38 『ありがとう』
状況の確認を済ませたノアは、一旦シルたちの待つコンソール前まで戻ると報告を始めた。
焦りを隠した淡々とした口調で、彼女は事実を子細に伝えていく。
「あたしたちが侵入経路にした『空間の狭間』は、既に消失していた。おそらくは外部からの干渉で強引に塞がれたんだと思う。内側からこじ開ける方法もないわけじゃないけど……それには入る時と同様に莫大な魔力がいるんだ。当初あたしが考えていたのは、この管理室に貯蓄されている魔力を用いて帰還するという方法だった。しかし……見れば分かる通り、ユグドさんの応答はなくなってしまった」
ヘルの声が届いたあの時、この管理室には激しい魔力の揺らぎが発生した。それと同時に、青白いスクリーンに表示されていたユグドラシルのアバターは消え去り、シルたちが何度呼びかけても彼からの返事はなくなった。コンソールから操作しようと試みても、画面が真っ暗に落ちてしまっている。
【ユグドラシル】は世界が完成してから一度たりとも稼働を停止しておらず、『電源を入れる』操作はイヴ以外の誰もしたことがない。そのため、シルたちはまず電源のスイッチを探すところから始めなくてはならなかった。
「機械なんだから、どこかしらに電源ボタンがあるはずだ。俺たちで力を合わせて見つけ出すしかない」
「ええ。ユグドラシルが停止したということは、世界は今、何のシステムにも管理されていないわけで――。……ちょっと待って」
と、シルはそこで気づく。
ユグドラシルの管理システムが停止したのなら、世界に起こる飢餓なども進行しなくなるのではないか。
それを口にすると、まず反応したのはノアだった。彼女は首を横に振りながら、この世界の仕組みを淡々と説いていく。
「この世界はこれまでずっと、ユグドラシルの管理のもとで成り立っていたんだ。気温や天候などを定めてきたシステムがなくなってしまったら、それら全てが無秩序に陥る危険がある。長い目で見れば、システムの停止は完全に悪手だよ」
「では、どうすれば――」
「冷静になれ、シル。あたしたちがやるべきことは一つ……ユグドラシルを再起動して、システムを変更するんだ。あたしたちなら成し遂げられる。だから諦めないで」
「……私は最初から、冷静です」
シルの頭が冷えたのを確かめ、ノアは頷く。
コンソールの周囲に目を走らせた彼女は、卓の下部に電源ボタンを発見し、それを押した。
ほどなくして画面に光が戻る。『ログインしますか?』とのメッセージに、ノアはここに来た直後と同様に自らのコードを告げた。
「ノアさん……あなたは凄いです。こんな予期せぬ状況にも、平静を保って対処できるんですから。私も見習わないと」
「そんなことを言われたのは初めてだよ。何だか、照れ臭い」
シルの称賛に照れ隠しの苦笑を浮かべながら、ノアはユグドラシルの生体認証を受ける。
無事にログインが完了すると、彼女は真っ先にユグドラシルのアバターを呼び出した。
ブン、と音を立てて光のスクリーンが再起動し、そこに一人の人間の影が映し出される。
ここまでは円滑に進んでいたのだ。だが、問題はその後だった。
『やあ……また会えたね』
ユグドラシルの嗄れ声とは別物の、玲瓏な少年の声。
その声にはシルたちも聞き覚えがある。『双星の間』にて彼女らと交戦したAI、カインだ。
シルは今日で何度目とも知れない驚愕に瞠目しつつ、少年の台詞に応える。
「ユグドラシルさんではなく、どうしてあなたが出てきたのか……教えてもらえるかしら」
『僕が真実を明かすと思うかい? 少しは自分で考えたら?』
――相変わらず生意気なガキね。
せせら笑うカインを、シルはそう声に出さず罵倒した。
ユグドラシルに代わってスクリーンに登場した少年は、イヴと全く同じエメラルドグリーンの髪と瞳をしており、体格は細身で小柄。白無地のローブを着たやや脱力した佇まいは、その中性的に整った微笑みとも相まってミステリアスな雰囲気を醸し出している。
「カイン……」
ノアは彼を見上げ、その名を小さく呼んだ。
彼女がカインの人間としての姿を目にしたのは、今が初めてであった。
本当にイヴに、そして記憶の中のカインにそっくりだ――少年の顔に姉の面影をありありと感じ、胸がどきりと痛む。
だが、彼が本物のカインでないことも理解している。似ているのは見た目だけで性格はまるで別人だと、これまでの戦いで散々思い知らされている。
胸に手を当て、深く息を吸い込んでからノアは少年へ訊ねた。
「カイン、一つ聞くけど……さっきの戦いの記憶はある? 派手にぶった斬ったから、脳にまで変な影響がないか気になってね」
エルやパール、シルが緊張の面持ちでノアとカインとの間で視線を行き来させる。
機械の体が全損したため彼がノアたちに直接の危害を加えることはないだろうが、何が起こるかは予測がつかない。それぞれが腰に差している杖や剣の柄に右手を触れさせながら、カインの返答を待つ。
『ああ、大丈夫さ。僕は至って正常だよ。アベルもきっと、それは同様だ。……全く、お前の剣は容赦がなさすぎだよ、ノア。想像を絶する痛みだった……剣に倒れて初めて、お前の苦しみを理解できた気がするよ』
カインの声色は気のせいか先程よりも柔らかく、ノアの気持ちに触れようとしているように捉えられた。
――なんか私の時と態度違わない?
