40 鬨の声
「全ては女王様のために! 全軍、進めぇ――っ!!」
指揮官の声に、兵士たちの鬨の声が重なる。
ヴァナヘイム東部、アスガルドとの国境を目前にした平野にて、ヴァナヘイム東部鎮台の二千の軍が進撃を始めようとしていた。
ヘルが下層で戦を起こしてから一週間が経った、夕刻。
ユグドラシル全体が揺らいでいるこの現状において、アスガルド侵攻など本来はもってのほかな話である。だがしかし、自ら先陣を切るその士官は、女神からの命令を絶対のものとして疑いもしていなかった。
フレイヤには人々を文字通り「魅了」する魔力がある。加えて彼女に取り憑いた悪魔アスモデウスには、人間を意のままに操る能力がある。この二つが重ね掛けされた今、彼女に逆らえる者はヴァナヘイム国内から一人としていなくなっていた。
軍の全ては彼女の駒。最愛の兄フレイを取り戻す――ただそれだけのために、女神は宣戦布告もなしに世界の中心たる国を攻める。
「あれは……何だ? なぜヴァナヘイム軍がこちらに近づいてくるんだ……?」
国境を守るアスガルド兵の一人が呟く。
ヴァナヘイムとアスガルドは近年、友好関係にあった。それはイヴがベルフェゴールの力を借りて強引に成したものではあったが、確かに二国は和解していたはずだったのだ。
いきなりのことにアスガルドの兵たちは戸惑いを隠せない。
が、やがてヴァナヘイム軍の目的に気づいた彼らは、動揺しながらも対処に動いた。
「大至急、王城へ伝令を。ここは我々で食い止める!」
アスガルド軍もまた、彼らの侵攻に迎撃の構えを取った。
こうして、ここに二国間の戦争が幕を開ける。
二国の戦争は130年前の大戦争以来。この時、この戦争が前代未聞の大災厄へと繋がることなど、この場の誰一人として予感してはいなかった。
◆
ヘルの軍勢により、ムスペルヘイムが陥落した――。
その報せがユグドラシル全土に行き渡ったのは、ヴァナヘイムがアスガルドへ戦を仕掛けた直後であった。
ムスペルヘイムは下層で最も軍事的に力を持つ国とされており、スルトなど上層の神々に匹敵する実力の「炎の巨人」を何名も抱えていた。
だから、炎の国が敗北したとの報を王城の執務室で聞いたとき、シルは耳を疑った。
「そんな、あり得ません! いくら最近戦をしていなかったとはいえ、ムスペルヘイム軍の練度はアスガルドやヴァナヘイムにも劣らないほどだったはず。怪物の軍勢なんかに負けるわけが――」
「気持ちはよく理解できる。しかし、これは真実なのだ。潔く受け入れ、対策を講じるほかにない」
重苦しい面持ちで執務卓に着くフレイは、諭すようにシルへ言った。
どうして彼はそこまで落ち着いていられるのか――シルはそれを問おうとして、止めた。
今、彼女の中にはフレイへの不信感が燻っている。その理由は、彼がシルに対し「上層から出てはならない」と厳命したためであった。
なぜそうしなければならないのか。彼女が訊いても、豊穣神はただ首を横に振るのみで何も答えてはくれなかった。
「フレイ様……再度訊きます。あなたはどうして、そこまでして私を縛るのですか? 監視の目が常に付きまとっていることはとっくに気づいています。おちおち眠れたものではありませんよ」
大袈裟に溜め息を吐くシル。卓の前に立って自分を見下ろしてくる副官に、フレイは瞼を伏せて囁くように言った。
「選りすぐりの使い魔を用いたつもりだったんだがな……君には全てお見通しか。その鋭さをもう少し、人の心の機微を読むのにも役立ててもらいたいものだ」
その言葉でハッと感づいた。
この人もパールと同じ――誰も手放したくない、優しくて欲張りな人。
「つまり、あなたは私を失いたくないから……私を束縛しようというのですね」
「そうだ。この二年間で君と過ごし生まれた情を除外しても、私には君を死なせられない理由がある。それは君自身もわかっているだろう。君には価値がある。どんな兵器にも、どんな魔導士にも劣らない最高の力――まさしく神と呼べる、偉大な魔導の技術。シル・ヴァルキュリアの持つそれを、むざむざ失うわけにはいかないのだよ」
彼女が戦争を調停できる可能性と、彼女が戦死するリスクを天秤にかけて、フレイは後者を選んだ。
シルも彼の発言は理屈では納得できる。もし自分が一国の主要な神であったなら、強力な魔導士はなるべく手元に置いておきたいと考える。世の中が戦争に揺れる時期であるなら、なおさら。
