41 断罪
「おい、なんだよあれっ……!?」
ドリスの魔法によってフィルン上空に出現した、巨大な影。それを見上げ、避難中の住民たちは啞然とするほかなかった。
先程ルーカスが変身した水龍に酷似した姿だが、大きさはその3倍以上もある。そして、その体は蒼く透き通っていた。
魔力を帯びて輝く異形――その正体にすぐに気づいたエミリアは、エルを見据えて鋭く訊ねる。
「あれは水の塊です! 単なる水ですが、あれだけの質量が一挙に振り注げばこの街は壊滅的打撃を被ります! エルさん――あなたの転送魔法陣で、あれを海へと転移させることはできますか?!」
「あんなの、流石に私でも無理だよ! 転送魔法陣の範囲には限界がある!」
王女の無茶ぶりにエルは首を激しく横に振った。
彼女に出来ないのなら他の誰が、あの大質量の水に対処すれば良いのだろうか。シアンたちは考えるが、すぐにそれを止めた。
少なくともこの場にいる者の力では、到底対処不可能な代物――それがあの水の怪物だ。
今、シアンたちの頭上にあるのは、いつ爆発するとも知れない時限爆弾。そしてその爆破のタイミングを一手に握っているのが、ドリスである。
彼女はまさしく、エミリアやエルたち人間の意思の介入を許さない、超越的な存在と言えた。その意思を測り知ることも叶わず、その圧倒的な実力に追い縋ることも困難。果たして、そのような者をこの世界では何と呼称するか――その答えは、既に彼女らの胸に刻まれている。
「あれが、【神】……なのか」
獣人の少年が力なく地面に膝をつき、呟いた。
その声を耳ざとく拾ったようで、ドリスはくすりと微笑んで言う。
「あらあら、恐れ多いですね。ですが――人が私をそう呼ぶのなら、そうなのでしょう」
不遜にもそう宣い、ドリスは少年から奪い取った漆黒の剣を天高く掲げた。
その切っ先が指し示すのは、龍を象った水の塊。剣先から湧き上がる魔力が上空の水龍へと流れ込み、蒼い体躯の輝きをさらに増していく。
「……もう、ダメなのですか……!?」
「どうするの、私たちだけでも守れるように防壁を――それとも、もう逃げるしか……!」
アリスが、ユーミが追い詰められ歪んだ声を漏らす。
苦慮の末に巨人の女性が導き出した「逃走」という選択肢は、自分たち【神器使い】の生存を図るという点では充分選ぶに足るものだといえた。だが、彼女らの矜持がそれを許さない。この街の人々を放り出して自分たちだけが【転送魔法陣】で脱出するなど、エルは決して首を縦に振らないだろうし、ユーミもなるべくは取りたくない手段だ。
「お喋りの時間はもう、終わりです。さようなら、皆さん。……良い夢を」
ドリスは、微笑んでいた。死にゆく憐れな者たちへの、せめてもの手向けとして彼女は慈愛の微笑を贈った。
水龍が放つ魔力の光は日光さえも塗り潰し、都市全体を蒼く照らす。
ドリスが剣を振り下げた、その瞬間――その怪物は禍々しい雄叫びを上げ、ぐにゃり、と形を崩した。
「――――――――!!」
声にならない悲鳴が迸る。
城壁の門から脱しようとしていた人々、未だ都市内で動けずにいた老人や子供、避難誘導を行っていた兵士たち。誰もが一様に空を仰ぎ、その瀑布が都市を圧殺しようという光景を目撃した。それ以外の行為を取ることが、彼らは一切できなかった。
抵抗の手段も、逃げる猶予も、彼らには与えられていない。神に等しい力を有する者の前では、彼らの選択の全てが無為。
「ユーミ! 今だッ――!!」
と、その時だった。少年の声が巨人の女性の名を呼んだのは。
自分のもとに駆け寄って【神器】の杖に手を添わせたトーヤの視線に、彼女は彼の思惑を正しく理解する。
しくじったら全てが終わる。だが、やるしかないのだ。ここで全ての魔力を、生命を燃やしきっても構わない――皆を守るためなら、ユーミはその何もかもを捧げられる。
「ええ! ウルズ様、あなたの力、借りさせてもらうわ!」
龍を象った水塊が崩壊し、大瀑布のごとき雨となって都市へ降り注ぐ。
それが地表へ到達するまでの僅かな間に、ユーミは【神化】を完全に発動させ、眩い金の髪をなびかせる女神のごとき羽衣を纏った姿に変貌していた。
銀の杖から昇る黄金の光が、上空のドリスへ突き進んでいく。
水の落下速度など、魔法の光には遠く及ばない。瞬く間に敵へと到達したその光は、ドリスが展開した蒼い防壁をも透過し――そして、「時」は捻じ曲がる。
