50 愚者の末路
歪んだ自尊心をもって、ヘルはここまで上り詰めた。彼女は今、下層を支配し、父親の協力を得てアスガルドをも掌中に収めようとしている。
誇らしげに明かすヘルに、ハルマは臆面もなく眉根を寄せた。
「それじゃあ尚の事、お前を倒さなくちゃいけないな。自分で『底知れない力』を御している、そう断言してる奴こそが一番危ないんだ」
完璧に制御しているつもりでも、実際のところは悪魔に利用されているだけに過ぎなかった――そんな結果に終わることだって十二分にあるのだ。むしろその可能性の方が高いだろう。悪魔は単なる力ではなく、意思を持って宿主に棲みつく一人格なのだから。
心の内に【神】と等しい実力を持つ魔導士を住まわせるリスクは、あまりに高い。夢の中に出たセトの言葉にハルマは散々引っ掻き回された。それが自分の中にいる二つ目の人格だったとしたら、今頃彼はセトに完全に乗っ取られていてもおかしくはない。
だがヘルは、ハルマが言うそのリスクを一笑に付した。
「本当に『底知れない力』であったなら、その懸念もあったでしょう。しかしレヴィアタンは異なります。彼女の底は知れている。なぜなら、私は【悪魔の母】から彼女についての全てを教えられたのだから」
美醜の女神が口にしたその名に、ハルマとエルは息を呑んだ。
同時に、これまでのヘルの戦勝の全てに納得がいった。たった一人の魔導士だけでこれだけの戦果を挙げられたことは明らかに不自然であったが、その背後に【悪魔の母】の存在があるのなら有り得ない話にもならない。
ユグドラシルが生まれる以前の時代に、七つの大罪の悪魔を生み、世界に災禍をもたらした魔女。女王イヴと対をなす、白の一族の血を引く悪の権化。歴史の狭間に消えていった女が、今この時代に再登場した――それが真実であるならば、残された猶予は長くない。
「イヴ女王の支配が崩れても構わない。だけど、悪魔に主導権を握らせちゃ絶対にダメだ。そうなれば、世界に本当の終末が訪れる。ユグドラシルという世界の形も、跡形もなく潰えるかもしれない。破滅に救いを見出す思想が、【悪魔の母】の根底にはあるんだ」
少年は語りながら杖を構え、魔力を込めていく。彼と同じくヘルも掌を上空の飛竜へ向け、そして――。
「【グリッド・レイ】!」
「【邪魂の解放】――【炎】!」
二者の魔法が、一切のズレのないタイミングで撃ち出された。
ハルマの魔法により光の格子がヘルの四方を囲み、閉じ込めようとするが、ヘルの放つ漆黒の鬼火がその光を煙によってかき消していく。
視界を埋める黒煙に眼を細めながら、ハルマは飛竜に高度を高く取るよう命じた。魔導士の決闘は互いに対等な条件で行うというのが古来からのマナーだが、この少年はそんなものを気にする性格ではない。
「【風の矢】!」
杖の中央を握り、弓に見立てて矢を引き絞るように腕を引く。
矢切れも弦切れも起こさない弓矢から、矢の連射が行われた。雨のように降り注ぐ風の矢は、黒煙を切り裂いて死の女王の姿を暴いていく。
矢の一発一発の威力も絶大だ。アスファルトの地面を抉って道路を穴だらけにするこれを食らえば、人間の身体はひとたまりもなく貫かれる。
黒煙がすっかり切れ、道路が蜂の巣になった頃――すでに視界から消えているヘルに、少年は舌打ちした。
「どっかに隠れたな。地上から上空の俺たちを倒すのは困難だけど、空中戦を挑もうにもこちらには飛竜がいる。魔導士の飛行術じゃあ到底及ばない。長期戦に持ち込むのを、あの女は狙ってるね」
「飛竜の弱点が知られてるってことか。彼らは飛行速度や高度にかけては他を寄せ付けないけど、長時間連続しての飛行には向いていない。一時間に一度は地上に降りて休憩しないとスタミナ切れを起こしてしまう」
「ああ。だからヘルは一時間でも二時間でも粘るだろうさ。俺たちが根負けするまで、あの女は諦めない。あいつはそういうやつだ」
上空から目を走らせてヘルを探しながら、ハルマはエルと言葉を交わす。
と、そこにノアたちの飛竜も合流し、少年は彼女らに状況を端的に説明した。
