6 憂鬱と虚飾
初夏の穏やかな風が、黒い前髪を優しく揺らした。
からりと乾いた空は、僕の心をひっくり返したみたいに晴れやかだった。
森の木の葉の合間からそれを見上げながら、小さくため息をこぼす。
「……ありがとう、少し落ち着いたよ」
『精霊樹の森』の主である精霊、ユグドラシルさんへお礼を言った。
僕が背中を預けていた大樹の彼は、名残惜しそうな声音で応える。
『なんじゃ、もう行くのか?』
「うん。おじいちゃんと一緒にいると気持ちが楽になるけど、いつまでも甘えているわけにもいかないからね。最初から長居はしないって決めてた」
ずっと、心残りなことがあった。
神殿オーディンで最後に対峙したマティアスのことだ。
僕は、あの戦いで彼を殺した。罪を悔い、罰を求めた彼の意思に従って、やった。
あれは彼の望みだったのだから、悔いる必要はないのだと――僕は被害者で何も悪くないのだと、これまでそう言い聞かせてきた。
だけど、どんな理由があろうとも人殺しに変わりはない。一人の人間の人生を奪ったことに、間違いはない。起こってしまったことはもう戻らない。やり直しもきかない。
僕にまず出来るのは、謝ることだと思う――そんな風に言うけど、本当ならもっと前にするべき話だった。
マティアスが帰ってこないことに憤った彼の父親は、僕が村に戻ってくるやいなや詰め寄ってきた。怒りを露にする父親に対し、あの時の僕はあろうことか【神器】で威圧してしまった。過去にマティアスが僕や妹に酷い仕打ちをしたのは事実で、それについての怒りが僕の胸の中にあったのも真実だった。だけど、それを免罪符に力で相手を黙らせたのは、誤りだ。
怖かったのだ。殺人者の烙印を押され、正面から罪と向き合うことが。だから、逃げた。傲慢にも力を振りかざして、目を背けた。
「僕はもう、逃げない。過去の全てを受け入れる」
声に出して決意を表明する。ユグドラシルさんと沢山の精霊たちがその証人だ。
泉の水面が風に揺れる。先日、シル・ヴァルキュリアさんもここで自分の過去と向き合った。彼女は前へ進むため、己では抗えない闇を払ってほしいと僕らに望んだ。彼女と同じように、僕も前へ進みたい。
僕は立ち上がり、支えてくれた『師』に感謝を込めて深く一礼した。
それから一歩、踏み出す。
*
こうして村を歩くのは本当に久しぶりだ。
村を出て、シアンたちと出会い、そのままノエルさんの所で働くことになって……それ以来、ずっと帰ることもなかった場所。
ツッキ村は港町エールブルーがすぐそばにあるため、人口もそれなりの中規模の村だ。レンガ造りの家が立ち並ぶ通りは小奇麗で、緑と共存している景観は美しい。僕はこの村に住む人は嫌いだったけど、村自体の雰囲気は好みだった。
街の中央には広場があり、そこに面した区画に村長の家はある。僕がそこを目指して足を進めていると、すれ違った子供たちから奇異の視線を向けられる。
「あの人だれー?」「変な顔ー」「肌の色ちがう」
異国の血を引く僕を指差して、無邪気に首を傾げる子供たち。
それに対して大人たちは、何か怪物でも見るかのような目でこちらを見ていた。村長は排他的な主義を掲げる人――それはよく知っている。きっと彼らも流されているだけなのだろう。それか、知らないだけか。
と、そこで通りを駆けていた一人の子供が僕を追い抜かし、すぐ先で転んだ。
「大丈夫!?」
慌てて走り寄り、転んだ幼い少年の様子を確認する。彼は膝と地面に突いた手に擦り傷を負っていた。涙目になる少年に「大丈夫だからね」と優しく声をかけ、傷口に手のひらをかざす。
治癒魔法は滞りなく成功し、数十秒後には少年の傷はすっかり治っていた。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
「どういたしまして。通りで走るのは危ないから、気をつけるんだよ」
「うん。けど、びっくりした! お兄ちゃんって、魔法使いなの?」
「え……うん。そうだよ」