シルはひっそりとそうこぼすが、幸い誰も聞こえなかったようで話は進んでいく。
『人の身に刻まれる痛みというのは、あれほどまでに激しく焼かれるようなものだったんだね。程度の差こそあれ、人々は痛みを感じて生き、日々を戦っている……その一端に触れさせてもらえたことは、感謝している』
「戦争が起これば、終結のその時まで同じような痛みを抱く者は際限なく増えていく。もちろん命を落とす者もいる。――あたしたちはそんな人たちを減らすために、ユグドラシルを変えようとしたんだ。世界に災厄をもたらし戦争へ導こうという彼の意思を変えれば、全てが救われると信じてね」
おそらく、戦いを経てカインは変化したのだろう。AI風に表現するなら学習したとも言える。
アベルがノアに止めを刺そうとした際に彼女の脳をスキャニングすると口にしていたが、同じことを散り際にカインも行っていたとしたら。
ノアの思考や記憶を読み取り、彼なりにそのことについて考えた結果が、今の言葉なのではないか。
『お前の記憶を覗き見て、僕にはわからなくなった。イヴ女王陛下の命令が本当に正しいのか……世界を破滅させるユグドラシルの運命は、間違っている可能性もあるのではないかと……。おかしいよね、僕は陛下に造られた存在なのに、彼女を疑念視するようになってしまうなんて』
「いや、おかしくなんかないさ。あんたは姉さんの意思ではなく、自分の意思に則って物事を考えられるようになった。あんたはもうとっくに、『人』になってたんだよ」
AIとしての自分にコンプレックスを持っていたカインに、ノアは教えてやった。
この会話はアベルもカインの裏で聞いているだろう。双子がずっと抱いてきた葛藤が、自分の言葉で解れていったらいいと、ノアは思った。
「あんたたちは姉さんが過去に愛した双子じゃない。だから誰の愛も受けられない……そう思っていたんだろうけど、実際は違う。――あたしは、あんたたちのことが嫌いじゃないし、ユグドさんと同様にこれからも付き合っていきたい友だと思ってる。人の体を持っているかなんて、関係なくね」
ノアはカインが否定してくるのを予感し、先回りして言った。
スクリーン上の少年に彼女は手を差し伸べる。二人の手と手は決して触れ合わないが、それは大した問題にならない。
心と心が通じ合えば、それでいいのだ。
カインはノアと鏡写しになるように手を前に出し、そして目を弓なりにして笑った。
『ありがとう』
ごく短い、それでいて気持ちを伝えるには十分すぎる言葉。
思えば、カインがそんな単語を誰かに向けて使ったのは初めてだった。こんな感情を胸に宿したのも、これまで経験していなかった。
『ありがとう、か……いい響きだね。ノアだけじゃなく、シル・ヴァルキュリアやパール、エル――僕たちと戦い、人の心の力を教えてくれた君たちにも、最大の敬意を表そう。君たちにももちろん、感謝している』
こちらに深々と頭を下げるカインに、シルたちは微笑んで頷いた。
自分たちと関わることで誰かが良い方向に変わる――それ以上に嬉しいことはない。
カインはこの場の皆を見渡してから、一度咳払いして話題を変えた。カインがこの場に出てきた、本来の目的のために。
『【ユグドラシル】の人格は今、外部からの術式によって凍結睡眠状態にある。それを行ったヘルの目的は、大きくわけて二つ――第一に自らの侵略行為への「ユグドラシル・システム」の干渉を防ぐため。世界樹の幹内部に配備されている怪物を使って女王が妨害してくるのを危惧したんだ。そして第二に、君たちをこの空間に閉じ込めるため。彼女は君たちがこの先自分にとっての障壁になるのだと感づいたんだろうね。ヘルが打った妨害工作は、概ね彼女の狙い通り成功した……ってわけだ。
――でも、彼女にも誤算があった。それこそが、僕とアベルが「完全に己の意思のみで行動できる」ようになったということ』
冥界の女神は彼らを単なる機械だとみなして、まったく重視してこなかった。また、彼女はシルたちと同じくコンピュータについて無知であった。だから、カインたちまで警戒しようとは思いつきもしなかったのだ。
