41 無垢の女王
ヴァナヘイム国軍の三万の軍団。
その司令部らしき天幕を視界の隅に認めると、シルは空中で浮遊した体勢を保ったまま、彼らに声を投じた。
「私はシル・ヴァルキュリアという者です! この軍団の指揮官に話があって参りました! 指揮官の方はどなたですか!?」
「――ヴァナヘイム陸軍のヘーニル中将である。我々に要求があるのなら、先ずはここまで降りて来い。さすれば話は聞いてやろう」
戦場の喧騒の中でもよく通る男の声が、シルの呼びかけに応じた。
天幕から姿を現したのは、くすんだ金髪に似た色の鎧が目立つ、大柄な男。その名前には聞き覚えがある。神ヘーニル――かつてアースガルズに所属していたものの、130年前の大戦の終戦時に人質交換という形でフレイと入れ替わりにヴァナヘイムに送られた人物だ。ミーミルという神と共にこの国に身柄を預けられてからは、フレイ同様にその国の神として尽くしてきたと聞いている。
シルは防壁魔法を解除し、素直にヘーニルの言葉通りにした。彼女が地面に足を付けた途端、周囲を五名ほどの兵士に取り囲まれる。
だがそこで臆するシルではない。味方ではない相手の陣に侵入したのだから、これくらいは当然のことだ。
彼女は握っていた杖を腰帯に差し、左胸に手を当てながら頭を下げるアスガルド式の敬礼をした。
「始めに――私には、あなた方への敵意はありません。そしてアスガルドの、イヴ女王の命令でここにやって来たわけでもないのです」
「何? では誰の指示でここまで来た? 見たところ、君は軍人ではないようだが」
怪訝そうに眉を寄せるヘーニル。
彼を毅然と見上げ、シルは揺るぎない口調で返答した。
「――私の意志です。戦争を止め、世界を破滅の未来から回避させることが、私の使命なのですから」
「中層に引き続き、我々の戦を収めさせようというわけか。先の出来事はイヴ女王は無関係と声明を出していたが、まさか本当だったとは」
神妙な面持ちで呟くヘーニルは、無精ひげの浮いた顎を摩りながら言う。
彼にとってもシルの意見は理解できなくもないのだ。だが、ここで矛を収めるわけにはいかない。ヘーニルたちには、それをなさなくてはならない明確な理由がある。
それは至極単純――ヴァナヘイムの国民たちを食わせていくため。今も田舎では食糧危機が続いており、その波は近いうちに貯蓄の切れる都市部にも及ぶだろう。彼らは事態が進行してしまう前に、予め何か手を打たねばならず――そして、それは他国とて同じこと。
これは話し合いで解決できる問題ではない。ならば、見えてくる道は一つしかなかった。
さらにフレイヤが女王に就任し、フレイの返還を求める交渉が決裂したのも重なって、戦争への機運は加速度的に高まっていった。
「シル・ヴァルキュリア。君は、我々がなぜ戦うかを理解しているのか?」
「女神フレイヤが、アースガルズから神フレイを取り戻そうとしているからでしょう。ヴァナヘイムの軍は彼女の言いなりになっていると、その筋の者から聞きました。それはあなたも同様なのですか?」
シルは目の前の男の瞳を正視して訊ねる。彼の目には、エルフのティターニア女王のようなほの暗さも、血の色の鈍い輝きもなかった。
彼女の予測通り、ヘーニルは太い首を横に振る。
「否。『非魔導士』の兵はともかく、私やミーミル、一部の上級魔導士にはフレイヤ様の術式は効いていない。我々は己の意思でこの地に立っているのだ。
その上で忠告しよう、シル・ヴァルキュリア。君には我々の意思を踏みにじり、叩きのめす覚悟はあるのか……その覚悟がないのなら帰還するがいい。我々は君を葬ることを、一切躊躇わない」
腰の剣の柄に手を沿えながら金髪の神は告げた。
その瞬間、彼が帯びた威圧感にシルは息を呑む。この人物は自分と同じく、命に代えてでも守りぬくべきものを持っているのだ。どんなことがあっても揺るがない決意、覚悟が彼の腹の底には据えられている。
「私は――」
「何をしている、ヘーニル! 迎えてやれとは言ったが、それは剣を抜けという意味ではない」
シルがその答えを口にしようとした、その直後。ヘーニルの背後から天幕を出てきた男性が、鋭い声で彼を咎めた。
はっとして剣から手を離し、振り向くヘーニルの肩を、その男は軽い力で横へ押しやる。
シルの正面に立った銀の鎧に黒い髪と眼鏡が特徴的な彼は、繊細そうな顔立ちに反して苛烈さを感じさせる声色で彼女へ言った。