「っ、これは――!?」
*
「はあああああああああああああッッッ!!」
少年の叫びが轟く。烈火のごとき感情の高まり、魔力の波動。
自分が剣を掲げ、粛清の水魔法を発動しようとしたのと同時に迫り来るトーヤに、ドリスはこの戦闘が開始してから初めて心から驚倒した。
【神化】がもたらす黄金の光輝を纏い、猛進してくるトーヤ。浮遊魔法を自在に操りながら【テュールの剣】を下段に構え、彼は今にもその大魔法を完成させようとしていた。
「なぜッ、あなたは私が絶望という奈落に突き落としたはず! それなのに――!」
不自然だった。ドリスの目が確かなら、彼女が【魔剣グラム】を用いて大通りの民衆を殲滅した時、トーヤは精神に多大なショックを受けていたのだ。にも関わらず、あれほどの闘気を帯びた叫びを上げて突進してきた。それも、神の極大魔法を発動直前まで進めた状態で。
自らを『デウスエクスマキナ』と豪語する彼女の思考の範疇を超えた現象を、トーヤは起こしている。
この一瞬の間に何があったのか。何が彼に力を与えたのか。何が、ドリスに致命的な隙を作らせたのか。
分からない。分かりようがない。少なくとも、この時点のドリスには。
その魔法が発動する光景を、この時のドリスから確認することは絶対に叶わないのだから。
「それでも、私の勝利は揺るぎません! 私の守りは須らく、あらゆるものを通さない!」
グングニルの投擲をも防いでみせた防壁を、ドリスは再び展開した。
四角形の防護が彼女の全身を囲い、全方向からの攻撃を遮断する。それが当然の帰結であると、決まっていた。
――が。
「【護るため、救うため、我はこの秘術を解き放とう。神よ――降臨せよ】!」
少年の玲瓏な詠唱が響き渡り、振り上げられる剣の黄金が女の視界を染める。
眦を吊り上げ、吼えるトーヤの一撃がドリスの防壁と激突した。
「【武神光斬】!!」
激突音も擦過音もドリスの耳には捉えられなかった。彼女が感じたのはただ一つ、少年の瞋恚の炎の極熱であった。
「消し飛べぇえええええええええええッッ!!」
無為に殺された人たちの悲しみ、家族を奪われた人たちの怒り、そして民と都市を傷つけられたアレクシルやエミリア、エンシオの思い――それら全てを背負って、トーヤはドリスへ光の一刀を切り込んだ。
防壁など全面無視した、防御不可能の剣。あまりに埒外な攻撃に、ドリスはあらん限りに目を見開く。
「ぐぅぁあッ――!?」
テュールの大魔法の高熱に対し、レヴィアタンの水のベールで全身を覆った彼女だったが、それでも致命傷は避けられなかった。
浮遊魔法を制御する余力も失った彼女は、ぷつりと糸が切れたように地上へ落下していく。
――嗚呼、終わるのですね。私の覇道は……。
遠ざかる蒼穹を眺めながら、ドリスは最後にそんなことを思った。
どん底にいた一人の少女に、手を差し伸べてくれた白髪の男。彼が彼女に託した悪魔は、願いを何でも叶えると宣った。
自分を蹴落とし、貶めた者たちを彼女は見返したかった。英雄になる道を閉ざした、かつての仲間に復讐したかった。
――あの女が憎い。あの女の立場は本来、自分のものだったのに。どうして私でなく彼女が栄光を手にしたのか。どうして、私は皆に石を投げられる罪人とならなくてはいけなかったのか。
仲間だと思っていた女に裏切られ、その策謀によりドリスはあらゆるものを失った。
それ以来、彼女は異常なまでに力に執着するようになった。その原動力となったのは、力ある者への嫉妬。あの時の失態さえなければ、同じ場所に立てていたはずの者たちへの恨み。
「ドリスさん……!」
そのとき、走馬灯を過ぎらせる女へトーヤは手を差し伸べた。
落下していくドリスを急降下で追った彼は手を伸ばし、彼女の腕を掴むことに成功する。
がしりと捕らえて離さない少年の手に、ドリスは驚かずにはいられなかった。
「……なぜ、助けるのです。そんな情けなど要りません」
次いで彼女の胸に湧き上がったのは、激しい屈辱感であった。
一人の元武人としての矜持を傷つけられたドリスはトーヤの手から逃れようと身を捩るが、テュールの【神化】の腕力に敵うはずもなかった。
その黒い瞳に懊悩を色濃く滲ませながら、トーヤは静かに言う。
「情けなどかけていません。悪魔に憑かれた人だからといって、何も考えずに殺すのは間違っていると思っているだけです。殺すかどうかは貴女から悪魔を祓ってから、この国の然るべき機関が決める」