確か『ユダグル教』は魔法を悪だと教えていたような……と思い出しつつ、嘘をつくのも良くないと感じて僕は正直に答えた。
少年の瞳がきらりと輝く。はしゃいだ声が帯びるのは、憧憬の感情だろうか。
「すごいね! お兄ちゃん、かっこいい!」
僕がその言葉に照れくさく笑っていると――近くの家のドアが勢いよく開き、女性の鋭い怒鳴り声が飛んできた。
「コラッ、ユーリ! 何やってんの!? その人から離れなさい!!」
「ねえ母さん、この人魔法使いなんだって! すごくない!?」
顔を真っ青にして詰め寄ってくる母親と、呑気に笑っている息子。
正反対の二人の間で何を言うこともできないまま、僕は後ずさった。
――やっぱり、この村には僕らのような人種の居場所はないのだ。きっとこの子も、いずれは大人と同じように染まってしまうのだろう。
じゃあね、と視線だけで少年に伝え、僕は逃げるようにそこから去った。
あまり長くは居られない。用を済ませたら、直ぐに外へ出よう。
男たちが港町に働きに出ている日中ということもあり、すれ違う人が少なかったのは幸いだった。足早に広場へたどり着いた僕は、村長の家のドアをノックする。
「はーい、どちら様ですかー?」
ドアを開けて顔を覗かせたのは、僕より五つか六つばかり年上に見える女性だった。
金髪をサイドテールにした碧眼の綺麗な人。目鼻立ちのシャープな顔は、マティアスによく似ていた。
こちらを目にしてドアノブを掴んだままの姿勢で固まる彼女に、僕は名乗る。
「マティアス君のお姉さん、ですか? 僕はトーヤといいます」
「名乗りは要らないわ。要件は何かしら?」
マティアスという名、それから僕の名前に、その女性は瞳を激しく揺らがせた。
首を静かに横に振りながら訊ねてくる彼女に、答える。
「マティアス君のご家族に、謝らなきゃいけないんです。特に、お父さん……彼には酷いことを言ってしまったから。僕は本当に、取り返しのつかないことを……」
「今、父上は役場で執務中よ。話は私が聞くわ。さ、上がって」
声を微かに震わせながらも、毅然と微笑んで女性は促してくる。
礼を言って頭を下げ、僕は彼女の案内で居間まで通された。
「言っておくけど、父上に会おうとは考えないことね」
キッチンへ引っ込んだ女性の言葉に、僕は何も言えなかった。
流石にリューズ家やフィンドラ王城で見たものには劣るが、ソファやテーブルなどの家具はどれも高級品だった。それらの内装を眺めながら立ち尽くす僕に、キッチンから戻ってきた女性は呆れ顔になる。
「座ったら? 少なくとも私は、貴方に害意はないから」
卓に二人分のティーカップを置いてから、女性は椅子に腰掛ける。
彼女と対面のソファを勧められ、遠慮したい気持ちもあったけど僕はそこに座らせてもらった。
湯気を立てる紅茶を啜る女性に、何から言ったら良いか分からず無言になってしまう。
「そんなにビクビクしなくてもいいのよ。毒なんて入れちゃいないわ」
「……でも、悪いです」
「いいから飲みなさい。飲まなきゃ話、聞かないわよ?」
俯くことしか出来ずにいる僕に、マティアスのお姉さんはきつい口調で言った。
そう言われては飲まないわけにもいかず、僕は温かい紅茶に口をつける。じんわりと舌の上で広がったほのかに甘い味に、呼吸が落ち着いていくのが分かった。
「リラックスするでしょ? 貴方、とっても震えていたから……そんな状態じゃ、見ているこっちまで辛くなっちゃう」
「……え」
僕自身も気付かなかった自分の状態を見抜かれていたことに、羞恥を覚えて赤面する。
しなやかな脚を組んで吐息する女性は、鋭い目を細めて名乗った。
「私はフリーダ。マティの姉で、この家の長女よ。重ねて言うけど、私は貴方に害意はないわ。貴方の話も聞かずに一方的に詰り、責め立てるようなこともしない。マティのことは――当時はストルムの大学に通っていて、実家から距離を置いていたから、父上や他の家族よりは中立な視点で見られてると思う」
さっき父親とは会うな、と言ったのは話す前から追い返されてしまうからか。この人が相手だったのは、本当に幸運だった。
