34 夢を追う欲深い人間
白髪の男の魔眼が、真紅に輝く。
その命令が高らかに響き渡った直後――脳内を蹂躙する男の「声」にトーヤは表情を歪めた。
『私に従え』『従え』『従え』『従え』…………。
絶え間なく聞かされるノエルの声に、少年は頭痛を堪えるように頭を抱えた。
激しく身を捩って男の翼から逃れようとするが、それも叶わない。
「ぐぅっ……うるさいッ!」
「さて、いつまで耐えられるかな。ただ声が聞こえるだけ、と甘く見ないほうがいい。君の意思はじわじわと、私のそれで侵食されていくのだからね」
苦悶にぎりぎりと歯を噛み締めるトーヤと、悠然とした笑みを浮かべるノエル。
誰が見てもどちらが勝利者かは歴然だ。四肢を縛り上げられた少年は【神器】を扱うことができず、杖などの媒体も使えないため魔法も十全に発動できまい。
チェックメイトだ、とノエルはほくそ笑んだ。
このまま縛って少年が洗脳に屈していく様を見届けるのも面白い。だが、それではあまりに芸がない。これはノエル・リューズが王道を歩む礎となる儀礼なのだ。【悪魔】を従え、組織を利用し、世界を手に入れるというノエルの野望を達成するための、最初の一歩。【神器使い】を完膚なきまでに叩きのめした実績を以て、ノエルの力は対外に誇示される。
「あの男が私にしたように、力を吸ってみようか。苦しみに泣き叫ぶ少年の姿……あぁ、実に素敵なものじゃないか?」
と、そこまで口にしてからノエルは踏みとどまった。
あの男に自分が反逆したように、トーヤがノエルへ刃を向けないとも限らない。武器は使えないが彼には魔法がある。少しでも油断すれば背中を刺されてしまうだろう。
「ノエルさん……アマンダさんがどういう思いで戦ってきたのか、あなたは知っていますか?」
ノエルはぴくりと眉を上げた。
その問い自体に意味はさしてあるまい。出題者自身、答えを知らないのだから。揺さぶりをかけるためだけの言葉。彼が何を言おうが、全てはハッタリ、出任せだ。
「アマンダさんは、ひたすらにあなたのことを思って戦ってきた。でも、最期は後悔していました。僕たちとの絆を断ち切ってまで、一度は手にした団欒を捨ててまで、悪魔に心を委ねてしまったことを……悔やんでいたんです」
ノエルの心は酷く醒めていた。
娘を喪った直後の乱れはどこにもない。彼には少年の言葉が空虚に感じられた。それが真実であろうが、虚構であろうが、どちらでも良かった。
「僕は、あなたに悔やんで欲しくないんです。あなたが悪魔に呑み込まれてしまう前に、救いたいんです。あなたにも……光ある世界を、歩んで欲しいんです」
「あぁ、嬉しいね。君がそこまで私のことを思ってくれていたとは。だがね、トーヤ君。私に何を言っても無駄なことだよ。君の声なんて、王者の前にはあまりに些末なもの。言わば、ゴミ屑にも満たない価値しかないんだ」
その言葉が王道とはかけ離れたものであることは承知の上で、ノエルは少年の意志をへし折らんとした。
「光だとか、希望だとか、そういう綺麗事だけで成り立つ世界を欲すのならば、その考えは早く捨てなさい。人の悪意は消えない――その真理を覆すことは、現状誰にも出来ないのだからね」
腕の如き翼で少年の腕や脚を、さらにきつく縛り上げる。
パキッ――そんな乾いた音が短く鳴り、同時にトーヤは激痛に悲鳴を漏らした。
肉体と精神を並行して責める。支配の常道だ。
「あ、あなたはっ……あなたは、何のために、戦うんですか!? 何故、悪魔に、組織に従うんですか!? 聞かせて、くださいッ、ノエルさん!! あなたの、信念は何なんですか――!?」
それでもトーヤは挫けなかった。腕の骨を折られようが、『従え』という悪魔の囁きを何度受けようが、意志を曲げなかった。
抗い続ける少年にノエルは目を細める。
眩しくて仕方がなかった。尊ぶべき信念だと素直に思えた。そういった軸のない男にとって、少年の生き様はまさしく理想であった。
「私の、信念か……」
ノエル・リューズが【悪器】を持ったのは、あの男の遺言に従ったためだ。それ以上の理由はない。
反逆したつもりだった。だが、結局のところはあの男の言うままに【悪魔】に身を委ねてしまっていた。
