33 ノエル・リューズが命じる
シアンらが発見したのは、アマンダ・リューズの日記帳であった。
真新しい状態で保存されていたそれを箱から取り出し、彼女らはその1ページ目を捲る。
トーヤやエルと共にリューズ邸に勤め始めた頃から、日記の日付は始まっていた。
『今日はとっても刺激的な出来事がありました。新しい使用人さん、お父様が連れて来たらしいんだけれど、すごく可愛い子たちでびっくりしちゃった! これから仲良くなれるといいな〜』
悪魔に憑かれ狂っていった者とは思えない、ごく普通の女性の文章。
その後に綴られていたのも、シアンらがリューズで体験した様々な出来事たちだった。
思えば、シアンらの側にはアマンダの優しい微笑みがあったのだ。もちろん、彼女は仕事で邸を離れることも多かったが、そうでない時はなるべくシアンらが目に入る所にいた。そこにあったのは紛れもない、お姉さんとしての弟や妹分への愛情だったろう。
しかし、その裏には苦悩もあった。
『私、あいつを抑えられるか分からなくなってきた。今日も危なかったの……トーヤ君に迫るような真似しちゃって。あの子はまだ子供なのに、手を出そうとしたなんて……本当に、最低な女』
この一文にヒューゴらは一瞬表情を輝かせたが、すぐにもとに戻った。
悪魔、もしくはアスモデウスという名称が出ていなければ、具体的な証拠にはなり得ない。アマンダがどこかで粗を出していないか期待するほかない彼らは、気を取り直して先へ読み進める。
『最近、一日の記憶に抜けている部分がちょこちょこあるの。彼女が私の意識の表層に出始めてるのね。でも、他の誰も私の異常に気づかない。きっと、あの女は私になりきっているんだわ。本当に悪趣味。
……私、怖いのよ。自分が自分でなくなっていくような、そんな危うさを感じてる。だけど……誰にも言えない。言ったら私たちのことがバレてしまうから。だから、私が心を蝕まれても、記憶を振り返られるように、日記を書くの』
【悪魔】と契約した者は単に力を得るだけではなく、精神を支配されてしまう。エインから聞いてその恐ろしさについては理解しているつもりだったシアンらだが、アマンダの手記を見て改めて怖気を覚えた。
ノートに記されたアマンダの記録は、徐々に己の心の異常に触れたものが多数を占めるようになった。その合間に挟まった日常の思い出――トーヤたちとの関わり――を書いた筆跡は、アマンダがそこに見出した安らぎを感じさせた。
トーヤたちが仕事に慣れて手際よくなってきたのを褒めたり、彼らとの談笑を思い返したり、廊下ですれ違った際の挨拶を嬉しく思ったり……そんな些細なことにもアマンダは喜びを抱いていたようだった。
彼女の歯車は静かに狂っていたが、その狂いに歯止めが効かなくなったのは、やはりあの時であった。
『トーヤ君に【悪器】の力を使っているところを見られた。冷静になってから考えて見れば、いくらでも誤魔化す手段はあったかも知れない。でも、動転した私は、あろうことかトーヤ君に攻撃してしまった。
これで、終わりなのね。彼らは私たちから離れていくのでしょう。私の心の支えも……もう、なくなってしまうのね。
私はこれから、悪魔と組織に殉じるのでしょう。二度と戻らない幸せを忘れて、悪意に支配された【色欲】の化身として生きるのでしょう。でも、それでいいの。そう生まれついたんだから。ノエル・リューズの子として生まれた以上、受け入れなくてはならない運命だったんだわ。
ありがとう、トーヤ君。ありがとう、皆。短い間だったけれど、楽しかったわ』
それきり、アマンダは日記にトーヤたちについては何の記述もすることはなかった。
毎日のようにつけられていた記録も、その頻度を数日置き、一週間置きと減らしていった。
悪魔が演じる「アマンダ・リューズ」と、本当の自分。その境界が曖昧になり、彼女は自分の意思を見失っていった。
