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黄昏英雄譚 ~アナザーワールド・クロニクル~  作者: 憂木 ヒロ
第10章 【強欲】悪魔マモン討伐編/【嫉妬】悪魔レヴィアタン討伐編

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24  マモンの真実

 戦場と化した路地裏に咲いた、無数の氷の花。

 障壁として立ちはだかる氷柱とその花が、にわかにこの場を銀世界へと変えていた。


「チッ……面倒な技を使いやがって」


 悪態を吐くエンシオは、建物の屋根上でこちらを俯瞰しているオリビエ――悪魔マモン――を睥睨した。

 今の彼は手足の筋肉が強張り、本来の実力を発揮できずにいた。氷の檻が彼から魔力と体力の両方を奪い、じわじわと追い詰めている。


「勝利の剣よ……俺に、力を!」


 悪魔を倒せるならば、ここで倒れようが構わない――。

 そんな強い意志をもってエンシオは剣に願い、【神化】を発動した自身の姿を脳裏に思い浮かべた。

 黄金の鎧に真紅のマント、光のごとく煌く金髪に、サファイアの瞳。握った剣は絶対の勝利を呼び込み、全てを燃やす神の御技を再現する。


「マモンさんよ……俺を舐めてもらっちゃ困るぜッ……!」


【神化】したエンシオは剣を横薙ぎし、その一閃で目の前の巨大な氷柱を溶かしてみせた。

 ――道は開けた、あとは突き進むだけ!

 そう心中で叫び、地面を蹴って駆け出そうとしたエンシオだったが、


「づッ――!?」


 濡れた地面に足を取られ、頭から転倒してしまう。

 衝撃に朦朧とする意識を強引に立て直し、再起しようとした彼を、マモンはせせら笑った。


「舞台には適した格好というものがある。君はそれを身につけていなかった。だから、動けないのさ」

「そんなこと……言われなくても、分かってる」


 悪魔の嘲笑にエンシオは減らず口を叩く。

 氷上で戦うのに必要な装備も、体力も、魔力もない。客観的に考えてエンシオが勝つ可能性は限りなく低かった。

 今さっき氷を溶かした火焔も、そう何度も使えない。残り僅かな魔力を闇雲に消費してしまえば、間違いなく彼は負ける。


 ――俺がやるべきことは、一つ。


 戦闘において重要なのは、結果だ。誰が戦果を挙げたかよりも、何を成したのかが問われる。

 求められるのは「悪魔の討伐」。それを成すのはエンシオでなくてもいい。

 援軍が来るまで耐え忍び、悪魔をこの場に縫い付ける。それが彼の役割だ。


「来いよ、悪魔ッ! 俺は、まだまだ終わってないぜ……!」


 強気に笑みを浮かべ、悪魔を挑発する。

 エンシオは剣を杖がわりに立ち上がり、信念を込めた青い瞳でマモンを見上げた。


「いいねぇ、そう来なくっちゃ。くれぐれも死なないでおくれよ!」


 マモンは歓喜に震えていた。こんなにも強靭な意志を持つ人間を屈服させることが出来たら、新たな肉体として利用することが出来たら、どれだけ自分は強くなれるのだろう?