「ああ、あまりにイレギュラーな出来事だったからね。彼女が予測できないのも無理はない。それでカイン……大事なのはここからだ。あんたにユグドさんの代わりは務められるの?」
『元々、僕らはユグドラシルのバックアップのために生まれた存在でもあるんだ。彼に異常が起きたとき限定だけど、ユグドラシル・システムの権限は僕らに引き継がれる。ヘルがそれを知っていたなら僕らごと潰しにきただろうけど……そこだけが彼女のミスだったね』
が、ヘルが独学で巨大なコンピュータに干渉する魔法を編み出せただけでも驚愕すべきことだった。もし彼女がその魔法をさらに進歩させていたなら、カインたちも凍結されていたかもしれなかったのだ。
その幸運に感謝しつつ、カインは彼自身の考えを表明していく。
『僕たちは君たちを支持する。【ユグドラシル・システム】による全ての「災厄指令」を停止し、また世界樹の守護兵――モンスターの軍団を用い、ヘルの軍勢を阻むことを約束しよう。君たちが元いた場所に帰れるように、時空の狭間も再び開く』
緑髪の少年が発した台詞を、シルは脳内で反芻する。
数秒の沈黙――それを経て彼女はカインの言葉が嘘でないと確信し、隣にいるパールやエルと顔を見合わせた。
「全ての災厄が停止……つまり、ここまで来た私たちの目的が達成されたってことよね……?」
「ああ――色々と幸運に助けられた部分もあったけど、俺たちで成し遂げたんだ。俺たちがカインやアベルとぶつかり合ってなかったら、この結果は得られなかったんだから」
改めて確かめるシルに、パールは彼女の体へ腕を回すと力強く抱きしめた。
侵略戦争を起こしているヘルや、イヴが倒れてしまったことなど問題は未だ残っているが――今だけは、この感慨に浸らせてほしい。
全ての鍵は世界樹にあると夜の女神に告げられてからこの日まで、シルは命を賭しながら戦い続けてきたのだ。彼女のその使命は、短くも長い時間を経て、ようやく達せられた。
パールの胸に顔を埋め、シルは彼の温もりを感じた。
世界が平和になるのなら、彼との静謐な時間を過ごしていきたい。
しかし、その時はまだ先だ。シル・ヴァルキュリアという女は、世界やそこに暮らす民たちに危機が迫れば飛んでいく――そんな使命に突き動かされる人間になってしまったから。
自分の安寧よりも、世界のそれを求める。彼女のあり方は、この先もおそらく変わることがないのだろう。この時点では彼女自身を含め、誰もがそう思っていた。
パールから身を離し、シルは皆に向き直るととびきりの笑顔で言う。
「ありがとう、パール。ありがとう、エル。そしてノアさんも、ありがとう。あなたたちが一緒に来てくれなかったら、きっと私はここまでたどり着けなかった。あなたたちは最高の仲間よ」
「……礼を言うのはあたしの方さ。あんたがいなけりゃ、あたしは今も姉さんを諦めたままだったかもしれない。あたしを奮い起こしてくれたのは、他でもないあんたなんだよ」
礼を言うシルに対し、ノアは首を横に振った。
イヴ女王に不要だと宣告され、涙に崩折れたあの時は、全てを投げ出してしまおうかとさえ思った。そんな中でシルと再会し、彼女と話せたことが彼女の心に一筋の光をもたらしたのだ。
シルと握手を交わしながら、ノアはその深緑の瞳にうっすらと水膜を浮かべる。
ノアとは逆に、エルは彼女らしく爛漫に笑っていた。
「頑張ったね、姉さん……姉さんこそ、この世界で一番『英雄』と呼ばれるに相応しい人だ! やっぱり姉さんはすごい!」
「英雄なんて言い過ぎよ。私はただの天才魔導士だから」
「あはは、姉さんらしいや」
『双星の間』での戦いでは、シルの姿はエルにとって決して忘れられないものとして映った。
自分が目指すべき目標――憧憬の対象が、この時エルの中で明確に定まった。姉のように強く、優しく、凛々しい魔導士になりたい……その望みを胸に抱きながら、この先エルという少女は成長していくことになる。
『おい、パール! お前に一つ言っておきたいことがある』
