56 罪と罰
「……ここ、は……?」
次に目を覚ましたその時から、彼女は彼女でなくなっていた。
肉体はシル・ヴァルキュリアのもののまま。だが、精神は別の何者かに変じていた。
何者か、と称したのは、『彼女』はこれまでに存在しなかった新たなる人格だったから。
シルとリリスの魔法の衝突によって発生した高密度の魔力――それを直接浴びた二人の身体は重大なダメージを負い、同時に魔力を生み出す脳も『マインドブレイク』状態に陥ってしまった。
【心意の力】をぶつけ合うことは、その両者の魂を衝突させることに等しい。衝突し、一瞬のうちに繋がりあった二つの魂。そして、その時に起こった魔力のオーバーフローは、誰も予測することのなかった結末を導き出した。
魂と魂を触れ合わせたまま、その魂の中核を成す魔力が爆発したことで、彼女らの精神は修復不能なほどの傷を受けてしまった。
また、今際の際にあったイヴの魂も死を認める反面、彼女の中に深々と根付いた「世界管理への執着」が醜く生を求めていた。
損傷し、二度と復活できなくなった三つの魂。だが――欠片と欠片を組み合わせれば、再び一つのものとして蘇ることが出来る。
それに気づいたのは果たして誰だったのかは、分からない。自分の意思とは別の深層心理の部分で彼女はそれを望み、三人の魂は統合され――『彼女』は一人の人格として生まれ変わった。
「私は……私は、一体……何者なの……?」
覚醒した直後の『彼女』は、明確な自分の意思を持たなかった。
そこには莫大な魔力を手にし、神と悪魔の相反する力を有したイレギュラーな存在があるのみだった。
「あなたは【永久の魔導士】さ、シル・ヴァルキュリア。その【憤怒】で全てを裁き、過ちを犯した神々を罰する存在」
そんな『彼女』に囁きかけたのは、黒髪に翠の瞳が美しい少年だった。
眼前で起こった事態の真相を、彼は全て察していた。察した上で、『彼女』をそう誘導した。
――自分という異常な人間が歪めた世界のルールは、間違っていた。魔法を持たない人々は全てを魔導士に丸投げし、科学の進歩は止まった。魔導士とそうでない人間や亜人との格差は広がる一方で、魔導士はその問題を知りもしない。本来、力ある者が力なき者を導き、守るべきなのに、彼らはそうするのを遥か昔にやめてしまった。彼らは、堕落してしまったのだ。
「ここから出て、今の世界の現状を見てみるといい。そうすれば、やるべきことは自ずと分かる」
少年の導きに従い、『彼女』は研究所を出て王都へ向かった。
そこで『彼女』が目にしたのは――枷を引きちぎって暴虐の限りを尽くす怪物と、苛烈な攻防を繰り広げる大蛇と魔導士。そして、都市郊外の平原で殺し合いを続ける二つの軍であった。
――彼らに救いはない。彼らを滅ぼすことが、私の望み。
そこには既にシル・ヴァルキュリアの意思はなかった。
リリスは元よりイヴの作った神々の世界を憎悪しており、イヴもこの世界の破滅を望んでいた。混ざり合った三人のうち二人の願いが一致しているのに加えて、シルの魂は休みなく戦い、さらに恋人を亡くした失意によって磨り減ってしまっている。そのような状態で、二人の意思に抗える訳もない。
「私は断罪者……この世界に、終末を」
大罪の悪魔を呼び出し、無数の下級悪魔をも呼び出す禁術――その使用法を、イヴの記憶から引き出した『彼女』は、「始まりの地」へ舞い戻る。イヴの魂が最も愛した、神々の生まれし場所へ。
そこには一抹の迷いもなかった。『彼女』は三人の魂が融合したイレギュラーが、このために起こったものだと疑いようもなく信じていた。
負の感情はいとも容易く正の感情を塗り替える。シルが抱いた世界と人々への愛も、最後に救われたはずのリリスの心も、死を認めたイヴの涙も――全ては悪意にかき消された。
碧い瞳に燃える炎は昏く。口許に浮かぶ凄絶な笑みは残忍で。
破壊をもたらす悪の大魔女が、今この時をもって誕生した。
*