「ヘルがこのあたりに潜んでいるっていうなら、放置は出来ないね。あたしらも探すのを手伝うよ」
「いや、お姉さんたちは予定通り他の神様たちを集めて、ヨルムンガンドのもとへ行ってほしい。あれが暴れればこの都市は間違いなく壊滅する。そうなれば、アスガルドは抵抗することも叶わずにヴァナヘイムに占領されてしまう。――今の女神フレイヤに世界の手綱を握らせたら終わりだ。それだけは、決して許容できない」
ノアの申し出にハルマは早口に捲し立てる。
少年の額にはいつの間にか脂汗が浮いており、彼がこれまでにないほどに焦りを抱いていることがひと目で分かった。少年に過度な負担をかけてはいけない――だが、彼の発言は反論できない事実なのだ。王城という為政者の拠点が失われ、ただでさえ大打撃を被っているのに、都市全体の機能が破壊されればこの国の未来がなくなる。人や金の流れを王都一点に集中させたツケが、ここに来て表れていた。
「分かった。――ヘルに負けるなよ、ハルマ、エル」
「俺たちでヨルムンガンドを始末する。だから、こっちを気にすることなく戦ってほしい」
ハルマの台詞に、ノアたちは彼らにヘルを任せることを承諾した。
別れ際、ノアたちからエールを送られた二人は、その言葉に笑顔で応える。
「私たちも、ノアさんやパール先生、グリームニルさんのことを信じてるからね」
「この戦いが終わったら、皆で集まって飲み明かそう。絶対に」
「未成年だからお酒はダメだよ……なんて、言ってる場合でもないな。全員が生きて戻って、壊れかけたアスガルドを共に復興させるんだ。じゃあ――また、後で会おう」
ハルマの提案にパールは苦笑を返し、それから決意を漲らせて言った。
二人のもとからノアたちの飛竜は地上へと降下を始める。
この日も円卓会議は行われており、神々の多くはそこにいた。その会議室は『女王の間』の真下、城の北側に存在している。現在ハルマらがいるのが城の南側の門があった場所なので、その反対側にノアたちは向かっていることになる。
「恥ずかしげもなく、生き延びてしまったな……この国を危機から救えず、ヘルの侵略やロキの謀反も察知出来なかった老いぼれが」
神オーディンは独り言つ。
彼は、力を持ちながら女王の法に縛られて行動を起こせなかった己の愚かさと、この王都にまで危機を招いてしまった不手際を懺悔した。
トールやバルドルは自身が処刑される運命も恐れず、戦場へ発った。国体を保つ、それを免罪符に自分は逃げているだけだったのだと、年老いた神は心中で独白する。
――この戦争の戦犯は、間違いなく私だ。幾人もの無辜の民を守れず、都市の破壊を防げなかった私にこそ罪がある。
緑色の光の防壁を纏った彼は、瓦礫を押しのけてそこから脱出した。
そして、彼はその光景を目に焼き付ける。瓦礫の隙間に見える、誰とも判別できない千切れた人の腕。倒壊した建物の数々。逃げ遅れたのだろう、怪物に踏み潰されてぺしゃんこになった遺体もあった。
自分たちで発展させた、世界の最先端を行く都市であったはずだった。しかし、その栄光はこの日に崩れ去った。
壊れたのは王城だけではない。周辺半径500メートルに渡って、ほぼ全ての建物は半壊以上の被害を受け、王城周辺に固められていた官庁は全滅してしまっている。政に関しては拠点が完全に失われ、その頭であった神々の多くもなくなったであろう状況で、この国をどう立て直せば良いのか――オーディンにはその策を咄嗟に思いつくことが出来なかった。
「あのオーディンが、そんな風に懺悔するとは思わなかった。……責任を感じているんだね。自分の利益だけを追い求めていた多くの神々とは違って、君は実に良い神のようだ」
防壁魔法を解除した彼が振り向いた先にいたのは、瓦礫の山の一角に腰を下ろした白髪の女性だった。
彼女の真紅の瞳に見据えられ、オーディンは自嘲を口許に滲ませる。さっきの呟きを聞かれてしまえば、もう神の威厳を取り繕う必要もなかった。
「君はこの世界の神たちに、何を思っていたのかな。【神】が世界を支配し始めた頃は、皆がより良い国を作ろうと努力していたね。だけど……年を経るにつれて、神々は怠惰になっていった。腐敗していった、と言い換えてもいい。君やトール、フレイやバルドルなんかは精力的に頑張ってきたけど、他の神々は違っていたよね」
