2 緑の少女
家の前に落ちていた謎の黒っぽい物体の正体は、なんと女の子だった。
僕は倒れていた彼女を家の中へ運び込み、ベッドに寝かせてやった。
黒い襤褸切れのようなマントを纏い、泥だらけになっているその女の子は、僕と同じか少し年下に見える。
彼女はすうすうと寝息を立て、ぐっすりと眠っている。この様子なら翌朝には目を覚ますだろう。
彼女がなぜこんなところに倒れていたのか気になったが、眠っている彼女を起こすのも気が引けたし、僕自身も眠くなってきたので、そのままベッドにもたれかかった姿勢で僕は眠りに落ちていった。
* * *
翌朝、床に座って眠ってしまっていた僕はいつもの通り目を覚ました。
ただいつもと違うのは、いつも使っているベッドに汚れた身なりの女の子が横になっていることだ。
僕はベッド脇から立ち上がり、洗面台から濡れたタオルを持ってくる。
女の子の顔に泥が付きっぱなしなのは、流石にかわいそうだと思ったからだ。
彼女の顔にかかったマントをめくった僕は、直後、彼女の顔を見て目を見開く。
「まさか、あの夢の……!?」
その女の子は僕がこれまで見たどの女の子よりも美しく、可愛らしい顔立ちをしていた。流れるような艶やかな長い髪は透き通った緑色。
間違いない。この前の夢に出てきた女の子だ。
夢の中の女の子が目の前にいる、その事実を僕はにわかには信じられなかった。だが、現に彼女はここに存在している。
夢などではない。本当にあの女の子と出会えたのだ。
「この子とは、友達になれるかな」
夢が現実になったような興奮を覚えながら、彼女の顔に付いた汚れを落としていく。
時間をかけて、丁寧に。僕が顔を拭ってやっている間も、彼女はスヤスヤと気持ちよさそうに眠っていた。
「……ふぅ。これでいいかな」
僕は使い終わったタオルを手元に置き、そのままの姿となった彼女の顔を改めて眺めてみる。
「綺麗な子だなあ……」
思わず、溜息が漏れた。
うっとりと僕が彼女の美麗な相貌を見つめていた、その時。
彼女は目を開け、開いた彼女の目と僕の目が合った。
ぱちくりと瞬きする彼女は、薄い桃色の唇を小さく動かし訊く。
「き、君は……?」
女の子は髪の色より更に透明感のあるエメラルドグリーンの瞳を大きく開き、僕の茶色がかった黒い瞳を見つめる。
彼女の宝石のような瞳に見つめられ、僕はしばらく言葉を発することさえ出来なかった。あまりに透明な、何の汚れも知らない天使の瞳。
エメラルドの瞳の少女は上体を起こすと、髪を掻き上げ、大きな欠伸をしながら辺りを見回した。
言葉を失っている僕に、彼女は訊ねてくる。
「……ここは、どこ?」
「あ、えっと……」
この子は行き倒れていたんだ、今自分がどこにいるかわからないと混乱する――ちゃんと答えないと……。
たどたどしい言葉で彼女の問いに応える。
「えーと……ここはスウェルダ王国のツッキ村だよ。僕はトーヤ。君は僕の家の前に倒れていたんだよ」
「ツッキ村? 初めて聞く地名だねえ」
少女はベッドから降り、うんと伸びをしてからもう一度辺りをぐるりと見回し、そして僕の目をじっと見てきた。
「な、何?」
全てを見透かしたような、少女の透明な視線に射抜かれて僕はたじろぐ。
「ふうむ……」
次に少女は僕のことを上から下まで一通り見て、何か納得したような感じで頷いた。
その顔には笑みが咲いている。
「――やっと会えたね、トーヤ君。私は君のことをずっと探していたんだ」
「僕のことを、探していた? ……もしかして、あの夢がそうだったのか」
僕は若干困惑したが、すぐにあの夢の事が思い当たる。
少女はハッとする僕に笑いかけ、瞳を優しく細めた。
「そうさ。この前夢の中で君にコンタクトを図ろうとしたのは、私だよ。私は長い長い時間をかけて、君のことを探していたんだ。ホント骨が折れたよ」
僕のことを探していた? しかも長い時間をかけて、夢の中にまで出てきて――わざわざそんなに時間をかけて僕を探していたなんて、この子は何の為に……?
僕なんて小さな村に住む一介の農民、しかも極東の国からの移民だというのに……。
それに人の夢の中に出れるなんて、そもそもこの子は何者なんだ?
僕が戸惑っている反面、少女は頬を緩め安心したようにほっと息をつくと、ゆっくり近づいて来た。
僕よりも背が低い少女は、こちらを見上げて僕の顔に手を伸ばしてくる。
少女は僕の鼻に、細く綺麗な指を突きたて、言った。
「――トーヤ君。私の名は『エル』。君を導く者さ」
僕はますます混乱してしまう。
導く者? どこへ?
この子は一体……?
ふと、エルと名乗った少女の腹がグーっと鳴った。
少し気まずい沈黙。
僕は恥ずかしそうに俯くエルに、何か食べさせてあげることにした。
ちょうど今、昨日街で手に入れたパンがある。
エルもそんなに悪い子じゃなさそうだし、何より僕のことを長い時間をかけて探してくれていた。ねぎらいの気持ちとしても自分のパンを分けてあげることに抵抗はない。
「ありがとう、トーヤ君……」
エルは僕の手から半ばひったくるようにしてパンを取り、一口でそれを飲み込んでしまう。
「そんなに急いで飲み込んだら……!」
案の定、エルはパンをのどに詰まらせ、苦しそうに喉を抑えて呻きだした。
「うぐーっ、ううう」
「大丈夫!?……じゃないね、えと、こういう時は……」
僕は慌ててエルの背中をさすってやった。
背中をさすられると、彼女は少し落ち着きを取り戻してくる。
「水を飲んで……」
僕はエルの口にコップの水を流し込む。彼女はゴクリと喉に詰まっていたパンをなんとか飲み込み、ぷはっと息を吐いた。
「はあ、助かった……。トーヤ君、この恩は一生忘れないよ!」
「そんな、ちょっと助けただけだよ」
僕はエルの顔色が徐々に良くなっていくのを見て、安堵の息をつく。
「もっと食べていいよ。でも、よく噛んで食べなよ」
エルの顔が太陽のようにぱっと輝いた。
「ありがとうございます!!! 遠慮なく食べさせてもらいます!!!」
エルはものすごい勢いで、僕の分の朝食を貪り出す。
彼女は食に関してはかなりの執着心が有るようだ。僕はエルの一心不乱に食べる様子を見て思わず苦笑してしまった。
食事が一段落つくと、僕はエルに訊いてみた。
「エルは、どこから来たの?」
「北の国さ」
「兄弟はいるの?」
「うーん、お姉ちゃんが一人」
「歳は?」
「せ……十五歳さ!」
エルは僕の質問に対し、特に躊躇することなく答えてくれた。
簡単な質問を幾つかしてから、本題に入る。
「エルは、なんで僕を探していたの?」
その時、エルのエメラルドの瞳が光を放った。
彼女はこれまでのにこやかな表情から一変し、真剣な鋭い眼差しで僕のことを射るような目で見つめてくる。
その目を見て、圧倒された。それも、最初に目が合った時の息を呑むような感覚とは全くの別物。
そして、自然と彼女の正体に気付く。
――初めて『精霊の樹』ユグドに会った時と似たような感じ。
彼女が放つオーラは、精霊のそれと全く同じだった。