39 ハルマの真実
「世界を支配する」。
女はその純然たる目的のために、人の心を捨てた。
支配とは、管理なり。
管理には感情はいらない。必要なのは、一切の間違いもなく世界を掌握する力のみ。
己に足りないものは何なのか――それを考えた際に、女がまず思い至ったのがその「力」だった。
人の身では不十分。神に……魔導士たちの称号としての【神】ではなく、より高次の魔導士の枠を超越した「強者」にならなければ、完全なる支配は実現できない。
平等、秩序をもたらすためには、愛など不要。
安寧をもたらすならば、欲望を絶やさねばならない。
血と破壊、死が連鎖する戦乱の世界は、決して繰り返してはならない。
何度願おうと、何度手を尽くそうと、彼らは争うことを止めなかった。
戦争が終結し、平和が戻ったと思えば別の【神】が欲望のままに戦を起こす。
女は世界に絶望していた。人間たちの殺し合いが永遠になくならない運命を恨み、憎んだ。
――ねえ、ノア……私は間違っていたの?
――ねえ、アダム……私が頂点に立った選択自体が誤りだったの?
女は問う。自分を信じ、支えてくれた者たちへ、女王として歩んだ道の是非を。
だが、その答えは決して導き出されることはなかった。
彼女が人を信じる限り、どうしても納得のいく回答は出せない。
――なぜ……あなたたちは戦を止めないの。なぜ……平和を長続きさせられないの? それは私があなたたちに、偽りの安寧を与えているからなの? ありのままの過去を語れば、それで心変わりしてくれるの?
私がやってきたことは正しかったはず……このユグドラシルの創造から携わってきた私の行動は、誰にも否定できるものじゃなかったのに。どうして、あなたたちを完璧に掌握できない?
長い葛藤の末に、女が手にした選択肢は――『変えられないなら壊せばいい』という残酷にして暴虐なものであった。
そして、それを行うには人間らしい心は最大の障壁となった。けれども彼女は、自らをどこまでも追い詰められる人物であった。
彼女はノアへ記憶を継承する際、己の中の無駄な感情を全て同時に移植した。
喜怒哀楽はもう、彼女にとって不要なもの。機械のように、心を持たぬ神となって世界を再構築する――それが自分に課せられた最後の使命なのだと、彼女は信じて疑わない。
「最終戦争が始まる。あまねく世界は無に帰し、生まれ変わる」
女は祭壇――かつて愛した夫の研究所の跡地に立ち、独りごちた。
アスガルド郊外の森林内部にある祭壇は進入禁止区域であり、何人たりとも立ち入れない。
そこは女にとって最大の聖域であり、原点である場所だ。ここで始まったのならば、終わらせるのもここなのが道理だろう。
夫や研究者たちの名を刻んだ石碑の前に佇む女は、その中から一つの名に目を留めて指でなぞった。
「リリィ……いえ、リリス」
彼女にそれ以上の言葉はなかった。
感情が希薄になった女からは、昔日に親友へ向けていた情までもが失われていたから。
最後の一線を女は越えてしまった。信じた者との思い出も、争った者との記憶も、彼女という人格を形成していた『過去』と永遠に離別し――彼女は純粋な存在、純粋な支配者となった。
◆
【ユグドラシル・システム】を巡るシルたちの戦いは終わり、使命を遂げた彼女らはその日のうちにアスガルドへ帰還していた。
下層の国々ではヘルによる侵略戦争が続いており、当初シルはそれを止めるため飛んでいこうとした。
だがしかし、ノアに止められたことで彼女はそれを断念せざるを得なかった。――自分達は死闘を終えた直後で、休息なしでは戦地に赴いたところでまともに動けないだろう。あまりにも正論なノアの指摘に、シルは反駁できなかった。
「歯痒いわね……戦争が起きていると知りながら、待機しているしかないなんて」
「仕方ないよ。この待機だって、次の戦いに繋げるためなんだ。ここは素直に受け入れないと」
ベッドに横たわり、天井をぼんやり眺めながらシルは唇を噛む。
そんな彼女へ、同じベッドの隅に腰かけるパールが静かに諭した。
首を横に向け、青年から視線を逸らしてシルは「わかってるわよ」と返す。