「無礼だとは思うが、天幕の中から話は聞かせてもらったよ。私はヴァナヘイム陸軍大将のミーミルだ。さて、シル・ヴァルキュリアとやら。君は戦争を止めさせ、ユグドラシルに平和を取り戻そうと言う――その選択が、却って民たちの首を絞める結果になることも知らずに」
ミーミルの瞳に敵意はなかった。そこにあるのは、子供に物事の摂理を説く教師のような、もしくは無知な者を憐れむような目。
「シル・ヴァルキュリア。戦争のない世界を作ることが、君の理想なのだろう? だがね、それはあくまで理想に過ぎない。現実からは決して争いはなくならない。大勢の人間がいて、幾つもの勢力に分かれて……それぞれの意見が完璧に合致することなど有り得ない。だから、妥協できる着地点を求めて合議する――その中で、どうしても相容れなくなった場合に取られる手段が戦争だ。
ここで立ち上がらねば自分たちは生き残れない、そう知っているから兵士たちも全力で戦う。言わばこれは生存競争なのだよ。それを君は止めようという。自分の理想に則り、純粋に願って、ここまで飛んできたのだろう。ある意味では尊い姿だ。しかし別の言い方をすれば、君は憐れでしかない。
シル・ヴァルキュリア。君は聖母でも神でも救世主でもないんだよ。ただ一人の人間だ。それをはっきりさせた上で問おう――君には我々に兵を退かせた後、我が国の食糧事情を解決する案があるのか? 我々をここで食い止めようというのなら、戦に代わる相応の代案を用意してきたのだろうな?」
一挙に言い切り、話しながら熱くなったのか浅く息を吐くミーミル。
副官らしき女性から水筒を受け取って口を湿す神は、細い銀縁の眼鏡を軽く押し上げながらシルに回答を求めた。
シルの方でも案は考えてある。待っていましたとばかりに、彼女は即座に発言した。
「ここ最近の不作は、【ユグドラシル・システム】……つまるところ世界の意思によって起こっていた現象でした。しかし、今はそのシステムコマンドも停止されています。ですから、今後は不作の心配はしなくて良いのです。フレイ様をはじめとする【豊穣神】のお力があれば、作物の成長も促進でき……早ければひと月で穀物が育ちます」
彼女の言葉を咀嚼するように、ミーミルはしばしの間沈黙していた。
彼やヘーニルにとって、【ユグドラシル・システム】に関しては初耳だったはずだ。それでもノートから真実を告げられた当時のシルほどには驚きもせず、彼らは互いに目配せし合うのみだった。
「こと【豊穣】については【ヴァナ神族】の者たちの能力は信頼できる。そして、君の台詞が事実であるならば、その一ヶ月の間、主要の数都市に絞るなら貯蓄だけでギリギリ賄えなくもない。従って、食料を奪うためにアスガルドに攻め込むという我々の大義名分は失われたわけだな」
「――では……!」
ヴァナヘイムがアスガルドに侵攻する正当な理由は、これで解消される。大軍で他国に乗り込んで略奪の限りを尽くすことも、もうする必要はなくなった。
あと一月、各国の民たちには耐え忍んでもらわなくてはならないが、そこを乗り越えればまた不自由ない食生活が送れるようになるのだ。
シルが安堵に胸を撫で下ろす中――神ヘーニルは、その正反対の表情で無情に宣告した。
「然り、国民の食を守るという大義に則って戦を起こす必要はなくなった。が、それは兵を引く理由にはならないのだ」
シルは耳を疑う。ミーミルの言う生存競争のための戦は、行わずとも良くなった。ヴァナヘイム軍にフレイを取り戻したいフレイヤの願いを汲み取った部分もあったろうが、要人を取り返すためだけにここまでの大軍勢を向かわせるわけにもいくまい。軍のトップ層の神々がフレイヤの意思に染まっていないのなら、尚更だ。
だがシルのその思考を、ヘーニルは真っ向から薙ぎ払った。
「我々にはまだ、アスガルドを攻める理由が残っている。どれだけの犠牲を払ってでも神フレイを奪還せよ――そうフレイヤ元帥閣下が命じられたのならば、我々は従うのみ」
「えっ……? あなたはフレイヤ様の洗脳を受けていないとおっしゃっていたではありませんか! なのに、フレイ様を取り返すためだけにアスガルドの兵や無辜の民たちに手をかけようというのですか……!? そんなの、間違っています!」
ヴァナヘイムには交渉を粘り強く続けていく選択肢がまだ、あったはずだ。