「【死よ、来たれ。この魔眼に映る終末、角笛より始まる戦禍。我は死を求めし暗鬼との契約者――与えよ】」


 オリビエという魔導士が持ちうる最強の攻撃魔法の呪文詠唱を、マモンは淀みなく紡いだ。

 必殺必中の【死の閃光】。赤と黒の閃光が混じり合い、一つの極太の光線となってエンシオごと眼下の建物や小径を焼き払おうとする。


 青年の目には、それが酷く恐ろしいものとして映った。

 まるで天から降り注ぐ巨大な隕石のように、決して回避の出来ない圧殺の一撃。

 が、彼は絶望しなかった。

 ――怖い。恐ろしい。でも、負けられない。負けたくない。

 一人の王子として、神器使いとして、魔法剣士としての誇りが、絶望を頑なに拒んでいる。


『この力を君に授けよう――大切なものを守り抜くための、慈愛の力だ』


 と、そこで彼の頭の中に神の声が響いた。

 勝利の剣が強烈な熱を発し始め、それを握るエンシオの腕から頭にかけて、魔力が激流のごとく迸ってくる。

 その魔法は神フレイが悔恨から生み出した「守護の魔法」だった。かつて、一人の青年に犠牲を強いてしまった彼が、もう二度と大切な人を失わないために編み出した秘技。

 神から力を受け取った時、エンシオが想っていたのはエミリアとアレクシル、そしてトーヤやフィンドラの臣民たちであった。

 彼の仲間を思う気持ちの強さに呼応して、フレイの【神器】は力を際限なく増す。神と【神器使い】――この二者の意思が完全に共鳴した瞬間、【神器】は本来の枠を超えた究極の魔法を放てるのだ。


「皆の笑顔は、俺が守る! 守って、みせるッ!!」


 エンシオは吼える。

 戦禍に呑まれて悲しみの中で命を落とした者、家族を失った者、絶望に突き落とされた者たちを彼は見てきた。【悪魔の心臓】が現世に蘇れば、それを遥かに超える混沌が世界を支配してしまう。そんな結末だけは、絶対に認められない。


「【人を導く星のごとく生きた貴方に敬意を表し、捧ぐ】――【星光の加護】!」


 博愛の精神を掲げて戦った青年の遺志を継ぎ、エンシオ・フィンドラはその魔法を解放した。

 溢れ出すは銀や青、赤に輝く星々の光。この場の空をも星空に塗り替えるような圧倒的な【心意の力】をもってして、青年は死の運命を覆す。

 降り注ぐ光線に対して、エンシオが用意したのもまた光のベール。殺戮と守護の力が衝突した結果――二つの力は中和し、その魔力は空中で霧散した。


「…………!?」


 夜空と化した天を仰ぐマモンは、驚愕のあまり声を失う。

 何もかも想定以上だ。何故、それほどの力を出せるのか。氷の檻に閉じ込められていながら、どうしてオリビエの全力の技を相殺することが出来たのか。

 論理では説明できない現象が目の前で起きてしまった時、人はこうも間抜け面になれるものなのかと、エンシオはマモンを見て思うのだった。


「……イマジネーション、【心意の力】。それこそが、俺に力を与えてくれたんだ。俺が背負うものとお前にとってのそれとでは、俺の方が重いものを背負っていた。だから、負けなかった」


 片頬でにやりと笑うエンシオ。彼の視線は既にマモンとは別の方向を向いている。

 慌ててその先を辿ったマモンは――目撃してしまった光景に、ぐうっと喉を詰まらせる。


「エミリア・フィンドラ……!? それに、他の【神器使い】までも……!」


 マモンが立つ建物を囲むように、エミリアをはじめとする【神器使い】が集結していた。

 動転も露にマモンは首を頻りに振って周囲を見回し、唇を噛む。


「まさか、怪物どもはもうくたばったのか!? 役立たずどもめ……!」

「協力関係だった相手をそんな風に言う奴なんて、強者の風上にも置けないわぁ」


 吐き捨てるマモンにすかさずミラが冷ややかな視線を送った。

 

「オリビエさんの体を返せッ!」

「あんたの暴虐もここで終わりよ!」


 ジェードが、ユーミが、ミラに続いて悪魔を指差して叫ぶ。

 集った正義の戦士たち。追い込まれた哀れな悪魔。

 完璧に戦闘をコントロールしていたはずだった。エンシオを氷の檻に閉じ込め、自分が絶対の勝利者となれると信じていたのに――。


 ――これでは、立場が逆転して……!?