「その後の物語は知っての通りよ。私は【悪魔の心臓】を出現させ、その核となった。私の血肉によって生まれた悪魔たちは世界を蹂躙し、破壊していった。そして……イヴの死後、ユグドラシルを護っていた魔法も解け、脆くなっていた『世界樹』は遂に根元から崩壊を始めた。神々はそれを食い止めようとしていたけれど、彼らの魔法でも小さな大陸ほどある大地が朽ちていくことは阻めなかった。
――人々は悟ったでしょうね、これが終末なのだと。それからユグドラシルは根元から文字通り折れて、世界樹が創造される前に人類が暮らしていた大陸に墜落したわ。その落下の衝撃は、歴史上のどの大地震をも超えるもので……神々が魔導の力を結集して緩衝していなければ、世界は気象変動で氷河期になっていてもおかしくはなかった。幸い、億を超える死者を出しながらも、地球規模の被害は出ずに済んだけれど……失ったものは余りに大きかった」
泉の水面に映されていた映像は、『彼女』の誕生の場面で終わっていた。
シル・ヴァルキュリアは「浮遊椅子」に掛けながら、同じくそれに座るトーヤたちを見渡して結末を語っていく。
「世界の崩壊の直後――オーディンなど一部の神々、そしてエルやハルマが【悪魔の心臓】のもとにやって来た。女王が死に、その代行者も悪魔としての本性を剥き出し、世界からは秩序などとうに失われていた。そんな状況の中、秩序ある世界を取り戻すために彼らは立ち上がった。
……当時の記憶はおぼろげだけど、確かに覚えていることがある。エルやハルマが最後までシルを想っていてくれたこと。シルを救うために、命を賭して【悪魔の心臓】との戦いに臨んだこと。あの子達の声も、言葉も……全て、忘れはしなかったわ」
それから【悪魔の心臓】は彼らの手によって破壊され、その核であった『彼女』も異空間に封印された。
かつて【大罪の悪魔】を封印した【オリュンポスの神】たちが千年もの間、閉じ込められていた異次元の狭間。【悪魔の心臓】との決戦時に【オリュンポスの神】が復活したのは、【創造主】と呼ばれる人類の上位存在の力によるものだったため、『彼女』がそこから自力で脱出するのは不可能であった。
【大罪の悪魔】らも同時に異空間に送られ、悪魔の脅威は消え去った。下級悪魔たちも【悪魔の心臓】の終わりと共に消滅し、世界に平和は取り戻された。
「その後の世界については、私よりエルの方が詳しいわね。――エル、説明してやって」
彼女に促され、エルはしばし躊躇ってから口を開いた。
「…………悪魔が全て封印、もしくは消滅した後。世界のリーダーは【悪魔の心臓】を倒した英雄であるハルマ君に任されることになった。これまでの何もかもが失われた新時代において、彼はまさしく人々の希望だったんだ。でも、世界に破滅を齎したシルの妹であった私は、その隣に立つことなんて許されなかった。オーディン様たち主要な神々も、自分たちの過ちが滅びを呼んだとして、表舞台から去る決断をした。
私たちは後の世界をハルマ君やノアさん、グリームニルさん達に託して、それから長い眠りに就いた。人々には神が【天界】に帰還したのだと伝え、これまでの歴史を【神話】として記した。【神器】という形で有事に備えて力を残しもした。魔導士主導でなく、人々が前を向いて歩みだす世界――その平和を祈ってね。
だけど――現実はそう甘くはなかった。君たちの時代になって【七つの大罪】の悪魔は蘇り、シル姉さんの身体を借りた『彼女』も復活した。そしてリリスの魂も、どういうわけか『彼女』と分離して別行動を開始している。リリスはこの時代に生き残った『白の魔女』一族の助力を得て、二千年前のように『組織』を立ち上げ、『彼女』もその力を利用している……」
長い、長い物語をそう結び、エルは溜め息を吐いた。
トーヤがふと視線を上向けると、ここに来た時は群青だった空も白み始めている。シルの語りが始まってから、もうおよそ6時間以上は経っていた。
浮遊椅子を湖の畔まで移動させ、そこから降りたシルは、少年たちに改めて向き直った。
かなり久々に感じる地面の感触を味わいながら、トーヤたちは緊張した面持ちで彼女の第一声を待つ。