「……何が言いたいのですか?」
緩慢な口調で言ってくるリューズに、オーディンは怪訝に思って訊く。
声を上げて笑った怠惰の魔女は、黙って首を横に振るのみだった。
「君はイヴにとっての理想の支配を維持するために、『彼女によって作られた』神たちを排除できなかった。だけど……今になって、その腐敗した神々は死んだわけだ。時の流れに蝕まれた愚者たちが消え去り、高い志を持った新たな英雄たちが国作りに勤しむ。君は内心、どこかで望んでいたんじゃないかい? あの神どもがいなくなれば、この国をより良くできるはずなのにって」
老人は何も言わなかった。
その無言を心地よさげに受け取り、リューズは無邪気に笑いながら言葉を続ける。
「よかったね。邪魔者はこれでいなくなったよ。反乱分子もその正体を現し、もう後腐れなく葬れるようになった。イヴ女王も城を去り、残った目の上のたんこぶはボクだけになった。
――どうする、オーディン? ボクとここらで殴り合うかい?」
向き合うオーディンとリューズを、黒いフーデッドローブに身を包んだ小柄な影が少し離れた所で見つめていた。
その影の正体に、オーディンは初対面の時から感づいている。彼には気が気でなかった――この男がいつ、行動を起こすのかと。今この時代になって表舞台に戻ろうという彼が、リューズと手を組んだ意図……それを老人は、未だ見いだせていない。
「残念ながら、私には他にやるべきことがあります故、陛下の相手をしている時間はないのです」
「人のおもちゃにされる趣味はないって、素直にそう言えばいいのに。……まぁいいや、神様は神様らしく頑張ってよ。ボクらはそれを肴に楽しくやるからさ」
そう言い残して、リューズは瓦礫の山を身軽な動きで下っていった。
彼女の後に黒ローブの人物も続くが、彼は去り際に一度立ち止まり、オーディンを見上げた。
「…………」
冷たい眼差しが老人の眼を射抜く。そこにあるのは落胆か、それとも憐憫か――オーディンには彼の思いをついに知ることが叶わなかった。
生き残った神を探して王城跡に降り立ったノアたちは、そこから立ち去っていく白髪の女性の姿を目撃したが、彼女を追いはしなかった。
リューズが何かを企んでいるのではないか、その懸念は無論ある。だが、今は彼女を監視できる余裕は一切なかった。
怠惰な彼女が傍観に徹してくれることを願いつつ、ノアたちは王城の跡地での生存者の捜索を開始していく。
「【女王の影】、ノア殿……貴殿も生きていたか」
じり、と砂を踏む足音と共に、老人の嗄れた声がノアの名を呼ぶ。
瓦礫の陰から現れた神オーディンは、装束が砂埃に汚れているものの、特に怪我を負ってはいないようだった。
神の頭が無事だったことに安堵するノアは、彼のもとへ早足に歩み寄ると訊ねた。
「他の生存している神々は? まさか、あんただけってわけじゃないよね?」
「バルドルは、ここが倒壊する直前に戦場に発った。円卓に着いていた神々のうち、生き残ったのはフレイやテュール、ヘイムダル……私が確認した限りでは、これだけだ。王城に不在だった神たちについても、早期に安否の確認をする」
「……そうか。だが、神全体で王城に常駐している者はそう多くなかったよね。各地に散らばっている彼らを呼び戻せば、戦力として不足はないはず。……死んだのは政治の中核の神たちが殆どだから、後始末が面倒だけど」
オーディンから情報を得て、ノアはそれを整理していく。
ここにやって来るまでにも、倒壊した建造物の下敷きになってしまった遺体をいくつも見てきた。直下型の地震にも等しい衝撃が、たった一体の怪物によって都市を襲った――もたらされた死者の数は100や200では済まない、想像もしたくない数に及んでいるだろう。
その災厄を引き起こしたロキを許してはおけない。だからノアは、ロキと長い付き合いである老人にどうしても憤りをぶつけずにはいられなかった。