 嘘だ。あり得ない、認められない。

 あの怪物たちの多くはレヴィアタンの悪器を所持していたのだ。その試し撃ちの様子も、マモンは実際に魔道具の映像で確認している。見た限りでは、あの悪器は神器と同等の威力を有していたはず。

 それを持ちながら――レヴィアタンの武器を使いながら敗れたなど、許されることではない。


「まさか……それも、【心意の力】だとでも言うのかい……?」


 脂汗がじわりと滲む。奥歯を噛み締めるマモンは、忌々しげに【神器使い】たちを睨みつけた。


「ふん……面白いじゃないか。無知蒙昧だと侮ったこと、撤回しよう。君たちは強い」


 取り乱しては敵に主導権を渡すだけだ。繕った平静さで、マモンはエンシオらを賞賛した。

 彼は杖を高く掲げ、常人を超えた速度で詠唱を開始する。


「【奪え奪え奪え! 世界は我の手の中にあまねく魂は我が意のままに! 恵みを枯らし豊かを飢えすこの名はマモン、強欲と簒奪の徒!】」


 彼の詠唱が進むと共に、この一帯に広がっていた氷がみるみるうちに蒸発していく。

 ――いや、蒸発したのではない。魔力が吸われ、魔法によって起こった『現象』が形を維持できなくなり消滅したのだ。

 それだけではなかった。エンシオの『勝利の剣』が、エミリアの『鷹の羽衣』が、ミラの『バルドルの細剣』が、ジェードやユーミの『時女神の杖』が――悪魔に魔力を強奪され、輝きを失っていく。


「なっ!? これでは――」


 ミラの悲鳴にマモンは深々と口元に笑みを刻む。

 神器使いたちはこれでしばらくの間、魔法を使えない。この場の魔力の全てはマモンが統べているのだ。

 全身に流れ込んでくる魔力の潮流に、悪魔は歓喜の叫びを上げる。

 ――嗚呼、これこそがまさしく甘美! 最も力に溺れた者どもから、何もかもを奪い尽くす快感よ!


「ふふふふふふふふふ……! ふはははははははははははッッ!! 僕は最強なんだ! 力を奪えば世界は変えられる! 僕の――母さんの望む世界が出来上がる! 今に見ていろ神々よ、お前たちの世界はまもなく崩れるんだ!!」


 笑い、見下し、執念を燃やし。浮遊魔法で飛び上がったマモンは杖を放り捨て、赤子にするように集めた魔力の光を胸に抱いた。

 先ほどのオリビエの魔法とは比べ物にもならない。【神器使い】が結集してくれたのは行幸だった――こうして、莫大な力を吸収することが叶ったのだから。

 今のマモンは獣だった。欲を貪り、昂ぶりに任せて人間たちをいたぶろうとしている。

 強きものから力を奪い、弱きものには慈悲という名の死を与える。彼の思想はエンシオとは対極に位置するものだ。神の作った世界を滅ぼすこと、それこそが彼の使命。欲望を満たす行為は、それの付随物でしかない。