『明日、フィンドラへ発つことになった。貴族どもとのつまらない商談。悪魔の力を使えば楽勝、とか考えちゃう自分が嫌ね。商人としての初心を、いつからか忘れてしまって……この呪縛を振りほどこうにも、深い部分まで絡みついて、解けそうにない。
お父様のためを思ってやってきたけど……こんなに辛いと分かっていたら、この道を選びはしなかった。結局は、無知がもたらした罪だった、ってことかしら。
でもね……間違えたなら間違えたなりに、引き返せないなら引き返せないなりに、貫くわ。バッドエンドでも構わない。それがアマンダ・リューズに敷かれたレールだから。悪役として英雄に討たれるのが運命だとしたら、甘んじて受け入れましょう』
【悪魔】や【悪器】というキーワードの登場で、この日記はアマンダが悪魔に関与していた確たる証拠だと判明した。
だが、シアンたちは手放しでそれを喜べなかった。アマンダが何を思い、フィンドラへ、神殿ノルンへ趣いたのかを理解してしまった彼女らは、本当にそれ以外の道はなかったのかと考えてしまった。
エインのように悪魔の呪いから解放され、やり直す道も彼女にはあったのではないか。トーヤをはじめ、自分たちにも何か出来たのではなかったか――そう、悔やまずにはいられなかった。
アマンダは悪魔に殺されたようなものだ。いわば、彼女も被害者だった。そして、もしかしたらノエル・リューズも。
二千年前から続く、負の連鎖――それをこの時代で断ち切らなくてはならない。シル・ヴァルキュリアやパールといった過去の英雄たち、そして今を生きる沢山の人たちに誓って、力を持つ自分たちがやり遂げるのだ。
「さあ、皆さん……行きましょう。この日記を持ち帰るのが、私たちの責務ですから」
胸にノートを抱え、シアンは仲間へそう促した。
他の面々は静かに頷く。言葉はなくとも、皆の意志は統一されていた。
悪魔の悲劇を終わらせるために、組織を打倒する。ひたすらに、それだけを目指して突き進むのだ。
と、シアンらの部隊がアマンダの寝室を出た直後――大きな揺れが、彼女らを襲った。
「な、何ですか、これは……!?」
*
「ようこそ、トーヤ君! 我が舞台へ!」
ノエル・リューズの声が高らかに響き渡り、少年を歓迎した。
トーヤが転移させられたのは、ノエルが生み出した異空間。世界と隔絶された、少年と男の二人だけのために用意された場所だ。
すり鉢状に設計された石造りの空間。斜面には階段のように段差があり、最下部には高い卓のようなものが一対用意されている。
天井はどこまでも続いているのではないかと思えるほどに高い。頭上を見上げると、すり鉢の最上部にそこから張り出した舞台があったが、誰がいるわけでもなく寂れた様相を呈していた。
「ノエルさん……!」
すり鉢の底に立つトーヤは、どこからか降ってきた声の主の名を呼ぶ。
白髪赤目の『白の魔女一族』の現当主は喉を鳴らしてくつくつと笑うと、最上部に張り出した舞台の縁に姿を現し、そこに腰掛けた。
「ふふっ……トーヤ君、この空間がどういう所か、君は知っているかな?」
見上げた先にいるノエルの格好が、この空間に来る前と異なっていることにトーヤは気がついた。彼が纏っているのは白の礼服で、その上に同色のマントを羽織り、頭には緑の羽飾りを付けたギャリソンキャップを被っている。見慣れないノエルの姿に、少年は眉間に皺を寄せた。
「これは二千年前、世界の覇権を握った国の皇帝の衣装なのだ。リリスが愛した帝国の、ね。そして、この空間は悪魔の契約者のみが接続することの出来る、かつて悪魔が封印されていた場所。私たちは『審判の間』と呼んでいる」
マントをはためかせ、立ち上がったノエルは鷹揚な口調で説明した。
それから指を鳴らす仕草と同時に姿をかき消し、瞬時にトーヤの前に転移する。
黒髪の少年の頭に手を置いたノエルは、慈しむようにその艶やかな髪を撫でた。
「トーヤ君、一つ問おう。英雄の資格とは何だと思う?」