だが、感情の面では受け入れがたい。自分が戦地へ飛んでいけば、戦局を大いに変えられると彼女は信じていた。『双星の試練』をクリアした【永久の魔導士】としての自負が、彼女の背中をそう後押ししていた。だからこそ、行動を起こせない状況がもどかしくて仕方ない。
「っ、それは、そうですが……」
シルは説得力を持つ反論を咄嗟に思い付けず、言葉を半端に濁してしまう。
フレイは立ち上がると彼女の肩を両手で掴み、強い語気で告げた。
「見誤るなよ、シル・ヴァルキュリア。君は英雄ではない」
神の碧眼がシルの瞳を射抜いた。
英雄ではない、そのたった一言は、彼女の胸に残酷なまでに深々と突き刺さる。
シルが自身に投影していたイメージを、金髪の神は真正面から破壊してのけた。
「……では、私は」
「答えは自分で導き出せ。君ならきっとできるだろう」
そう言われてもシルには絶句することしかできなかった。
そんな彼女を尻目に、フレイは執務室を退出していく。
一人残されたシルは、脳内で反響するフレイの言葉への答えを探ろうとして――上層に留まる範囲で可能な次の行動に思い至った。
「やあ、シル・ヴァルキュリア。そんなに急いでどこへ向かっているのかな」
豊穣神の執務室を出て城内の廊下を早足に歩くシルを、中性的な男の声が背後から呼び止めた。
彼女は金髪を翻し、その神を視界に捉える。
壁際に背中をもたれかけるキザな所作の赤髪の神は、目を弓なりにしながらシルに手を振っていた。
「ロキ様。またお仕事サボってうろうろしているのですか? 女王様に叱られてしまいますよ」
「残念ながら、今はその女王様もいないからね。彼女の代行者とやらは随分と怠け者らしく、私を叱咤してくれないのさ」
「リューズ様、ですよね。『白の魔女一族』の末裔の」
ロキは、口を尖らせるシルへ歌うように返事をした。
常に束縛とは無縁の彼を内心で羨ましく思いつつ、シルは女王の名をぽつりと呟く。
すると途端に神妙な顔つきになったロキが、彼女に訊ねた。
「シル、君はリューズに会ったことは?」
「いえ、ありません。面会を希望しましたが、受理してはもらえませんでした」
「……やはり、君もか」
渋面を作るロキは力なく息を吐く。彼もシル同様、リューズという女について詳しくを知らず、不信感を募らせているようだった。
ならば良い、とシルは小さく頷いて、神の赤い瞳を真っ直ぐ見詰めた。
「あなたにだから明かしますが、私はこれから改めて女王代理のもとへ赴こうとしていたのです。あの、よろしければ同行していただけませんか? どうせ暇なのでしょう?」
「それが人にものを頼む言い方かい? まぁ暇なのは事実だし、何なら君に頼まれずとも付いていくつもりだったけどね」
深紅のローブを纏う神は、もたれていた壁から背中を離してシルの隣まで歩み寄る。
彼女の肩にそっと手を置き、ロキはあえて軽薄な調子を崩さずに囁きかけた。
「君は私のお気に入りなんだ。もちろん魔導士として優秀なのもあるが――君は必要に応じて『悪い子』になれるから。ああ……君のような子が、フレイのように頭のお堅い良い子ちゃんの下にいるなんて、勿体ないと思わないかい?」
悪童の笑みを浮かべてロキは言ってくる。
シルは無言の返答を返し、女王の間への歩みを再開した。
『悪い子』――その単語は、彼女の内にあるコンプレックスをちくりと刺激していた。既に過去の話だと片付けた問題であったが、エルやパールといった純真な心の者たちに関わっていると、時折思い返して考えてしまう。
話題を強引に変えようと、シルはロキへ問いかけた。
「ロキ様……一つ、訊ねてもよろしいでしょうか」
「ん、なんだい?」
「あなたは女王様の臣下なのですか。それとも、国を守る戦士ですか。もしくはそのどちらでもない、傍観者なのですか?」
シルの質問に今度はロキが答えあぐねる番だった。
低く唸りながら腕組みしている神――その横顔を見ていると、答えは決まっている癖にこちらに何を言おうか迷っているように感じられて、シルはついきつめの口調で返事を催促してしまう。
「答えてください、ロキ様」
「やー……どう表現したらいいものかと思ってね。そうだな……私はね、言うなれば【トリックスター】なんだよ。それで納得してもらえるかな?」