「くそっ……! どうにかしてあいつを止められないのかよ……!?」


 獣人の少年の言葉に返す声はない。誰もが魔力をなくし、天空へ舞い上がった悪魔に追いすがるのは不可能だった。

 考えられる限り、最悪の状況。今のジェードたちには、黙って悪魔の魔法の完成を待つことしか許されてはいない。

 悪魔の手の中で、魔力の塊はゆっくりと質量を増していた。それが殲滅に足る大きさになるには、あと数分も猶予はないだろう。

 その後にもたらされる結末は、ジェードらがシルの記憶で見た『アスガルド』の光景と同じだ。圧倒的な威力の魔法が地上へ降り注ぎ、全ては灰へと変わる。

 絶望が少年たちの心を支配しかけた、その時――。



「オリビエ!!」



 一人の青年が、最後の魔法を練り上げる魔導士の名を呼んだ。

 空中に佇む黒ローブに接近していくのは、真紅のマントを纏った【神化】の英雄。

 朱色の長髪をなびかせ、腰に『魔剣レーヴァテイン』を佩いたカイ・ルノウェルスである。


「ほう、君は……!」

「お前……オリビエじゃ、ないんだな。悪魔マモン……そうなんだろう」


 カイの姿を認めたマモンは、興味深げに目を細めた。

 そんな悪魔に青年は、低めた声音で訊ねる。


「あぁ、そうだとも。君の大好きなオリビエじゃなくて悪かったね」


 くつくつ、と悪びれずに笑うマモンに、嫌悪感も露にカイは彼を睨んだ。

 大切な仲間を利用された怒り。臣下や他国の騎士を殺められた悲しみ。それらを全て瞳に込め、青年は悪魔と向かい合う。


「いや――お前はオリビエだ。俺を八つの時から導き、強くしてくれたオリビエという男だ! お前の魂は死んでない、俺には分かる! お前がどれだけこの国の民を思っていたか、俺たち姉弟を守るためにどれだけ力を尽くしてくれていたか、俺は全部知っている!

 ――思い出せ、オリビエッ! お前が守るべきものは何だ!? お前が愛したものは、どこにある!?」


 カイの訴え、問いかけに、マモンが何を思うこともない。

 この青年の目の前にいるのは悪魔であって、オリビエの人格ではないのだから。


「そんなもの、知らないよ! 君の忠臣たるオリビエは、もうどこにもいないのだからね! いくら言葉を投げかけようと、どんな説得をしようが無駄なことさ!」


 悪魔は哄笑する。胸に魔力の塊を抱いた彼は、カイを見下してその魔法を発動体勢に移した。

 

「オリビエ――!!」


 自分に手を差し伸べてくれた、あの日の笑顔。

『ずっと共に歩んでいこう』という、あの日の誓い。

 その過去はなくなったものではない。例え、忘却の彼方に移ろうとも――。

 絶叫し、カイは両腕をばっと広げる。マモンの魔法を止めることはもはや叶わない。ならば、カイがその全てを受け止めるほかに手段は残されていない。

 

 あの日の二の舞だ、ととある神は【神器】越しに呟いた。

 白マントの王女は空を仰ぎ、対峙する悪魔と弟を静かに見守っていた。

 地上では魔力を奪われた【神器使い】らが青年を信じ、祈り、戦いの行く末を託していた。

 そして、黒髪の少年は――緑髪の少女の肩を借りながらも、戦場へと舞い戻った。


「カイ……!」


 手傷を負ったトーヤは全力で戦えない。だが、そんな彼でも出来ることはある。

 上空のカイに魔力を送り、マモンの魔法を防ぎきるだけの加護をもたらすのだ。

 ――僕が何のためにここまで来たのか……その理由は、ここにある!

 少年は少女に目配せした。言葉がなくとも、その合図だけで十分だった。

 カイ・ルノウェルスを守り、この街の人々も守り抜く。トーヤという少年の願いが魔力という形で具現化し、空へ掲げた手のひらから高く高く立ち上っていった。


「私も助太刀しよう、トーヤ君!」

「同じ王が命を懸けて悪を討とうとしている――協力しない理由はあるまいな」


 少年と少女が発現させた魔力の光柱の下に、二人の王も参戦する。

 神トールの【神化】を発動させたアレクシル、そして魔導士としての力は並以下であるはずのケヴィンも、カイのため――『正義の味方』のためにありったけの魔力を振り絞った。