「人を守れる力と、意思があること。必要なのは、それだけです」
トーヤは即答した。それが彼が常から心に留めおいていることであった。
その返答にノエルは小さく笑みを浮かべた。
「……君は視野が狭いね。人を守ることに固執している。そんな君に、語ってあげるよ。今、君が挙げた英雄の資格――それを持ち得ながら英雄になれなかった、憐れな女の話をね」
「こんな時に、昔話ですか」
「すぐ終わるから聞きたまえ。聞いた後の感想しだいで、君をどう処理するか決める」
顔をしかめたトーヤに、ノエルは顔中でにこやかな表情を作ると彼の頭に思い切り爪を喰い込ませた。
敵意全開で睨みつけられても意に介さず、男は語り始める。
「その女はシルヴィアといった。彼女は、私が二十六の時に出会った女だった。非常に賢く、勉学に関しては私よりもずっと良くできた。私は彼女を気に入り、『俺の女になれ』と言った。そうしたら彼女は不敵に笑って、私に決闘を申し込んできたんだ。『私に勝てたら付き合ってやってもいい』、彼女はそう答えた」
勝負の結果、ノエルは辛くも勝利をもぎ取った。およそ一時間以上にも渡る、死闘だった。その戦いの果てにシルヴィアはノエルを認め、そして言った。『お前は資格がある』と。
「資格とは何だ、と私は訊いた。彼女は、『生き様だ』と一言だけいった。当初は意味が分からなかったよ。それが何の資格かも、彼女は明言しなかったからね」
シルヴィアはノエルと結婚し、やがて長女アマンダ、長男ルーカスが生まれた。
彼女はノエルが悪魔に憑かれていること、そして組織と繋がりを持っていることを理解してもなお、それを咎めようとはしなかった。
『君がそれを是とし、そのために生涯を費やして突き進むというのなら、私はそれを尊重しよう。君の野望に寄り添おう。それが、契約だからな』――ノエルに真意を訊ねられた際、シルヴィアはそう答えた。
シルヴィアという魔女は以後、ヘルガ・ルシッカに敗れて命を落とすまで、ノエルを献身的に支え続けた。
二人の子供を育てながらリューズ商会の最高顧問としての立場を務め、その裏で『組織』の一員としての活動もこなした。
彼女の生き方こそが英雄のあり方だと、ノエルは言う。
「王者となるべき人物を全霊で支え、優れた手腕を以てその座へ導く――そういった賢者こそ、英雄と呼ぶのに相応しい。
さて、トーヤ君。君は王になる気がない、そうだね?」
ノエルの問いかけにトーヤは頷いた。
異民族である自分に資格がないのはもちろんだが、今ある王を打倒する必要性が微塵も感じられない以上、その提案は愚問と言えた。
「ええ。今の僕は、フィンドラ王の剣です。それ以上の肩書は望みません」
「ならば重ねて問おう。君は、私の『英雄』となる気はないか?」
本気とも冗談とも取れない口調で、ノエルは少年の額へ手を伸ばそうとした。
トーヤはその手を振り払い、唸るように言う。
「……あなたを王として仰げと?」
「ああ。面白いとは思わないかい? 別に【神器使い】が【悪器使い】と手を組んじゃいけないなんてルールはないんだ。それに、例え神がそう定めたとしても、今の君は彼らによる規則を破れる。神などまやかしの権威だと、知ってしまったから」
男は薄ら寒い笑みを口元に貼り付けた。まるで、最初から全て知り得ていたかのように――実際それはありえないはずだが、トーヤがそう思ってしまえるほどに、この空間に来てからのノエルが纏う雰囲気は俗世離れしたものに近かった。
いっそ不気味にも感じられる男に対し、それでも正面から睨み上げたトーヤは、拳を固く握って叫んだ。
「だとしても、悪魔と結託しているあなたなんかとは組めない! 僕はエルに誓ったんだ、絶対に悪魔のいない平和な世界を作るって! そのためなら何だってするって……覚悟も、してるんだ!」
大切な人、大切な場所、大切な『国』……今の少年には守るべきものが両手に抱えきれないほどある。
