37 女王の代行者
ニブルヘイムの女王、ヘル。
彼女が戦旗を掲げたことにより、世界の異変は更なる加速を極めていた。
【緑の魔女】イヴの命でロキとアングルボザが生み出した【禁忌の獣】――血の繋がった兄弟たる怪物達を呼び覚まし、冥界の女神は手始めに下層の国々への侵略を開始していく。
まずヘルが目を付けたのは、巨人族の国『ヨツンヘイム』。
理由としては、第一にヨツンヘイムには有力な【神】が少ないこと。第二に、軍隊の練度は高いもののそれは白兵戦に限った話で、魔法に関しては他国と比べて劣ることが挙げられる。
彼らに対しては、怪物達よりもヘル自身の魔術がよく効いた。戦場を凍てつかせる猛吹雪を発生させたり、兵士達を錯乱させ同士討ちを誘発したりと、彼女の放った広範囲魔法攻撃に巨人族軍はなすすべなく潰滅させられた。
「ふふふっ……まずは、一国」
ヘルは『浮遊船ナグルファル』の甲板の上から氷の彫像と化した首都を見下ろし、ほくそ笑んだ。
ナグルファルは彼女が死者の肉体を利用して作った巨大な黒い船であり、魔力により自由自在に空を移動できる。現在、この船こそがヘルの足かつ、戦争時の拠点となっていた。
「スリュム! 『ムスペルヘイム』へ舵を切りなさい」
厚手のマントを纏った身を翻し、ヘルは操舵輪を握る男へ指示を飛ばす。
スリュムと呼ばれた巨人族の男はしばし無言を貫いていたが、ヘルが再度声を上げると舵を取り始めた。
彼はヘルが捕らえ、洗脳して部下として仕立て上げた者だ。とりわけ強力そうな者を選んで捕縛した彼だが、どうやらまだ洗脳魔法が十分に効いていなかったようだ。
――人望の一切ない私に、王たる資格はないのかもしれません。しかし……力ならばある。世界を掌握し、完全なる支配を敷くだけの武力なら。
『あんた……本当にそれでいいのかよ。恐怖で無理やり人々を服従させる統治が正しいと、本気で思ってるのか?』
脳裏に数日前の少年の言葉が甦る。
ハルマと名乗った黒髪の彼は、突然ヘルの居城の『玉座の間』に現れ、挙兵しようという彼女を妨害してきた。彼がなぜヘルの野望を知り得たのかは不明。感づけるような人物は他の八国の首脳たちだが、一学生でしかない彼と繋がっている者がいるとは考えにくい。
分かったのは、ハルマがヘルにも計り知れないほどの魔導の実力を有していることだけだった。
勃発した戦闘の軍配は、【フォールン・エデン】を発動したヘルに上がった。ハルマの動きを一時的にだが止めた彼女は、管理室のシルたちに語りかけ――そして、ハルマの前から逃げるように姿を消した。
彼女の去り際に少年が放った言葉こそ、それだった。
「――私の覇道は誰にも邪魔させません。小癪な子供……次に会った時は、必ず仕留める」
右半分が腐敗している顔を憎悪に歪め、ヘルはそう吐き捨てた。
女王と怪物の軍勢を乗せた浮遊船はヨツンヘイムの国境を越え、次なる王国――炎の国『ムスペルヘイム』へと進撃していく。
◆
「女王イヴと面会できない? どういうわけですか」
アスガルドの王城にて、応接間の一つに通されたグリームニルは、そこで告げられた事実に耳を疑った。
神ニョルズの崩御後、女王となったフレイヤはグリームニルを新たに設置された『女王顧問』に任命した。その肩書きを得た彼の最初の仕事が、アスガルドに出向き女王イヴとフレイの身柄返還についての交渉を行うことだったのだが……どうやら、初っ端から暗雲が立ち込めてきているようだった。
「どういうわけ、と言われましても……上からは、本日の女王陛下の執務は全てキャンセルとなったとしか聞いておりません。申し訳ないですが、それ以上の説明は、私からは……」
眼鏡にスーツ姿の生真面目そうな男が答えた。
――ちっ、使えないな。
苛立ちのあまり内心で罵倒してしまいながらも、浅葱色の髪をした少年は瞳をそっと伏せるのみに止めた。
『女王顧問』の自分に悪印象がついて回れば、ヴァナヘイム内での彼の立場は失われてしまう。ようやく手にした政治的地位だ。みすみす手放すわけにはいかない。