「行ける――これなら、マモンの技にだって負けない!」


 二人の王が加わって太さと輝きを増した魔力の光柱。

 それを見上げ、エルは確信をもって叫んだ。

 カイのもとへ到達した魔力の光は彼を包み、これまでにない【心意の力】の加護を施す。


「この力は――」


 己に授けられた力の源が何なのか、眼下を確認せずともカイは察していた。

 少年の――トーヤの想い。そして、彼の同志たちの意志。


「オリビエ! 俺はお前を、取り戻すッ!」


 白い光を帯びたカイは、空気を蹴って前進した。

 全力の猛進。刹那、抜かれるのは『魔剣レーヴァテイン』。

 青年の魂を込めた一閃が、その瞬間放たれたマモンの魔法へと迫った。


「っ、これは――?!」


 真紅の炎と純白の光が、産み落とされた魔力の爆弾を包み込む。

 悪魔の魔法が全てを焼き尽くす寸前――カイの炎はそれを不発に終わらせた。

 マモンの火球は徐々に力を失い、やがて母の腕の中で眠りにつく赤子のように、穏やかになっていく。


「馬鹿な……! 君なんかに、ただの人間なんかに、悪魔が負けるはずが――」

「お前だってただの人間だろう、マモン。ただ、力と信念を持っていただけの、一人の人間だ」


 顔面を蒼白にし、声を震わせるマモン。

 そんな彼にカイは静かな声音で言った。


「違う! 僕は悪魔、人間ではない! そこらの無知蒙昧どもと一緒にするな……僕は偉大なる(リリス)様から生み出された、崇高な存在なんだ!」


 頭を激しく振り、マモンは青年の言葉を否定する。

 認められるわけがなかった。二千年もの間、彼の精神を保っていたものこそが、自分が悪魔であるのだという自己同一性(アイデンティティ)だったのだから。

 カイ・ルノウェルスが民と国を守りたいと願うように、彼の根底にあったものはリリスの悲願を叶えるという使命だった。


「いや……お前は人間だ。お前がどこから生まれて、何のために生きていたのか、俺は知っている。その上で、訊こう。お前は何故、リリスの願いを叶えようとしていた?」

「お母様がそう望んだからだよ。それ以外の理由があるかい!?」

「では、お前は何故リリスにそうまで従うんだ? 例え血の繋がりがあろうと、お前とリリスはあくまで他人。お前はリリスの意思に縛られず、自由に生きる選択もできたはずだ。にも関わらず、何故?」

「何故、何故とうるさいね! 僕は――僕は……!」


 マモンには青年の問いに答えることが出来ない。

 考えたこともなかったのだ。カイが示した自由な道など。マモンという人間は、母親(リリス)の敷いたレールの上を何も疑問に思わず走ってきただけなのだから。


「僕は悪魔……だから、破滅を望むのさ。君なんかには分からないだろうけどね」


 マモンは、笑った。

 何を考える必要もない。何と言われようが、これまで通りの道を突き進むまでだ。

 それが最も楽な選択で、彼の「自己」を保つには最善の手段であるからだ。


「もし、人間に戻ってやり直せるのだとしても……お前は、悪魔としての自己を貫くのだな」


 どんな者にも更生の機会を与えるのが、カイの主義だ。

 それが例え悪魔であっても――カイという度を越したお人好しは、心から更生しようとする姿勢を持つ者ならば拾い上げる。かつて、ルプスにそうしたように。

 

「…………」


 しかし、マモンは反駁しなかった。彼は無言でカイを見つめ、それから黒い瞳をそっと伏せた。

 全てを諦めたかのように魔力の手綱を手放した悪魔は、晴れ渡った空を見上げながら落下していく。


「マモン――!」

 

 叫び、カイは小さくなっていく黒ローブへ手を伸ばした。

 急降下した彼はマモンに追いつき、その腕を掴み取る。

 空中で青年の手にぶら下がった悪魔は、自嘲の笑みを口元に浮かべた。


「……お人好しもいいところだ。このまま見過ごせば、悪魔マモンはオリビエごと死んでいたのに」

「オリビエを死なせるわけにはいかない。それだけは譲れない」


 きっぱりと言い切るカイに、マモンはある種の感銘を受けて目を見開いた。

 人を殺すこと。人を生かすこと。その二つを秤にかけて、後者を迷わず選び取れる彼は、なんて強いのだろう。

 生かすことは死なすことの何倍も困難で、険しい道であるというのに。ここで助けなければ落下の衝撃で悪器は壊れ、マモンは世界から追放されるのに。それでも守ろうとする彼の仲間への、師への愛は――どれほど、強いものなのだろう。