拒む選択肢はあった。それなのに従ったのは、やはりノエルがあの男への恐れを捨てきれなかったからか。肉体を刺し殺すような行為に及んでもなお、その恐怖を払拭できなかったのは……ノエルが、弱かったからだ。
「いや……違うな。私は確かにあの男を殺したのだ。そこが出発点だった。
私が彼の意思を汲んだのは、そこに情があったからだ。憎しみと愛は紙一重というが……もしかしたら、一周回って好きになってしまったのかもしれないな」
ノエルは喉を鳴らして笑った。笑いが止まらなくなる気すらするほど、突発的なそれは長く続いた。
「くくっ、くくっ……くはははははははははっ!! ありがとう、トーヤ君。私の本質に気づかせてくれて」
そして丁重に少年へ礼を言う。
ノエル・リューズは男の言葉に踊らされて、悪魔を生涯の伴侶と決めた――彼の過去を覗けば、ある者はそう答えるだろう。またある者は、男が始めから抱いていた悪逆な心がそうさせたのだと答えるかもしれない。
だが、違ったのだ。彼にあったのは純粋なる欲望。自分の才を活かす生き方を――商売人としての成功をただ望んでいて、悪魔などそのついでにあったものだった。
汚れた血筋、最底辺の出自。それでも日の目を見たかった。そのために彼は男を殺し、商売の道へと進み、得られる力は何もかも取り入れようとした。人々の頂点に立ち、「支配」する――それが例え悪魔に頼ったものでも、構わなかった。
「私の魂からは無尽の欲望が湧き出ている。その欲を満たすために、悪魔を利用しているに過ぎない。シルやリリスの望みなど、知ったことか。
――私は君たちと同じく、悪魔による世界の滅亡には反対だ。だがね、悪魔がいなくなってしまうのも困るんだよ。彼らの力がなければ、私を脅かす者たちを止めておけなくなるからね」
自分の欲望に愚直なほど正直に、夢を追い求めた人間。それこそがノエルの本質なのだと、トーヤも理解した。
その信念をトーヤは否定しない。自分だってそれは同じだから。憧憬の英雄になりたい――エルの手を取ったのも、その欲求が始まりだったのだから。
ノエルには充分な商才があったはずだ。然れども、ノエルは己の才を信じきれなかった。その結果、悪魔が差し出した手を払い除けられなかった。【悪魔】と結託してしまい、その関係に深く依存してしまっている以上、トーヤはノエルを野放しにはしておけない。
今は大丈夫かもしれないが、五年後、十年後にどうなるかは分からない。悪魔の力が増幅してしまえば、過去にシルが目覚めさせた災厄の象徴、【悪魔の心臓】による滅びが待っている。
「ノエルさん。あなたは滅びの種子です。いつ爆発するとも知れない、爆弾のようなものです。今ならまだ、間に合います! あなたの魂から悪魔を切り離せば、その危険性はなくなるんです……!」
トーヤは訴える。マーデル国のマリウス王子やアマンダ・リューズのような悪魔の犠牲者は、これ以上出したくなかった。ここでノエルから悪魔を引き剥がせなかったら、残された手段は殺す以外になくなる。
少年は声を振り絞る。脳内で反響する洗脳の声も、翼に四肢をきつく束縛される痛みも、彼は意に介さなかった。
ありったけの力で【堕天使の翼】に絡まれた腕を動かし、ノエルへと差し伸べる。
ぎりぎり、と軋む翼を見据え、ノエルは目を弓なりにした。
「それを承知の上で、私は悪魔に身体を貸している。だが心配はいらないよ。私は悪魔の力に溺れたりしない。他人に詳しく語るのは初めてだが、私は過去に、【強欲】のマモンに憑かれた男の邸に囚われていたんだ。そこでは洗脳された子供たちが奴隷同然に働かされていてね。そんな環境下でも、私は悪魔の支配に抗ったんだ。長い、長い苦しみに耐え抜いた果てに、私はその男を殺めた。つまるところ、私は悪魔の洗脳への耐性がある。そういうケースが稀にあることは、カイ・ルノウェルスにモーガンの洗脳が通用しなかった事例から、君も知っているね」
そう言われてしまえば、トーヤは即座に反駁できなかった。
具体性のある話や具体例を挙げられると、人はそこに信憑性を見出す。例え嘘でも、認識の誤りから来ている話だったとしても。
