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黄昏英雄譚 ~アナザーワールド・クロニクル~  作者: 憂木 ヒロ
第9章 『ユグドラシル』編

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47  光の導き

 ミーミルの魔法により意識が混乱し、同士打ちを行ってしまっていたアースガルズ兵。

 その狂騒が止んだのは、前線の兵士の三割が死傷した頃であった。


「……何だ……? 俺は、一体何をして……」

「よかった、正気を取り戻したんだな!」


 血まみれの剣を提げ呆然とする者や、目の前で暴れていた男が鎮まって安堵する者。

 ミーミルの【精神攪乱魔法】は心の弱い者に強く作用するため、酷い混乱状態にあったのは全体の二割にも満たなかった。が、問答無用で斬りかかってくる彼らに対し、平静さを保っていた兵たちは「味方と戦わなくてはならない」という重いハンデを負わされた。そのため万全の態勢で鎮圧に臨むことができず、死傷者がここまで増える結果を生んでしまった。


「シル・ヴァルキュリア殿。敵の魔術の解除、誠に感謝いたします」

「これくらい、どうということはないですよ。私は私にできることをやっただけですから」


 シルを警護していた魔導士の一人が彼女に礼を言う。

 金髪の魔女は微笑み、当たり前だというようにそう答えた。

 知恵の神ミーミルの魔法を、この場に着いて10分と経たずに読み解いて解除した【永久の魔導士】に、士官の魔導士たちは憧憬の眼差しで見つめていた。

 その視線を少しばかり照れくさく感じつつ、シルは意識を次なる戦いへ向ける。

 アスガルドで暴威を振るっている怪物、ヨルムンガンド――あれを討伐するのが、今一番にやるべきことだ。

 傍でそんな様子を見守っていた総指揮官の神トールは、彼女の元へ歩み寄ると固く握手して頼み込んだ。


「本当に助かった、シル・ヴァルキュリア。戦場を離れられない俺に代わって、行ってくれ。俺たちのアスガルドを、どうか守って――」


 と、そこで雷神の言葉が途切れる。

 彼らが耳にしたのは、地面を震わす重低音。怪物の咆吼のような、無規則に繰り返される鈍い音だ。


「この音は……!? どうやら前線の方から聞こえてきているようですが――」


 シルは胸騒ぎを覚えていた。

 何重にも重なって響く不協和音。彼女が生涯で初めて聞いた、背筋に怖気の走るようなひび割れた声。

 その呪詛を無視することを、シルは許さなかった。アスガルドには神々が沢山いる。だが、ここにいる【神】はトールだけだ。上位の神に迫ろうという実力のシルがここを離れては、訪れた予期せぬ事態に対応しきれない。


「私、見てきます!」


 トールにそう告げ、シルは浮遊魔法で一気に上空へ躍り出た。

 月明かりに照らされて前線に立っていたのは、十を超える大岩のごとき影たち。

 薄闇の中、遠目にも分かるほど巨大なそれらは、まるで巨人のようで――。


『ウオアアアアアッ――――!!』


 その砲声がびりびりと空気を震わせた瞬間には、シルはそこから飛び出していた。

 氷上を滑るかのごとき流麗な動作で、彼女は空中を移動する。

 蠢く影たちの姿は近づくほどに鮮明に見えてくる。大きな頭に太い四肢を持つ、二足歩行の怪物。体はやや前傾姿勢で、腕が猿に似て長い。その体高は10メートルを超し、亜人の巨人族よりも遥かに大きかった。さながら巨大な猿だと、シルは彼らを見て思った。

 前線の兵たちが立ち竦んでしまっているのに対して、彼らはそれも意に介さず太い両腕を振り上げ――地面に振り下ろし、大地を穿った。


「逃げろ、お前たち!! こいつらは化け物だ、俺たちじゃあ――」


 現場指揮官が叫び、部下たちに撤退を促す。

 しかし、それも間に合わなかった。

 突如として戦場に出現した怪物たちは割れ鐘のような声を張り上げながら、地面を蹴り、その巨体に似合わぬ俊敏さで固まっていた兵たちへ飛びかかったのだ。

 彼らの指揮官は巨猿の手に掴まれ、握りつぶされていた。バキッ、と人間の体が砕かれる音が空虚に響く。


「怯むな! そんな化け物、撃ち殺してしまえ!」


 遅れて現場に到着した別の部隊の将校が、前方の兵士たちへ檄を飛ばす。

 彼は目撃していなかった。怪物の現れた、その瞬間を。

 目撃していたら、そのような台詞は決して吐けなかっただろう。


『うああああぁぁぁぁ……!!』


 身を捩り、苦痛に呻く怪物の声。頭を振り乱し、かきむしり、衝動のままに敵兵のもとへ突進していく。

 ある者は手足を振り回して暴れ、またある者は穿った地面の土と石を投げ。

 無秩序に行われる暴虐に、小さな人間たちは抗うことさえ叶わなかった。


「敵は、本当に人間なのか……? 人が同じ人間に、あんなことをさせられるのかよ……!?」

 

