44 戦場に生きる者たち
雷鳴が鳴り響く。
急速に暗さを増してきた空を見上げ、ヴァナヘイム陸軍騎兵隊隊長であるオーズは舌打ちした。
「おい、てめえら! 雨が酷くなろうが作戦は続行だ! ここを突破すれば都市は目前な以上、この勢いのまま押し切るぞッ!」
雨で地面がぬかるめば、彼ら騎兵隊にとっては不利になる。が、オーズはそうなる前に決着をつけるつもりでいた。
昨日から続いている戦闘での死者は、アースガルズ側が殆ど。もはや後がない敵軍を片付けるのはさほど長引かないだろうと彼は踏んでいた。
その見込みは正確だったのだ。――アースガルズから【神】の援軍がやって来る、というイレギュラーさえなければ。
血に濡れた大地を駆け、奮戦するヴァナヘイムの騎兵たち。
土砂降りになる前に勝負を決したい彼らは、最後の気力を振り絞って怒涛の勢いでアースガルズの方陣を切り崩していく。
敵の盾も、放たれる銃撃も、彼らには通用しなかった。女神フレイヤの加護により彼らの鎧は圧倒的な強度を誇り、生半可な攻撃は一切通さない。防御の動きを省き、攻めることだけを考えた狂戦士のための究極の防具――それこそが、ヴァナヘイムの騎兵隊の最大の武器であった。
「こちらには【神器】の加護があり、あちらには何もない。いけますよ、隊長殿!」
「あぁ、そうだろうよ。だが最後まで気を抜くな! 窮鼠猫を噛む、なんてこともあるかもしれねえからな!」
勝ちを確信した様子の副官に、オーズは釘を刺す。
彼も副官と思いは同じだったが、指揮官として予想外の反撃に遭う可能性も念頭に置いていた。もし戦闘が長引き、天候も悪化の一途を辿るようなら、騎兵ではなく歩兵中心の戦術に切り替えなければならない。
「そうならないことを祈るばかりだな……ん?」
立ち塞がる陣形を正面から薙ぎ払いながら、オーズは視線を上向けてそこにある「異変」を真っ先に感じ取った。
【神】である彼が経験のうちに身につけた勘があってこそ気づけた、上空の異変――その影が巨大な槌を振り上げるのと同時に、オーズは叫んでいた。
「総員一時停止!! ――【大いなる大地の盾】!」
雷鳴が轟く。稲妻が空を裂き、大地へと降り注ぐ。
次の瞬間――オーズの展開した岩盤の如き魔力の防壁に、激烈な衝撃がもたらされた。
それは、文字通り大地が揺れる一撃であった。閃光と共に放たれた、雷神による裁きの鉄槌。
「隊長殿!? これは一体――」
「てめえは黙ってろ、イアン! 今は部下たちの無事を確かめるのが先だ!」
衝撃波を受けてオーズの騎馬は倒れかけるも、どうにか踏ん張って堪えることができた。それは彼の副官も同様だったようでひとまず安堵するが、事の重大さを鑑みればおちおち胸をなで下ろしてもいられない。
見間違うことなど有り得ない。あの影はまさしく雷神――最強の【神】たる存在、トールだ。
正面から殴り合えば自分は必ず負けると、オーズは弁えていた。今、彼に許された選択は一つ。雷神との武力衝突を避け、いち早く撤退することのみだ。
「一撃は防げたが、あれはあの神にとっちゃ軽いジョブに過ぎねえ! あそこにいるのはユグドラシル最強の化物なんだよ!
