49 誓いのために
「落ち着いて、走らないでこっちへ! 押さないで、さあ……!」
『聖魔導学園』の中庭にて。
非常事態を受けて地下シェルターへと通じる隠し通路が解放された今、パールはその入口前で生徒たちの誘導に当たっていた。
現在、この街で何が起こっているのか――学園の城壁越しに目撃した紫の光柱と怪物らしき砲声しか、状況の判断材料は与えられていなかった。何が原因で怪物が現れたのか……敵の策略か、はたまた自軍の手違いなのか。事態が判然としないことに焦りを感じながらも、青年は生徒たちの不安を煽らないようにその感情を押し殺していた。
「焦らないで、静かに階段を降りるんだ! 大丈夫、地下にいればどんな爆撃だろうが防げるから」
自分の目の前を通り過ぎていく教え子たち。彼とさして年の変わらない、この国の今後を担う魔導士の卵たち。
ある子は恐怖に涙を流し、またある子は唇を引き結んで張り詰めた顔をしている。これまでにない危機に子供たちは一様に怯えていて、パールは彼らの表情ひとつを見るのも辛く、目を背けたくてたまらなかった。
――生徒に罪はない。みんな素直ないい子達で、真面目に勉学に励んできたのに……どうして、彼らにまで罰が降りかからなくてはならないんだ。
この怪物の襲来が戦争に明け暮れた人間への罰だというのなら、子供たちや民間人にはそれを受ける理由などない。それなら怪物は戦場に現れれば良いのだから。……つまり、これは罰などでは決して有り得ないのだ。
混沌を願う何者かの策謀が、こうして悪意としての形をなして世界を壊そうとしている。無辜の命を供物に何かを遂げようという大いなる意思が、王都全体を支配せんとしている。
――できることなら、俺も戦いたい。きっと今頃、シルは立ち上がって脅威に立ち向かっているだろうから。彼女はそういう人だ。
パールはシルの安否を未だ知らないが、彼女が無事でいてくれているのだと確信していた。いや、せざるを得なかった。
彼女は青年の一番の憧れで、守るべきパートナーで――そして、導いてくれる英雄だ。彼の心の中でシルは強い輝きを放っている。その光は、重い心労が蓄積している青年を辛うじて繋ぎ留めている命綱。それがなくなった瞬間に、彼は依って立つ地面を失い、そのまま崩れ落ちるほかにない。
と、そこで同僚の若い女性教師が彼のもとへ駆け寄ってきた。
「パール先生! 地下へ避難できた生徒数は!?」
「およそ半数かと。ただ、皆バラバラに逃げてきたので、各クラスの状況までは……」
「っ、わかりました。この場は私も受け持ちます!」
「ありがとうございます。――ひとつ、訊ねてもいいですか」
先輩教師の問いに答え、パールは嫌な胸騒ぎをついに堪えきれずに彼女へ聞いた。
「3年A組のエルさんとハルマ君が、まだ来ていないんです。二人を見ませんでしたか?」
怪物が出たのは夜になってからのことで、その瞬間の生徒たちは全員が寮内にいた。通常なら緊急時は各クラスが纏まって動く手筈だったが、今回は未知の怪物の出現ということもあり少なくない数の生徒がパニックに陥ってしまったのだ。そのため統率が取れず、生徒とは別の寮にいた教師陣の対応も後手になった。
本当は担任として、自分がエルたちを守ってやらなくてはいけなかったのに――自分の不甲斐なさを心中で罰しながら、彼は女性教師の返答を待った。
ほどなくして、彼女は一言「見ていない」と告げる。
「……そんな」
彼らは今、どこにいるのか。今も地下へ移動する生徒の群れに紛れているのか、それともまだ寮にいるのか。もしくは――この危機に抗おうと、学園を飛び出して行ってしまったのか。
脳裏に二人の笑顔が過ぎった。これまでに何度となく見せてきた、自信に満ちた強気な笑みが。
「――すみません、マイヤラ先生。俺……行かなきゃいけないんです。あの子たちは必ず無茶をする。試練があれば自ら突っ込んでいくような子たちです、きっと今回も戦いに身を投じようとしているはず。
私情を持ち込んでいることは謝ります。でも、今だけは……今だけは、あの子たちのもとへ急がなくちゃいけないんです。彼女と、シル・ヴァルキュリアとの誓いを破るわけにはいかないんです!」
眼前に立ち尽くす細身の肩を両手で掴み、パールは切迫した声で訴えた。