 ある兵士は怪物に喰われる寸前、絶望の最中で誰に言うともなく呟いた。

 敵兵の多くが後退した中で前に出てきた男たち。彼らを望遠鏡で確認した兵士は、見たのだ。彼らが腕に太い針を突き刺した次の瞬間、その肉体が急激に膨れ上がり、巨猿の姿へ変身したのを。

 人間を怪物へと変化させる禁忌の技、これこそがヘーニルの神器が持つ力だった。




「うふ、うふふっ! うふふふふふふふふふっ!! ほんっと、ミーミルったら悪趣味ねえ……自分の部下を化け物に変えて暴れさせようだなんて! あは……最高じゃない! それでこそ私の駒。最高のクイーンだわ」

  

 天幕の中、壁に映し出した戦場の地図を眺めて、フレイヤは哄笑していた。

 アースガルズの兵士を示す赤い点が、一際大きな青の光点に触れてはそれを消していく。

 マップの隅には上空から使い魔が見ている光景がリアルタイムで表示されていて、巨猿の怪物が武装した兵士を玩具のように持ち上げて捻り潰す様子がよく見えた。鋼鉄の皮膚を有する怪物に彼らの銃剣は何の意味もなさず、ただ蹂躙されるしかない。


「さぁどう来るかしら? トール、あなたはこの子たちを得意の雷撃で焼き殺すでしょう。でも……その対象が自軍の兵士たちだとしたら、あなたに殺せる?」


 嗜虐的な笑みを浮かべ、悪意に支配された女王は敵将に問いかける。

 使用者を怪物に変化させるのが神器の能力。だが、それで終わりではないのだ。【神器】はその作り手である神が操作することで、更なる力を発生させる。

 フレイヤの人格と同居している悪魔アスモデウスも、状況をすっかり楽しんでいる風に言ってくる。


『魔法の対象を自身だけでなく、触れた相手にまで拡大させるといったところか? そりゃあ文字通り手がつけられないね』

「そうでしょ? ちなみに、これを考えついたのは私じゃなくてミーミルよ。倫理観がまともじゃない【神】ってほんとに怖い」

『お前が言うな! ……まぁ、倫理を捨てた神は悪魔と紙一重、というのは事実かもしれないが』

「ふふっ、そうかもしれないわね。けれど、それでもいいの。例え悪魔と呼ばれようが、自分の正義のために戦えれば、それで構わない。貴女たち【大罪の悪魔】も、同じだったんでしょう?」


 フレイヤは悪魔に犯されてこの道を選び取ったわけではない。彼女は自らアスモデウスと協力していくと決め、アスモデウスもそれを了承して彼女に力を貸している。

 目的のために悪意に染まった女神と、悪意を振りまくために女神の右腕となった悪魔。この二者が結託した結果、正邪の二面を併せ持った地上最強の【神】がここに君臨していた。