――総員撤退!! 撤退撤退撤退だァ――ッ!!」
ざっと目で確認した限り、落馬した部下はそこまで多くない。昨日の勇ましさはどこへやら、オーズは早々に敵の撃破を諦めると、残った兵を連れての逃走を決断した。
そうと決めた彼らの行動は迅速。身を翻して撤退していくオーズは、自分たちの頭上に【大いなる大地の盾】を継続的に発動しながら、参戦した雷神に向けて悪態を吐く。
「まったく、後一歩のところまで詰めたってのによぉ! つくづく最悪なタイミングで現れやがって」
トールの雷に対して、彼の土属性の防壁が属性的に相性が良かったのは、唯一の幸運だった。
撤退していく百あまりの騎兵たちを上空から見下ろして、トールは何発か追撃するが、そのどれも無為に周辺の大地を灼くのみで彼らの足を止めるには至らなかった。
「――あれは確かに神オーズだった。【神】の一人を逃してしまったのは痛いが……奴の騎兵部隊を退かせられたのは、ひとまずの収穫だろう」
地上に降り立った雷神は、言葉に反して苦渋に満ちた面持ちでいた。
それも当然――彼の登場で敵の前線が後退したものの、立て直すことが困難なほどアースガルズ軍は壊滅的打撃を被っていたのだから。
兵の屍がそこかしこに転がる平原を眺め、トールは唇を噛む。自分が決断するのがもう少し早ければ、結果は変わっていた。彼が死の恐怖にもっと早く抗えていれば、生の執着を捨てられていたら、救えた者もいたはずだ。
「後悔してもしきれない。だが、今は……それをしているだけの余裕がない。
――伝令兵。現場指揮官をこの場に呼んできてくれないか」
トールが指示してほどなく、イザヴェル平原防衛戦の現場指揮官の男が彼の前に頭を垂れた。
サルミネン准将と名乗った男は死人のように真っ青な顔をして、震える声で雷神に報告する。
「……全兵員4500名中、死者および重傷者は3800名余りです。私の指揮が不甲斐ないばかりに、このような大敗を喫する結果となってしまい……本当に、申し訳」
「謝罪は戦争が終わってからだ。今はこの現状を立て直す策を考えろ。生き残った約700に、俺の師団をプラスして17000。これだけいれば、逆転の目はまだある」
「しかし、雷神様。敵の兵どもは只者ではありません。あいつらは死を恐れない……血に狂った化物です。我々が勝てるとは、到底……」
絞り出すように言う彼に、トールは叱咤することが出来なかった。この戦場の惨状を目にした今、そこで彼らが味わった絶望がどれだけのものか、察してしまったから。
「これまでのお前たちなら、勝てなかっただろうな。だが、これからは違う。敵が【神器】の力で兵を強化するのなら、こちらも同じ手を使えばいい。俺の【神器】があれば絶対に負けることはない、それだけは断言できる」
広い胸板をドンと叩き、トールは力強い笑みを浮かべてそう請け負った。
窮地でこそ真価を発揮するのがトールという男だ。かつての大戦でも幾度の危地を乗り越えた英雄の言葉に、サルミネン准将をはじめとする兵たちの瞳に輝きが戻ってくる。
「サルミネン准将。これよりを以て、この場の指揮権は俺が持つが、構わないな?」
「は、はい! あなた様が上に立てば、兵たちの指揮も大いに高揚するでしょう」
迷いなく頷いてみせるサルミネン准将。彼らの信頼を有り難く思いながら、トールはさっそく次の作戦について思考を巡らせ始めた。
政に関しては他に劣る【神】である彼だが、こと軍事にかけては一流。ヴァナヘイムの狂戦士たちをどう相手取るか――それから長く時間を取ることなく、トールは今後の戦略を決定づける。
「さてと……これからどうするかねぇ」
雷神が降臨すると同時に現れた黒雲の間から太陽が顔を覗かせたのを仰いで、ヴァナヘイム軍のオーズは腕組みしながら唸る。
騎兵部隊にも歩兵たちにも目立った損害はなく、隊列を整え直して再びの進撃に移る選択肢はもちろんあった。常の彼ならば躊躇うことなくそうするのだが――敵陣に雷神が合流したとなれば話は別だ。