何があっても自分たち四人の日常を守りぬく――いつかの星の下で結んだ、かけがえのない愛を守るための究極の誓い。パールという男が生きる上で、それこそが最も優先すべき事項なのだ。
マイヤラという女教師はパールについて詳しくは知らない。だが、彼の想いの強さはその目で理解していた。大勢の生徒と二人の身内、本来守るべきは前者だが――彼の言葉を聞き入れてもなおそれを強いることは、マイヤラには出来なかった。
「貴方の役割は私が引き継ぎます。ですから迷わず行ってください、パール先生。子供たちを守る気持ちの大きさは、私も貴方に負けていませんから」
「ありがとうございます! ……必ず、戻ります」
パールはマイヤラに深々と礼をして、それから脇目も振らずに走り出した。
時間的猶予は全く残されていない。怪物は今にも学園の城壁へと迫ろうとしているのだ。
中庭の隅にまで来てからパールは浮遊魔法で空中へと浮き上がった。風魔法によるブーストも掛けながら彼は城壁まで一気に飛び、そこに立って眼下の街並みを見渡す。
「……あれが、怪物……!?」
全長100メートルはあろうかという毒々しい紫の大蛇が、大通りにそびえる防壁魔法の前で立ち往生していた。そのあまりの規模に青年は言葉を失う。
こんな怪物が実在してたまるか、これではまるで伝説のヨルムンガンドのようではないか――そこまで考え、彼は気づく。これは本物の世界蛇、ヨルムンガンドなのだと。長き眠りを経て地の底から蘇った、世界に災厄をもたらす力をも有する【禁忌の獣】が、ここにいるのだと。
「それに……飛竜? 人が乗っているようだけど……」
学園の城壁よりも遥かに高い上空でホバリングする、一体の飛竜の存在も彼はすぐに捉えた。乗っている人影が突き出した掌には、莫大な力を宿した魔力の光が灯っている。
ヨルムンガンドを阻む壁を生み出したのも、おそらくはあの魔導士だろう。
「エルたちは、どこに――」
玩具の箱庭のごとく破壊されたビル街の各所に視線を巡らせ、パールは二人の姿を必死に探した。
そう遠くへ行ってはいないはず。あの大蛇の攻撃が届かない範囲で、見晴らしの良さそうな場所は――。
「『ワールドセンタータワー』なら、その条件を満たすけど――っ!?」
アスガルドで最も高い、1000メートルにも及ぶ塔。その地上300メートルにある張り出した展望台上に、黒いローブの人影のようなものが見えた。
まさかと思った青年が魔法道具の眼鏡をかけ、スコープ機能で確認すると、結果はそのまさかだった。
「転移魔法であそこへ向かったのか!? なんて無茶を……!」
落下すれば一堪りもない高度で、二人は杖を構えて呪文の詠唱を行っているようだった。
転移魔法を会得していないパールには彼らのもとへ向かうことは叶わず、この距離では当然声も聞こえない。どうしたものかと青年が足踏みする中、飛竜の魔導士は魔法を完成させ、それを解き放った。
瞬間、世界が凍った。
そう思わざるを得ないほど、その魔法の規模は絶大だった。
視界の全てが純白に染まり、音も動きも何もかもが静止する。ヨルムンガンドが進撃していた大通りから周辺の建造物まで、辺り一面が凍り付いてしまっていた。
「っ……何と、凄まじい……」
絞り出すようにそれだけ言って、パールは眼下のヨルムンガンドを凝視する。
怪物は氷の彫像と化し、身じろぎする気配すらない。これで危機はひとまず去ったのか――だが素直にそう安堵できるほど、パールは愚かではなかった。
いつ復活してもおかしくない蛇に杖を向けたまま、彼は自分の足元を一瞥する。氷の魔法は城壁の側面にまで及んでおり、壁内の被害はなかったものの、外部で巻き込まれた者は少なくない数いたと思われた。
このまま怪物が凍ったままなら、子供たちの命は一旦助かったことになる。しかしその裏側にあった代償は、決して無視できない尊い命でもあったのだ。
彼らの魂に心からの冥福を祈って、パールは瞑目して頭を下げる。
飛竜の上では青年以上に罪悪感を背負った女が、小さく「ごめんなさい」と声をこぼしていた。
「仕方のない犠牲だ、自分を責めるのは後にしろ。今は、生き残った神たちにコンタクトを取るのが先決だ」
グリームニルが感情を殺した声でノアを促す。
女傑は少年の言葉に無言で頷き、飛竜を降下させていく。自分たちが守った学園へ目を向けた彼女らは、その城壁上に見知った青年がいるのに気づくと、まずそちらへ移った。