覚悟とは、命を懸けてそれらを守ろうとすること。仲間たちと力を合わせ、その上で目的のためには犠牲をも呑む、皆のリーダーとしての意志。
空虚な『審判の間』には少年の声がよく響いた。胸を震わす熱い彼の思いを受け止めたノエルは、乾いた拍手でそれに応じた。
「模範解答だね。神々が聞いたら泣いて喜ぶだろう。ただ、訊くけど……悪魔を倒して、それで本当に君が望む平和な世界が生まれると思うのかい?」
ノエルは懐から短杖を抜き、少年へ向けた。
1メートル未満の僅かな間合いで構えられた武器に、しかしトーヤは怯む素振りも見せない。彼もまた【白銀剣】を抜剣し、その柄を掴む手に魔力を込めた。
「それは、どういう……?」
「君も気づいていることだよ。危惧していながら、具体的な考えを出そうとして来なかったことだ。心当たりはあるだろう」
瞬間――ノエルの杖から真紅の光が迸った。
同時に床全面に浮き上がるのは同色の魔法陣。この空間を鮮血の色に染める光の柱は屹立し、圧倒的な魔力を放散する。
剣のような形をとった、光の柱――それを恍惚の眼差しで見上げながら、ノエルは詠唱した。
「【起動せよ、禁絶の檻! 魔物の鳴動! 天を崩し、地を裂き、海を統べる大いなるマナよ――」
「させない!」
少年はノエルを妨害するべく剣を振り抜き、空気を切って疾走る風の刃を乱打するが――ノエルの詠唱は止まらなかった。
詠唱と防衛魔法を同時にこなし、白髪の男は少年の刃を完璧に受け流してみせる。放ったそばから光の防壁に弾かれていく風の刃に、トーヤは小さく舌打ちした。
「これならッ……!」
「【我が身は供物、畏怖より生じし神の宿し身!】」
仁王立ちで詠唱を続行するノエルに、少年は肉薄すると防壁へ直接剣を叩き込む。
一撃、もう一撃、さらにもう一撃。閃く刃が剣撃を刻みつけ、徐々にだが防壁がひび割れていく。
「ノエルさん……僕はあなたに、負けるわけにはいかないんだ!」
「【降臨せよ、傲慢の神よ! 狂え、踊れ、今ここに誕生するは愚雄、絶望の使者!】」
雄叫びを上げる少年の剣が、その感情の高まりに応えて力を増す。暴風を纏った刃は男の光の壁を打ち砕き、跡形もなく砕き去らせた。
そしてトーヤがノエルの心臓へ剣先を突き付けようとした、その瞬間――。
「【堕天使の翼】!」
傲慢の悪魔の魔法は、完成を遂げた。
ノエルの背中に突如として生えた漆黒の翼。トーヤがまず捉えた異変は、それだけであった。悪魔に憑かれた者に顕れる瞳の変化も、武器が【神化】同様に強化されて別形態になることもない。
「――っ、これは……!?」
胸を衝く違和感。少年は辺りを見回し、それから視線をノエルへ戻した。
トーヤの勘は鋭かった。この空間自体にはこれといった異変は起こっていない。が、外部は違ったのだ。リューズ邸は今、ノエルの魔法による揺れに襲われている。
「ルシファーが齎すのは、何者をも侮蔑できる支配の力。あの裏切り者に与えた力など、その欠片に過ぎない」
――不味い!
トーヤは直感的にノエルから目を逸らし、床を蹴って距離を取った。
粟立つ腕、乱れる鼓動、浅くなる呼吸――。
少年が【破邪の防壁】を展開する中、それでもノエルは微笑みを湛えている。
「君に対してはひたすらに攻めることが最大の防御となるのさ。君の神器が宿す魔法は、全てが攻撃魔法。守りはそこらの魔導士と変わりない。ほら――他愛ないね」
男の背から生えた3対6枚の翼の先端が槍の如く伸び、少年の白い防壁を貫く。
破片となって宙を霧散する白の魔力に唇を噛むトーヤは、己を絡み取る腕のような翼から逃れられはしなかった。
「あ、あっ……!?」
四肢を縛られて宙吊りにされる少年。
その光景にこの上ない愉悦を覚えるノエルは、空いた1対の翼でトーヤの顔を掴んだ。
そうして強引に彼の顔面を自分へ向けさせたノエルは、少年と目を合わせて叫ぶ。
「ふふふ……ふははははははっ!! さあ、神器使いのトーヤ! 俺に、従えッ!!」




