55 憤怒の魔女
「なに安らかな顔をしているんだい、イヴ」
天井に出現した魔法陣から、一人の魔女が舞い降りる。
濁りのない白い長髪を流し、真紅の瞳でイヴたちを睥睨する美女。髪と同じく白い衣装は、胸を隠すのみの上衣にショートパンツと露出が多い。その容貌に見覚えがあったシルは、まさかと思いながらもその女性に訊ねる。
「リサ、さん……? ノアさんと行った酒場のママが、どうしてこんな所に……?」
「やあ、シルちゃん。会ったのは最近なのに、随分と久しぶりな気がするね。――でも、その呼び名はちょっと違うんだよ」
状況が飲み込めず、シルはただ唖然とするしかなかった。
セトが沈鬱な表情で俯き、虫の息のイヴは瞼を薄く開けて女を見つめる。
白髪の女は床面にすっと降り立つと、しなやかな腕を組んで言葉を続けた。
「リサという『白の魔女』の末裔の身体を借りて、私はこの機を待っていた。ノアと繋がることでイヴの情報をリアルタイムで把握し、世界の情勢を常に掴んでいたのさ。ふふ……イヴ、君が壊れていくのを観察するのは実に楽しかったよ。その破滅が今この時に終わってしまうなんて、全く面白くない。そうじゃないかい?」
イヴに恨みを抱く人物で、人間の心に取り憑ける程の『精神魔法』を使える魔導士。
そこまで考えて、シルは息を呑んだ。人の心にとり憑く魔法を使えるのは、シルが知る限りでは悪魔とイヴしかいない。だが、彼女は悪魔ではない。悪魔と女王に匹敵する実力を持つ魔導士となると、その候補は一つに絞られた。
「あなたは……リリス。かつて【大罪の悪魔】を産んだ、【悪魔の母】」
「ご名答さ。――私はイヴの作った神々の世界を許してはいない。魔導士とそれ以外との格差を生み、元々存在した国々を圧倒的な力によって踏みにじったイヴの行いは、ずっと昔に彼女と共に望んだ未来ではなかった」
リリスは語り始める。これまで心中を誰かに吐露することのなかった彼女だが、シル・ヴァルキュリアは何故だか信用できる気がしていた。
「私は純血の魔女でありながら、帝国の科学者として立場を認められていた。幼少の頃に貴族の家に引き取られ、学術で研鑽を積み、誰にも劣らない科学の徒として名を轟かせた。私の魔法は人々を幸せにはできないけれど、科学でならそれが叶う。そう思って、血の滲むような努力を続けてきたんだよ。私は他の何にも代え難い愛を、人々に注いでいた。その人々の生きる帝国にも、同じだけの愛を」
悪に堕ちた女の、輝かしい過去。彼女が笑っている幸福な姿を脳裏に思いながら、シルはその語りに没入していく。
「だけど、あの帝国は神々の起こした戦争によって滅びてしまった。力に溺れたアダムはその力を制御できず、危機に関わりたくないイヴは傍観に徹した。私はただ、『魔女計画』によって魔導士の血筋を残したかっただけなのに……愚かなイヴたちは、彼らを暴虐な生物兵器へと育て上げてしまった」
シルがユグドラシルを愛しているように、リリスもまたその帝国を愛していた。
自分の国を滅ぼされ、戦争によって大切な人たちの命も失われ――イヴに裏切られた女は、一体どれほどの痛みを抱えて生きてきたのだろう。
シルのそれとは比べ物にならない。彼女は何もかもを失くしたのだ。
そして、その喪失が生んだ怒りや憎しみが、彼女を狂わせてしまった。後世に知られるように、神とイヴたちへの復讐のために彼女は悪魔を生み出し、神々への反乱を起こした。
「セトの支配していた神々の国は、計画通り滅んだ。けれども執念深いイヴは、神々の魔力を結集して『ユグドラシル』という新たな世界を作り出した。これには驚いたよ、大陸の辺境から土地を『切り貼り』して、一つの巨大樹を創造してしまったのだから。ユグドラシル創造と同時期に悪魔も封印され、それから私は長い潜伏生活を強いられた。戦争が終結する間際のイヴとの決闘によって受けた深傷も、私が力を弱める要因となった。
――だが、私は力を取り戻した。悪魔たちも一部が封印から解き放たれ、いつでも私の呼びかけに応えられる状態にある」
腰から短い杖を抜いて、白髪の女は床に倒れるイヴを見下ろした。
その瞳に宿るのは、千年を超える時の中で凝縮された憎悪。裏切りのあの日から彼女をひたすらに駆り立てた、唯一の原動力。
それに反して、彼女を見つめ返すイヴの瞳は凪いでいた。彼女の憤怒も、それによって与えられる罰も、全てを受け入れる覚悟はとうに出来ている。
「……っ、君はッ! どうして、止めなかった!? なぜ――過ちを犯した息子たちを諫めなかった!? 君には出来たはずだ。いや、君にしか出来なかった! それは君も理解していたはずだ……!」
千年もの間、リリスの中で答えの出なかった問い。――否、答えに辿り付きながら、それを認めたくなかった問い。
最後にぶつけられた心からの叫びに、イヴは自嘲の笑みを口許に浮かべた。
「私は、獣になっていたの。支配欲の獣よ。……私は愚かな罪人。あなたが満足するまで、私の死体を好きなように傷つけて構わないわ。私は、そうされるだけの大罪を犯したのだから」
イヴはアダムを独占したい【色欲】と【嫉妬】からリリスを裏切り、【怠惰】にも息子たちや夫の暴走を制止しなかった。あまつさえ【強欲】にその後の世界の統治権を欲し、【傲慢】にも偽りの平和を民たちに押し付けた。【暴食】だと言えるほどに彼女は全てを己の意思で喰らい、支配下に置こうとした。