このまま向かって勝てるのか、と弱気な思考に支配されかけるオーズ。そんな彼を、副官のイアン大尉は冷静に思考の渦から引きずり出した。
「神オーズ。あなたの魔法で雷神の攻撃を止められる時間は、どの程度なのですか」
イアンは諦めていなかった。雷神の登場という予想外の事態も素早く受け入れ、そのための対応を彼は探り始めている。
先ほどの己の醜態を思い返して羞恥に駆られるオーズだったが、それはおくびにも出さず問いに答えた。
「そうだな……トールの野郎の最大の武器は、空の雲から力を得て雷を撃てることだ。雷雲がある限り奴のスタミナは切れない。だが……ここの雲は途切れてきている。あいつもフルパワーで長くは戦えないだろう。雲がなければ、さっきよりも雷の威力は幾分か落ちるはず。
それを鑑みて考えると、俺がトールの魔法を防げるのは十分――いや、十五分。その間は絶対に攻撃を通さない」
防御魔法においては他の誰にも負けないと、オーズは自負している。トールに勝てないと確信するに至ったのも、かの雷神を攻め落とせないと理解していたからであり、「こちら側が殲滅されるような負け」は一切想定していなかった。
「あなたの魔法では雷神を突破できない。ですが、そこに他の神の援護が加わったら……勝ちの目も、見えてくるのではないでしょうか」
「少し癪だが、あの偉そうな大将殿の手を借りるしかねぇか」
「偉そう、というより偉いんですよ。急ぎ伝令を向かわせます」
イアン大尉が、伝令の騎兵に指揮官の意思を伝える。
魔道具の通信機器は盗聴のリスクを考えると使えない。増援の数が知られれば敵も対策を立てやすくなり、敗北が近づく。神トールが相手な以上、連絡一つにも細心の注意を払う必要があった。
「なぁ、イアン。……さっきはだせぇ格好見せちまって、悪かったな」
「いいんですよ。あれは賢明な判断でしたから」
副官はこの粗暴な男に全幅の信頼を寄せていた。
良い部下を持った――そう噛み締めるように思いながら、オーズは敵陣を睨み据える。
「一個師団はありそうか……両軍の数は、これで互角」
ここに注ぎ込んだ分、王都に残された兵力はまた減った。彼らもこちらの侵攻を許したら後がない以上、全身全霊で迎え撃ってくるはず。
一世一代の戦いになる、とオーズは覚悟を固めた。
戦闘に酔いしれた体が、血潮がざわめく。
ここが生涯最高の舞台になりそうだ――彼はそう口端を歪め、隣の副官も不敵に笑む。
それから1時間後――最前線のオーズらのもとに神ミーミルが合流し、ヴァナヘイム軍は再度の侵攻を開始した。
◆
「トールが、戦場に? そう……ふふっ、面白くなりそうじゃない」
玉座に着き、長い脚を組み替えながらフレイヤは目を細めた。
ヴァナヘイム軍の総司令部と化している『玉座の間』にて。彼女は眼前に置かれた魔道具のスクリーンを見上げ、そこに映し出された戦場の地図を確認する。
この地図は戦場の兵の動きをリアルタイムで反映し、表示することのできる優れものだ。彼女の眷族たる兵士たちは青い点として示され、敵は赤。
イザヴェル平原では現在、両軍が睨み合っているようだったが――青い点の集合体が、動いた。
フレイヤはあら、と僅かに驚いた姿勢を見せる。
「あら、こちらから出るのね。猪突猛進、がトールのキャッチフレーズだったはずだけれど、今回ばかりは流石にそうもいかないかしら。そこを突き崩されれば、アスガルドにまで戦火が及ぶものね。下手は打てない――だから守る。そして彼は、守りきる自信を持っている。糧食はそちらに兄上がいる以上、困ることはない。
でもね、トール。兵士の数には限りがある。永遠に防戦に徹するなんて、不可能なのよ。そしてもう一つ、これはあなたの最大の弱点――あなたは人が好すぎる。その最強の魔術で、魔導士でない兵どもを殲滅できないくらいには」
トールが力ない者を圧倒的な魔術で消し飛ばしたことは、これまでに一度もない。彼が本気を出せるのは、実力のある魔導士に対してのみなのだ。
フレイヤは疑わない。トールという男は、剛毅で実直、アースガルズの民から敬われる英雄であり――彼自身も、それを誇りにしているところがあった。
