エピローグ ふたりでひとつ
シルさんの歴史の語りを聞き終え、リリスさんの突然の登場と退場を見届けた後。
残された僕らは、それぞれの思いを胸にその場で佇んでいた。
「……これから、どうする?」
ぽつり、と僕は皆に問いかける。シルさんの過去を見て、彼女の記憶を追体験して――それから、僕らは何をするべきか。
実際は人間であった【神】や【悪魔】が、かつての世界で滅んだ歴史を踏まえて、今の時代に生きる【神器使い】の僕らはどこを目指すべきなのだろう。
「戦うしか、ない。姉さんを取り戻すには、それ以外に方法はないから」
僕の問いにまず答えたのはエルだった。お姉さんの魂が『彼女』の中に確かに残っていることを知り、これまで以上に彼女は使命に燃えていた。
何としてでも『彼女』と向き合い、シルさんを救ってみせる――そんな強い意思が、僕らを見渡す彼女の瞳には宿っていた。
具体的にどのような方策ならシルさんを救えるのか、僕には想像もつかないけど……きっと、この仲間たちで力を合わせれば方法は導き出せる。さらに僕らだけじゃなく、『フィルン魔導学院』のヘルガ学長など魔法界の著名人の力も結集すれば道は必ず開けるはずだ。ヘルガさんなら僕から話せば協力してくれる。それが悪魔の元締めたる存在に関することなら、なおさら。
「神様たちの過去を知ったところで、俺たちの使命は変わらない。悪意を振りまく【悪魔】たちをこの世界にのさばらせておくわけにはいかないからな」
「ああ。私の母上やカルのように、悪魔に憑かれて罪を犯してしまう悲劇は断たねばならん。どんな過去や事情があろうが、悪意をもって不幸を呼ぶ奴らは排除せねばならんのじゃ」
旅立ちの日から、僕らがこれまで掲げてきた使命――それは今後も変わることはない。
ジェードとリオがそれを改めて表明し、僕らは揃って首肯した。
これからの方針は決まった。『彼女』を救った上で、【悪器】も全て破壊する。神様がこの世界に残した【神器】は、そのために使われるべきものだから。
そして、それを成した暁には――この力はもう必要なくなる。強すぎる神の力を手放し、僕らも普通の魔導士に戻るんだ。
だけど、【神器使い】であることを止めたがらない人もいる。その筆頭がフィンドラ王・アレクシルだ。全てに決着をつけた後、僕は彼とも向き合わなくちゃならない。場合によっては、戦うことも余儀なくされる。
道のりは、決して易しいものじゃない。けれど、やらなきゃ。僕らにしか出来ないことなら、何としてでも成し遂げなければ。
「大丈夫……僕たちは負けない」
決意を改め、胸に手を当てて僕は言った。
シルさんの平和を願った意思も背負って、未来を掴む。そこに希望があるのだと、愚直に信じて。
「…………」
朝日が僕らを優しく照らす。風が穏やかに髪を撫でてくる。葉擦れの音に精霊たちの歌声が混じり――その感触を味わった僕は、「ああ、朝が来たんだ」とただ思った。
エルと出会う前の日常。家族と共にあったかけがえのない時間の中に、それらはずっと存在していた。
この朝を、こんなに大切な仲間たちと一緒に迎えられて良かった。この静かな時間と空間を共有できて、本当に良かった。
「トーヤ君……泣いてるの?」
「エイン……うそ、僕泣いてた……?」
白髪の少年に指摘され、自分が涙を流していたことに初めて気づく。
濡れる目尻を指先で拭いながら、湖畔に腰を下ろしたエインの隣に僕は座った。
シルさんがリリスに連れて行かれて、エインの胸中は穏やかではないだろう。僕との戦いに敗れ、母と慕う『彼女』の正体を知り――彼の内面は良くも悪くも揺らいでいるはずだ。
だから、せめてこうして寄り添うことでケアできたら。【悪器】を失った彼はもう僕らの敵じゃない……と、僕は思っているけど、エイン自身はどうだろうか。
「ねえ、エイン。君はこの後どうするの?」
視線を凪いだ湖面に向けたまま、僕は訊ねた。
エインはしばらく言葉に迷っていたようだったが、やがて口を開いて内心を吐露し始めた。