そして――それらの罪に、リリスの【憤怒】による罰が下される。
「――ふざけるなッ!!!」
激情に任せて振り下ろされる杖、その先端から迸った真紅の炎。
リリスが与えようとしている「罰」を目にしたシルはその瞬間、彼女とイヴとの間に割って入っていた。
漆黒の盾――【絶対障壁】を展開し、彼女はリリスの罰を罪人に代わって受ける。
束の間のシルの行動の意図を解せず、白髪の魔女は唸るように訊ねた。
「どうして、邪魔をする!? 部外者の君が、そうする理由はないはずだ!」
「この人はあなたの罰がなくとも、既に死にゆく運命です! そんな相手をいたぶるような真似は、誇り高き魔導士の端くれとして見逃せません」
戦えない相手に杖を向けるのは、魔導士の矜持に反する――イヴの先祖の時代から語り継がれてきた美学を持ち出して、シルはリリスを制した。
イヴの死骸を汚したところで、彼女の悲しみが癒えることはないのだと彼女は思った。怒りのままに暴力を振るえば、その傷は広がるばかりで塞がることはない。
全ての憎しみを込めて撃たれたリリスの【罰】は、シルの【時幻展開】をも凌駕する威力の焦熱を放っていたが――彼女の盾はそれでも屈さなかった。
半透明な黒い防壁越しにリリスを正視して、シルは言葉を続ける。
「ここでイヴを葬って、その後もセトや神々を殺して……それではあなたの復讐は、永遠に終わりません! 復讐という名の長い時の牢獄に囚われ、そこから抜け出せずに怨嗟のみに支えられて生き続けるなど、生き地獄じゃないですか……! あなたにも幸せになる権利がある! それをあなたが得るために、私が今こうして復讐の道を断とうとしているのです!」
幸せになる権利――考えてもみなかった言葉がシルの口から飛び出してきて、リリスは瞠目した。そして同時に、胸に原因不明な疼痛が湧き上がったのを感じる。
――私は復讐のみを考えて生きていた。でも、もしその念から解放されたとして……私には何が残るのだろうか?
何も残らない。それだけが彼女の生きる目的で、他に積み上げたものは何もなかった。
這い上がる怖気に表情を歪め、リリスはシルへも【憤怒】の矛先を向ける。
「君に私の何が分かる! 幸せに、何不自由なく生きてきたであろう君が、私の何を理解しているっていうんだ!!」
「理解してるとかしてないとかいう問題じゃないんです! 全ての人には幸せになる権利がある、この世界では散々無視されてきた理想ですが――私は、一人でも多くの者がそれを享受できる世界を目指して戦ってきたのです! あなたも例外ではない、ただそれだけのことなんですよ……!」
涙を流しながら叫び散らすリリスに、シルは首を横に振って答える。
完璧に彼女を理解しているわけではないが、それでもシルは救いたかった。目の前で苦しんでいる人がいれば助ける――パールが当たり前にやっていた事を、彼女は迷わず実行に移していた。
「私の幸福とは……私の幸福とは、何なんだ……? そんなものが、本当に……?」
「見いだせないのなら、これから探せばいいじゃないですか。あなたが望むなら、私も側にいます。――リリスさん、あなたは過去に大きな災厄を齎してしまった。でも、一度罪を犯したからといって、懺悔した後も未来を望んではならないとは私は思いません。復讐や憤怒から解き放たれれば、あなたは元の善い人間に戻るはずです。
――共に未来へ進みましょう。イヴ亡き後にあなたのような実力ある魔導士がいてくれるなら、百人力ですから」
炎の向こうにあるリリスの表情は、微かに和らいだように見えた。
シルに守られ、消えゆく意識の中でイヴは微笑む。自分には罰が下され、親友にはようやく救いが与えられた。これでもう、思い残すことはない。
――良かった……私、救えたんだわ。
シル・ヴァルキュリアもまた、全身全霊でリリスの炎を受け止めながら安堵していた。
イヴの死を経て、世界は大きく変容するだろう。ヴァナヘイムとの戦争や未だ倒れていないヘルなど、懸念するべきことも多い。
だが、自分たちならそれらの危機にも負けずに立ち向かっていける。心を通わせた仲間たちや、戦って分かりあった者たちと共に進めば、必ず。
「――――ッ!?」
誰もがこのまま救われて終わるのだと思っていた、その時だった。
シルの【絶対障壁】とリリスの【罰】が放っていた魔力が、予期せぬ増幅を始めた。持てる全ての【心意の力】を魔法に乗算した結果、その威力は急速に上昇を続けており――ついに、限界を迎えた。
それを知覚した瞬間にはもう遅い。視界が白く塗り潰され、音も臭いもあらゆる感覚が消失し――彼女らは【マインドブレイク】状態に陥って意識を失った。
「…………」
シルとリリスが同時に倒れ、研究室には静寂が訪れる。
たった一人残されたセトは、音もなく彼女らに歩み寄った。
真っ先に彼はイヴの元に跪き、その左胸に耳を押し当てる。――鼓動は、止まっていた。
少年は何も声を発さず、ただその場で蹲っていた。信じてきた『聖母』が死に、彼の中の強固な柱は跡形もなく砕け散っていた。
そして――この後、彼女が「シル・ヴァルキュリア」として目覚めることは、二度となかった。




