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黄昏英雄譚 ~アナザーワールド・クロニクル~  作者: 憂木 ヒロ
第9章 『ユグドラシル』編

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51  救済の女神

 怪物の咆哮が、白夜の都市に響き渡る。

 白銀の魔狼、フェンリル。ならびに紫紺の世界蛇、ヨルムンガンド。

 この二体の怪物を倒すべく、ノアやパール、そしてオーディンやヘイムダルといった神々が立ち上がり、奮戦していた。

 そんな中、イザヴェル平原から王都アスガルドまで休息も挟まずに飛んできたシルは、城壁上から眺めた都市の光景に唖然とするしかなかった。


「……これだけの破壊を、怪物の手だけで行ったというの……?」


 都市中央部は見る影もなかった。王城も周辺の省庁の本部も、どれも等しく倒壊している。高層ビルの数々はへし折れ、また炎上した建物から火が広がっているのも見えた。

 あの場からどれだけの死者が出たのだろう。怪物が出現したあの瞬間に、どれだけ――。


「こんなことがあっちゃいけないのに……。【神】っていうのは、この都市を守るためにいるんでしょう。それなのに、どうして……未然に防ぐことが出来なかったの……?」


 質量の大きなものを転移させるには、同じく大規模な転送魔法陣を展開しなければならない。ハルマから受け取った魔導書に書かれていたことを踏まえると、あの怪物を運ぶには相当なサイズの魔法陣を描き出さなくてはならなかったはずだ。

 そんなものを作れば否応なしに目立つ。それに、魔法陣が発していた魔力量も相当なものだっただろう。【神】と呼ばれるほど高位の魔導士が円卓に十何人といたにも関わらず、誰一人として気づけなかったことなど有り得るのか?

 もし、【神】をも欺く技量によってそれが為されたのなら――この都市は、この世界の誰よりも強い何者かの悪意にさらされていることになる。


「察知できていたら、被害は最小限に抑えられた。それはつまり、神オーディンにも怪物の出現を悟れなかった、ってことよね……?

 いや――弱気になっちゃダメよ。さっきバルドル様に背中を押されたばかりじゃない、戦う前から挫けてちゃ話にならない」


 両頬を強くぺしんと叩き、彼女は弱音を吐こうとしていた自分を戒める。

 今も戦闘を継続しているバルドルやトールに応えるためにも急がなくては――そう焦りかけるが、しかし彼女は飛び出す前に一歩踏み留まった。

 腰のポーチから小瓶を一本取り出し、その蓋を開けて中の液体をあおる。戦場から飛び立つ直前、バルドルに貰った魔力回復薬だ。飲めばたちまち全快できるという優れもの、と光の神は言っていた。

 

「――よし」


 全身の疲労がみるみるうちに癒えていき、頭が冴え渡り視界も澄み切って見える。全身から力が湧き上がる感覚を心地よく覚えながら、シルは改めて覚悟を決めた。

 そして、飛び出す。

 彼女の最後の戦場へ。乗り越えた先に次の平和が待つ、決着の場所へ。



 血の臭いが鼻をつく。

 目に液体が流れ込んできて、グリームニルは額が切れて出血しているのだと気がついた。

 痛みを訴えているのはそこだけではなく――打ち付けた背中や腰が軋むような悲鳴を上げていた。


「オー、ディン……様……っ」


 ビルの壁際にうつ伏せに倒れた少年は顔を上向け、魔狼と対峙している師の名を力なく口にした。

 アスガルドを東西南北に区切る大通りの西側にて。グリームニルとオーディンは現れた怪物フェンリルを発見し、そして交戦していた。

 彼らが駆けつけてきた時には既に、フェンリルは大通りを逃げ惑う人々に襲い掛かり多数の死者をもたらしていた。その牙はどんな刃よりも鋭く、その脚はどんな生物よりも速く。神速の刃物と化して人々を無差別に殺戮していくその姿は、まさに死神だった。

 魔狼はロキの願いを達成するため、誰よりも忠実に任務を実行している。彼には人以上の知性はないが、主と認めたものには絶対服従する忠誠心を有していた。


『グルルルッ……!!』


 邪魔だ、とでも言うようにフェンリルは眼前の老人を睨んで唸る。

 眉間に深く皺の刻まれた険しい目。その目付きは鋭利で、見た者をすくませる圧迫感に満ちていた。亀裂のような鼻や、牙を剥き出しに涎を垂らした口元などは、狂暴な獣そのもの。体躯は通常の狼など比ではないほどに巨大であり、体高は象とさほど変わらない。


