プロローグ 連鎖する悪
「私が目指したものとは、一体何だったか」
背もたれの高い椅子に腰掛け、ノエル・リューズは独り言つ。
月が夜空で銀色に輝く夜。居室で一人、ワイングラスを傾けながら、男は瞳を閉じて自らの過去へ思いを馳せていた。
自分が命じた任務により、娘は死んだ。彼女が亡くなってから息子の様子もおかしくなっている。情緒不安定な息子に、父である自分は何をしてやることも出来ず、数日が過ぎた。
悪魔アスモデウスの力をもってアマンダはトーヤたちと戦い、激闘の末に敗北した。その戦いざまは苛烈にして暴虐、まさしく悪魔であったと部下たちはノエルに伝えている。
アマンダは全力を尽くし、少年に敗れた。彼女がその勝負の結果を認めなかったとは思えない。自らの負けを受け入れ、死を迎え……もしかしたら最後に、少年へ励ましの言葉でも贈ったかもしれない。アマンダ・リューズはそういう女性だ。それは父親たるノエル自身がよく知っている。
だが――アマンダが死なず、ノエルやルーカスと共に平和に暮らせていた未来もあったのではないか。今更だと笑われるような話だが、男にはそう思えて仕方ない。
「アマンダ……」
もう二度と帰らない娘の名を、男はワインと合わせて飲み下す。
悔やんではならない――その後悔はアマンダの死への冒涜だ。心底から使命を果たすことを願った彼女の意思を踏み躙る行為にほかならない。
自分たちリューズ家は、【悪魔の母】のために戦うことが使命なのだ。それ以上でも以下でもない。
あの日――自分を闇の底から拾い上げて育てた『師』に告げられてから、彼はそれだけを思って生きてきた。商売で地位を築いたのは、全て目的のための準備に過ぎなかった。
思えば、自分は数奇な運命を辿ってきた。
最初はただの貧民に過ぎなかった。スウェルダ東の辺境の街、そのスラム街を這いつくばる子供の一人。彼は、どこにでもいる孤児であった。ただ他と異なるのは――幼いながら老人のように真っ白い髪の毛と、鮮血の色をした瞳だった。
物心ついた時から、親の姿は側になかった。その見た目のせいで仲間もいなかった。彼は、とにかく孤独だった。
食べ物を得るためにゴミ箱を漁り、盗みを働き、喧嘩で他の子供から金を奪い。スラムの泥水をすすって成長した彼は、十二歳になる頃にはスラム街に知らぬ者はいないほどのガキ大将となっていた。
『俺に逆らったらどうなるか――分かってるよな?』
彼は自分が持つ能力を早いうちから自覚し、それを完璧にコントロールすることが出来ていた。
自分が念じるだけで、相手は原因不明の激痛に襲われて立つことも叶わなくなる。それがおかしくて仕方なかった。見えない刃で手首を切ったり、強力な重力を発生させて押し潰す寸前まで追い詰めたり――彼の魔法の悪用に、歯止めはかからなかった。
やがて、彼は『白髪鬼』の名で周辺の街にも名が知れ渡るようになった。自分の噂がスラム街を飛び出して、外の大勢にも知られている。そのことに彼はほの暗い喜びを抱いた。
自分の力がどんどん多くの人に知られ、畏怖されている――それは彼にとってどんなものにも優る甘美だった。
己の内の【傲慢】を育て、恐怖を振りかざしてスラムを支配した彼。しかし、その栄光は長くは続かなかった。
『お前が「白髪鬼」か? 鬼というには背が低いし、顔もそこまで怖くないな……何というか、単なる子供にしか見えない』
彼の隠れ家の一つの前に現れた、巨躯の男。その男は気だるそうに彼をそう評し、口元を歪めるように笑った。
『お前、強いんだってな。そんなら俺のものになれ。俺は力が欲しくて堪らないんだ……もっと、もっと食いたくてしょうがないんだよ』
獲物を狩る獣の目は、彼も何度も見てきたつもりだった。だが、男の眼はそれではなかった。どこまでも昏いその目には、純粋な欲望があった。
彼は男の異常性をすぐさま感じ取り、持ち前の魔法の技で応戦しようとした。が――彼が一手打つ前に、男はもう動き出していた。
