29 科学者アナスタシア
アナスタシアと名乗った異邦の科学者に、トーヤはどこか見覚えがある気がしていた。
黒髪に褐色の肌、タイトスカートから覗くすらりと長い脚、悪戯っぽく笑う瞳。もしや、と思い彼はかつて共に戦った女性の名を挙げる。
「あの、アナスタシアさん。リリアンさん、という方をご存知ないですか? その肌の色……アマゾネス族の出身だと見受けられますが」
トーヤが訊ねるとアナスタシアは目を細めた。
『ギルド』の門を潜りながら、彼女は少年の問いに頷く。
「えぇ。君の言う通り、あたしはアマゾネス族の末裔よ。リリアンのことも知ってる。あいつはあたしの妹だし」
「えっ……そ、そうだったんですか!」
「そんな驚くことかしらぁ? ……ま、アマゾネスがそもそも珍しいし、その珍しい中でも知り合いの姉だったってのは結構レアケースよね」
腕を組んでトーヤとエルを振り返り、アナスタシアはにやりと笑った。
「あんたたちとは一度話してみたいって思ってたのよ。でも、あんたたちもやることがあるんでしょ? 先にそれを済ませちゃいなさいよ」
「ですね」
『ギルド』は今日も沢山の人で賑わっている。広々としたロビーにいる者の多くは、戦闘装備を身につけた『冒険者』と呼ばれる人々だ。彼らは『ギルド』からモンスター討伐などの仕事を引き受け、それを生業としている。
ロビーを奥に進んだ北の壁際には受付カウンターがあり、東の壁には民間からの依頼の掲示板、西の掲示板には政府からの依頼が張り出されていた。壁中をぎっしりと埋め尽くすほどの依頼書からは、フィルンの人々がどれほど『ギルド』を頼りにしているかが分かる。
「アナスタシアさんは、今日はどうしてギルドに来たんです?」
「あの小生意気な妹に会いに来たのよ。ここを待ち合わせ場所に指定されてね。だからあの子たちが来るまでは、けっこう暇なのよね」
「あ、なら僕たちも一緒に待ってていいですか? 実は僕たちも『影の傭兵団』に会いたくて」
トーヤたちがギルドを訪れたのは、影の傭兵団の行方を調べるためだった。フィルン周辺にいると言った彼らが仕事を引き受けるなら『ギルド』が最適。『ギルド』の受付嬢に訊ねれば、彼らの居場所も判明するだろうと思ったのだ。
「ふぅん。何だかお金の匂いがするわねぇ……。何か企んでるでしょ、あんたたち?」
ひとまずロビーに並んだベンチの一つに腰掛け、アナスタシアは鼻をひくつかせる。
ぐいと顔を寄せてきた彼女を両手で押し返しながら、トーヤは苦笑を浮かべた。
「さあ、どうでしょうね」
「言ってくれないのぉ? こんなに綺麗なお姉さんが迫ってるのにぃ?」
科学者でありながら、彼女の体からは蠱惑的な麝香の匂いが漂い、目元には濃いアイシャドウ、瑞々しい唇には鮮やかな紅が差されている。
白衣の下の豊満な胸を組んだ腕で押し上げてみせるアナスタシアに、少年は首を横に振った。
「僕にはエルという女性がいますから。誰の色仕掛けも受けるつもりはありません」
「へぇ、偉いじゃない! 大抵の男は欲望に屈して何でも喋ってくれるのに。一途なのねぇ……そういう男が相手なら、より燃え上がるってものよ」
きっぱりと断るトーヤに逆に火を付けられたようで、アナスタシアは瞳に妖しい炎を滾らせ始める。
それに危うさを感じたエルは、少年と女の間に無理やり割って入った。
「ちょっと、やめておくれよ! 大体、初対面の相手に自分たちの目的をぺらぺら喋るわけないじゃないか。あなたが本当にリリアンさんの姉かも分からないのに」
「思ったよりしっかりしてるのねぇ。アレクシル王の信用を勝ち取っただけはある。ふふ……ますます気に入っちゃったわ」
エルの対応に笑みを深めたアナスタシアは二人の顔を凝視すると少しの間、黙考した。それから意を決したように咳払いすると、彼女は自分の身の上を語りだす。
「つまらない話だけど、聞いてくれる? ……あたしたち科学者の話を。マギアによって異端の烙印を押された人々の話を」
『魔導帝国マギア』。十二人の【神器使い】を擁する、世界最強の軍事大国。
アマゾネス族の数少ない末裔は、その国の北東部に住まいを置いていた。
少女だったアナスタシアは戦いしか能のない同胞に嫌気が差し、一人その里を飛び出した。