「えっ……その声は、アベル君か」
と、そこで、カインと似ているが彼よりも荒々しい口調の声が青年の名を呼んだ。
スクリーンを振り仰ぐと、画面上では黒いローブを纏った緑髪の美少年が腕組みしてパールを見下ろしている。片割れと比べてややハネの多い髪の彼は、ふふんと広角を吊り上げて言った。
『お前、ひょろっとしてる癖に根性あるよな。気に入ったぜ』
「戦いの最中は散々暴言吐いてたのに、一体どういう風の吹き回し?」
『あぁ!? いいじゃねえか、終わったことだろ。文句あんのか』
「い、いいえ何でもないです! ……やっぱ怖いなこの子……」
凄みを効かせた睨みにパールがたじたじとする中、アベルはシルたちに視線を移す。
彼はシルと交戦中に会話してはいなかったが、彼女の魔力は常に感じ取って意識していた。戦闘中よりいくらか柔らかくなった声色で、少年は彼女らを激励する。
『これからお前たちは更なる困難にぶち当たる。だがな、負けんじゃねーぞ! この俺とカインに勝利したんだ、俺たちのメンツが潰れねえように勝ち続けろ! いいな!?』
「当たり前だよ! あたしたちは負けない!」
ぐっと握り拳を掲げ、強気に笑ってノアが答える。
「いい返事だ」と満足げに呟くアベルは、寂しそうに身を翻しながら片手を軽く上げた。
『後のことはカインに任せておけ。――じゃあな。お前たちとの戦い、最高に刺激的だったぜ』
そう言い残してアベルは霧散するように姿を消した。
数秒の間を置いて、再びカインがスクリーンに登場する。
『時空の狭間は開いておいた。来た時と同じようにそこに飛び込めば、『双星の間』まで戻れるはずだよ。……君たちとは、これでお別れだね』
首を僅かに捩り、瞳を伏せる彼の横顔に、ノアは記憶の奥底にあるカインの儚げな表情を重ね――そして、その思考を断ち切った。
彼は彼だ。一つの人工知能として生を受け、人間の心を得た『カイン』。イヴの息子のコピーなどではない、オリジナルの人格を持った少年なのだ。
「ああ……さよならだ」
ノアは少年を見上げて微笑んだ。
穏やかな彼女の表情に、カインも目を細めると口元を緩める。
シルたちもそれぞれ少年に別れの言葉を贈る中、かつて【冷血】だった女性は胸中で姉に語りかける。
――姉さん。これがカインとアベルだ。あなたが作ろうとした残虐に侵入者を排除するガーディアンではなく、まっとうな心を手に入れた二人の少年が、ここにいる。
ねえ、姉さん。無情な神の支配より、人と人が協力して治めていく世界ってのも悪くないんじゃないかい? 戦争だって起こるかもしれない。思想と思想の衝突や、そこから生まれた溝がなかなか埋まらないこともあるだろうけど……それら全て引っ括めて、人の世界なんじゃない? ぶつかり合う中で分かり合い、前へ進むことも不可能ではないんじゃないかと、あたしは思えるようになったんだ。
――ねえ、姉さん。もう一度人間を信じる道は、本当に残されていないの……?
これがノアの結論。ノアの望む世界の在り方。イヴの目指す場所とは異なる、彼女の理想だ。
元の世界に戻ったら、まずイヴ女王に会おう。そして真正面から彼女と向き合って、意見を伝えるのだ。
女王は聞き入れないかもしれない、だが――やらなくては、何も始まらない。
「進もう、シル・ヴァルキュリア。……あんたにばかり苦労をかけることになって申し訳ないけど、もう少しだけ、共に来て欲しい」
パールと二人で穏やかな時間を過ごして欲しいという願いは、確かにノアの中にはある。
だが、シルとパールがイヴ女王に戦争の調停を求めたあの日から続いている使命は、まだ果たされていないのだ。シルはイヴによる歪んだ支配を打ち破るまでは、誰が何と言おうが止まらないだろう。そしてそれは、ノアも同じ。
「もちろんです。あなたは私の一番の盟友なんですから」
【永久の魔導士】はノアの手を取り、部屋の端に開いた「時空の狭間」へと歩き出す。
彼女らの戦いはまだ、終わらない。
だが――その決着の瞬間は、刻一刻と迫ってきていた。