「オーディン。あんたは神々の中でも最も長い時を生き、世界を統べて来た存在だ。そんなあんたが、長年ともに国を支えてきた神の動向を読めなかっただなんて……あんたはまだ老骨じゃないって、思ってたんだけどな」
オーディンはやはりここでも言葉を返せなかった。イヴ女王と同じく、彼の身も抗えない老化にじわじわと蝕まれていたのだ。今の彼はどの能力をとっても全盛期には到底及ばない。その老化がこれまで目立たなかったのは、ひとえにアースガルズが平和であったからだ。大きな事件も災害もなく、彼がボロを見せる場面もなかった。
「……永遠の命に醜く縋り付いた、愚者の末路がこれだ。好きなだけ侮蔑するがいい。私は既に、英雄ではなくなったのだ」
パールが唇を噛んで俯き、グリームニルは否定の言葉を発そうとするが何も言えなかった。
認めざるを得なかった――少年は老人の輝かしい日々を知っていたから。かつて共に戦った師の面影は、目の前に立つ痩身の姿にはない。
押しつぶされそうな沈黙が降り、誰もが息をしようと口を開こうとする中――低く唸る獣の声が彼らの鼓膜を揺さぶった。
狼の遠吠えにも似た、雄叫び。その声を耳にした瞬間、オーディンは眼帯を付けていない方の目を苦渋に細めた。
「……やはり、現れるか」
「っ、オーディン様――」
【禁忌の獣】の一体、魔狼フェンリル。かつてヨルムンガンドと共に暴威を振るった、アースガルズの神々にとっては因縁の怪物である。
グリームニルは師を仰ぎ見ながら、腰の杖の柄に手を沿わせた。
少年の視線に頷きで応え、老人は最後の仕事を終えるために立ち上がる。
「ノア殿……私は行かねばならない。あの狼は、私が倒さねばならんのだ。ここまでの足労に応えられないのは申し訳ないが……許してくれ」
「そんな風に謝るな、オーディン。あんたの力を借りられなくても、あたしらでヨルムンガンドは何とかしてみせるから。――大丈夫さ、あたしは【女王の影】。あの人から継承した神威の力が、この身には宿っているんだ」
頭を下げてくるオーディンにノアは首を横に振り、それから胸を張って請け合った。
と、そこに彼らのよく知る男性の声がかかってくる。
「ノア殿、私たちも同行しよう。この命は国を守るために燃やさせてもらう」
金髪の豊穣神、フレイが神器『勝利の剣』を携えてそこにいた。
彼の背後には、軍神テュールと光の神ヘイムダルといった二人の男神も控えている。
ノアとパールだけでは敵わない相手に対しても、三人の神が加勢すれば勝算が出てくる。歴戦の神々の参戦に胸を熱くするパールは、後ろ髪を引かれる思いでこちらを見つめているグリームニルに笑いかけた。
「行っておいで。師匠の背中を追いかけるのが、弟子ってものだろう?」
「……ありがとう」
そう一言伝え、浅葱色の髪をした少年は踵を返す。彼はオーディンの後を追って、都市西側の大通りへと向かっていった。
その小さくも勇気ある背中を見届けてから、ノアたちも動き出した。
人工の太陽は未だ輝き、純白の光を王都からイザヴェル平原までを照らしている。現在の時刻がいつなのか、長い戦いの渦中にある彼女らには既にわからない。だが、そんなことはもはや関係ないのだ。
「あの太陽が輝く限り、俺たちの希望の灯は消えない。そうだよな」
「うむ。城壁の向こうでは、今も軍がヴァナヘイムの侵攻を止めてくれているのだ。彼らが安心して帰還できるよう、怪物の脅威を取り払わねば。『黄昏』の始まりを告げる角笛を、吹かずに終われば良いのだが」
テュールとヘイムダルが互いに視線を交わし、戦勝を誓い合う。
ヨルムンガンドの動きを封じている氷も、時間が経てば自然解凍される。それまでに怪物を始末し、トールたちがいる戦場へ合流しなければならない。
もう、彼ら神々が命惜しさに傍観できる段階は終わった。気づくのが遅すぎる、そう責められるのは重々承知だが――最悪の結末を回避するために、今からでも戦わせてほしい。それが、テュールたちの声だった。
「英雄に全てを背負わせない。類まれなる勇気を持った彼らを、ここで使い潰させるわけにはいかないからね」
「心強いです、フレイ様。シルが貴方の下に付こうと思ったのも、わかります」