だから、確信できる。トールは英雄であることを止めないと。
最期まで彼は人々の心に根差す太陽であり、軍人たちの規範で在り続ける。
誰もがそう、思っていた。
しかし……その運命は、一人の【トリックスター】の囁きが覆す。
数分後、ふと画面から消えた赤い点たちを見つめ、フレイヤは無意識のうちに悪罵の言葉を吐き散らしていた。
「faen!!」
そう叫ぶのも無理はなかった。
画面上にひしめいていた一万を超える軍勢が、一瞬にしてその半数をごっそりと失っていたのだから。
◆
誰も、何も言えなかった。
そこにあったのは無数の黒炭と化した死骸と、それを目に焼き付けて戦慄する生存者たち。
何条もの雷が穿ち、燃やし尽くした惨憺たる大地を眼下に、雷神トールは唇を引き結ぶ。
神オーズの防衛魔法の範囲にいた者は取りこぼした。だが、それ以外の前線にいたヴァナヘイム兵は、一人残さず始末できた。内面で葛藤する間にも、男の軍人としての部分が現状をそう整理していく。
――これで俺は地獄行きだ。これまで慕ってくれていた奴らには、到底顔向けできやしない。
【雷撃魔法】を晴天の下で発動したため、今の彼は自然から魔力を得られずに自前のそれで済ましていた。そのため体力の消費も激しく、荒く息をつく彼の余力はわずかとなってしまった。
だが、これだけやれば十分だろう。たった一人の魔導士の力で敵兵5000人余りを倒せたのだから、両者の戦力差は確実に逆転した。あとは、部下たちに指示を出しつつ反撃に転じればいい。
「…………」
トールが上空から地面に降下してきても、彼に声をかけようという者はいなかった。
それは彼の副官でさえ同じだった。既にこの場の兵士たちには、トールが同じ人間だとは思えなくなっていた。
ある者はまさしく人知を超えた【神】だと。ある者は大量殺戮のための生きた兵器だと。またある者は、無慈悲な殺害を躊躇なく執り行う鬼だと――彼を英雄ではない『恐ろしいもの』として捉えた。
「お前たち、今が好機だ。第一旅団、前進せよ」
たった一言の命令。これから戦が終わるまで、トールは無情な戦神として振舞おうと決めていた。
が、部下たちはなおも恐れおののいたようで硬直したままであった。彼らを睨み、トールは錆びた金属のような声音で繰り返す。
「第一旅団、前進せよ。……三度目は言わせん」
有無を言わせぬ口調に、第一旅団を率いる少将はすぐさま司令部を飛び出していき、部下たちへ進撃を命じた。
敵側には人的損害の他に、残存兵への心理的ダメージも与えられた。そのためこちらを迎撃する際も、十全なパフォーマンスを発揮することは難しいだろう。そこを突き、確実に息の根を止める。アスガルドには絶対に侵攻させない――どんなに非道な手を使おうとも、トールはそこだけは決して譲れなかった。
「……生き残ったのが奇跡みてぇだ。そう思わねぇか、イアン」
雷神の攻撃が止み、【大いなる大地の盾】を解除した後になっても、オーズの体の震えはどうしてか治まらなかった。
副官の大尉に訊ねる彼は、自分から半径100メートル内にいた生存者たちを見渡しながら状況をまとめていく。
「俺の防壁で守れたのが、3000人弱……2700~800くらいか? どれだけ詰めて入れたかにもよるが……。それから、後方にいてトールの攻撃範囲外だった奴らが、えー……」
「2000名ほどだ。残存兵力は5000人弱、敵が約10000とみると、だいぶ差を付けられたな」
オーズの言葉を継いだのは、黒の長髪に銀縁眼鏡をかけた長身の男。知恵の神、ミーミルである。
「ああ……どうするよ、ミーミル。単純にぶつかり合うだけじゃ勝てねえ。敵側も兵士に【神器】を持たせるなり、全体付与魔法で強化したりしているはずだからな……こちらも同じ手を使ったとしても、兵力の差でごり押されるのは目に見えてる」
「……君は何のために私を呼んだんだ? 私は知恵の神――この私に任せておけば、雷神の策など容易に打ち破れるものを」