 今の自分はオーディンやトールよりも強いのだと、フレイヤは信じて疑っていない。


「私の楽しみは、もう一つ……トールに次いで参戦した【神】級の魔導士のことよ。ミーミルの魔法の展開を破った、工作に長ける実力者。一体誰なのかしらね?」

『おい、フレイヤ。今、怪物どもの上空に何か映ったぞ』


 アスモデウスの指摘に、フレイヤはいくつか開いた窓を凝視する。それから間を置かずに、彼女は画面上で長い金髪が翻るのを確かに見た。

 ドクン、と鼓動が早まる。フレイヤは身を乗り出して微小な光の粒をした使い魔に命じる。


「音声繋げて! もしかして、あれって……」


 そして金髪の魔女の呪文を唱える声を聞き、女神は確信した。

 顔がフードで隠れて分かりにくいが、あの声には聞き覚えがある。二週間前に戦闘した魔女、シル・ヴァルキュリアだ。


「やっぱり脱走してきたのね。そうこなくっちゃ……ふふ、まだまだ楽しめそうね」




「【旋風刃(せんぷうじん)】!」


 魔女の杖が閃き、彼女を仰いで伸ばされる巨人の腕を切断していく。

 地上戦では兵士たちを殲滅できる巨猿も、空中戦には対応できない。一体、二体……シルは上空から放った風の刃で怪物の肉体を断ち、絶命させることに成功していた。


「兵士の皆さんは後ろに下がってください! この敵には魔法攻撃しか効かない――私に任せて、後方の魔導士隊を呼んできてください!」


 シルの叫びにすぐさま対応して駆け出していく兵士たち。

 が、その中の何名かに異変が訪れた。走る途中で足を止めてしまった彼らは、激しく震えだした自身の体を見下ろし、それから地面に崩れ落ちる。


「おい、どうした!? 早く撤退しないと死ぬぞ!」


 仲間が声をかけても彼らは項垂れたまま動けない。仕方なく仲間が彼らの手を引いて立ち上がらせようとするが――その身体が妙に重いことに気づいて皆一様に怪訝に思った。

 それが彼らの最後の思考となった。

 彼らが引っ張ろうとしていた腕は、毛むくじゃらの獣のそれに変化し――全身もまた、巨猿へと変貌していたのだから。

 自分に触れていた手の主を踏みつけ、引き裂き、食いちぎり。

 巨猿の怪物と化した兵士たちは、ヴァナヘイムの士官だった怪物たちへ勇敢に立ち向かい、剣で斬りつけた後に生きて離脱した者であった。

 

 敵が仕掛けた魔法の正体を知らないアースガルズ兵たちは、味方が突如怪物に変身したことで一気にパニックに陥った。

 辛うじて保たれていた隊列もバラバラに崩れ、蟻が散らばるように一心不乱に逃走していく。

 慌てるあまりに転倒した者は怪物の餌食となり、怪物の手をどうにか振り払えた者は新たな尖兵としてかつての味方を追い始める。


「伝染病みたいに拡散していく変身魔法だなんて、どう対処すればいいの!? このパニックじゃ私が指示を出したところで誰も聞いちゃくれないし、そもそも対策が見つからない。こんなの、私一人の手じゃとても……」


 安全圏から巨猿を次々と討伐しながら、シルはこの戦争で初めて弱音を吐いていた。

 怪物自体を倒すのは容易い。だが、真の恐ろしさはその魔術の「拡散力」と怪物の発生による「パニック」であった。

 そのどちらもシルには対処ができない。そもそもこの手の魔法と出会ったことのない彼女は、対応策を全く知らなかった。そして統率力を失った軍隊を御す方法も学んでおらず、もし彼女がその術を会得していたとしても、怪物が暴れまわる戦場で指揮を取るなど絵空事に限りなく近かった。

 そしてもう一つ彼女を縛るのが、怪物の中にアースガルズ兵であった者も含まれているということだった。

 変身魔法は、その人の見た目や能力を変身対象のものと同様に変化させる術だ。怪物に化けたように見えても、彼らの魂や自我は消えずに残っているのだ。

 そんな彼らを殺すのは、アースガルズの兵を殺すのと同義ではないのか――シルの胸に浮かび上がったその問いが、杖を振るう彼女の腕を鈍らせる。


「…………っ」


 その迷いが、彼女の魔法の威力を弱めてしまう。放った光の紐が怪物に絡みつき、動きを封じる【束縛魔法】――しかし、両手両足を縛り付けられた怪物たちは、数秒と待たずに力ずくで紐を引きちぎった。

 

『ウガアアアアアアッ!!』


 獣のように吼え、かつて人であった怪物たちは進撃を再開した。

 彼らが一歩踏み出すごとに地鳴りが響き、逃げる兵士たちの心に深々と恐怖を刻み込む。

 かつてアースガルズの兵であった彼らは、怪物化で混濁した意識の中、「助けてくれ」とかつての仲間たちに縋ろうとしていた。彼らに触れても何も変わらないと理解もできず、赤子が母親を求めるように無心に兵士たちを追いかける。