「【森羅万象を知る賢きものよ。我は戦と死を司り、この世の神を統べる者。束縛、呪縛、それは永遠の停滞にして封印の楔――」


 オーディンは詠唱するが、それも途中で中断せざるを得なかった。

 フェンリルの口から放たれる灼熱。神器の槍【グングニル】を円弧を描くように振り、そうして作り出した魔力のベールで彼はその火焔から身を守る。

 怪物を封じ込める魔法をオーディンは編み出していたのだ。きっと彼は予知していた――いつかフェンリルと戦う日が来るということを。

 グリームニルはオーディンの持つ力の全てを把握している訳ではない。だが、遠い記憶の中で師は確かに言っていたのだ。――私は予言の魔術を手に入れた、と。

 知識を貪欲に希求し続けた彼ならば、世界の理にも触れる予知の魔法を得ていても何らおかしくはない。


『ガルアアアアアアッッ!!』


 アスファルトの地面を蹴り抉りながら、フェンリルは猛然と突進する。

 その進撃の軌道上にあるものは、一切の例外なく塵芥となった。灼熱を纏った今の魔狼は、もう誰にも止められない。

 直後――衝撃が、この場全体を襲った。

 オーディンが横に構えた槍はフェンリルのあぎとを真っ向から受け止め、その紅蓮の炎に耐えている。

 激突により発生した風と舞い上がった砂埃に目を細めるグリームニルは、ただひたすらに祈ることしか出来なかった。――どうか勝って、アスガルドに平和を取り戻してください。そう、無責任に神を頼ることしか叶わなかった。


「ロキよ……お前は昔から、何かを育てることに長けていたな。お前に焚き付けられた者は、良くも悪くも伸びていった。お前は誰よりも、新たな英雄が現れることを望んでいた。それが【トリックスター】としての役割だと、お前は言ったが――我々も共に考えるべきだったのかもしれない。神による支配、それが永遠に続くことが本当に正しいのか……今になって思うのではなく、以前からそうしていれば、このような結末を迎えることもなかったろうにな」


 フェンリルの灼熱の牙を神器グングニルで受けつつ、オーディンは怪物を転移させた首謀者の男へ独り()つ。

 槍が軋みを上げる中、それでも彼は先程中断した詠唱を再開した。


「【ドウェルグにより生み出されし、『貪り食うもの』よ。あらゆる怪物を捕らえ、その脅威を取り払え】!――【グレイプニル】!」


 老人の喉から、破鐘のような声量で魔法名が告げられた。

 それこそがフェンリルの勢いを殺す秘技。かの怪物を倒すためだけに神オーディンが編み出した、必殺の魔法。

 オーディンは左手を槍から離し、掌を怪物へと突き出す。その指先からは黄金の光のような紐が伸び、怪物の四肢へ絡みついていった。


「ッ……!」


 フェンリルの燃える牙がグングニルの柄をへし折るのと、その紐が完全に魔狼の動きを封じたのは全くの同時であった。

 怪物の巨体が突撃の勢いを保ったまま一気にバランスを崩し、前へつんのめる。目と鼻の先の怪物を押さえ込んでいた槍が折れ、オーディンもまた怪物が倒れるのに巻き込まれてしまう。

 パキッ、と老人の細い骨の折れる音が鳴り、オーディンは激痛に鋭く声を漏らした。だが、それでも最高神である彼は、自身にそれ以上の悲鳴を上げさせることを許しはしなかった。

 乗り捨てられた車ごと地面を削りながら、彼は魔狼と共にグリームニルがいる反対側のビルに激突した。


「――師匠っ……!」


 遠い日々と同じように少年は神を呼んだ。

 オーディンは存命の神の中でも最高齢で、もう1000年は生きているはずだ。そんな老体があれほどの衝撃を受けては、まず耐えられない。防衛魔法で緩衝したとして、そんなものは気休めにしかならないだろう。即死しなかったとしても、後遺症は確実に残る。


 前脚と後脚をそれぞれ縛られ、走れなくなったフェンリル。

 もがき、唸る怪物は、眼下に倒れる黒ローブを見つけ、瞳に憎悪の炎を宿らせた。

 彼にとって、神速の突進と灼熱の牙をもってしても獲物を倒せなかったのは初めてのことであった。それだけでも気に食わないのに、そのうえ自分の四肢まで枷をかけられてしまえば、彼の怒りが沸点に達しても何らおかしくはなかった。

 ――こいつだけは何としても殺す。何があっても、食い殺す!

 強固な念が魔狼を突き動かす。

 彼は首を下へ曲げ、顎を開き、その神を飲み込まんとして――


 血飛沫が、彼の視界を真紅に染めた。



「フレイ、テュール、お前たちは左右から回り込んで挟撃! あの触手は高速で真っ直ぐ撃ち出せる分、急な方向転換には向いていない。そこを突けば必ず攻撃を当てられる!