「確認するけど、君がマティを死なせたのは間違いないのね?」
「……はい。『神殿オーディン』で【神器】を巡って彼と戦って……その際、彼が『殺してくれ』って――」
その言葉は想定外だったのか、フリーダさんは口に手を当てて息を呑んだ。
瞳を伏せる彼女は浅く息を吐き、「顛末を聞かせて」と絞り出したような声で言ってきた。
頷いて、僕は語りだした。『神殿オーディン』を攻略する直前に彼と会った時のことから、彼の最期の瞬間、そして彼の父親との会話まで、全て。
話す間、ひとつひとつの光景が鮮明に脳裏に蘇った。それは弱い自分からの脱却、そして英雄になるのを本気で望んだ、特別な出来事だったこともある。だけど、マティアスの死が僕の心に刻み込んだものは、それら以上に大きかった。心の深層に、その記憶は傷として残っている。おそらくは一生癒えない傷だ。
僕の語りを聞き終えると、フリーダさんは俯いて膝の先を見つめるのみで、しばらく口を開かなかった。
僕にとって悪魔のような彼でも、彼女にとっては大事な弟だったのだ。僕だって妹が亡くなった時は涙が枯れるまで泣き続けた。彼女もそれは同じなはずで、僕を恨み罰する権利は当然ある。
「……貴方は、父上に『あなたのせいで』と言ったそうね。父上のせいでマティは歪み、貴方に決して許されない暴力を振るい、その罰を求めて貴方に刃を握らせたと……。
その罪は父上だけのせいじゃないわ。彼がおぞましく変わっていくのを止められなかった、私たちにも責任がある。――トーヤ君、私はね、逃げてきたの。父上にも母上にも縛られずに生きていきたかった。だから、高校から大学までをストルムで一人暮らしで過ごしたのよ。でも、もし……この六年間マティの側にいてあげられたら、彼を止めることも出来たかもしれない。……なんて、今さら悔やんでもどうにもならないんだけどね」
フリーダさんは村の大人たちと異なり、異民族を排斥する思考は持っていない。それは彼女が首都で受けた教育の賜物もあるだろうけど、彼女の根本からの人間性に芯があるからだ。彼女は他者へ理不尽な敵意を向けようとしない。例え弟の仇でも、話を聞こうと中立な視点から物事を見ることができる人だ。
でも、だからこそ、彼女には辛かったのだ。彼女は現実をクリアな目で見られるから、残酷な「もしも」を正視してしまう。
「私の記憶が確かなら……差別思想に染まりきっていなかった頃のマティは、貴方とも交流があった。でも年を重ねるうちに……私が高校へ入った頃から、急に過激な思想を掲げるようになった。父上にも匹敵するような、いえ、一時期は父上よりも苛烈な虐待を貴方や妹さんに行った。
辛かったでしょう。苦しかったでしょう。貴方がマティを殺したのは罪で、許されざる行為だけれど――マティのしてしまったこともまた、貴方の尊厳を踏み躙った罪には違いない。七年間……七年、というのは短いようにも思えるけれど、子供時代という人格が形成される重要な時期に、そうやって心を歪めるような行為を受けた。その被害に関して、こちらも然るべき謝罪をしなくてはならないでしょう」
すっかり冷めた紅茶を少し口に含み、フリーダさんは憐憫と悔恨の同居した瞳を僕へ向けた。
彼女らからの謝罪――それに対し、気持ちだけでいい、と僕は伝えた。首都の大学をもうすぐ卒業する彼女は、父を継いでこれからの村を背負っていくリーダーになるのだろう。現村長のような過激思想の持ち主がトップから退くだけでも、マティアスのように歪んだ子供も激減するはずだ。そうやって村を変えていくことが、僕らにとっても一番の償いになる。
僕のその言葉に、フリーダさんは「ええ」と決意を新たにしたようだった。
「ちょっと待っててね。――マティの遺書があるの」
……遺書。その一単語は、僕の胸に重量を持って沈み込む。
罪への罰を求めて、死ぬために彼は【神殿】へ趣いた。であるならば、遺書を残しておいても不自然ではない。