フレイヤを戦争へ突き動かしたのが悪魔アスモデウスであり、彼女自身に罪はない。彼女はエルフのティターニア女王と同じく犠牲者――それを理解していても、シルには湧き上がる怒りを押さえつけることができなかった。
感情も露に叫ぶシルに対し、ヘーニルは表情をピクリとも動かさなかった。ミーミルもまた、瞑目したまましばし口を噤む。
口を閉ざした相方に代わって、ヘーニルはシルへ淡々と言った。
「今のヴァナヘイム軍は、軍隊として見れば完成の域に達しつつある。ユグドラシル全土で最も優れた統率力、戦闘力、技術力……あらゆる分野において我々は最先端にあるのだ。そして、それを成し遂げたのは、長らく軍の構造改革に着手していたフレイヤ様であった。名実ともに、フレイヤ陛下は国の心臓。彼女なくしてヴァナヘイム国は存続たり得ない。フレイヤ様は、アースガルズの民にとってのイヴ女王と同様――いや、それ以上に国民に信奉された存在なのだ。
……これで、理解できたか?」
フレイヤの行動が行き過ぎたものであっても、彼らはそれを否定できない。フレイヤはヴァナヘイム国民からすれば本当の意味での神にも等しい人物であり、その地位を簒奪することは紛れもない禁忌なのだ。
また、フレイヤという支柱を失うことによるリスクは、ヴァナヘイム軍にとってあまりに大きい。
他国から見て納得のいく大義がなくとも、彼らは自国の形を保つために戦争の道を選んだのだ。外からいくら糾弾されようと構わない、ヴァナヘイムはあくまでヴァナヘイムのやり方を通すのだと。
「そんなの……あなたたちのエゴでしょう。アスガルドには何の罪もないのに、どうして攻められなくてはいけないのですか!」
彼らの事情は分かった。だが、それでもシルは認められない。
そんな理不尽を課される理由など、アスガルドの民たちには何もないのだ。彼らが不条理な運命に捻り潰されるというのなら、これまでシルたちがやって来たことは一体なんだったのか。【ユグドラシル・システム】を変えたところで、そこに生きる者たちが起こす戦は終わりはしなかったなんて――。
ミーミルは怒りに燃えるシルへ、肩をすくめて薄ら笑いを浮かべた。その表情はやや硬く、わざとらしくも見えたのだが、この時のシルには気づく余裕が一切なかった。
「あぁ、それは明確に我々のエゴイズムと言えるな。しかし、それで何が悪い? アスガルドの民たちには申し訳なく思うが、神フレイを取り戻すついでに領土や資源が手に入るのなら、大軍を差し向ける価値もあるというものだ。
……さて、シル・ヴァルキュリア。話はここで切り上げよう。夢想家の君と議論したところで、平行線のまま終わらないだろうからな。我々に何を主張しようが事は揺るがない、それは理解してもらいたい」
そう突き放すように言って、黒髪の神は天幕へ引っ込んでしまった。
その後をヘーニルも追う。彼は最後に振り向き間際、シルへ何か伝えようと口を開きかけたが、結局は言わずじまいに終わった。
取り残されたシルの周囲は未だ兵士らが取り囲んでいたが、彼女は睨み付けてくる彼らに首を横に振って見せた。
「私にあなたたちに杖を向ける意思はないわ。話し合いで解決はできないし、私一人でこの人数を相手取って戦うのも不可能でしょうから……」
そう言い残し、シルは浮遊魔法で再び黄昏の空へ浮かび上がる。
思えば、最初から大本を断てば良かったのだ。ヴァナヘイムへ飛び、フレイヤと戦って彼女から悪魔アスモデウスを取り払う。そうすれば、この戦争を中断することをフレイヤに認めさせられるだろう。
「グリームニル――あなたのことも、助けるから」
ここ一週間、シルはグリームニルとの連絡が取れなくなっていた。
彼の身に何があったのかは分からない。だが、それが尋常ではない何かというのは推測できる。
脳裏に過る嫌な予測の数々を無理矢理に封じ込め、シルは進路を西へ向けた。
◆
「西方国境での戦闘は現在も続行中、我が軍が優勢だということです。この調子のまま進めば、三日と経たないうちに国境を突破できるかとのことです」
見上げた空が群青色に染まった頃合いで、宮殿のベランダに置かれた玉座に掛ける女神フレイヤは、目の前に跪く配下の男から報告を受けていた。
瞳を閉じ、彼女は得た情報を吟味する。
――予定通りの進行だわ。そう、あまりに予定に沿いすぎた推移。