 そしてノア、お前は正面から斬りかかれ! あくまでも敵の気を引くだけでいい、本命はあの二人だ!」


 光の神・ヘイムダルの指揮棒(タクト)が華麗に振るわれる。

 戦闘開始から五分、彼にはヨルムンガンドの攻撃の規則性や癖が読めていた。あの蛇の攻撃は一撃一撃が高威力で食らえばひとたまりもないが、避けさえすればどうということはない。

 ――伝説の怪物というからどれほど強いのかと思ったが……お飾りの伝説のようだったな。

 ヘイムダルは口許に小さく笑みを刻んだ。彼は戦いを楽しむ質の人間ではなく、戦闘が早く終わるのならそれが一番望ましかった。


「そんな触手、斬り裂いてやる!」


 跳躍したテュールを狙って、槍のように先端の尖った触手が突き出される。

 魔導士らしからぬ身体能力をもって空中で身を捻り、軍神はぎりぎりのところでその攻撃を躱した。大蛇の魔手はそのまま空を切り、しなって反転しテュールを追うが――それも既に遅い。


「【勝利の剣】に裁けないものはないと知れ!」


 フレイの黄金の剣が煌きを放つ。テュールと同じく触手の攻撃を掻い潜った彼は、その一瞬で自らの得物に炎の魔力を充填した。

 軍神と豊穣神――二人は完全にシンクロしたタイミングで剣を大上段に構え、己の持つ最大級の魔法を発動した。


「【神器解放】!!」


 神器本体に込められたそれぞれの奥義。後の時代において『神器使い』が得ることになる、彼らの司る属性を大いに反映した十八番である。

 勝利の剣が火焔と化し、テュールの剣は放った斬撃を空気の刃として飛ばす。

 一打目を外した触手の二、三打目が連射されるも、それらは消し炭となるか微塵切りとなるかで彼らに届きすらしなかった。


『――――アアアアァァッ!?』


 自身の両腕にも等しい器官を破壊され、痛みに怪物は慟哭する。

 その間も神々の剣技は連続した。迫り来る触手のひとつひとつを断絶し、焼き尽くす神の御技は、もはや敵に抵抗さえ許さない。


「今だね――行くよッ!」


 ノアが叫び、風の魔力をフルに溜めた剣を大きく後ろへ引き絞った。

 一歩踏み出し、同時に腰を捻って剣を前へ突き出す。

 渦を巻く風は嵐のごとく。剣撃と共に一直線に、その風はヨルムンガンドの鎌首へ向かっていく。

 回避さえ間に合わない高速の突風が直撃し、世界蛇は体勢を大きく崩した。もたげていた鎌首が仰け反り、痛みのあまり触手を滅茶苦茶に撃ちだして暴れる。

 ノアとフレイ、テュールの三人がすぐさまその場から飛び退り、入れ替わりにパールが前へ踏み出して魔法の一撃を浴びせた。


「君の進撃はこれで終わりだ――【ステラ】ッ!!」


 偽りの太陽が輝く空が、刹那にして星空へと塗り変わる。

 銀色の星々の光がヨルムンガンドの体躯を照らし、暴れ狂う彼を鎮めていった。

 

「……これで、もうこいつは抵抗できない」


 怪物が上げていた咆哮や建物の破砕音も止み、しばしの静寂が訪れる中、パールは呟いた。

 彫像のごとく静止した世界蛇を仰いで、彼は他の神々へ言う。


「抵抗できない相手をいたぶるのは、好みではないかもしれませんが……お願いします。この魔法の効果が続くのは15分間です。それまでに、こいつの体力を残らず刈り取ってください」

「承知した。これだけ巨大な怪物を殺すのは骨が折れるが、俺たちが【神器解放】すれば、奴の命もぎりぎり削りきれるだろう」

「魔力消費は気にせずに、どんどん撃っちゃってください。そこは俺とヘイムダル様がサポートしますから」


 若いながらも頼もしい青年の姿に、神々は微笑んで頷いた。

 近い未来、自分たちは身を引いて新しい世代の魔導士に立場を譲る。その時に、彼やシルは自ら先頭に立って皆を導いていくのだろう。

 ――そんな未来を見るためにも、決着はつけなければ。古い時代を清算し、前へ歩みだすためにも。


「【神器解放】!」


 フレイの【勝利の剣】、テュールの【軍神の剣】、そしてノアの【白銀剣】。彼らは各々の【神器】が有する究極の奥義を発動する。

 舞い上がる火炎が、見えざる斬撃が、踊り狂う氷を含んだ風が――大蛇の鉄の鱗を溶かし、削り、破砕していく。

 その光景はまさしく壮観だった。【神】の座まで上り詰めた偉大な魔導士たちの秘奥義の連続には一切非の打ち所がなく、その美しさにパールは鳥肌が立ち、目頭が熱くなるのを感じた。