男はその場から一歩も動いていないのに、見えない手が彼の胴をがっしりと掴んで離さない。その腕に持ち上げられ、宙に足をぶらつかせながら、彼は人生で初めての屈辱を味わった。
『おい……離せ! 離せよッ!! おいっ、このッ……!!』
『暴れても無駄に疲れるだけだぞ。お前、馬鹿じゃないだろ? それくらい分かるよな』
半眼で彼を眺め、男はそう諭した。その声のトーンが妙に落ち着いていたせいで、彼はどうにも反抗する気力が起きなくなってしまう。
彼が暴れるのを止めると男は満足そうに頷き、見えない手で彼を掴んだままもと来た道を戻り始めた。
『おい、どこ行くんだよ!? 俺をどこに連れ出すつもりだ!?』
彼の問いを男は無視する。その日から『白髪鬼』は忽然と姿を消し、二度とこのスラム街に戻ることはなかった。
彼が男に連れられて来たのは、とある街の大豪邸であった。
見た目では分からなかったが男はどうやら大金持ちのようで、邸には羽振りよく肥った商人たちが頻繁に出入りしていた。それだけなら単なる豪商の家だと片付けられたが――男の特異な部分は、その邸の使用人たちにあった。
ここで働く使用人たちは、一切の例外なく子供だったのだ。年齢は8歳から16歳まで、性別は男女で均等。どこを見ても子供の使用人しかいない光景に、彼は唖然とするしかなかった。
『今日からここがお前の生きる場所だ。ちゃんと励めよ。逃げることは許さない』
そう言い放ち、男は彼の額をがしりと鷲掴みにした。その瞬間、男の腕から黒い魔力が流れ込み――彼の額に見えざる刻印を焼き付けた。
その刻印は【悪魔】との契約の印。一度刻まれれば術者が死なない限りは解けることのない、絶対の呪縛だった。
【強欲】の悪魔と契約を結んでいた男は、各地から高い魔力を持つ子供を集め、自らの下で手駒として使っていた。子供たちは各所にある男の邸で、奴隷同然の扱いで労働させられる。幼い子供などは過労で死ぬことも珍しくはなかった。しかし男は、一人が死んでも次の一人を淡々と補充するだけで、その死に何も思いはしなかった。
悪意が心に侵入し、蹂躙され、子供たちは男に盲従する奴隷に成り下がる。それがルールであるはずだった。だが、男の目論見に反して、彼は誰よりも気丈だった。
彼だけは男の悪意に征服されず、自己を保ち続けた。それが元より悪意を胸の内に秘めていたためなのか、彼の血統によるものなのかは分からない。しかし確かに彼は男の支配に抗い続け、過酷な労働の中でも精神を病むこともなかった。
それでも逃げることは叶わなかった。彼に刻まれた刻印は発信機としての役割も果たし、男は常に子供たちの所在を確認できたのだ。
脱走が不可能な状況で、誰のためとも知れない労働にひたすら耐え――ろくに食べ物も与えられず栄養失調に陥った彼は、ついに病に侵され始めた。
そんな時――男は彼を居室に呼びつけ、言った。
『人の命が最も輝く瞬間は、いつだと思う?』
男の問いかけに彼は無言の返答を送った。それも意に介さず、男は言葉を続ける。
『それはな、追い詰められた瞬間だ。命を削り、死の淵にまで追い込まれ、それでも生を渇望して足掻く……そんな人間の魂が、魔力が、俺は好きなんだよ。
――おい、ノエル。お前もそろそろいい具合に育っただろ? お前の魔力、食わせてもらうぞ。……大丈夫だ、死なせはしない。ただ、死ぬ寸前まで追い詰めるだけだ』
立ち竦み、じりじりと後退りを始めた彼の脚を、男の見えざる手が引っ掛ける。
床に背中を打ち付けた彼が悶絶する中、男は彼に馬乗りになるといつかのように額を鷲掴みにした。
普段は透明な刻印が真紅の光を立ち上らせ、触れた男の手のひらに魔力を伝えていく。理不尽な労働への怒りは彼の内の魔力を更に高め、それは以前のように発散する場もないため多量に蓄積されていた。
男は純度の高い彼の濃い魔力を吸い、その蜜の味に恍惚とした笑みを浮かべた。