戦いたくはない。だが、彼女は戦う以外の生き方を知らなかった。里から遠く離れた街にたどり着いた頃には、彼女は疲弊しきって倒れる寸前だった。戦いを封印したアマゾネスは、完全に無力だった。
そんな時――彼女に手を差し伸べた物好きな男がいた。彼はアナスタシアを家に招き、温かい食事と寝床を与えた。
自分は科学者だと、彼は名乗った。それが、アナスタシアの『科学』との出会いだった。
「私が彼に教わり始めた当時は、その国は帝国の傘下にはなかった。でも……大国の侵略は避けられない運命だったの。それから三年後、私たちが拠点としていた国は帝国に飲み込まれた。そして、『科学』への迫害が始まった。代わって人々を支配したのは『魔法』。限られた者だけが自由に使える『魔法』こそが正しいものだと帝国は説き、その『限られた者』である王族や純血のマギア人こそが上位にいるのだと植え付けようとしたのね。
――あたしはそれが許せなかった。『科学』は知識さえあれば誰にでも平等。それを排除し、魔法こそ至高とする思想は間違っていると、声を上げたの」
師の制止を振り切って叫んだ彼女だったが、その活動は当局に見つかって追われる身となった。
拠点を捨て、亡命を余儀なくされた彼女は幸運にも協力者を得、北へ北へと逃亡の日々を過ごした。たかだか数名の科学者連中を国外まで追いかける気は帝国にはなかったようで、こうして彼女らは無事に『スカナディア半島』にまで逃れることができた、というわけである。
「幸い、あたしたちを助けてくれた人がこの国にツテを持っててね。今はフィンドラに研究所を構えてるの。アレクシル王はマギアみたいな差別をしないから、だいぶ楽になったわ」
最後にそう付け加え、アナスタシアは表情を緩めた。
フラメル博士に『神杖』の研究所を作らせたことといい、アレクシル王は魔法も科学も貪欲に利用しようとしている。トーヤは以前開かれた王宮のパーティーでも白衣を着た若者を数名見かけたが、もしかしたらその中にも国外から受け入れた科学者がいたかもしれない。
「苦労なさっていたんですね、あなたも」
「同情は要らないわよ。これはあたしが選んだ道なんだから。それに、過去がどうあれ今は平穏に過ごせてるんだから、何も気にすることはないし」
清々しく口にしたアナスタシアの顔を、トーヤは値踏みするように見つめた。
そんな少年の視線を彼女は快く浴びる。自分の実力に胸を張れる彼女は、後で批判を受けることを恐れはしない。批判などさせない――培った技術をもってそう言わせる絶対の自信が、アナスタシアにはあるのだ。
「興味があるなら、後であたしの研究所に来てごらんなさい。面白いものがたくさん見られるわよ。あんたたちが欲しがるような物騒なのも、ばっちり揃えてあるから」
アナスタシアの勘は冴えていた。少年は一瞬ひやりとするも、それは顔に出さず微笑みを繕う。
この科学者の発明が役立つかは実際に見てみないと何とも言えないが、もし十分な力となるならばティーナの魔道具と併せて磐石の装備となるはずだ。魔道具は操作に使用者の魔力を求められるが――それでも通常の魔法よりは負担は軽い――、科学兵器ならばそれも問わない。魔力を引き出すのが不得手な者でも一層の活躍を期待できるだろう。
「あ、トーヤくん、アナスタシアさん! あれ、『影の傭兵団』の皆じゃない?」
エルが指さす先に二人が目を向けると、確かに入り口から黒い鎧の兵士たちが続々とやって来るところだった。
その先頭にいる紫紺の短髪に黒いバンダナを巻いた男が、リーダーのヴァルグである。彼の隣には露出の多い短衣を纏った女性、リリアンが控えていた。
「あ、姉さん久しぶりー、元気にしてた? ――って、何でトーヤ君とエルちゃんが一緒に?」
アナスタシアを見つけるとすぐさま駆け寄ったリリアンだが、姉の側に座る二人に気づくと驚く。
ヴァルグらが少し離れた所から見守る中、姉と再会したリリアンは訊ねた。
「おひさー、リリアン。この子たちはね、さっき知り合ったのよ。緑髪の子がトーヤって呼んでるのが聞こえて、気になって話しかけてみたの。あたしの身の上話も嫌がらず聞いてくれたわ」
「なるほど……初対面の相手にずけずけと近づいてくあたり、姉さんらしいね。トーヤ君たちもごめんね。姉さんの話、長い上に退屈だったでしょ?」
相変わらずの姉の様子に苦笑いしながら、リリアンはトーヤたちに拝むように両手を合わせて謝った。