「下層での戦争は、カイン君やアベル君が【世界樹の守護兵】を用いて食い止めてくれている。今は彼らを信じよう。――君には何もかもを一人で背負い込もうとする悪癖がある。他の人たちを信頼して任せるというのも、戦いの中では大事なことだと俺は思うんだ。だから、ね……シル」
パールは穏やかに微笑み、シルのもとへ少し体を寄せると、彼女の金色の髪を梳くように撫でた。
ちょっぴり不器用で、だけれど温かみに溢れる彼の手の感触に、シルは険しくなっていた表情を和らげる。
そして――心臓の鼓動が僅かに早まり、体温も上がっていることを彼女はすぐに自覚した。
これまで、パールからこうしてシルに触れてくることは殆どなかった。軽いハグくらいはあったが、今回のはそれとは別物だ。いま撫でてきている彼の手には、単なる親愛の情のみならず――彼女を守りたい、安心させたいという強い意思が込められている。
「シル……俺、君のことが好きだ。この世の誰より大切で、永遠に守り抜きたいパートナー……『双星の間』での試練を経て、改めて実感した。俺は君を守るためなら、命さえ賭せると」
真剣で、誠実で、どこまでもまっすぐで美しい。
彼の瞳の澄み渡った色に、シルは無意識のうちに目を濡らしていた。
「な、泣かないで……君は笑ってたほうが素敵なんだから」
そんなことを言われて泣かずにいられる方がおかしい。それでもシルは、無理やりにくしゃっと笑顔を作ってみせ、自分に膝枕してくれている彼に囁きかけた。
「――ありがとう。その言葉、そっくりそのままあなたに返すわ」
「どういたしまして」
パールは太陽のような笑みで頷く。彼はしばらくの間シルをただ見つめていたが――やがて、意を決したように膝枕していた彼女を抱き起こすと、その唇を彼女のそこへ静かに落とした。
長い、長いキスだった。これまでとは異なる、これから一つに溶け合おうという誓いの接吻。
それを心の準備として、唇を一旦離した二人は向き合う。
深呼吸したシルは、上目遣いにパールを見て小声で言った。
「……こう見えて私、初めてなの。だから、優しくしてね」
「う、うん。もちろんさ」
ノアの言葉を脳裏に過らせ、パールはごくりと唾を呑みつつ答える。
それから夜が明けるまで、濃密で決して忘れられない時間を二人は過ごすのだった。
◆
同じ夜。
学園寮に戻ったエルは、自室のドアがノックされた音にベッドから跳ね起きた。
時刻は23時を回っている。こんな時間に来るなんて非常識にも程がある――彼女はぶつくさとそう呟き、重そうな足取りでドアまで向かった。
が、その表情は来訪者の顔を見た途端に一変する。
「や、やあエル……。帰りが遅くなって申し訳ない」
「ハルマくん! とにかく入っておくれよ、話さなきゃいけないことが沢山あるんだ」
「ああ、わかってる。でも、その前に――」
頭を掻きながら言うハルマに、エルは首をふるふると横に振る。門限はとうに過ぎており、彼はエルに行き先も伝えずに外出していたにも関わらず、エルは少年を叱りつけもしなかった。
つくづく彼に甘い――その自覚はあるが、少女はまだこれでいいと思っている。ハルマの瞳の奥にある、暗い闇が晴れるまでは。
少年の過去に何があったのか、エルは知らない。しかし、幼くして両親を失ったエルと同じかそれ以上の精神的ダメージを彼が受けていたことは、その目で分かった。
「……唇がかさついてるな。ちゃんとケアしないと」
「え、ほんと? やだな、全然意識してなかったよ」
とりあえず「おかえりのキス」をして、ハルマは真面目な顔で指摘する。
戦いに精一杯で気にする余裕もなかったのが実のところだが、そこは一旦置いておいてエルは彼を部屋へ招き入れた。
居間兼寝室の小さな一部屋に、バスルームが付いたシンプルな居室。
「どこでもいいから掛けて」とエルが促すと、ハルマは迷わずベッドにごろんと横になった。その様子があまりに子供っぽかったので、彼女はつい笑ってしまう。
街で彼と購入した木製の椅子に座り、いつも通り一日の出来事を報告し合うことにする。
「私からは吉報さ。私とシル姉さん、パール先輩、それからノアさんの四人で【ユグドラシル・システム】に干渉して、世界に起こり始めていた災厄を食い止めることに成功したんだ。とっても苦戦した末にもぎ取れた勝利だったよ」