魔力を吸いながら、彼にも自身の魔力を分け与え――悪魔の意思が含まれたそれを彼の体内に送り込むことで、じわじわと彼の精神を侵食していく。
こうして、昼間は労働、夜は魔力を吸われる生活がまた一年続いた。
彼の肉体と精神には多大な負荷が掛かり、常にいつ死んでもおかしくない状態だった。だがそれにも関わらず、彼は死ねなかった。いや、死ななかった。
――ここで終わってたまるか。
そんな執念が、彼の命を辛うじて繋いでいたのだ。自分は支配する側の人間だ、誰かの下で無様に這いつくばるなど有り得ない。
必ず、この男を殺す。彼はそう決めていた。たった14才の少年が大の男を一人で殺害する、そのような夢物語が達成できるかは不明瞭。だが彼の妄執じみた【心意の力】は、心身をすり減らす生活の中でも衰えることは決してなかった。
彼にあった才能は、魔法だけではなかった。
彼が頭脳に優れることは飼い主の男もすぐに見抜き、拐って一月も経たない頃から彼に書物を与えていた。男から貰った書を、彼は夜毎ベッドの中で読み耽った。文字の読み方もすぐに覚えた。だれに教わるともなく、独学で彼はそれを身に付けた。男がまともな感性の持ち主ならば、王都の大学まで飛び級で通わせようと思えるほど、彼の知的好奇心と吸収力は並外れたものだった。
だが――彼に知識を与えたことは、男にとって仇となった。
彼は男に反逆するための準備を進めていたのだ。じっくりと、気取られぬよう慎重に。
男の生活リズム、癖、魔法の得手不得手、役に立ちそうな情報は何でも頭に叩き込んだ。
男を殺害して邸を出た後、世の中で生きていくために商学書を何冊も読んだ。
労働に耐え、愛想笑いを覚え、男の機嫌取りに精を出し。男に気に入られることが逆襲の第一歩だと、彼は理解していた。
『おい、ノエル。今夜、俺の寝室まで来い。他のガキどもにはいつもの儀式だと言っておけ』
やがて彼は、夜な夜な男と同衾するようになった。
男に愛される代わりに、魔力を吸われることはなくなった。
過酷な環境の中で逞しく命を繋いだ15歳の彼は、誰が見ても健気な美少年。何度も夜を共にするうちに男は彼への情を深め、労働量も減らしてくれた。
小姓まがいのことをして得た安息だったが、それでもいいと彼は思った。
恋や愛は知らない。けれども、その真似事が出来ないほど純朴でもない。スラムで花を売る女は腐るほど見てきた。きっと自分の母親だってそうだったのだろうと彼は思っていた。そういう女の真似をすればいい。主人の好みを把握して、愛を刺激するように可憐に啼く。
本心ではやりたくもないことだった。が、全ては反逆のため。男を殺すには、まず彼が絶対に男に逆らわないと思わせなくてはならない。
だから、彼は愛を偽った。他の使用人の子供たちと異なって彼は男に盲従せず、それは男に裏切りを常に危惧させる材料となる。そのことを分かっているから、彼は本気で愛を信じた。
そして――その時はやって来た。
16歳になった少年は、男のベッドの中で遂に計画を実行に移したのだ。
彼は自分が上になるように体位を変えた、その瞬間――裸の男の腹を「見えざる刃」で切り開いた。その魔法は、男が最も得意とした力魔法と同種のもの。男を知り、近づくために、彼は自身も同じ技を習得していた。
しかし、男がそれに動揺することはなかった。
これを予覚していたのか――そう瞠目する彼に、男は呟いた。
『人を殺すのは……初めて、か?』
彼は何も答えなかった。そんなことを聞かれるとは、思ってもみなかった。
『お前はようやく、大罪を犯したな。貪欲に、生きるために、俺を、殺そうとした。
……初めて見た時から、そうじゃないかと思っていたが……お前は、『白の魔女』一族、リューズ家の血筋を引いている。かつて悪魔を生んだ魔女と、同じ血筋だ。
俺のような贋作の器でなく、本物の、悪を抱くのに相応しい器。受けとれ……ノエル。お前には資格がある。何もかもを支配する王者となる資格が……』