 ともすれば演舞にも似た、神々が極めた魔法の数々。しなやかに振るわれる剣が描く、炎の赤や力属性の白の光は、【ステラ】による星空の下でイルミネーションのように輝きを際立たせていた。

 あらん限りの魔力を振り絞っている彼らに魔力を分け与えながら、パールの隣に立つヘイムダルは言った。


「彼らが全力で戦えるのは、私たちの補給があってのこと。そして攻撃力に劣る私たちは、彼らがいなくては敵に打ち勝つことができない。どちらが欠けてもいけないのだ。この先、君たち若者にはまだまだ試練が立ち塞がるかもしれない。その時に、今の言葉を思い出して欲しい。――戦場で独りよがりになってはいけない。どんな強者でも完璧ではなく、支えてくれる仲間が必要なのだと」


 そうして彼は戒める。若さゆえに突っ走りかねない青年たちへ向けて、130年前の過ちを思い返しながら。

 青年も肝に銘じて頷いた。その言葉は戦でなくとも、普段の生活にも当てはめられる。

 どんな時でも仲間と共に、信じて支え合う――そんな理想を常に体現できたら、どれだけ良いか。


「魔力に余裕はあるな? 彼らにとってはまだ序の口だ。振り落とされずについて来い」

「――はい!」


 汗を流しながら、パールはそれでも笑顔で答えた。自分たちの勝利はすぐそこだと、前だけを見つめる青年は信じて疑っていない。



 少年は目の前で怪物のあぎとに捕らえられた師の姿を、ただ見ていることしかできなかった。

 鋭利な刃物に似た牙が老人の細い身体に突き刺さり、流血させる。どくどくと溢れ出した血の量は、尋常ではなかった。

 助けに行かなくては――そう強く思っているのに、彼の足は動いてくれない。

 フェンリルがすれ違いざまに彼に寄越した爪の一撃が、右足の肉を抉り、骨を粉砕したためだ。彼の右足は完全に機能せず、せめて松葉杖の代わりになるものがあれば良かったが、それも見当たらない。


「治れ……治れよッ!」


 治癒術の術式を、もう何度唱えたかわからない。

 その魔法自体は正常に発動したものの、どうしてか傷が癒えなかった。彼の推測だが、おそらくフェンリルの爪に治癒術を妨害する毒が含まれていたことが原因だろう。

 触れた者に死をもたらす、災厄の獣――それこそが、フェンリル。人類に牙を剥き、試練を与えるために作られた怪物としての命。


「……また、守れないのか……ッ」


 弱い自分が、愚かしくて仕方がなかった。

 こんな傷、【医務の神(エイル)】なら一瞬で治せる。そもそも、【軍神(テュール)】ならば攻撃を食らう前に対処ができたし、【激情の神(オーズ)】などは優れた防衛魔法で致命打を防げた。