フレイヤという人間は、性に奔放な愛の女神として名が知れているが、軍事になると見せる顔をがらっと変える。必要ならば犠牲も厭わない、冷徹なる指揮官――それが戦場での彼女の在り方だ。
彼女は来るべき戦争のために、情報収集を欠かさなかった。彼女はアスガルド軍の実力を知っている。だから、腑に落ちないのだ。
――ヴァナヘイム軍の完成度は至高の域に入っているけれど、その栄光はアースガルズ軍と並んでのもの。そのパワーバランスが崩れたことは、これまで一度たりともなかった。だからこそ、私たちは中々アースガルズに侵攻することができなかったのよ。
フレイヤは部下の男に退出を命じてから、空に光る銀色の月を眺める。
今にも雲に隠れようというその儚い輝きを、旧知の男に重ね合わせ――彼女は囁いた。
「ねぇ、オーディン。本来のあなたたちならば、私たちを一切攻め込ませない完全なる防陣を敷くこともできたはずよね? それができない理由は何? 今、王都では何が起こっているの……?」
胸騒ぎがした。そして確信があった。自分たちからは見えない場所で、世界の運命が大きく歪もうとしているのだと彼女は察していた。
アスガルドにはフレイがいる。実の兄でありながら、フレイヤがこの世で最も愛した男性である彼が。
もし、アスガルドに危機が迫ろうとしているのなら、フレイもそれに巻き込まれる可能性がある。それだけはさせられない――フレイヤは焦燥に駆られながらも、頭の中に響くもう一人の声に諌められて思考の平静さを取り戻す。
――フレイヤ、落ち着け。私の力を信じるんだ。私の魔法により兵士たちはお前の従順な駒なのだから、お前が正しい采配を振るえればそれでいい。お前は、ただ兵たちを指揮することだけを考えろ。
「ありがとう、アスモデウス。今の私が信じられるのは、あなただけよ」
自分の心にいつしか住み着いていた悪魔アスモデウスの人格にフレイヤが気づいたのは、父ニョルズが死んだ三日後のことだった。
これまでも時おり記憶の一部が抜け落ちている自覚はあった。しかし彼女はそれを心労による症状なのだと片付け、さして問題視していなかった。
フレイヤにアスモデウスが憑いている――その事実を彼女に知らせてくれたのが、忠実だと信じていた右腕・グリームニルだった。
「本当に勿体ない……あなたが不遜な子でなければ、最高の臣下として認めてあげられたのに」
その夜、グリームニルはフレイヤの居室を訪れ、彼女と床を共にしようとした。普段は誘っても固辞するのに、珍しい――そんな風に思いながらも、フレイヤは快く少年を迎えた。
他愛ない会話、それからぎこちなく抱き締めてくる彼の腕……その温もりを感じるフレイヤは、一方でそこに違和感を覚えてもいたのだ。グリームニルの様子はいつもと僅かに違う。瞳の中に、何か迷いを抱いているような……。
フレイヤは少年に問い掛けた。悩みがあるのなら言いなさい、と優しい母親の顔で。
すると彼は長い沈黙を経て、女神に隠されていた真実を本人の前で暴き出した。
その瞬間――フレイヤは全てを理解した。自分の中にあるものの正体。そいつが有している力と、その価値。それによって行える物事の幅広さなど、何もかも。
グリームニルはフレイヤから悪魔を取り払おうとした。彼が放った光の魔術は、かつて神が悪魔に対抗して編み出した秘術であり、千年前の【神魔大戦】では神が悪魔たちを押さえ込むのに用いていた技だった。
が、アスモデウスら大罪の悪魔が異次元に封印されていた間、何もしていなかったわけではない。彼女らは来るべき復活の時に備えて、過去に辛酸を舐めさせられた魔法への対抗策も練り上げていたのだ。
フレイヤはその闇魔法を発動し、グリームニルの秘術を相殺した。そして――彼に深くを問わず、即座に束縛の魔法を使用して身体の自由を奪った。
アスモデウスの力は使える。これから女王として国を収める上で、さらには他国と戦争を行う中で、この悪魔の能力は彼女を助けてくれるはずだ。一人の臣下と悪魔の力を秤に掛けた女は、迷わず後者を選び取った。
フレイヤはもう、悪魔に操られた哀れな女ではなくなっている。
彼女は自らの利益のためだけに悪魔を受け入れ、御してみせた。それは【心意の力】によって為されたものであり、その技量はあのイヴ女王にも匹敵するほどであった。
「悲願を叶えるために、私は無垢を捨てたの」
ふと彼女がこぼした呟きは、他の誰にも聞かれることなく夜の風に吹かれて消えた。