でも、僕は怖かった。あの『ルノウェルス革命』の際、フェンリルに追い詰められた僕が聞いた彼の声――あれが夢や幻聴の類であるのは重々承知だが、それでも勇気を貰った。あの時勝てたのは、彼の声があったからだ。その声が否定されるような、きつい言葉が遺書に書かれていたらどうしよう……そんな不安が突然こみ上げてくる。
数分も経たずしてフリーダさんは二階から居間に戻ってきた。その手に握られているのは、皺や汚れの一つもない封筒。
テーブルに置かれたそれは、封が切られたようには見えなかった。
「裏返してみて」
フリーダさんに促され、言われた通りにすると――封筒の表面には、やや角ばった丁寧な字で『トーヤへ』と宛名があった。
「マティアス……」
彼の真意が知りたい。あの頃何を思っていたのか、何が彼に死を決意させたのか、彼の思いの全てを知りたかった。
「開けてもいいですよね?」
「ええ。それがマティの望みよ」
逸る気持ちでフリーダさんを上目遣いに見て訊き、許可を得られるとすぐさま封を切る。
折りたたまれた白い紙をそっと開き、僕はそこに記された文に目を走らせていく。
*
トーヤ。お前が【神殿】攻略に挑むと聞いて、俺はまず驚いた。
お前は弱いやつだ。何をされても言い返すこともなく、怯えて固まっているようなやつだった。だから、お前がそういう行動を起こそうとしたこと自体に俺は驚いた。
それと同時に、納得してもいた。昔、まだ俺がお前と仲良くしていた頃――お前は、よく神話の話を聞かせてくれたよな。一途に英雄に憧れていたお前の表情が眩しかったこと、今でも覚えてる。遂にこの時が来たのか、と気づけば自然に受け入れていた。
これを読んでいるということは、お前は【神殿】攻略を成し遂げたんだろう。おめでとう。本当に、夢が叶って良かったな。――そして、悪かった。俺はお前に、辛い選択を強いてしまったかもしれない。
正直に明かす。俺は、死にたかった。自分が嫌いで嫌いでしょうがなかった。何の罪もないお前やルリアに酷い仕打ちをした、自分を罰したくて……神の裁きを求めて、【神殿】へ向かおうと決めたんだ。
下らない、って笑ってくれて構わない。これは俺のエゴだ。死にたいならさっさと首でも吊れば良かったのに、しなかった。その理由は単純で、俺が自殺するような弱い心の持ち主だと吹聴されたくなかったからだ。そのことで村長の顔に泥を塗りたくはなかった。【神殿】ならば、勇敢に試練に立ち向かった末に死んだ『戦士』になれる。英雄にはなれなくとも、その陰で死んだ戦士の一人になれるなら、それで満たされると思った。
俺は罪人だ。父上に認められて、俺こそが次期村長の座に就くに相応しい人物なのだと誇示するために、お前やルリアを痛め付けてしまった。その罪に気づくのがもう少し早ければ、お前たちの運命は違ったものになっていたかもしれなかった。
だが……俺は悪魔に憑かれたみたいに、狂って周りが見えなくなっていた。お前たちを虐めていれば父上は喜んでくれる。お前たちを殴り、悪罵の言葉をぶつければ、無性に込み上げる苛立ちが収まる。お前たちを穢し、劣情に身体を任せている間は、何も考えずに楽になれた。そんな暗い快感を、俺は手放すことが出来なかった。
*
「う、ぐっ……」
殴られた痣の疼痛が、突き刺さった否定の言葉が、体内を蹂躙したその熱が――彼から受けた暴力の全てがまざまざと蘇ってきて、僕は手紙から目を離す。
込み上げてくる吐き気に口を押さえる僕に、フリーダさんは寄り添ってきて背中をさする。
「トーヤ君。辛かったら、もう読まなくてもいいのよ。読むかどうかは、貴方の意思で決めることだから」
「い、いえ……僕は、読まなくちゃ、いけないんです。彼の思いを知るために、僕はここにいるんです。心配、しないで……ください」
最後まで読んで初めて、僕の気持ちに整理はつく。
首を横に振りながらフリーダさんへ微笑み、僕は手紙の続きに目を通した。
*