その所業から考えれば、彼女は確実に死刑だろう。それを分かっていて殺さず、あくまで司法に委ねるのだとトーヤは表明した。
私情を押し殺した公明正大な姿勢に、ドリスはかつての己を思い出して自嘲の笑みを浮かべた。
そんな皮肉な運命を彼女は受け入れた。この敗北も、この後に待つ裁きも、全部。
「――トーヤ!」
ドリスを抱きかかえて城門前の広場に降り立ったトーヤに、初めに声をかけたのはユーミだった。
先程のウルズの魔法が正しく発動したことに安堵するユーミに、トーヤは儚い笑顔を送る。
その表情の意味が分かるのは、この場では少年自身とユーミ、エルの三人だけであった。
ウルズの魔法は対象者――この場合はドリス――が過去にいた時間軸に干渉することが出来るというものである。
彼女はドリスが水龍を作り上げる直前の時間に自身とトーヤを送り、見事ドリスを撃破したわけだ。
これによりドリスによる都市の壊滅的被害は避けられ、多くの人命を救えたことになる。
が、過去の時間軸の一点に干渉したことで、「干渉前のドリスの水龍が発動した歴史」と「干渉後のドリスが倒された歴史」の二つに歴史の流れは分岐した。
つまるところ所謂パラレルワールドが生まれてしまい――今こうして生きているトーヤたちの世界とは別に、彼らがドリスの手で命を落とした世界も存在していることになる。
「よく、やったわね。これで、やっと嫉妬の悪魔を討伐できるわ」
自分の行為で並行世界を生み出してしまったことを恐ろしく思いながらも、ユーミはそれをひた隠してトーヤの頭を優しく撫でた。
トーヤも彼女からのそれを穏やかに受けていたが、腕の中のドリスに意識を向けないわけにもいかなかった。
メイドが抵抗の意思を放棄しているのは項垂れた様子からも明らかだったが、安心は出来ない。トーヤは彼女を拘束する腕の力を緩めないまま、エインの役目が果たされるのを待った。
「――はじめまして。ドリス・ベンディクスさん」
フィルンの中央通りの片隅に位置する『リューズ商会フィルン支部』にて。
職員の制止を振り切って内部へ突入したエインは、執務室に鎮座する女性にそう挨拶した。
金髪に銀縁眼鏡、スーツ姿のドリス・ベンディクスは表情を微動だにさせない。
内心を一切伺わせない仮面の女に、エインは言葉を続けた。
「あなたが【嫉妬の悪魔】の契約者、その『分身体』。そうなのでしょう」
分身体。それは悪魔マモンに憑かれたオリビエも用いていた、「命」属性の魔導の極地に置かれるものだ。
嫉妬のレヴィアタンを討伐できるかは己にかかっている。荒ぶる鼓動と滴る汗を理性で無理やり鎮めようとするエインは、声が震えぬよう懸命にドリスを睨み据える。
「もしくは、リューズ邸に勤めるメイドのドリスが『分身体』か……これは、どちらでもいいですが。とにかく、あなたたち二人は繋がっている。瓜二つの容姿、同じ名前、どちらもリューズの下にいる事実。これだけあれば、疑われるのも無理はないことです」
「よく……よく、分かりましたね。『分身体』という存在をあなた方が知っているとは思いませんでしたが、悪魔の誰かがボロを出してしまったのでしょうか? つくづく味方に恵まれないのですね、私は」
ドリス・ベンディクスは溜め息を吐き、これまで少年らと戦った同胞を無能だと評する。
呆れ果てて笑うこともできない彼女だが、ここで大人しく引き下がる選択肢などもとよりなかった。
席を立ち、眼鏡を外したドリスはエインを真っ直ぐ見つめる。
過去に、メイドのドリスが彼を見かけた時は幼く内気な子供という印象しかなかった。が、今のエインは別人のように凛々しい顔でドリスと対峙している。
「あなたがどれほど強くなったのか、見せてもらいましょうか」
懐から引き抜いた短杖をエインへ向けて構え、ドリスは冷然とした口調で言った。
蒼の魔力が湧き上がり、女の全身を縁取るように輝きだす。
生唾を飲むエインは両手に短剣を握り締め、腰を落として今にも床を蹴って飛び出そうとしていた。
そして。
「【超兵装機構】、【ヴァルキリー】――起動!」
エインの身体を覆う純白の軽装は、彼自身の魔力により稼働を開始し――瞬間、圧倒的な加速を実現してドリスへ迫った。
「燃え上がれ、【紅蓮】ッ!」
漆黒の二刀に宿るのは真紅の灼熱。
悪魔を倒し、恩人から授かった使命を果たす。その一心で放った獄炎は、ドリス・ベンディクスの反応も許さずに彼女を焼き尽くさんとするが――。