「そこで話を振り出しに戻すが――君は私の仲間になる気が、本当にないのかい? 英雄には主が必要だ。忠義なき刃など、なまくらと同義。フィンドラ王よりも私の方が余程、忠節を尽くせる相手だとは思わないか? 私が悪魔を使うのは、その『洗脳』の力が必要であるからだ。シルたちの言う『ユグドラシル』やら【悪魔の心臓】などには全く興味がない。
何なら、シルたちを倒すことに協力してあげてもいい。彼女らを掃討してしまえば、【悪魔の心臓】が目覚めることはないのだからね。私が君らに求めるのは、【悪器】のうちの一つを残すこと――それだけなんだ。一つあれば『支配』には充分。
どうかな? 利害は一致していると思うがね」
ノエルが【組織】と相互協力の関係にありながら、内心ではシルたちの目的を支持していないことは分かった。その上で、彼は自分が持つ【傲慢】を除く残りの【悪器】の破壊に手を貸すという。
どこまで本当で、どこまで嘘なのか、トーヤには判断がつかなかった。男の顔に張り付いた微笑みという名の仮面が彼の内面を遮り、守っている。
ノエルが表明した信念が真実ならば、確かに彼はアレクシル王よりも「分かりやすい」男だといえよう。彼は欲望のためだけに動き、トーヤは彼の側で支え、悪魔の力が制御不能なラインまで増幅したら即座に彼を殺す。傍から見れば、それは栄光ある契約だ。経済界を掌握しているリューズ家当主のもとで商売を学びながら、彼の右腕として働けるのだから。
「……っ、僕は……」
「迷う気持ちも分かるが、これは実に合理的な選択だと思うよ。私の下に来たならば、君の望みも叶えさせられる。君は亜人族や移民への差別をなくしたい……そう思っているね。人々が笑顔で暮らせる世界を作りたいと、願っているね。リューズ商会にはそれを叶えられるだけの力がある。王者たる私と共に、君も頂点に立ってごらん。今では『魔族』と呼ばれる『亜人』の私と、移民の君が肩を並べて、栄光ある天辺へ到達すれば――同胞の、希望となれる。そう思わないかい?」
ノエルの言葉は綺麗だった。彼の台詞に、トーヤも自分がノエルの隣で少数派の人々のシンボルになっている姿を想像した。それに悪い気は起こらなかった。頭の中でささやき続ける悪魔の『従え』という声も、それを後押しした。
理想家の少年を引き込むには、最も高い到達点を見せればいい。ノエルは当然ながらそれを弁えていた。少年もノエルの話術に関しては最大限の警戒を払っていたが、万全の状態にない今、彼の判断力は着実に鈍りつつあった。
「僕は――」
トーヤはもう、逡巡していなかった。
ノエルと共に頂点へ上れば、トーヤの願望は叶えられる。それでいいじゃないか、と少年は思った。ノエルの手を取れば、少なくとも当面はリューズ家と対立する必要がなくなるのだ。
『従え、従え、従え、従え、従え従え従え従え従え従え従え従え従え従え従え従え従え従え従え従え従え…………』
鳴り止まない悪魔の声。腕を縛り上げられ、軋む肩。そして、眼前で妖しく揺らめくノエルの瞳の赤い光。
朦朧とする意識の中で、トーヤは首を縦に振ろうとした。
と、その瞬間――。
「えっ……!?」
ぐにゃり、とトーヤの視界に映るノエルの姿が歪んだ。
少年が困惑と驚愕の声を漏らしていると、次いで響いたのは男性の嗄れた声。
『私が稼げる時間はそう長くない。【蜃気楼】の魔法式をこれから君の記憶に刻み込む、それを使って対処しろ!』
それは妙にエコーのかかった声で、トーヤには誰だか判断出来なかった。ただ、その声をいつか、どこかで聞いたことがあるような気がした。
それから声の正体について考える間もなく、トーヤの頭には2行に渡る魔法式の文字列が浮かび上がる。
「『魂の管理者か! この時機を狙うとは、大層性格がよろしくないようだね」
『君に言われたくはないがね。――さあ、トーヤ! 急げ、もう時間がない!』
忌々しげに唸るノエルと急かす男の声を耳にしながら、トーヤはその魔法の呪文を唱えた。
「【幻に堕ち、混じり、消えよ】――【蜃気楼】!」
少年が流麗に詠唱し、解き放たれた魔力は彼とノエルとの間に光の壁を生み出した。
壁越しにノエルの姿が逆さまに見えることに驚くトーヤだったが、すぐに自分を縛る翼と脳内で囁かれ続けた声が消失していることに気づく。