「……これが、私の歴史。私の人生。愚かな神々――いえ、魔導士たちの、滅びの物語よ。あなたたちがこれを見て、何を思ったのか。まず、それを聞かせてもらいましょうか」
*
神話の時代の話なのだから、壮大な感じなんだろうと思っていた。
僕が憧れてきた神様や英雄たちの物語がそこにあるのだと、内心では少し期待してもいた。
でも――シルさんが語ったのは、人間の物語。彼ら彼女らの織り成す、人の罪を描いた物語だった。
「シルさん――あなたは正義の人だった。平和を愛し、人々を愛し、世界を愛した……。僕とあなたは分かり合える、そう思ってあなたも過去の記憶を見せたんでしょう?」
平和を願って戦った英雄、シル・ヴァルキュリア。『彼女』がもたらした世界の破壊は、断じてシル本人が望んだことではなかっただろう。
リリスやイヴの悪意に抗えず、『彼女』はその手でユグドラシルに罰を下した。だけど『彼女』の内に確かに存在するシルさんは、それをずっと悔やんできたはずだ。
世界が平和になるための道を誰よりも模索していた自分自身が、心の中の悪の人格によって、本当の望みとは真逆の破滅をもたらした――その無力への後悔は、尽きることのないほどに深いものだ。彼女の悔恨の念は僕なんかには推し量れないくらいで……その念が、彼女の口からこうして真実を語らせたのだ。
「あなたは僕たちに救いを求めた。自分だけじゃ心に巣食った悪意を取り払うことが出来ないから、僕たちの力を借りようとした。そう、ですよね?」
『彼女』の中のリリスやイヴの人格を刺激しないよう、穏やかな口調で僕は訊ねた。
シルさんは一度長く瞑目し、それから碧い瞳でこちらを真っ直ぐに見つめて答える。
「そう……あなたの言うとおりよ。リリスやイヴの悪意は私の心に深々と根ざし、もはや自分一人の力では取り除けなくなってしまった。今、こうして『シル・ヴァルキュリア』としてあなたと話せているのも、無理矢理に彼女らの人格を抑えているからで……ずっと私の人格が表に出ることは、現状だと不可能なの」
「姉さん――じゃあ、さっきは三人の人格が統合されたって言ったけど、実際は三重人格みたいな感じってこと……?」
「ええ。一つの身体に統合された、三つの人格――そんな歪な存在が、私なのよ」
シルさんの頷きに、僕の隣でエルはいきなり地面に崩れ落ちた。
ど、どうしたの――!? と、慌てて跪いて彼女の顔を見る。その瞳は潤んでいて、喉からは嗚咽が漏れ出していた。
「エル……」
僕に初めてシルさんのことを話した時から、エルは彼女への嫌悪と反発を露にしていた。だけど、それは誤解だったのだ。シル・ヴァルキュリアの優しい人格は確かに『彼女』の中にある。たとえリリスやイヴの悪意に侵されても、その魂が消え去りはしなかった。
「良かった……本当に。私、姉さんが絶望して【悪魔の心臓】を呼び出したものかと、ずっと思ってたから……。姉さんという人間は、ちゃんとそこにいるんだね。こんなにも、手が届きそうなくらい近くに……」
服の袖で目元を拭い、エルは顔を上げてシルさんを見つめる。
彼女の表情は眩しいほどの泣き笑いで、その綺麗さに僕は思わず目を細めた。
――本当に、エルはシルさんを愛していたんだ。千年前に彼女と共にいた時から、変わらない愛情をお姉さんに抱いていた。だからこそ、悪意の化身となってしまった『彼女』を何よりも許せなかった。
アリスやヒューゴさん、シアンたちが見守る中、エルは立ち上がってお姉さんに歩み寄る。
シルさんも両腕を広げ、微笑みながら妹へ抱擁しようとしたが――
「触れるな、小娘!」
伸ばされたエルの手を、『彼女』は払い除けた。
冷たく鋭利に変貌した声音と口調に、エルは身を竦ませる。碧い目の奥に燃える炎――それは、ルノウェルスで見たリリスのものと同じだった。
「私は君のような人間が一番嫌いなんだ。姉や恋人、そして多くの仲間に愛されている奴が、憎くて仕方がない。最も愛した者たちに裏切られ続け、自分の国まで滅ぼされた私の苦しみが、怒りが……君たちには分かるか?