「……ぼくはもう、戦えない。戦う理由をなくし、戦うための力もなくした。それに……【悪魔】のために戦うことが本当に正しいのか、分からなくなった。……いや、そもそも、ぼくは何のために戦っていたんだろう……。母さんを盲信するあまり、その本当の理由を見つけられていなかったのかもしれない……」
彼が自分を見つめ直すのを、僕は何も言わず見守っていた。それは側にいるエルたちも同じだった。
エインは既に、母親が全ての赤子なんかじゃない。これから彼という自己を確立し、前へ進んでいく立派な人間なんだ。邪魔なんて、出来ない。
「……【悪器】は二度とぼくの手には戻らない。でも……ぼくは戦い以外の道を知らない。この世に生まれてからずっと、その道を歩んできた。だから、これから何をするのかと聞かれても、それ以外は考えられないんだ。……でも、戦う理由はなくて。それでも戦いしか分からなくて。……ぼくは……ぼくは、一体何をしたらいいんだろう……?」
「わからないなら、これから探せばいい。シルさんに決められた道じゃなくて、自分だけの進路を」
これまで無心でシルさんに従ってきたエインは、今になってようやく、自分が戦いしか知らなかったのだと自覚した。
それが現在の丸裸なエインの姿。改めて浮き彫りになった彼の内面を見た僕は、彼の道しるべとして光を照らす。
「エイン、僕たちは旅をしているんだ。この地方全体を見に行くための旅をね。やがては地方を出て広い世界に出て行く計画もある。その旅に、僕は君を誘いたい。君が何も知らないっていうのなら、色々なことを旅の中で教えてあげたいんだ。見える景色も、そこで触れ合う人も、みんな違う……時には辛いこともあるけど、刺激的で楽しい冒険の世界。――どうかな? とても魅力的だと思わないかい?」
これまでに出会った仲間たちにそうしてきたように、僕はエインに手を差し伸べた。
彼は視線をこちらに移し、僕の顔を正視する。本来は敵同士だった相手からの誘いに、彼は逡巡しているようだったが……少しの間を置いて、返答した。
「……本当に、いいの? 僕なんかがついて来ても……」
「いいよ。僕たちはもう、敵対関係じゃない。仲間さ」
戸惑うエインに、僕は力強く頷いてみせた。彼の肩を軽く叩き、微笑みかける。
「じゃあ、決まりだね」
「う、うん。ありがとう、トーヤ君……」
エインの瞳が潤み、たちまち溢れ出した涙が頬を伝った。
先の戦いで両腕を失った彼の代わりに手を伸ばし、僕はその涙を拭ってあげた。
エインを挟んで僕の右隣に座ったエルが、その様子を見て目を細める。
「何だか今日は、皆よく泣く日だね」
「あはは……確かに。でも、涙の後には笑顔がある。そうでしょ?」
シルさんのこと、リリスさんのこと、悪魔のこと……僕たちにはまだ、解決しなきゃいけない問題が山ほどある。
けれど今だけは、こうして寄り添って泣いたり笑ったりしてもいいだろう。
新しい仲間を得られた祝福を、この森の精霊たちと一緒に。
「そういえば……結局、精霊ってどういう存在なんだろうね?」
「ああ、それは私も気になっていた。エル、説明してはくれないか?」
僕が呟く疑問にリオも追随する。湖面の周囲をふわふわと浮かぶ光の粒たちを眺めながら、エルは答えた。
「精霊っていうのは、あまねく生き物の魂の欠片さ。その言霊と言い換えてもいい。この森にいる精霊たちは、ここで育った人や動物、植物たちが残した温かい意思なんだ。ここに暮らす者たちを見守る、優しいゆりかごみたいな感じかな。
――そう、従って私も、かつて『ユグドラシル』に生きた『エル』の魂の欠片ということになる。肉体はエル本人のそれじゃないし、当時のような高い魔力も持っていないけど……記憶は以前と変わらない。だから私は、『ユグドラシル』を生き、君たちの『アナザーワールド』を生きる、エルという一人の人間にほかならない」
僕の前世の「ハルマ」君が愛し、シルさんやパールさん、ノアさんといった大勢の人に愛されたエル。時を越えて僕と巡り合って、こうしてまた沢山の仲間から彼女は愛を受け取っている。
エインの背中越しに、僕はエルへ腕を伸ばした。彼女も同じようにして、ぎゅっと手を繋ぐ。そうして互いの温度を確かめ、共有する。
「ありがとう、エル。僕と出会ってくれて。こうやって側にいてくれて。僕を好きになってくれて、ありがとう」