「……そうか。僕が求めていたのは、それだったのか……」


 最後にマモンは気がついた。

 自分がリリスに尽くしていた理由が、今になってやっと理解できた。

 愛が欲しかった。悪魔だからとか、そんな理屈など関係なかった。母親からの無償の愛。それが欲しくて欲しくてたまらなくて……少年は、悪魔になったのだ。

 誰かを守りたい。信じたい。愛したい。共に時間を過ごしたい。人として当たり前に得る権利のある幸せがあれば、それで良かった。

 だが、憤怒に駆られていたリリスはそれを子供たちに与えなかった。アダムとイヴへの復讐に傾倒していた彼女は、それ以外の一切を考えられなくなっていた。子供たちの人格が歪んでしまっていたことも、リリスはもはや気づくことも出来なくなっていた。


「この男は幸運だな。自分を助けようとしてくれる仲間が、無償の信頼を注いでくれる者たちが、側にいるのだから……」


 羨ましくないと言えば、嘘になる。

 もしもやり直せるならば、彼のようになりたかった。沢山の仲間に囲まれ、共に希望ある世界を目指していく人生が欲しかった。【強欲】として母の望みを叶えれば、それが得られると信じてもいた。

 だが――誤りだったのかもしれない。

 エンシオ・フィンドラは臣民の笑顔を守るために命を懸けた。カイ・ルノウェルスは無二の友にして師であるオリビエを助け、そしてスオロを破滅から救った。

 彼らは紛れもない英雄だ。あまりに美しく、あまりに眩しい愛で世界を護る、勇猛の士。

 マモンはそんな英雄たちを目にして――人間たちも捨てたもんじゃないのかも、と微笑んだ。


「さようなら、カイ君。この世界の未来を……より良いものへと、変えてくれ」


 マモンは首に下げていたネックレスを空いた手に収め、魔力を込めた拳で握り締めた。

 それこそが【悪器】。彼自身の手によって装飾具の青い宝玉がひび割れ、その魂は崩壊しようとしていた。


「マモン……お前……!」

「僕は道を違えた。この手でこの命を終えることを、贖罪とさせてほしい。許してくれとは言わない……だが、僕は……!」


 マモンの声はそれ以上続かなかった。

 オリビエの黒い瞳の中に、確かに映った少年の赤い瞳。そこには彼の最後の懺悔と、カイへの期待があった。

 間違いに気づいたとしても、過ちを正そうとしても、もう遅い。今更何を言おうが、悪魔として生きてきた彼は裁かれるべき悪なのだ。

 ――悪は消えねばならない。善き人の住む世界ではなく……そことは隔絶した、地獄に落ちなければならない。



「……終わった、のかな」


 黒髪の少年が見上げる先――カイ・ルノウェルスが抱きとめたオリビエの側で、赤い光が空に立ち上って消えていった。

 それをもって【悪器】が破壊されたと判断し、トーヤはアレクシルやケヴィンと顔を見合わせる。

 カイと悪魔との間でどのような問答があったのかは知る由もないが、これで、強欲の悪魔マモンは討伐されたのだ。


「怪物の襲撃で多数の死者が出たことは、守りきれなかった私たちの失態であったが……ひとまず事態は片付きそうだな。しかし、諸手を上げて喜べる状況でもなさそうだ」

「うむ……『組織』対策を早急に強化する必要があるな。スオロの城門を敵がどのように突破したのかを突き止め、各主要都市の警戒レベルを引き上げなくては」


 溜め息を吐くアレクシルの言葉に、ケヴィンが頷く。

 今回の事変で敵が【異端者】の怪物たちと繋がっていること、そして都市の門衛を欺いた何らかの術を有していることが明らかになった。

 悪魔が一人死んだとはいえ、戦いはまだ終わっていない。

 王たちはそのことを改めて胸に刻み、次なる戦に意識を向けるのだった。

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新作ロボットSF書きました。こちらの作品もよろしくお願いいたします
『悪魔喰らいの機動天使《プシュコマキア》』
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