「私を甘く見ないことです。その攻撃は予測範囲内ですよ」
エインの刃がドリスに肉薄する直前、蒼の防壁が出現してそれを阻んだ。
虚しく上がる衝突音。防壁から発される斥力に後退させられるエインは、足を踏ん張ってとうにかブレーキをかけると再度突撃を敢行する。
が、しかし――やはり二度目も、ドリスの守りを突破するまでには至らなかった。
「くっ!」
歯噛みしながらも動きは止めない。
――止まってはいけない。攻撃を当てさせる隙を作っては負ける。
例えエイン一人の力で勝てなくとも構わないが、断じて負けるわけにはいかないのだ。ここで時間を稼ぎ、ドリスを足止めすることこそがエインの役割なのだから。
「ぜああッ!」
室内が広々とした作りになっているのは、幸いだった。小柄で素早い己の特性を活かしてヒットアンドアウェイの戦法を取るエインは、諦めずに何度も、何度もドリスへ刃を斬りつけていく。
「諦めの悪い人は嫌いです。あなたの全ては無為、何をしようが私を超えることは叶いませんよ」
女の蒼い目がちかっと輝き、それと同時に、エインは己の右足に棍棒で殴られたかのような衝撃を感じた。
「あ"ッ……!?」
二刀を繰り出そうと女に急迫した瞬間に受けた、彼女の技。不味い、見切られた――エインはそう唇を噛むが、それでもどうにか即座に体勢を立て直し、ドリスの防壁へ勇猛に剣を突きつける。
「だから、何度も言わせないでください。あなたは私に勝てないんです。リューズの息子如きが、悪魔に敵うわけないじゃないですか」
音もなく、防壁が掻き消える。
女の不敵な笑みが、エインの瞳に映り込む。
そして、防壁を破らんと放たれた【紅蓮】の刃へ伸ばされたのは、ドリスの両手であった。
「なに……ッ!?」
女性のものとは思えないほどの膂力で掴まれる刃。
驚倒するエインに微笑みかけたドリスは、その手に蒼い魔力を籠手のように纏わせ、少年の得物を完全に手中に収めていた。
「このッ――!?」
「悪い子ですね、口答えはいけませんよ。うふふっ……あなたの武器、戴きます」
哄笑しながらドリスは両腕を思い切り振り上げ――黒き二刀を、それを離すまいとしているエインごと天井へ叩きつけた。
「がはっ!?」
吹き飛ばされ背中を打ち付ける少年は、潰れた悲鳴と濁った呼気を漏らす。
彼の手から滑り落ちた【紅蓮】を受け止めたドリスは、弓なりに細めた目で床に落下したエインを見下ろした。
白髪の頭を踏みつけ、【嫉妬】の悪魔をその心に宿した女は提案する。
「ねぇ、あなた。あなた、もう一度悪魔の契約者になる気はありませんか? リューズの血筋、そしてベルゼブブの【悪器】を完璧に使いこなした実績……あなたの素質は本物です。あなたが私の手を取るというのなら、私は喜んで差し出しますよ」
「誰が……誰が、お前たちなんかに協力するものか! ぼくは、トーヤ君たちと一緒に戦うって決めた! それが、ぼくのやりたいことだって気づいたから……!」
自分を買っている女に、エインは真正面から拒絶の言葉を突きつけた。
エインはもう、無垢な子供ではない。飼いならされた従順な家畜には、二度と戻れない。戦いの中で高め合う喜び、その後に生まれた友情、そして秘めたる恋心――自分と『組織』を切り離す材料は、それだけで十分だった。
頭を踏まれながらもどうにか顔を上げ、睨んでくるエインの瞳に、ドリスもそれ以上は勧誘の声をかけなかった。
「いいお友達を持ったんですね。あぁ、本当に残念……こんなに尊い意志を表明してくれた子を、これから始末しなくちゃならないんですから」
「…………」
ドリスは彼の短剣を逆手に持ち、魔力を込めてその刃を真紅に染める。
灯った炎は少年の魂への送り火だ。一息で終わらせる――そう彼女が心中で呟き、火焔の二刀をエインの頸めがけて振り下ろした、その時――。
押し黙った少年の口許が、微かに笑みを形作るように曲がった。
「――――!?」
女の本能が警鐘をあらん限りに打ち鳴らす。が、魔力を乗せて動き出した身体にブレーキをかけることは、もはや不可能であった。
「さようなら、ドリス・ベンディクスさん」
その台詞に反駁する猶予はなかった。
ドリスが刃で少年の頸を切り裂いたのと同時、その断面から魔力が急速に溢れ出し――【紅蓮】が帯びていた火炎と化学反応を起こし、爆発の連鎖を引き起こした。