トリックスター。物語において神や世界の秩序を破り、新たな物語を展開する者を指す。
このユグドラシルに当てはめるなら、イヴの作り出す世界を彼は変えようとしていると言えるのだろうか。それにしては、何だかんだで彼もイヴの忠臣に見えなくもないのだが……。
「まあ、別に納得してもらえなくてもいいけどね。私はこんな性格だし、言葉をそのまま受け止めてもらうことも期待しちゃいないさ。――シル・ヴァルキュリア。とにかく今考えるべきことは、この先の戦争についてだ。君たちはユグドラシルに干渉したようだが、一度動き始めた物語はそう簡単に軌道修正できない。戦が始まる運命は避けられないだろうさ。
時代は英雄を求めている。そして 君は英雄だ、シル・ヴァルキュリア。世界を救い、民を護れること――本当の意味でそれを為せるのは、君しかいない」
ロキはフレイと正反対の台詞を、彼に似つかわしくない真剣な眼差しと共に口にした。
その瞳を見れば嫌でも思い知らされる。この人は本気でシルを信じ、英雄になってほしいと願っているのだ。
フレイとロキ、どちらも腹の底に確固とした意志を秘めているのは間違いない。だからこそ、シルには決断できなかった。
どちらの言葉をもとに行動を起こすのか。それは彼女の、世界の未来を揺るがす大きな選択である。
と、そこで――ロキは立ち止まると何かに気づいたように近くの窓を覗き、大仰に声を上げた。
「おやっ! 何やら外が騒がしいな。民たちが大勢集まっているよ。一体何事なんだろうね?」
シルも彼の隣からその光景を見下ろす。
彼女らがいるのは十階建ての城の7階であり、城壁の周囲に群がっている人々の様子がよく見通せた。
彼らは口々に何かを叫んでおり、中にはプラカードを掲げている者もいる。
――デモ隊? いったい、何を主張しようとして……?
「軍は何をやってるんだ!? あんたらが動かないから各国の戦乱は収まらないんだぞ!」
「そうだ! アスガルドは世界の中心たる誇りを持ってこれまでやってきたのに、どうして調停に舵を切らない!?」
「女王陛下! 聞こえておいでですか、陛下!! どうか我らの願いに応えてください、イヴ陛下――!!」
デモ隊の人数は五十名を優に超えている。これだけの人が、ユグドラシルに平和を取り戻そうと声を上げているのだ。
彼らの叫びに耳を傾けながら、シルは固く握った拳を震わせる。
――あなたたちがすがろうとしている女王は、もういないの。それに、この世界を戦乱に叩き落とした張本人が、イヴなのよ。
心中で告げるが、彼らに向かって直接それを言う勇気はなかった。民衆にとってイヴとは絶対の神。公然とその神を否定しようものなら、シルは民衆からの支持を一切得られなくなるだろう。今後のことを考慮すれば、それだけは避けたかった。
「リューズの命で軍は今、動けない。政府としても不干渉を貫くスタンスは変わらない。でも……シル・ヴァルキュリア個人として戦地に飛ぶことは可能ですよね」
「あぁ――そうさ。あれが民意の一つなら、応えてやるのが我々の務めだろう」
シルとロキは顔を見合わせ、頷き合う。
やはり放置しておくわけにはいかない。フレイに上層から出るなと厳命されているが、それは裏を返せば上層ならどこでも大丈夫だということだ。
「ロキ様。上層で次に戦が起こりうる場所はどこですか? 私はまずそこへ向かいます」
「ふむ……アスガルドと他二国の国境のどこか、は確実だろう。だけど具体的な地名までは予言できない。流石にそこまでは神にも断言できないよ。ただ、一番兵の動員数が多いのはヴァナヘイム東部鎮台だ。もしもヴァナヘイムが攻めてくるのだとしたら、そこからの可能性が高い。
――大軍勢で侵攻し、派手に力を見せつける。世界の主導権を手にするのは我々だと主張する。これから起こる戦争は、国と国との生存競争になるからね。飢えて追い詰められた獣のように、枯れかけの資源を求めて奪い合う。苛烈さはこれまでの比じゃないくらい跳ね上がるだろうさ」
ロキの瞳に浮かんだ憂いを見て取り、シルはますますいてもたってもいられなくなった。
猶予はもうない。フレイの意向は、無視せざるを得ない。
赤髪の神はシルの背中を押すように、最後に言い添えた。
