つの目標であった。
「シル・ヴァルキュリアを討て……ですか。まさか、貴女の口からそんな言葉が飛び出るとは思いませんでしたよ」
「私としても心苦しいことではあるけどね。だけど……やはり、彼女の精神を支配しているあの女を生かしておくわけにはいかないんだ。私は本意でない悪事を働き続ける辛苦から、シルを解放してやりたい。その救いが死という結末であったとしても、永遠に悪意に縛られる地獄よりはマシだろうさ」
あの女。本意でない悪意。永遠に悪意に縛られる地獄。シルやリリスらの過去を知らないノエルには、彼女の発言の意味を完璧に察せなかった。
返答に迷うノエルの反応も最初から織り込み済みのリリスは、かぶせ気味に言葉を続ける。
「私は過去を人に語る趣味はないんでね。君はただ、私の提案に乗ると言ってくれればいい。シルの手で【悪魔の心臓】が現代に蘇る……そうなれば君の栄光も失われるよ。それは君の望むところではないだろう?」
「確かに、貴女の言うとおりではあります。ですが何故、いま私にそれを持ちかけて来たのですか? 私は既に次の布石を敷いている。この覇道を極めるための一手をね。私は私の目的を優先する――貴女の私的な感情に動かされる道理はありませんよ」
ノエルには後がなかった。妻も娘も副官も亡くした現状、彼は一切の余裕を持ち合わせていない。
何かを成さねばならないという強迫観念に駆られる彼は、眼前の目標から外れたリリスの提案に乗るつもりなどさらさらなかった。
「そうかい。……まぁ、残念だとは言わないよ」
リリスは微笑みを絶やさぬまま、机から降りるとノエルに背を向ける。
シル・ヴァルキュリアの魂は、彼女自身とリリス、そしてイヴのそれが混じり合って悪意の権化となった。
だが、リリスは今、シルの肉体と分離している。それはある魔導士の働きかけによるものなのだが、リリス自身はそうなった瞬間の記憶をなくしている。
【神】を滅ぼす――イヴへの憤怒と憎悪からなるその信念に従って、シルの身体から離れた後も彼女は【悪魔の母】として活動してきた。
――『あなたにも幸せになる権利がある!』『あなたが望むなら、私も側にいます』『共に未来へ進みましょう』
あの時シルにかけられた言葉を、リリスは今でも鮮明に思い出せる。
彼女の願いを裏切るような行為をこれまで重ねてきてしまったことを、後悔していないと言うと嘘になる。だが、リリスはイヴへの怒りを捨て去れなかった。自分を救おうとしてくれた彼女の魂にイヴが巣食っているというなら、なおさら。
ノエルの執務室から【転送魔法陣】で去る間際、彼女は振り返って彼を見つめると言った。
「君がもし王者になろうというのなら、私欲は捨てることだ。すぐにその首は落とされることになるよ」
それがリリスのノエルへの最後の忠告だった。
ノエルは無言で彼女を見送る。そんなことは言われずとも理解している――自分を支配しようとした男をノエルが殺害したように、必ずそういう者が現れるだろうことは。
あの男はノエルへ要らぬ情を抱き、油断していたから敗れたのだ。だがノエルには、もはや愛する者も信じる者もいなくなった。あまねく者が敵になると分かっているならば、そもそもその懸念はなくなる。
「私を甘く見るなよ、リリス。この道を阻む者があるならば、粛清するのみ! 神も、悪魔も、英雄も――誰ひとり、私を止められはしない!」