最期の力を振り絞って、男は告げた。
この時、彼は天啓を得たかのように自らの使命を悟った。――そうだ、それだったのだ。自分の力はそのために用意されたものだったのだ。
死者への手向けには相応しくない笑顔を、彼は浮かべた。もう息をしていない男の指から【悪器】である指輪を奪い、下腹部を圧迫していた男のそれを雑に抜いた。
白い肌を血化粧で飾り、裸のまま立ち上がった彼は、無言で己の勝利を噛み締めた。
派手に高笑いなど上げない。これはノエル・リューズの覇道の出発点。その最初の一歩は、厳然とした静寂から始まらなければならないのだから。
その後の経過は知っての通り。
男の邸から脱走した彼は、それから半年も経たぬうちに商人として活動を開始した。
持ち前の頭脳と、人を騙す仮面で人身を掌握し、彼はみるみるうちに経済界で頭角を現していく。
やがて彼は地方一の豪商として名を上げ、家名が貨幣名として使われるまでの栄光を手にした。
その裏で【悪魔】を利用して暗躍――違法薬物の取引や人身売買、要人暗殺などの汚れ仕事――を行ってきたことは、殆どの民にとって知るよしもない。
「あの時、『師』にああ告げられていなかったら、私の人生は別のものになっていたかもしれない。太陽に照らされた場所で一商人として活躍し、【悪魔】と何の縁もない家族を営んでいたかもしれない。
だが、それはあくまで『もしも』に過ぎない。私はあの瞬間、【悪魔】を生涯の伴侶とすると決めたのだ。今さら別れる訳にもいくまいよ」
自嘲するようにノエルは笑った。
ワイングラスの水面に映る自分の冴えない顔を眺め、彼は溜め息を吐く。
愛も恋も知らなければ良かった。あの頃のように、目的のためならどんな嘘でも吐ける冷徹な男のままでいれば、どれだけ楽だったか。
過去の自分に心理的制約は何もなく、ひたすらに自由を求められた。何を奪われることも、どんな罪にも罪悪感を覚えることもなかった。
だが、現在は異なる。妻を得て、二人の子供を得て、そして妻と娘との永遠の離別を迎えた。
妻は5年前、【悪魔祓い】ヘルガ・ルシッカとの戦闘で命を落とした。娘は【神器使い】トーヤたちと戦って死んだ。この二人はノエルの使命のために亡くなったようなものだ。
と、そこで彼の頭の中で一人の青年が囁く。
『何を悔やんでいる? 使命を果たせなかった無能者を思い返していても仕方がないだろう。君は次の仕事を考えていればいい』
「――黙れッ! 【悪器】の中から囁くことしか出来ない奴が、私に指図するな!」
『少し落ち着きたまえよ。君は完全無欠のノエル・リューズ様だろう? これまで通り、周りの者どもを侮蔑していけばいいじゃないか。この世界のカネは全て君の下にある――王ではなくとも、君は紛れもない世界の支配者だ。王者にヒステリーは似合わない、それくらいは理解してほしいね』
突発的な怒りが沸き上がり、ノエルは彼らしくなく怒鳴り散らした。
そんな彼を【傲慢】の悪魔ルシファーは落ち着き払った口調で宥めた。
彼はワインのボトルをもう一本開け、グラスになみなみと注いだそれを一息に飲み干す。それで不安定な精神を鎮め、眼鏡の下で深紅の瞳に暗い炎を宿した。
「ふふ……掛かってきなさい、トーヤくん。君はいずれ私のモノになる。君のような可憐な子供が、心を軋ませながら自己を歪めていく光景――思い浮かべるだけで笑いが止まらないよ」
散々嫌い、皮肉で『師』と呼ぶ男と同じことに快感を覚えている事実に、彼は気づいていない。
椅子から立ち上がった彼は持っていたグラスを床に投げ捨て、くつくつと小刻みに笑声を漏らす。
「俺を満たしてくれよ……俺を、楽にしてくれよ。なぁトーヤ君、なぁ【神器使い】の若者たち――君たちなら、俺の遊び相手になってくれるよな?」
乾いた笑声がだだっ広い居室に響き続ける。
空虚なその声を聞く者は、彼と悪魔以外何者もいなかった。