俺が自分の罪をはっきりと自覚したのは、ルリアが死んでからだった。死ぬ前日まで健気に咲いていたのに、突然にいなくなった。……いや、お前にとっては突然ではなかったんだろう。兆候はあったはずだ。だが、両親をなくして二人きりになったお前たちは俺の格好の餌で、俺の狂いに歯止めはかからなかった。
ルリアは俺が殺したようなものだ。そう理解した瞬間――俺はたちまち恐ろしくなった。自分がしてきた罪は、これほどまでに大きなものなのかと愕然とした。
それから毎日夢を見た。血塗れの少女が寝ている俺の枕元に立ち、首を絞めてくる夢だ。ルリアだけじゃない、お前まで夢に出てきて、これまで俺がしたのとそっくり同じことをしてくるんだ。
最悪だよ、死にたいって何度も思った。お前たちはこんなに苦しんでいたのか――いや、夢でなく生身で虐げられたお前たちはそれ以上の苦痛に晒されていたのか。そう気づいた時には、何もかも取り返しのつかない所まで進んでしまっていた。
俺は死んで当然の罪人だ。俺はこの後【神殿】で死ぬだろうが、そのことについては誰が責を負うこともない。父上はもしかしたら同時期に【神殿】へ向かったお前を疑うかもしれないが、これはあくまで俺の自殺。新しい英雄の誕生に立ち会えなかった、一人の愚かな人間の死に過ぎない。
なあ、トーヤ。
これまで苦しめてしまって済まなかった。俺のことは好きに恨み、罵倒し、父上たちに復讐したって構わない。全てはお前の自由だ。
だけど、その上で最後に一つだけ言わせてほしい。
もしも、やり直せるならば――
*
「『ずっと、お前と友達のままでいたかった』……だって? そんな、そんなこと……最後に、書くな」
僕は声を震わせ、手紙をくしゃっと握り締める。
視界がぼやけ、紙面に水滴が零れ落ちる音だけが、しばしこの空間を満たした。
過去は戻らない。この望みは決して叶うことはない。
父親に認められるために彼がその思想に染まったことも、そのために僕と妹を傷つけたことも、ルリアが死んだことも、彼が死んだことも、何一つ変わることのない過去なのだ。
残酷に現実を突き付けてくるマティアスが、僕は憎らしくて仕方なかった。
「【神殿】オーディンでミノタウロスと戦った時、君がいなきゃ僕らは死んでいた。あの時の君は、本当にかっこよかった。紛れもない、『英雄』だったよ」
道を踏み外しさえしなければ、彼だって『英雄』になれた。ううん……フェンリル戦で僕の中で彼は声を上げてくれた。その声はまさしく僕を導く英雄のもので――あの時守ってくれた彼の背中を、僕は一生忘れないだろう。
「僕だって……叶うのなら、君と親しい関係でいたかった。歪んだ繋がりではなく、穏やかな時間を共に過ごしたかった……」
もしも、を考える度に、今はいない人たちの笑顔が浮かんでは消えていく。
想像という泡沫にしか住めない、明るくいとおしい彼ら――。
「あ、あぁ……ああぁぁっ……」
もう枯れたはずなのに。全てをなくしたあの夜に、空っぽになるまで出し尽くしたはずなのに。
僕の眼は涙を流すのを止めない。堪えたくても、嗚咽は喉を激しく震わせて離してくれない。
やり直す機会を僕は奪った。過去の「もしも」が叶わなくても、新しい未来を歩み出せる可能性はあったのに――。
二度と戻らない過去に打ち震える僕のそばに、フリーダさんは何も言わずにいてくれた。
彼女の手の温もりだけが、今の僕を現実に繋ぎ止めてくれている。
「ねぇ、トーヤ君。貴方には生きていてほしい。死んだマティや、妹さんの分まで……それが彼らの望みだと思うから」
実の弟にするような優しい手つきで、フリーダさんは僕の頭を慰撫した。
その温もりに母さんの面影を見出だして、僕はまた涙を溢れさせてしまう。
過去を思えば泣いてばかりだ。男なんだから泣くな――いつかの父さんの台詞を思いだし、目をごしごしと擦るがダメだった。
そんな僕をフリーダさんは静かに抱き締める。彼女も頬に涙を伝わせていた。
「はい。――僕は、生きていきます」
彼女の言葉に頷き、確固とした意思を込めて言う。
僕の涙が止まるまで、フリーダさんはずっと手を握ってくれていた。