 怪物たちはトールたちの後方部隊のすぐそばまで接近していた。肉眼で怪物の血走った目や苦痛に歪んだ顔を捉えられるところまで、その距離は縮まっている。


 兵士たちが怪物へと変化した現象は、トールも観測していた。

 彼は決断しなければならない。迫り来る怪物たちを容赦なく殲滅することを――多くの部下の魂を、その雷撃のもとに灰燼と化させることを。

 怪物たちを一体たりとも残さずに殺せば、怪物化の拡散は終結するのだから。


「――あいつらは苦しんでいる。俺にはわかる。だが……」


 理性ではとっくに理解している。後は、トールという一人の男の心を、完膚なく叩き潰すだけだ。

 拳を固く握り締め、肩を震わせて俯くトール。胸の中でせめぎ合う相反した思いが、彼を苛んでいた。

 時間は残されていない。あと一分と経たずに怪物たちはトールらのもとへ辿り着き、殺戮の限りを尽くすだろう。

 お人好しの雷神が何も出来ずにいた、その時――。



「見損なったよ、トール! アースガルズ陸軍の大将である君が、そんな様子でどうする!? 君は一人の男である前に、一人の軍人なんだ! それを思い出して!」



 透き通るような少年の声が、上空からトールを呼んだ。

 トールが顔を上げると、たちまち眩い光が視界を刺して思わず目を瞑る。

 瞼の裏に真っ白い光の残像が映る中、彼はやって来た青年の言葉を噛み締め――そして目を開けた。


「ありがとう、バルドル。おかげで決心できた」

「ははっ、どうも。――さぁ、トール。共に戦おう!」


 輝く笑顔でトールを見下ろしていたのは、色素のない長髪を無造作に流した美少年の魔導士であった。

 神バルドル――アースガルズで最も美しいと言われる、【光の神】だ。【神】は実際は人間なのだが、彼に関しては本物の神様なのではと信じて疑わない者も多くいるという、才色兼備の男神である。


「ボクは君たちに光の加護を与えに来た。このボクがいる限り、戦場に夜は訪れない」


 その言葉通り、彼が登場した途端に空には巨大な光球が出現し、太陽のごとく大地を照らしていた。

 これは、【ユグドラシル・システム】を巡る戦いでパールが発動した【ステラ】とは根本的に異なるものである。パールの魔法は心意の力により一時的に星空を上空に描き出すが、バルドルのそれはそのままの膨大な光エネルギーの集合体だ。

 

「輝きを食らうがいい――【断罪の神光】!」


 兵たちが畏敬に跪き頭を垂れる中で、バルドルは血色の薄い頬に微笑みを浮かべる。

 現れた巨大な太陽が一際強い光輝を放ち、射出された極太の光線がみるみるうちに巨猿の怪物を掃射していった。

 怪物たちの断末魔の叫びが響き、圧倒的な熱により蒸発していく光景を、トールはしっかりとその目に焼き付けた。

 

『アァァァァ……ッ!!』

「っ、ごめん、取りこぼした!」


 亡者のように這いずり、トールの部隊を狙って腕を伸ばした怪物。

 しくじったと謝ってくるバルドルへの返事代わりに、トールは必殺の雷撃を巨猿へと撃ち込んだ。


「【迅雷の鉄槌】!!」


 稲光が迸り、雷鳴が鳴り響く。

 天空へと舞い上がったトールが振り下ろした【神器】の槌ミョルニル――そこから雷を纏って放たれた衝撃波が、巨猿ごと地面に巨大なクレーターを抉った。


「トール、僕の魔力を使って!」

「ああ、助かる!」


 だがその一撃をもってしても、後方でもたついていた怪物を仕留めるには至らなかった。

 一時は50以上にも膨れ上がった怪物はあと5体。同胞を殺された憤りに怪物たちが吼える中、バルドルは魔力が減ってきたトールに己のそれを分け与える。

 降り注いだ魔力の光に力がみなぎってくるのを感じながら、雷神は先程と同じ技で残る怪物を掃討した。

 焼け焦げた平原からはもう、怪物の雄叫びは聞こえない。アースガルズの兵士たちは太陽に照らされた戦場を見渡し――それから、割れんばかりの歓声を上げた。

 バルドルは兵たちの賞賛の声を気持ちよく浴びていたが、隣に立ったトールの表情が晴れないことを怪訝に思い、訊ねる。


「どうしたの、トール? あれだけ巨大な怪物を倒したんだ、もっと喜んでもいいと思うけど」

「……あれは兵士が魔法で強引に変化させられた化け物だった。今倒した奴らの八割は、我が軍の者」

「…………嘘」


 トールに告げられ、バルドルは瞠目した。もともと血色の薄かった顔を真っ白にする彼は、さっきまで容赦なく焼き殺していたものたちの正体に絶句するしかない。


「兵たちは今はまだ、お前の活躍に興奮していられるだろうが……それも長くは続かないだろう。仲間が怪物にされた精神的なダメージは大きい。また、敵が次も同じ手を使ってくるのではないかという恐怖は、今後も付きまとってくるからな……」