――いいや、分からないだろうさ。だって、君たちはそんな経験をしていないのだから。私の憤怒の炎がどれだけの熱を持っているか、推し量ることすら出来ない」
リリスは僕たち一人一人を焼け付いた刃のような眼差しで睥睨した。
包み隠さず発露させた、憎悪の感情――それが僕らの心に直に触れ、抉ってくる。
「リリス、さん……」
……彼女の味方はおそらく、誰もいなかったのだろう。世界に自分ひとりが取り残されてしまったかのような孤独感に苛まれ、己の不幸を呪いながら、彼女は悪魔という存在を生み出した。罪深い人間たちを裁き、イヴに鉄槌を下すために。
だけど、シルさんは最後にリリスと向き合って、彼女が幸福に生きる道を共に探そうとしていた。その時に彼女は救われていたように、僕には捉えられた。
――でも。それでも。一度心に刻み込まれた憎しみは消えないのかもしれない。
僕だって、そうだ。肉体的、精神的、さらには性的な虐めを受けていた過去を思い返せば、彼への怒りは今でもこみ上げてくる。あの神殿オーディンでマティアス自身に頼まれて彼を刺した後、その怒りの源泉は消失したわけだけど……その後に残ったのは、これまで散々目を背けてきたぽっかりと空いた穴のような虚無感と、罪悪感だった。
だから憎しみは消えないし、復讐を遂げたとしても全てがすっきり終わるわけじゃない。傷は多少癒えはすれど、完治はしない。
僕は唇を噛んだ。――彼女に何と声を掛けたら良いか分からないのが、無性に悔しくて仕方なかった。無責任に優しい言葉を掛けるだけじゃ救いにならないのは、僕自身が身をもって知っていた。
シアンが胸に手を当てて声を上げたのは、そんな時だった。
「――そんなこと、言わないでください。私も、生まれた国をなくしました。大帝国に侵略され、元とは全く異なる国に塗り替えられて……私たち亜人は、行き場をなくしたんです」
「ああ……愛していた故郷が戻らないってのは、俺たちも同じだ。リリスさん、あんただけの悲劇じゃない。そしてそれは、今更どう嘆こうが変わる問題じゃないんだよ。起こってしまった過去は変えられない。『ウルズ』の神器の能力を使ったとしても、だ。あの神様は俺たちからそういう意思を感じ取った時点で、力を貸さないと決めているらしいからな。そうだろ、ユーミ」
ジェードに水を向けられ、ユーミは腰に差した長杖に指を沿わせながら答える。
「ええ。歴史は歴史として受け入れる、それがあの彼女の方針だって聞かされたわ。……リリスさん、あたしからも言っていい? ――あなたを裏切った人がいるのは事実だろうけど、あなたを愛した人も確かにいたと思うわよ。シルさんだって、その一人。あの瞬間、彼女はあなたを命を賭して救おうとしていた。彼女があれだけの行動を取れたのは、そこに愛があったから。少数に向ける親愛の情とは違うかもしれない。でもそれは――広く開かれた、大きな愛よ」
「愛に貴賎はない。お主を救おうとした人間は確かにいて、そこには愛があった。その事実があるだけでも、十分すぎるほどの幸福じゃろう」
「リリス殿。だから、誰にも理解出来ないとか、愛されている人間を憎むとか、そういうことは少しズレていると思うのです。その理屈では、貴殿も貴殿を憎まなくてはならなくなるのですよ?」
ユーミに続いてリオ、それからアリスもそれぞれの思いを口にする。しかし心底からの彼女らの言葉は、リリスの炎を鎮めるには至らなかった。
「……君たちはシルに何を見せられたんだ? ただの映画鑑賞だとでも思っていたのか? セトが欲望のままに世界を征服したから、それをイヴやアダムが止めなかったから、『ユグドラシル』という歪な世界が生まれたのだろう! 人間が人間として進歩していた世界から、魔導士だけが権力を得る不自然なパワーバランスの世界へ変貌させた……それはまさしくイヴの罪だ! 差別を深刻化させ、偽りの平和を掲げ、腐敗しつつあった神々を放置し続けた、そのどこに罪が無いと言える!?