「いえ、全然退屈なんかじゃなかったですよ! マギアがどういう国か知られたし、有意義なお話でした」
「ほえー。私には出だしの里を抜け出したきっかけの話から無理だったのに、凄いわね……」
「根っからの戦闘バカのあんたにゃ分からないでしょうよ。姉妹の癖にほんと正反対よねー、あたしたち」
トーヤが素直な感想を述べると、目を丸くするリリアンは感嘆した。
そこに呆れたように溜め息を吐くアナスタシアが突っ込む。
長い脚を組んだ科学者の女は妹を見上げ、皮肉な笑みを浮かべた。
と、そこに一歩踏み込んでヴァルグが口を開く。
「だからこそ面白いってもんだろ、お姉さんよ。あんたと会うのは二度目だな……俺のこと覚えててくれたか?」
「えぇ、そうかもね。もちろん覚えてるわよ、ヴァルグさん。あんたは一度見たら忘れられない眼をしてるもの。それと、いつも妹が世話になってるわね。暴れ馬みたいな子だから、大変でしょ?」
「あぁ、全くだ」
目を細めてヴァルグを見つめながら、アナスタシアは妹をそう形容した。
敬愛する団長がそれに全面的に同意したことに、リリアンはしゅんと悄気る。
「まあまあ、元気出すっす副団長! 戦闘民族イコール暴れ馬なんっすから、何も間違っちゃいないっすよ!」
「それは慰めになってるのか、ルークよ……」
エルフの青年ルークがリリアンの肩にそっと手を置き、それを傍目にダークエルフの魔法剣士ナイトが疑問を漏らす。
彼らのやり取りを楽しげに眺めていたトーヤは、表情を真剣なものに切り替えると立ち上がってヴァルグと向き合った。
「ヴァルグさん、お話があります。悪魔との戦いに関する、大事な話です」
悪魔、という単語にヴァルグはぴくりと眉を動かす。そして、即座にアナスタシアへ問いを投げた。
「アナスタシア、フィルンで密談に適した店はどこだ?」
「んー、ここかしらね」
懐から取り出したメモ用紙に簡単な地図を書き、アナスタシアはそれを渡した。
地図に目を通しつつ、ヴァルグは部下たちへ指示を出す。
「お前ら、ちょっとばかしここで待機だ。そんなに時間はかからないはず……だよな、トーヤ?」
「あ、はい。せいぜい30分くらいかと」
「だそうだ。それと――アナスタシア、あんたはついてくんなよ?」
「えーっ、気になるのにぃ。どうしてもダメなの?」
ヴァルグに釘を刺され、アナスタシアは大人気なくごねる。
あどけなく小首を傾げてみせる彼女の頭を容赦なくぺしゃりと叩き、ヴァルグはトーヤとエルに付いてくるよう手で促した。
「もう、あたしだって有能な科学者なのにぃ!」
「信用してもらうには時間が必要なのよ、姉さん……」
頬を膨らませて拗ねる姉と宥める妹がその場に残され、三人の背中を見送るのだった。
*
「お前ら……本気、なんだな?」
フィルンの大通りから外れた路地裏にある、小さな喫茶店にて。
彼ら以外客のいない貸切状態の中、ヴァルグは潜めた声でトーヤに確認した。
エルフの店主がカウンターでグラスを磨いているのを横目に、少年は頷く。
「ええ。ここに書いた全てのことは、確実に実行します。奴らを倒すためには避けられない道なんです」
エルはヴァルグの紫紺の瞳を測るように見つめた。彼の過去は彼女も、トーヤも知らない。彼がオリビエやヘルガほど悪魔への執着がなかったとしたら、この作戦に手を貸さない可能性だって十分にある。
それくらいリスクを伴った作戦なのだ。突入部隊の正体は覆面で隠すつもりだが、万が一身元がバレてしまえば『影の傭兵団』は致命的な不利益を被る。それまでに築き上げた実績、信用、そういったものが跡形もなく崩れ去るのだ。
だから、断られてもエルたちに文句は言えない。彼女らは最悪、神殿ノルンを攻略したパーティーだけで臨むつもりでいた。
「強制はしないよ。これはあくまで私たちの使命で、あなたはそれに巻き込まれようとしているだけなのだから」
コーヒーで口を湿してから、エルは緩慢な声音で言った。
『影の傭兵団』の団長として、ヴァルグはリスクとリターンを秤にかける。二十数名の兵を率いる長としての責任という理性が、『拒否』を選ぼうとする反面――ヴァルグという一人の男の感情は、トーヤたちに力を貸したいと願ってしまっていた。
助力を求められたら応じたい。たった、それだけのことだった。相手が切実にそれを思っていればいるほど、ヴァルグは無視できなくなってしまっている。