「上がった士気は一時的なもの、ってわけだね。どうする? 彼らに僕がバフかけてあげようか?」

「そうしてもらえるなら有難い。本物の神同然に崇められているお前の鼓舞なら、あいつらも奮い立ってくれるはずだ」


 しかし味方だった者を殺めたことを引きずっている時間は、彼らの立場上なかった。

 二人はすぐに状況を冷静に見つめ直し、次の行動へ移っていく。

 そんな姿を遠目に、シル・ヴァルキュリアは怪物討伐に自分が何の役にも立てなかったことに気落ちしていた。


「……あんなに眩しい光が、まだアースガルズにあったなんて。私も彼のように強かったら……犠牲者を一人でも減らせたかもしれなかったのに……」


 束の間戦いが止んだ戦場に佇み、彼女は自己嫌悪に陥る。

 ――自分は何も出来なかった。世界から無駄な戦争をなくすため、平和のために戦ってきたはずなのに、今こうして戦争は苛烈さを増している。フレイヤに敗れ、二週間という大きすぎる時間のロスを踏み、ここでも怪物を己の手で止められなかった。……なんて、弱いのだろう。【ユグドラシル・システム】を変革したあの英雄は、どこへ行ってしまったのだろう。

 そう問いかけて、すぐに答えを出す。

 あの時は仲間がいた。パールやエル、ノアが共に戦ってくれていた。だが今は、彼らはここにいない。


「自分ひとりでは何も為せない。そんな弱い人間だったの、私……」


 白い頬に熱い雫が滴った。それを拭おうともせず、彼女はそこに立ち続ける。

 自己を苛む心の刃――大嫌いな自分を切り裂き、罰を与える黒い影。ずっと昔から心の奥底に潜んでいた闇が、彼女を捕らえて離さない。

 身体がどうしようもなく震え、依って立つ地面の感触さえも分からなくなった頃――彼女の身体を後ろからぎゅっと抱きしめて、誰かが囁いた。


「……君の勇姿を、ずっと見てきた。だから僕は知ってるよ……君は紛れもなく世界の人々のために戦い抜いた、英雄なんだって。

 でもね、永遠に走り続けられる人間なんてどこにもいない。それは神様だって同じさ。誰もが躓いて、そこから起き上がって前へ進む。時には後ろへ戻ることもある。立ち止まったまま動けないことも、あるあkもしれないね。その選択は他人に決められるものじゃなくて、自分で選び取るものなんだ」


 穏やかな言葉と温かな腕がシルを抱擁し、その背中をそっと押す。

 彼女をゆっくりと振り向かせて、純白の髪をした少年は言った。


「はじめまして、シル・ヴァルキュリアさん。僕はバルドル、迷える者を導く光の神さ」


 さながら魔法のように、バルドルの言葉はシルの震えを取り去っていた。

 全てを(ゆる)し、認める愛――光の神が持つそれは、シルの心の氷を緩やかに溶かしていく。

 

「ありがとう、ございます。バルドル様……私はまだ、現実から背を向けることはできないんです。この戦が終わるまでは、立ち止まるなんて許されない」

「いい選択だ。でも、気負いしなくていいからね。戦ってるのは君だけじゃない……たくさんの同志が共にいることを忘れないで。

 ――君の大切な人はアスガルドにいるんだろう? 彼らの元へ向かうといい。この戦場は僕らに任せてくれ」


 シルの語調に少し思うものもあったものの、バルドルはそれには触れず、彼女に頷きかけた。

 彼女の目元に手を伸ばし、涙を指で拭ってやりながら、少年の神は促す。

 

「はい、頼みます。どうかこの先も、その光で兵士たちを導いてあげてください」

「もちろんさ。この太陽が沈まぬ限り、希望は消えないからね」


 にっこり笑って請け負うバルドルに、シルは改めて礼を言ってから飛び立った。

 光の神の登場で太陽を取り戻した戦場を尻目に、彼女は王都にいる大切な人たちを想う。


「すぐに合流するわ、グリームニル――力を合わせて、あの脅威を退けましょう」

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新作ロボットSF書きました。こちらの作品もよろしくお願いいたします
『悪魔喰らいの機動天使《プシュコマキア》』
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