個人的な憎しみはもちろんあるさ。だが――それを差し引いても、イヴは許されない罪を犯した。罪人には罰が下される、そんなことは子供にも分かる理屈だろう」
関節が白く浮き出るほどに強く拳を握り締め、『彼女』の中のリリスは訴える。
そう、今の彼女を動かしているのは憎悪だけではないのだ。シルさんが正義に則った使命を帯びていたように、彼女は断罪の使命によって行動している。その使命は呪縛と言って差し支えない。2000年もの間彼女を突き動かしていたそれを呪いと言わず、他に何と表せば良いのだろう?
「【神】は一人残さず滅ぼす。その傲慢の象徴たる【神器】も破壊する。それが、この世界で私のやるべき使命! 私を邪魔するのなら、たとえ子供相手でも容赦はしないさ」
そう宣告して『彼女』は杖に魔力を込め始める。
瞬間、圧倒的な魔力が、熱エネルギーが放散された。彼女の足元の草が徐々に燃え出し、その姿は陽炎に霞む。その力の大きさに、無意識のうちに僕の脚は震えていた。脚だけじゃない――全身が震え、心臓は今にも壊れてしまいそうなくらい激しく打ち鳴らされている。
――だけど。ここで負けるわけには、いかない!
心中で叫び、恐怖を強引に振り払った僕は、エルと共に防衛魔法を展開してリリスの攻撃に備えた。
「皆、僕らに魔力を分けてくれ! 彼女の攻撃は生半可な防御じゃ止められない……!」
「ふははは……ッ! いい面構えだ、少年! 君のような勇敢な魔導士は、嫌いじゃないよ!」
憎悪に歪んだ表情から一転、『彼女』は戦闘を楽しむように笑っていた。
かつてイヴへ下されるはずだった【罰】は、千年の時を経てここに再現されようとしていた。杖の炎が炸裂し、膨れ上がった魔力が視界を真っ白に染め上げ――そして。
全てを焼き尽くす火焔の一撃は、僕らを灰塵に変えはしなかった。
「……なっ……!?」
「…………どういう、こと……?」
『彼女』の杖の炎は、一切の痕跡を残さずに消失していた。『彼女』の足元を燃やしていた火も、陽炎を形作っていた熱も、何もかもがなくなっている。
状況を理解できず、『彼女』も僕らもそれ以上の言葉を発せない。
と――沈黙が支配したこの空間を、一人の女性の声が切り裂いた。
「勝手な真似をするなと言ったはずだ、シル!」
見上げた先、暁の太陽を背後に空から舞い降りてきたのは、水色の長髪をした魔女。
女神官のレアさんの肉体に憑依した、「リリス」と名乗る女性だ。ルノウェルス動乱の際、僕は彼女と戦闘して敗れている。【永久の魔導士】にも劣らない実力を有した悪の魔女との再会に、しかし僕は違和感を感じざるを得なかった。
シルさんの記憶が正しければ、リリスの魂は彼女の肉体に入り込んだはず。それなのに、【悪魔の母】を自称する「リリス」が別にいるのはどういうわけなのか。
「リリス、さん……あなたは……?」
呆然と彼女の名を口にする僕に、青髪の魔女はただ一瞥をくれるのみであった。
その瞳に揺れる感情は……驚き? 当惑? それとも……恐怖?
「――【転送魔法陣】!」
その魔女は杖のひと振りで転送魔法を発動し、強制的に『彼女』をどこかへ転移させた。
突然の出来事に僕らが言葉を失っている中、青髪の魔女はこちらを見下ろして呟きを落とす。
「……お前たちとの決着は、また後だ。今はまだ、その時ではない」
その声には以前のような高慢さも、威圧感もなかった。何故だか憔悴しているようにも捉えられる彼女の声音に、僕は困惑するしかない。
【転送魔法陣】に自らも飛び込もうとする彼女を、僕は咄嗟に呼び止めるべく声を張り上げた。
「待って――話をさせて! 僕はあなたの正体を知らなきゃいけない! そうじゃないと、決着も何も――」
届きもしないのに手を伸ばし、その人のローブの裾を掴もうとする。
まだパズルのピースは埋まりきっていない。それが何かは分からないけれど、決して欠けちゃいけない「何か」であることは確かなんだ。
「リリスさんッ――」
魔法陣が描いた闇の向こうに彼女が消え、その残像がなくなった後も、僕は地面にへたり込んで空を見上げていた。