――にしても、女王に気に入られているという理由だけでここまで飛び級してしまうなんてな。他の政治家たちに悪い気もしなくはないが……今は、この地位を利用できるだけ利用する。
「ボクは女神フレイヤの直接の命でここにいるのです。そう簡単には引き下がれません。あなたが説明できないのなら、さらに上の立場の者を連れてきてください。なんなら女王の側近である【神】でもいい。はっきりと訳を確かめられるまでは帰りません」
そこは断固として譲らない。グリームニルの若い見た目とはかけ離れた、【神】たる魔導士の放つ威圧感が官僚の男を圧倒し、身震いさせる。
額に冷や汗を垂らす男は、眼鏡の縁をしきりに触りながら焦りも露に答える。
「……承知しました。上の者を呼んで参りますので、しばしお待ち願います」
早足に部屋から退出する男を尻目に、腕組みするグリームニルはため息を吐いた。
悪魔アスモデウスがフレイヤに憑いていることは分かっているが、彼はまだそいつを祓えてはいなかった。女王に就いてからのフレイヤは多忙を極め、一日の執務が終わればすぐさま泥のように眠りこけてしまう。当初の計画では彼女と情事に耽ろうという雰囲気を作り上げ、その隙に仕掛けるつもりだったのだが、これではそれ以前の問題であった。
「ちくしょう、わざわざ一人寂しくそういうシチュエーションの練習してきたのに。これじゃあ徒労もいいところだ……」
やり方を変える必要がある。手段はもう、女王の執務の合間を狙うしかない。
休憩時間に女王と二人きりの状況を作り出し、その短時間で全てを済ませるのだ。困難な試練だが、今頃はシルたちも自分以上に厳しい局面にぶち当たっているはずだ。彼女らが力を尽くしているのに、彼だけ逃げに走るなど有り得ない。
焦りは禁物だが、悠長になってもいられない。決行は明日、いや今日にでもやらねば――。
と、彼が決意を固めていた、その直後。
軋みながら開かれたドアの隙間から、真っ白い髪の頭が覗いた。
――誰だ? まさか……。
「久しいな、グリームニル。お前がフレイヤの右腕として働いていると聞いた時は驚いたぞ」
「っ、オーディン様!? まさかあなたがお出ましになるとは……!」
つばの広い三角帽子を目深に被り、黒いローブを纏った、長い髭と髪の毛を蓄えた長身痩躯の老人。
彼の左目は眼帯で隠され、見えている右目は銀色をしている。魔力を秘めて輝きを放っているような瞳に見据えられ、グリームニルは思わず直立不動に起立していた。
「そう大声を上げるな。通りがかった者に聞かれるやもしれん」
「し、失礼致しました。オーディン様、どうぞお座りになってください」
普段からシルたちへ尊大な態度の彼らしくもない謙遜ぶりに、オーディンは苦笑を浮かべた。彼に言われるまま席に着いた老神は、「要件は何だ?」と少年へ訊ねる。
「女神フレイヤが、実兄である神フレイのヴァナヘイムへの返還を求めているのです。どうか、女王様との交渉の席を設けられれば」
「……お前はまだ知らないのだな」
椅子に掛け直し、机上に身を乗り出して言うグリームニルに、オーディンはぼそりと呟く。
眉根を寄せた少年の反応に、アスガルドの最高神は包み隠さず真実を明かした。
「イヴ女王陛下は今朝、原因不明の病に倒れたのだ。現在は治療室にて【医務の神】が看ている……ということになっている」
歯切れの悪い神の台詞に、グリームニルは首を傾げた。およそ彼らしくもない言い草に、すぐさま問いを返す。
「……と、いうことになっている? では、オーディン様もまだ実際に確認してはいない?」
「私だけではない。トールもロキも昨夜から陛下の姿を見ていないそうだ。そして、さらに物事をきな臭くしているのが、新たに現れた『女王の代行者』と名乗る者の存在」
――代行者、だって? ちょっと待てよ、もしかするとここには、ヴァナヘイム以上の面倒事が起ころうとしているのではないか……?