「おい、パール! そっちは大丈夫だったのかい!?」
「ノアさん! ……ええ、無事です! 死者は一人も出ていません!」
学園内の状況を聞き、ノアは安堵に表情を緩めた。何よりも守るべき子供たちの命は失われていなかったことは、彼女らの中でも大きな成果だった。
「これからあたしらは生き残った神々を集めて、怪物の息の根を止める。あんたも協力してくれるよね」
飛竜を城壁の側に寄せて停め、ノアが確認する。
迷わず同意して、パールは彼女らに同乗させてもらいながら、残った懸念点を告げようとしたが――。
「ねぇお姉さん、俺たちも乗せてよ。俺、お姉さんと飛行デートなんてのもエキセントリックでいいと思うんだ」
数秒前までパールが立っていた場所に二人の魔導士が降り立ち、そのうちの一人の少年がにこりと笑みを浮かべていた。
「残念ながら五人は乗れない。それに、デートの誘いもお断りだよ」
「つれないなー。もう一体出すくらい楽勝でしょ? わざわざもったいぶらなくてもいいじゃん」
「そういう態度がいけ好かないって言ってんの!」
そう言いつつも腕の一振りで魔法陣を展開し、ノアはハルマたちの分の飛竜も出してやっていた。
「助かったよ、ノアさん! あと、さっきのハルマくんの発言は本気にしないでね」
「するわけない。――それで一応聞くけど、ここは本物の戦場なんだ。誰がいつ、命を落としてもおかしくない。それは子供だろうが関係なくね。二人とも、相応の覚悟はできてるんだろうね?」
礼と忠告を口にするエルにぶんぶんと首を横に振ってみせつつ、ノアは二人に問い掛ける。
彼女の問いにエルとハルマは迷いなく頷く。聞かれずともとっくに、その覚悟は彼らの胸にあった。
セトの意思を継いで【神】の支配する世界を守らんとするハルマ、自分の愛する人たちを守るために戦おうというエル――思いは違えど、目指すべき場所は同じだ。
「飛竜は人の言葉を完璧に理解できるから、あんたらにも制御できるはずだよ。――じゃあ、ついて来て」
ノアたちの竜がここから北にある王城へと進路をとる。
彼女の後を追って、二人も飛竜の首をそちらへと向けるが――そこで、ハルマが何かに気づいたのか頻りに辺りを見回し始めた。
「どうしたの、ハルマくん?」
「いや、何か変な感じがして……。どこかから誰かに凝視されてるような、そんな気配がするんだけど……」
「気配……?」
意識を研ぎ澄ましても、エルには何も感じられなかった。だが、気のせいじゃないの、と笑い飛ばせもしない。今は何が起こってもおかしくない状況であり、ましてやハルマの言うことなら確実に何かあるのだ。彼は、悪戯にエルを不安に陥れるような台詞を決して吐かない。
「……っ、不味い!」
そう鋭く叫び、少年は飛竜を急加速させた。突風となって前方のノアたちも追い抜いていく彼が見据えるのは、瓦礫の山と化した王城だ。
ヨルムンガンドの出現と同時に大破した、かつての王者の居城。それとの距離を詰めていくうちに、エルにもハルマの言う気配が感じ取れた。
確かな視線が、下方からこちらへ向けられている。敵意に満ちた、暗い闇の底から這い上がって来ているかのような、粘つく眼差し。
――この目は私を見ていない。見ているのはただひとり、ハルマくんだ。
ハルマにこれほどの憎悪をぶつけられる人間は、この世界においてはあの女神しかいない。そこで待ち構える者の正体を悟ったエルは、彼女の持つ最高の防衛魔法の呪文を唱え始めた。
瓦礫の奥、王城地下の魔法陣から転移してきた下層の支配者に対し、黒髪の少年は真っ向から宣戦布告する。
「ニブルヘイムの女王ヘル! 嫉妬の悪魔に憑かれた哀れな女よ――俺ともう一度戦え!! 今度は負けない、この世界を守るために!」
彼の声が空気を震わせ、高まった魔力が漆黒の輝きとなって少年の全身から湧き上がってくる中――王城の尖塔の残骸の頂点に、純黒のマントを纏った影が姿を現した。
ヘルは銀色の長髪を風になびかせて、美醜を同居させた顔で天を仰ぐ。
「また会えましたね、坊や。ふふ……気づいていましたか、私が悪魔の手を取ったことに。ですが、憐憫は不要です。私は自分で選択して、【嫉妬】を利用すると決めたのだから。悪魔に支配されていただけのエルフ女王とは違います」