「マジかっ、やったじゃん! 実は俺もエルたちが時空の狭間を開いたところまでは見てたんだけど、その後も何とか上手く運べてたんだね」
「え……見てたって、どうやって……?」
エルが得意気に伝えると、ハルマはガバッと体を起こして声色をさらに明るくした。
それからさらっとのたまった彼の言葉を切り取って、少女は訊ねる。エルたちが試練に臨んでいる間、ハルマが何をしていたのか――それは彼女にとって、今最も把握しておくべき情報であった。
「ニブルヘイムの女神ヘルが戦争を起こしたことは知ってるよね? 俺は、彼女のその行動を止めるためにニブルヘイム王城に飛んでいたんだ。俺が未熟だったせいで、結果は失敗に終わっちゃったけど」
明かされた事実にエルは目を見張る。
だがすぐに追及せず、彼が一通り話し終えるまで聞き役に徹した。
黒髪の少年はエルの翠の瞳をまっすぐに見つめ、時おり言葉を選ぶような間を置きながら語る。
「ヘルとどんな戦いがあったのかは、また後で話すよ。……君が気になっているのは、どうして俺がヘルの動向に感付けたのかって点だろ? ……今夜は、それを君に説明する。簡単に信じてもらえるとは思わないけど……まぁ、聞いてほしい」
彼らしくもなく歯切れの悪い言葉に、エルは思わずきょとんとしてしまった。
それに反して少年の瞳は、痛ましいほど張り詰めた真剣な光を宿している。
「どうやら……俺は普通の魔導士じゃないらしいんだ。――最初は、単なる夢の中の光景に過ぎなかった。俺にそっくりな、黒髪の少年が出てくる夢さ。あいつは何かを言おうとしてて、俺が正面から見守りながらその台詞を待つ、って構図だった。この夢は二年ほど前から定期的に見るようになった。その周期はだいたい一ヶ月に一度ほど……ノアさんに会うまでは、そうだったんだけど」
彼は一度言葉を切ってベッドを立ち、テーブル上のペットボトルを取り上げるとその水で口を湿した。
夢は脳が記憶を整理するために起きる、とエルは聞いたことがある。彼の記憶――やはり、彼の過去には何かあるのか。
「君がノアさんに会ったのは、シル姉さんが彼女に再会したのと同じ日だったよね。だいたい一週間前」
「そう。夢の内容は、その夜から変わったんだ。これまで待っていても出なかったあいつの声が、ようやく聞こえた。知らないやつの声なのに、俺には不思議と聞き覚えがあった。あいつは言った――『やっと会えたね』と」
黒髪の少年は聖母のような穏やかな笑みを浮かべ、ハルマに白く細長い指をした手を差しのべたという。
そして彼は名乗った。
「『セト』、それがあいつの名前。彼は女王イヴが生み出した原初の神だったんだ」
「私、彼を知ってるよ。ノアさんが神の誕生について、話してくれたから」
「……それなら話は早いな。にしても、随分と踏み込んだところまで明かしたんだな、あの人は」
「それで、セトは何て言ってたの……?」
どうしてかエルは彼からその名を聞いても驚きはしなかった。
むしろ、心のどこかで納得していた部分があった。黒髪の天才魔導士の少年――ノアからセトの話を聞いたとき、ハルマくんみたいだと彼女は感じたのだ。
ハルマがセトのような残虐性を秘めた人物であるとは思えないが、何となく雰囲気が似ているのは確かだった。その根底にあるのは、強いカリスマ性――触れたものを畏怖させる魔導の力。そして、やり方は違えど人を惹き付ける言葉の力。
「『君に使命を託す』と、あいつは言った。『君にはその資格がある、なぜなら君は僕の生まれ変わりにも等しい存在なのだから』ともね……。最初は信じられなかったよ。ただの夢に過ぎないって一蹴してた。でも、ノアさんと出会った夜からセトは毎日俺に話しかけてきて……彼の話を聞くうちに、俺が彼の生まれ変わりなのだと信じられるようになった。――いや、信じざるを得なかった」
セトが夢で語りかけてくるようになって以降、ハルマは寝る前に自作の魔道具――周囲の魔力を感知して記録する機械――を部屋に設置しておいた。
すると、その魔道具に反応が見られたのだ。彼の睡眠中の深夜、十分ほど室内の魔力濃度が高まった。十分という時間はハルマが夢を見ている体感時間と一致しており、何らかの魔法が自分に夢を見せているのではないか、と彼は推測した。