黒い床に呆然と立つ少年は周囲を見回し、先ほどの声の主を探した。が、この空間には自分とノエル以外の人影は一切見当たらない。
今のは何だったのか――そう怪訝な顔をするトーヤに、『魂の管理者』と呼ばれた男は声をかける。
『いつしか、時が来たらまた会えるだろう。では、またな』
微笑み混じりの優しい声音で、男は言った。そこに感じた温度にトーヤははっとする。
――まさか。
「待って! あの、あなたは――」
返答はなかった。男がこの場から完全にいなくなってしまったのだと、トーヤは悟らざるを得なかった。
男に確かめたいことはあったが、今考えるべきなのはノエルだ。彼は光の壁の向こうにいるノエルを見据える。上下反転して見える白髪の男は、口を開閉して何か言っているようだったが、その声は聞こえなかった。
同じ空間にいながら、【蜃気楼】が生み出した壁によって隔絶された――トーヤは自分とノエルに起こった現状を、そう理解した。
そして、その直後。
「トーヤくん! 遅くなってすまない!」
少女の声が少年のもとに届いた。
ぱっと表情を輝かせ、天井を振り仰いだトーヤの視線の先にあるのは、緑の魔法陣から降り立とうとしているエルの姿だ。
「トーヤくん、これは……?」
エルはすぐにこの場に起こった異変に気がついた。
空間を二分している光の壁を指差し、トーヤは短く答える。
「【蜃気楼】。僕とノエルさんが互いに干渉できないようにする魔法さ」
「空間に干渉し、その際に生じる歪みが蜃気楼のように見える魔法か。君がそんな高度な魔法を使えるようになっていたとは、驚いたよ」
自分たちとノエルとを隔てる白い光のカーテン。その光にどこか既視感を覚えつつも、エルはそれを思い出すことはなかった。
「ノエルさん……」
悪魔の呪縛から解き放たれたトーヤは、ほどなくしてノエルの言葉に含まれていた嘘に気づく。
彼の台詞にあった「天辺」、「頂点」という単語。そこから、支配欲や権力欲をノエルは第一にしていると分かる。
彼の欲望に際限がないのなら、経済界というたった一分野の支配にとどまるわけがない。悪魔が憑いているならなおさら、欲望は跳ね上がるはず。その先も――人々の実質的支配、すなわち玉座に着くことも狙っている可能性だってある。
組織と悪魔を利用すれば、出来ない話ではない。少なくとも一都市を占領して国土だと主張するくらいなら可能だ。組織が持つ戦力は、悪魔の絶対服従の力がある限り、無制限に増やせるのだから。
彼が戦争を起こそうとしているのだとしたら――絶対に、止めなければならない。
「本当に、恐ろしい人だね……」
あの時、『魂の管理者』の介入がなければトーヤは間違いなくノエルの手に落ちていた。
彼は人に夢を見せるのが非常に上手い。巧みに、その人の心底からの願いを炙り出し、焚きつける。
彼はこうした手段で多くの人を引き込んで来たのだろう。そして従わない者に対しては、悪魔の魔法を用いて強制的に動かす。
「さあ、外へ戻るよトーヤくん!」
「う、うん! ありがとう、エル」
エルに手を引かれ、浮遊魔法で天井の魔法陣へと昇っていきながら、トーヤはノエルのことを考え続けていた。
ノエルと真っ向から戦って勝てるのは、トーヤではないのかもしれない。どんな相手とも対話を図ろうとするトーヤでは、ノエルの話術に翻弄されてしまうだけ。
あの男に口では勝てないと、少年は正直に認めざるを得なかった。
ノエルを下すには、まずノエルが人であるという認識から取り払う必要がある。あれは怪物だ。欲に呑まれた悪の化身なのだ。
その顔にかつての思い出や情を重ねてしまうのであれば――彼を討つ役割は、リューズと何の関わりもない誰かを宛てがうべきか。
「でも……」
理性の訴えに、感情が抗う。
リューズ商会と決別した日に、トーヤは誓ったのだ。強くなってノエルを倒すのだと。彼を超えてこそ英雄になれるのだと。
「ある意味では、僕もあなたと同じ……夢をひたすらに追う、欲深い人間なのかもしれませんね」
トーヤとエルは光の門を潜り、閉ざされた世界から脱出する。
その間際に少年が呟いた言葉に、ノエルは【蜃気楼】の向こうで小さく笑った。