オーズの言うことは誰もが分かっている。そんなものは確認するまでもなく、考えるべきは敵の戦力を削る次なる策だ。
尊大な笑みを浮かべるミーミルに、オーズもニヤリと笑った。この男の知略がアースガルズ軍を必ずや討ち滅ぼすと、彼は確信している。
「どこからでもかかってくるがいい、トール。お前たちがどんな手を使おうとも、我が策は破れない」
必勝の宣言が、平原を駆ける風に乗った。
部下たちの期待と信頼を背負い込み、その重みに応えてみせようという男は、戦友である神に『策』を与える。
それを授かった後のオーズの顔は嫌悪感に歪んでいたが、ミーミルはそれを意に介することはない。
「……【神器】を持って来い。作戦を開始する」
◆
目を覚ました時、始めに見えたのは石造りの天井だった。
小さなランプ。埃を被っていて、寿命が近づいているのかチカチカと明滅を繰り返している。
空気は重苦しく、粘っこい冷たさを含んでいた。この感覚には覚えがある――と、彼女はすぐにその記憶に思い至った。
ニブルヘイム王城の地下へ向かう階段、ここの空気はあれと似ている。
「……ここ、は……?」
渇ききった喉を震わせ、彼女は呟く。
上体を起こそうとするがうまく力が入らず、彼女は仕方なく覚束無い動作で手元をまさぐった。
目の粗い布のシーツに、硬い木のベッド――王城に務める魔導士への待遇ではない。このような寒々とした部屋に寝かされていた自分は一体、どういう立場としてここにいたのか……彼女の記憶は混濁していて、その答えに辿り着けない。
「ここは、どこなの……?」
彼女はか細い声でそう繰り返した。
と、その声に誰かが気づいたのか、微かな囁き声が彼女の耳に届いてくる。
「シル……? 目覚めたのか?」
中性的な少年の声。嗄れていて深い疲労を滲ませているが、その声色には確かな歓喜が含まれていた。
知っている声だと、彼女は思った。彼とは何度も会って、何度も口論して、何度も下らない軽口を叩きあった。その光景が頭に浮かんでくると、どうしようもなく懐かしいような寂しいような気持ちになって、彼女の目には涙が染み出していた。
「グリームニル……グリームニル、なのね?」
「……ああ」
「どこに、いるの……? 顔を、見せて……」
上体を起こせない彼女は、首を右横に傾け――そして目にした。
この部屋と外側とを断絶する鉄格子の存在を。加えて、無感情に彼女を閉じ込める障壁の向こうに、自分と同じくベッドに横たわっている少年の姿も、彼女は捉えていた。
「シル――お前は意識が戻ったばかりだ、無理をするな。状況は私が説明する、お前は黙って聞いていろ」
そうして彼は話し始めた。
自分が女神フレイヤから悪魔を払おうとして失敗し、この牢に囚われてしまったこと。シル・ヴァルキュリアがおそらくフレイヤの魔法を受けて昏倒させられ、ここに放り込まれてから二週間が経っていること。シルが死なずに生きていられているのは、女神自身が彼女へ治癒魔法を施したからだということも、彼は語った。
グリームニルの説明を聞き終えたシルの胸にまず訪れた感情は、現状への焦燥だった。
自分が気を失う直前、凄絶な痛みに襲われていたのはおぼろげだが覚えている。それは女神フレイヤによってもたらされた罰であり――彼女が犯した罪は、女神への反逆。
「ここから、脱出しないと……何か、抜け道はないの……?」
灰色の天井へと手を伸ばしながら、シルは問いかけた。
彼女へグリームニルが言葉を返そうとした、その時。
コツ、コツ、という足音が遠くから響いてきて、彼女らは息を潜めた。
「シル・ヴァルキュリア、並びにグリームニル。あなた方の解放が決定されました」
女の声。
シルたちの独房前で足を止めたその人物は、黒曜石のような瞳を彼女らへ向け、懐から鍵束を取り出してみせた。
黒いブレザーにスラックスという格好の、肩口まで伸ばした黒髪の女性だ。彼女についてシルたちは何も知らなかったが――この人は自分達の味方になりうる人間だと、直感的に思えた。