「……君は、シルのパートナーだったか。彼女が今どこにいるのか、知っているのか?」
青年の隣を走りながら訊ねるフレイ。
金髪の美丈夫の憂いに満ちた眼差しに、パールは首を横に振るしかない。
「……そうか。あの馬鹿娘、きっと今も、無茶な戦いに挑んでいるのだろうな」
「ですね。でも、俺は心配してません。彼女は必ず生きている。そして、一人でも多くの人を救おうと奮戦している。――俺には、そんな確信があるんです。俺も、彼女も、互いに心で繋がり合っている」
だが青年の瞳には、無償の愛と信頼があった。自分がとっくの昔に喪ったその感情を正視して、フレイは眩しげに目を逸らさなかった。
「パール、といったな。君のその思いは、人が尊ぶべき大切なものだ。忘れずにいなさい」
「当たり前です。絶対、忘れない。たとえ、この身が朽ちて灰になろうとも」
パールはそう噛み締めるように言って、立ち止まると顔を上向けた。
見上げた先には、凍てついた大蛇の鎌首。
その全身を覆った厚い氷の下で、胴の側面に浮き上がった模様が脈打つように光っていた。光の脈動に合わせて高まっている魔力を感じ取って、ノアたちは顔を見合わせる。
この怪物はこのまま終わってはくれないのだと、この場の全員が意識を共有した。
そして――お前たちが来るのを待っていた、そう言わんばかりのタイミングでぴきり、ぴきりと氷がひび割れる音が鳴り始めた。
『ぎゅるるるるるぁあああぁッ!!』
甲高くも濁った声で怪物が吼える。
それと同時に彼の身を閉じ込めていた氷が完全に剥がれ、雹のように降り注いだ。
パールの防衛魔法が、弾丸のごとく飛来する氷の粒からノアたちを守る。青年はそれを維持したまま、ノアたちに迎撃に移るよう促した。
ヘイムダルはふむと頷き、司令塔として全体に指示を飛ばし始める。
「ノア殿とテュール、そしてフレイ、お主らが前衛となって戦うのだ。パールは彼らを援護、防衛魔法や回復、バフ魔法を適宜飛ばせ。お主には的確な判断ができるはずだ。
ここからは私の指揮で戦ってもらう。私に見えないものはない――この【眠らずの神】の力を、存分に見せてやろう」
どこまでも見通す優れた視力、加えて草の伸びる音さえも捉えてしまう鋭い聴力。それこそが神ヘイムダルの持つ特性だ。
フレイにも引けを取らない美しい容姿の彼は、敵が動く一瞬の呼吸をも見逃さない。そこから瞬時に敵の動きを予測し、指示を下す――この場において、それだけの技を為せる彼こそが指揮官として最も相応しい実力を有している。
「あんたが生き残っていたのは幸運だったね、ヘイムダル」
ノアの言葉にヘイムダルは無言で頷く。必要以上の言葉を発さないのが、彼という人間だった。
各々の得物を構える彼らに、怪物を凝視していたヘイムダルはすぐさま指示を出した。
「真下に噛み付き攻撃がくる! 後退ッ!」
直後、その言葉に違わず怪物の鎌首が下を向き、一気に眼下のノアたちを狙って突き出される。
即座に後ろに飛び退ったノアたちが見たのは、一瞬前に自分たちがいた地面が怪物の毒牙に抉られている光景だった。
牙から染み出る毒液が、触れただけでアスファルトの舗装を跡形もなくどろどろにしていく。一秒でも退避が遅れていたら自分たちもああなっていた――そう思うと彼らの背筋には怖気が走った。
「首背面から何らかの遠隔攻撃! パール、盾を!」
何本も撃ち出される触手の攻撃。それに対して、土属性の丸い盾を幾つも出現させたパールは、触手をそれぞれ受け止めていく。
蛇のうなじの辺りを凝視し、そこから伸び出してくる触手の一本一本を青年はその眼で捉えていた。その全ての軌道を読みきれたのは奇跡に等しかったが――今の彼には苦ではなかった。
シル・ヴァルキュリアとこの世界を守るのだと誓った。そのことを思えば、彼には何でもできる気がした。
――負けない。どんな敵が相手だろうと、絶対に止まらずに突き進む!
パールは覚悟を心中で叫ぶ。
ヨルムンガンドを睨み据え、触手を受け止めた盾から次なる魔法を発動させ――青い炎を触手伝いに怪物のうなじへ放った。