 だが――少年には何もない。彼にあるのは歴史の知識と、並みの魔導士程度の魔力のみ。「不老である」ことを除けば、彼に戦闘で輝く取り柄などないのだ。

 詩を吟じる才も、作った愛想で権力者に取り入る能力も、この場では何の役にも立ちはしない。

 正義感を持って行動し、戦場に赴いたこと自体が間違いだったのかもしれない。戦いに長けていない彼は、結局のところ足手まといにしかならなかったのだから。



「いいえ――そんなことはないわ!」



 と、そこで。

 悔恨の念に沈んでいた少年の手を、誰かが引いた。

 失意に歪んだ顔を上げた彼が見たのは、星空を背後に舞い降りる黒いローブの影。

 はらりと捲れたフードから覗く黄金の長髪と碧い瞳は、紛れもなく少年に人の温もりを思い出させてくれた女性のもので――。


「【時幻領域】!!」


 視界から黒ローブ姿が掻き消え、それは瞬く間にフェンリルの眼前まで移動する。

 魔狼の鼻先に立った彼女は杖を高々と掲げて、澄み切った玲瓏な声で詠唱した。


「【女神の魅了(デア・ファスキナーレ)】!!」


 緑の光がちかっと瞬き、直後、フェンリルの充血した瞳に宿る敵意が和らぐ。

 老人に噛み付いた顎が脱力し、襤褸切れ同然の神はそこから地面に崩れ落ちた。

 魔狼を見下ろす魔女の微笑に、少年は胸に鋭く痛みが湧き上がるのを感じた。

 あれは、女神フレイヤが最も得意としていた魔法。どんな相手も懐柔してしまう、魅了の技だ。

 彼女はシル・ヴァルキュリアという若き魔導士で、女神フレイヤでは決してない。だが、少年は彼女に女神の面影を確かに見つけてしまっていた。


「フレイヤ、様……」


 少年の頬を一筋の涙が伝った。彼女に笑みを向けられ、彼は恥をかなぐり捨てて嗚咽を漏らした。

 目の前がよく見えないのはきっと、涙のせいだけではない。この時の彼女はとても強く輝いていて――その光が眩しくて、霞んで見えたのだろう。


「もう、大丈夫よ……この怪物は無力化したわ」


 オーディンの元まで歩み寄ったシルは、そこに跪いて治癒の魔法を彼にかける。

 すっかりおとなしくなったフェンリルが見下ろす中、彼女は怪物を全く気にかけないまま治癒に専念していた。自分の魔法に絶対の信頼を置いているからこそできることだ。魔術が半端だったなら、すぐに効果が切れて怪物が襲いかかってきてもおかしくはない。


「オーディン様……よく、戦われましたね。この魔法の紐の強度は、私の目から見ても鋼鉄より硬いと分かります。生き物が自力で外すことはほぼ不可能と見てよいでしょう。どこか地下牢にでも閉じ込めておけば、この怪物が逃げ出すことはないはずです。――お疲れ、様でした」

「…………労わるな。私は戦が起こっても行動を起こせなかった、愚物に過ぎない。このように死にぞこなった老いぼれを、かつての英雄と同一人物だとは誰も思うまいよ」


 心からの敬意を込めて、シルがオーディンに労りと感謝の意を告げる。

 それに対して老人は首を横に振った。自分の死に場所はここだと、彼は確信していた。予言の魔法で見た未来では、彼は巨大な狼の怪物に丸呑みされて死ぬはずだった。

 だが、彼は死なずに生きている。全身に牙が刺さり、風前の灯だった命も、シルの治癒術によって辛うじて保たれている。

 

「敬うべきは、お前だ……シル・ヴァルキュリア。お前は運命をも変えてみせたのだ。私は本来、ここで死ぬ予定だったにも関わらず、お前に救われて命を繋いでいる」


 シルは黙って首を横に振った。

 杖を掲げた彼女は横たわるオーディンの周囲に魔法陣を描き出し――そして、呟く。


「――【転送魔法陣】」


 すると、たちまち神の姿がその場から跡形もなく消えた。

 彼女は完成させたのだ。これまで不完全だった術を己のものにし、それどころか女神の魔法をも身につけた彼女は、今や全ての魔導士の頂点へと上り詰めようとしている。


「シル……私の、英雄」


 へし折れた足からの流血は止まらず、視界が霞み始める中、少年は彼女を力なく呼んだ。

 こちらへ駆け寄り、治癒術を施してくる魔女は、彼の頭をそっと撫でながら囁く。


「オーディン様があの狼の怪物に枷をかけられたのも、あなたのおかげなのよ、グリームニル。あの人はここで死のうとしていた……ここで死ぬつもりで、フェンリルと戦う覚悟を決めたんだと思う。でも、彼が踏みとどまれたのは、あなたがいたから。自分が死ねばあなたの無事はない――そう思ったからこそ、彼は何者にも破れない足枷を生み出すことができた」


 そこにいるだけで師を奮い立たせる力になれていたのだと、シルは語り聞かせる。

 その言葉に少し救われた心地になりながら、グリームニルは濡れた瞼を何度か瞬かせた。


「……そうか。ならば、よかった……」


 そう言って、瞳を閉じる。

 シルは穏やかな表情で気を失った少年の頬に触れ、やっと安息を手にした彼を慈しむように見つめた。

 それから彼もオーディンと同様に安全な場所――『アルフヘイム』のカトレアたちの家――に転移させ、立ち上がると、次なる戦場へ足を進める。


「光の神に救われた私が、今度は追い詰められていた彼らを救った。私のやるべきことは、こういうことよね、パール――」


 無二のパートナーの優しい微笑を思い浮かべながら、シルは杖の石突を地面に強く打ち付けた。

 心は凪いだ海のように平静に。身体は次なる戦へ激しく昂ぶらせて。

 耳を澄ませ、先ほどと戦闘が行われている地点が変わっていないのを確認すると、彼女は迷わずに駆け出していた。

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新作ロボットSF書きました。こちらの作品もよろしくお願いいたします
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