そこでハルマは、夢の中でセトに問うてみた。『あんたはどこから俺に言葉を発信しているんだ?』と。
セトの答えは『学園の図書館』であり――翌日の夜、ハルマはこっそり寮を抜け出してそこへ向かった。彼は持ち前の行動力で学則を正面から無視し、図書館へと潜り込んだ。
多少手間取ったもののどうにか侵入に成功し、足を運んだその一室で、ハルマはその人物に出会った。
「まさか、本当に会えたのかい!? いや、そもそもセトがまだ生きていたこと自体驚きなんだけど」
「彼はユグドラシルが出来てから玉座をイヴに譲った後、ひっそりと世界を見守り続けていたらしい。今は全盛期ほどの力はないと笑って言ってたけど、俺にはそうは思えなかった。彼が発している魔力の強さ、氷のように冷たい威圧感……実際に向き合ってみて、彼が本物の強者なんだって分かったよ。そして、確信した。彼の言葉に嘘はないのだと――鏡のごとく残酷に真実を暴くのがセトという人間なのだと」
ハルマがセトと対面したのはシルたちがニブルヘイムに飛んだ前日、つまり昨日だ。
その夜ハルマはかつての支配者からヘルの野望について知らされ、今に至ったというわけなのだが――エルには腑に落ちない点が多すぎた。
「なぜ彼はヘルの行動に気づけたんだろう? それに、どうして今になって君にコンタクトしてきたんだろう? 存命していたのなら、その気になればいつでも出来たはず。ヴァナヘイムのニョルズ様のように魔法で無理やりに寿命を延ばした魔導士は、病気なんかで体調を崩せば呆気なく逝くからね」
「そんなこと言われても正確なことは分からないよ。彼が今を時機と見たからとしか、俺には言えない。世界の異変、イヴの目論見、暗躍する悪魔たち、それから水面下で育っている戦争の芽……これだけ揃えば、かつての皇帝が干渉したくなってもおかしくはないからな」
生まれ変わりなんて本当にあるのか――まずそこから疑いたくなってしまうエルだったが、とりあえず頷いておくことにした。
客観的に考えてもハルマがこんな嘘をつくメリットは皆無だ。ならば、彼の発言は事実なのだろう。
しかし、それを現実として受け止めた途端、彼女の脳裏に一つの懸念が過ぎる。
「ハルマくんっ――」
エルは突然席を立ち、ベッドに掛ける少年へ駆け寄った。
目を丸くする彼に構わず、腕を伸ばして思いっきり抱きしめる。そのままベッドに上がり、彼に抱きついたままごろりと横になった。
戸惑い気味に少女へ腕を絡めながら、ハルマは訊ねる。
「お、おいエルっ、いきなりどうしたんだよ」
「どうしたもこうしたもないよ。ただ抱きしめたかった、ただ君の温もりを感じたかった。それじゃいけないかい?」
「い、いけなくはないけど……いや、物凄いシリアスな話のあとだから、もっとしんみりしたムードになるのかと」
「ああそうかい、いつもはがっついてくるのに今日はそんな気分じゃないってことなんだ? じゃあいいよ、私もう寝たいから、さっさと部屋に戻って」
わざとらしくあしらうように言うと、たちまち少年の顔が餌のお預けを食らった子犬のようになる。やっぱりハルマくんはハルマくんだ、とエルは苦笑した。
「ふふっ、なーんてね」
「なっ……脅かすなよ、もう」
安堵に破顔する彼と衣服越しに肌を密着させ、キスをする。
エルが抱いた懸念とは、セトの生まれ変わりだと知ったことで彼が変わってしまうのではないかというものだった。
セトは残虐な行為に及ぶことも辞さない性格だとノアに聞かされた彼女は、彼がそうなってしまうのではないか――変わってしまった彼が自分を必要としなくなってしまうのではないかと、恐れずにはいられなかった。
だから、彼との繋がりを求めた。彼の温度、呼吸、エルへと向けられる愛の全てを体で感じたかった。体を溶け合わせ、心も密接に触れ合わせて確かめたかった。
それはハルマも察したのだろう。彼はエルの頭を自分の胸に抱き寄せ、彼女の耳元で囁く。
「大丈夫だよ……俺は俺で、セトじゃない。今までと変わらずに君のそばにいる。君やシル姉さん、パール先輩……皆をずっと、守り続けるから」