額に脂汗を滲ませるグリームニル。そんな彼の内心を見透かしたようにオーディンは頷くと、説明を続けた。
「その者は若年の身にありながら、老人のごとき総白髪の頭をしており、瞳は鮮血の赤。純白のマントを纏った、その女の名は――」
◆
「リューズ。ふふっ……それがボクの姓。名前は……もう千年も前の話だから、忘れてしまったよ」
かつてイヴが居た玉座に掛け、その女はすらりとした長い足を組み替えた。
薄い笑みを口元に貼り付ける彼女は、眼前に立つ人物を見上げ、静かに言う。
この時『玉座の間』にいた人物は、彼女以外にはその者しかいなかった。
「…………記憶というものは魂の一部分に過ぎない。だから、気にするな。たとえ忘却の彼方へ墜ちてしまっても、決してなくならないものもある」
男か女か判然としない中性的な声。絹のように白い髪や衣装をしているリューズとは対照的に、漆黒のフーデッドローブを着用した細身で小柄なシルエット。そのフードの隙間から覗く瞳は、エメラルドの輝きを強烈に放っている。その容貌は一見、影のように儚げだが、両の眼だけがその者の存在を一際主張していた。
「『ネーモー』というのが君の呼び名だったね。『誰でもない』、か……名前を忘れたボクが言うのもあれだけど、随分と可哀想な名だ」
「私のことは『N』と呼べと言っただろう。……それで、本題に戻らせてもらうが」
Nという人物は俯きつつ首を横に振り、強引に話題を変えた。
「『ヨツンヘイム』が陥落した。我々はどうするんだ、リューズ?」
「あぁ、それについては自由にやっていいとの指示があったよ。傍観者となるもよし、戦闘に介入して好きなように掻き回してもよし。ボクは盟友の望み通り、この玉座を守り続けることにするよ」
白髪の女は組んでいた腕を解き、右手で肘掛を軽く叩いた。それから空いた左手で豊満な胸元に下げられたロケットに触れ、目を細める。
「ヘルはボクの手のひらの上にあり、またボクはイヴ女王の言うままに動いている。もしかしたら、イヴも誰かの書いた脚本に従っているだけかもしれない。……そんなこと、考えても仕方のないことだけど」
と、彼女が歌うように言ったその時、『玉座の間』に新たなる来訪者の声が響き渡った。
硬質な声音の嗄れ声――神オーディンである。
「リューズ殿! ヴァナヘイムからの使者が貴女に面会を希望しております。会われますか」
「イヴと同じように『陛下』と呼んではくれないんだね……ふふ、まあいいさ。通してやってよ」
イヴと比較すれば威厳もへったくれもない調子のリューズに、オーディンは固い動きで一礼した。
後ろ手に扉を開いた老神の背後から姿を覗かせたのは、奇しくもリューズと酷似した白装束の少年。
「私はヴァナヘイムの『女王顧問』、グリームニルと申します。本日はフレイヤ女王陛下より喫緊の要件、ということで面会を求めた次第であります」
「喫緊、ねぇ。とにかく話してごらんよ。ボクが出来ることなら――いいや、イヴに出来ることなら手を貸してあげるから」
女王代理の女に手招きされ、グリームニルは彼女の前まで足を進めた。玉座の下で跪いた彼は、女神フレイヤの望みを熱のこもった口調で奏上する。
彼女が欲しているのは、兄たるフレイの身柄ただ一つ。それ以外には何も求めない。フレイを取り戻すためならどんな莫大な対価でも払う――女神の言葉を一語たりとも漏らさずに伝えた少年はリューズを見上げ、彼女の返答を待った。
十五秒を超す長い沈黙を挟んだ後、白髪の女は瞼を僅かに伏せ……そして、言った。
「……悪かったね、少年。イヴから神の所属――特に力を持つ者については、無闇な異動をさせないよう言いつけられてるんだ」
「そこをどうか、頼みます。金ならいくらでも出しますから……フレイ様と引き換えに他の神々をそちらに引き渡してもいい。フレイヤ様は長きに渡ってお兄様との再会を待ち望んでいらっしゃるのです。これが130年前の戦争の罰だというのなら、それはもう解いても良いのではないでしょうか。彼女に、許しはないのでしょうか……!」
リューズに縋り付くグリームニルの語尾が震えた。
そんな少年の姿がリューズには理解しがたい。――『女王顧問』とはいえ、この少年と女神は赤の他人。人は他人を裏切るものだと幼少の頃から意識の奥底に植えつけられている彼女には、少年の熱意がどこから湧いて出ているかさえ推測できなかった。
「リューズ様……どうか、ご慈悲を」
「……キミにはボクが聖母にでも見えているのかな」
床に額を付けている彼を見下し、リューズは独りごちるように呟く。
――ボクに期待しているんだ? 今日が初対面の相手に恥も投げ捨てて頭を垂れ、嘆願する……つまるところ、彼はボクを信用している。でも、残念。信じられたら裏切りたくなってしまうのが、【ベルフェゴール】という悪魔の性なんだよ。
――ボクは怠惰。だからキミの願いにも応えない。ボクが救うのは堕ちゆく人の魂だけで、キミのような輝ける命には興味がないんだ。
「あぁ、少年。言い忘れてたことがあったよ――神フレイは、イヴ女王の男なんだ。もうずーっと前から、あの神は女王にぞっこんさ」
「なっ……それは、つまり……これまで女王がフレイヤ様の要請に応じなかったのは、それが理由だったというのか……?」
リューズが気まぐれに吐いた嘘を、グリームニルはバカ正直に受け止める。
その驚愕と失望、加えて絶望が綯交ぜになった顔を見ていると、悪魔を名乗る女にはおかしくてしかたがない。
――あははっ、馬鹿じゃないの? ちょっとはボクを楽しませてよ。
リューズはその内面をおくびにも出さず、玉座に着くものに相応しい厳かな面持ちで少年を突き放した。
「そういうわけだよ。納得したなら、速やかに退出なさい」
項垂れるグリームニルの肩を支えるようにオーディンが寄り添い、彼を室外まで連れて行く。
その背中を眺めながら、リューズは側に控えるNに訊いた。
「流石に悪趣味すぎたかな?」
「…………」
名前を持たない黒ローブの人物は、【怠惰】を見つめるだけで沈黙を貫くのだった。