――全部あいつのせいだ。あいつらのせいだ。
旧知の魔導士、そして今は王となった青年の顔を脳裏に過ぎらせ、ヴァルグは内心で溜め息を吐く。
彼らの正義感に、いつしか感化されていた。柄でもないのに『正義の味方』になりたいと、考えるようになっていた。少年が憧憬する英雄などという大層なものでなくともいい。ただ、正義を貫ける人でありたいとヴァルグは強く願うようになっていた。
「……こんなゴロツキ風情が正義の味方なんて、誰かが聞けば鼻で笑うかもしれねぇが。やるよ、俺は。この戦いに勝てば、奴らに大打撃を与えられるんだろ? やらねぇ理由なんてねぇよ」
ヴァルグは断言した。自分の決断にリリアンたちもついて来てくれる――その確信があったからこそ、口にできた言葉だった。
「ご協力、感謝します。……この戦いに報酬はありません。それでも、構いませんね?」
「義のために戦うんだ。奴らを倒すことで未来の不幸を減らせるなら、それでいいぜ。俺らは商人じゃねぇ――勇侠の士だ」
ヴァルグの返答にトーヤとエルは深々と頭を下げた。
これで人員は揃った。あとは、装備を揃えて作戦を完成まで仕上げるだけ。
「準備が整うまで、僕らはフィルンにいます。ヴァルグさんたちも、数日の間ですがこの街に滞在して頂けますか」
「了解だ。俺らの装備は俺らでメンテするから、その辺は気にしなくていい。作戦の考案には俺も関わらせてもらうが、部下たち全員に知らせるのは直前。それでいいか?」
「はい。情報が漏れて敵方に事前に察知されてしまっては、元も子もありませんからね」
端的に確認を終えると、この場は解散となった。
ギルドに戻った彼らにまず声をかけたのは、ベンチで退屈そうに煙管を咥えていたアナスタシアであった。
「おかえりなさぁい。その男と密談した直後で悪いんだけど、お二人さん、午後はあたしの研究所まで来てくれない? あたしの製品を一目見れば、否応なしにあんたらはあたしを認めることになるわ」
アナスタシアはトーヤを大層気に入っていた。強い男に惹かれる女戦士の血筋がそうさせている部分もあるが、彼女は少年のしたたかな心を買っていた。
優れた強さも容姿も彼は兼ね備えているが、そんなものはどうだっていい。人の悪意に屈しない強靭な精神、それこそがアナスタシアが最も重んじるものだ。
「そんなに遠くないわよ。ここから馬車で一時間くらいの郊外。あんたらの馬――スレイプニル、だっけ? あれならもっと早く着けるでしょ」
「ス、スレイプニルを知ってるんですか」
「言ったでしょ、気になってたって。少しは予習済みよ」
アナスタシアは驚く少年に得意げに笑ってみせる。トーヤは彼女に感心したように目を細め、頷いた。
「分かりました。では、案内を頼みます」
「オッケー! そんじゃ、スレイプニルを連れて城門前に来てね。王政府の通行手形も忘れずに」
ヴァルグらとの契約が済み、アナスタシアの誘いに乗ったトーヤとエル。
馬車を用意するべく一旦王城に戻る彼らを、通行人に紛れて監視する者がいた。
「……対象がギルド本部から出ました。追跡しますか?」
『ええ、気づかれない範囲でね。万が一見失った場合、すぐに知らせるのよ。間違っても誤魔化さないこと』
耳元の魔道具に受信した声にイエスと返し、その者は歩き出した。
自分たちに注がれる視線――それを鋭敏に感じ取ったエルは、トーヤの服の袖をぐっと引っ張る。
「やっぱり……王城を出てから、私たちはずっと何者かに監視されてる」
何も驚くことではない。むしろ、今までそのような監視がなかったのが手ぬるかったのだ。
エルの指摘にトーヤも一切表情を動かさず、そのままの歩調で足を進めた。
「どうする、撒く?」
「いや……そもそも監視員がどれだけいるかも分からないんだ。完全に振り切るのは難しい。となれば……」
「放置かい」
「ああ。手を出してきたら容赦なく叩くけどね」
瞳に剣呑な光を宿し、彼女は視線を周囲に巡らせる。
その動作で「気づいているぞ」と示してみせるエルは、少年の手を握って呟いた。
「英雄を導く魔女として、私は君を死なせはしない。だから、どんな敵が出ようが怖気付かないでおくれよ」
エルはアナザーワールドからの使者にして、【精霊の魔導士】。
彼女の言葉を頼もしく受け取り、トーヤは毅然とした顔で頷くのだった。