「それはこっちの台詞だよ。私もトーヤくんに感謝してる。ううん、トーヤくんだけじゃなくて、シアンやジェード、アリスやヒューゴさん、リオにもユーミにも、皆に感謝してる」
エルもまた、皆にいっぱいの愛を注いでいる。彼女はいつだって彼女だ。明るく元気で、皆を励ます太陽のような人。
――彼女たちとの時間がずっと続くことを、僕は願っている。大切な仲間たちと一緒に、どこまでも歩んでいけたらいいと思う。時には立ち止まって休みながら、自由に生きていたい。そして、その時をシルさんとも共に過ごせたら、と祈っている。
「さあ、帰ろう。フィンドラへ」
アレクシル王は僕たち【神器使い】を全面的にサポートすると言ってくれていた。だから僕たちは、しばらくフィンドラ首都・フィルンを拠点に行動していくつもりでいる。エインの腕も、フロッティさんなら元の腕と同様の義手を完璧に仕上げてくれるし。
「……ぼくはこの見た目だから、王様に警戒されちゃうかもしれない。君たちにも迷惑をかけるかも――」
「気にしないで。君のことは僕から王様に説明する。君に悪意がないことは紛れもない真実で、嘘じゃない。アレクシル王もそれは理解してくれるさ」
フィンドラへ行くと聞いた途端に言い出したエインの口を、そっと手で塞ぐ。ゆっくりと首を横に振りながら、僕はエルに目配せした。
「よし、じゃあ転送するから、みんな魔法陣の中に入っておくれ!」
杖の一突きで一瞬にして魔法陣を地面に出現させると、彼女はそれを指して促す。
エインと戦い、【暴食】の【悪器】を壊し、シルさんの過去を知り……たった一日に過ぎない出来事だけど、本当に長く感じた。今日はもう、帰ったらゆっくり寝よう。その後のことは、それからじっくり考えよう。
エインを支えて魔法陣に足を踏み入れ、【転送魔法】がもたらす浮遊感を身に受ける。
瞼を閉じ、刹那の安らぎを胸に享受して――僕は、この先の旅路に幸せがあるようにとただ祈った。
*
アマンダ・リューズは死んだ。エイン・リューズは少年との戦いに敗れ、彼らの元についた。
そしてシル・ヴァルキュリア――いや、『彼女』は精神的に不安定な状態にある。リリスもまた、少年らが過去を知り得たことで動揺している。
自分たちの足元が揺らいでいる、と彼女は危機感を抱いていた。
ユグドラシルの歴史を見た少年たちは、なおのこと自分たちへの敵意を強めたに違いない。
【悪魔】はそれだけやってはいけないことをした。世界に殺戮をもたらし、破滅に追いやった。それは決して許されざる悪で、罪だ。彼女はそのことを自覚していた。
――彼らは私たちを殺しに来る、それは確定事項よ。でも、分かっているならば備えられる。対処法も簡単に練られるわ。
ルーカス・リューズという男の心は、姉の死を受けて完膚なきまでに叩きのめされた。
彼は少年たち【神器使い】に恐怖し、また畏怖している。だが――時がもう少し経てば、「目覚め」を迎えるはずだ。
姉を失った悲嘆はやがて、憎悪へと変わる。彼らへの恐怖はいずれ、彼らよりも強くなって報復したいという渇望に転じる。
彼ら【神器使い】よりも、これまでの【悪器使い】よりも、強く大きな存在になりたい――自信を持てない青年の【嫉妬】が、彼に全てを飲み込む水龍の力を与えるのだ。
「抜刀し、そして刺してください、ルーカス様。あなたの刃は私の血を吸って更に熱く、硬く、何をも貫く無双の槍に変わる。絡み、溶け合うことで、私たちは本当の意味で一つになれるのです。
――さぁ、委ねるのよ。あなたはただ、【嫉妬】に駆られていればいい。嫌なものはアタシが何もかも取り払ってあげるから」
青年の腕の中で、彼女の瞳が真紅の光を帯びる。
その異常に青年は気づけない。弱った心を慰めるのは情欲しかなく、彼はそこから抜け出せずにいた。
彼からの口づけと、彼自身を自らの中に受け入れ――悪魔は一言、呪文を呟く。
人の心を支配する禁術。肉体が直接繋がったことで最大限の効力を発揮した魔法が、青年の心身を完全に手中に収めた。
「アタシは簡単には終わらないわよ、クソガキ。ふふふ……今度こそ、決着をつけましょう」