「行っておいで、シル・ヴァルキュリア。君の魂は戦場でこそ最上の輝きを放つ。女王代理に関しては、私に任せておきなさい」
「――はい! この世界を守ることが、私の使命ですから」
シルは左胸に拳を当てるアスガルド軍式の敬礼を行い、力強く答える。
彼女らの憂慮はそのすぐ後、軍部からもたらされた報により現実のものへと変わっていく。
◆
浮遊魔法による飛行術を用い、シルは『王都アスガルド』から『アースガルズ王国』の西部辺境へ急行する。
隼のように空を突っ切り猛進する彼女は、目的地を視界の先の地平線に見出しながら、アスガルドに残してきたパールやエルたちを想った。
自分が戦場に降り立つことで中層での戦のように調停が成功するとは限らない。血の流れない戦場などありえず、彼女自身もその例外ではないのだから。だがそのリスクは、彼女に逃げの選択肢をもたらすに足り得なかった。
――パール、エル、ノアさん、それにハルマ。激闘を乗り越えてすぐだというのに、また危地へ飛び出してしまってごめんなさい。特に、パール……あなたには何度頭を下げて詫びなければいけないかわからないほど、心配をかけてしまっているわね。
でも、それがシル・ヴァルキュリアという女の支柱、生き方なの。だから……今だけは、許してほしい。必ず、生きて戻るから。
パールとエル、ハルマは学園で、ノアは王城にて、それぞれの思いを胸にやるべき事をやっている。
職務を放り出し、戦地に赴くシルは間違いなく官僚失格だが――それでも、自分がやろうとしていることは間違いではないと、彼女は信じた。
黄昏の空に、響き渡る鬨の声――それを捉え、【永久の魔導士】は一気に加速した。
整然と隊列を組み、雄叫びを上げながら進撃していくヴァナヘイム軍。
その人数は目測でも一万を超している。いや、それ以上……三万に匹敵する軍団が、平坦で広大な大地にひしめいていた。
上空から見る限り歩兵が半数以上を占めているようだが、魔導生物に乗った騎兵や、浮遊する円盤型の魔導機械を駆使する空兵、砲兵や戦車兵もその背後に控えている。さらに最後方には黒ローブの一団――魔導士の部隊の姿もあった。
ユグドラシルにおいて、魔導士というものは全人口の中でも一割に満たない存在である。彼らは原初の神たちをルーツとする者たちで、古来から各国でも最上級の地位を欲しいままにしてきた。
軍隊でもそれは同じ。魔法を使えない人間はどう頑張ろうが将官には出世できず、軍の主導権は魔導士が独占してきたのだ。
シルの障壁となりうる魔導士は前線にはいないだろう。歩兵の攻撃は上空の彼女にはそもそも届かず、砲撃や銃撃は彼女の防壁魔法を破るに値しない。魔導士の防壁は本人の魔力量や練度に比例して硬度が高まり、【神】の称号を持つ者のそれなら戦車の砲撃などでは罅すら入らない。
「私は戦いをしに来たわけじゃない。戦いを止めるために来たのだから」
シルの接近を補足した空兵による赤き魔力の光線――魔導士隊以外による魔法の攻撃は魔法道具によるものだ――が、彼女へ幾筋も迫り来る。
半透明の光のベールのごとき防壁を周囲に展開し、シルは空兵の『魔力飛行盤』の間をすり抜けながら後方にいるであろう指揮官のもとへ急いだ。
「なっ、効かない――あの魔導士、かなりの強者だぞ!」
一人の空兵が悲鳴に近い叫びを上げる。
向けられる射撃の全てを弾き、見向きもせず。シル・ヴァルキュリアという魔女は軍団の後方に陣取った司令部まで接近していった。
「あれは、もしや……」
彼女は流星のごとく美しい輝きを纏い、徐々に降下へと移った。
その姿を凝視する司令部の一人の男性が、呟きをこぼす。
「【神】級の魔導士か。女王様が鎮圧に動くとは想定していなかったが……どうする、ミーミル」
「あれが【神】なら少々厄介だ。『非魔導士』の兵どもでは一切歯が立たず、我々が出向かねばならないのだからな。とはいえ、こちらへ接近しているのはあの一人のみに見える。――迎えてやれ、ヘーニル」
最初の声に、別の男の声が返答した。
黄金の鎧にややくすんだ金色の短髪をした、がっしりとした体格の神がヘーニル。
対して白銀の鎧を纏っているのは、黒の長髪に眼鏡をかけた理知的な印象を与える男性だ。彼の名は、ミーミル。
両者ともにヴァナヘイム国軍大将の階級にある【神】であり、長年に渡って軍を率いてきた名将である。




