36 ユグドラシル
「ここが、管理室……!」
足が固い床についた感触をまず覚え、シルは閉ざしていた瞼を開いた。
それから視野に入ってきたのは、やや薄暗い部屋に置かれた幾つもの大きな黒い箱――シルたちが初めて見るものだ――と、奇妙な浮遊物。
学園の体育館より少し広いくらいの部屋の奥、床が一段高くなっているところに、赤と青の二つの球体が浮いている。その球の下部表面には、それぞれアベル、カインと名が刻まれていた。
「あれが双子の本体ってことか。……ノアさん、ユグドラシルの意思というのは彼らが決定しているんですか?」
整然と並べられた長方形の箱の列は、中央に広くスペースが設けられて真っ直ぐな通路となっていた。シルたちが転移したのはその道の突き当たりの片方で、対極に二つの球体がある。
パールは目を細めて二色の球を見据え、ノアに訊ねた。
「いや、違う。双子はあくまでも、世界樹を守護するプログラムの最上位にある存在に過ぎない。世界樹本体の人格は別にあるのさ」
「じゃあさっそく世界樹さんに話しかけてみようよ! ノアさん、世界樹さんとはどうやったら話せるんだい?」
「随分と気楽な言い方をするね……まぁ、それもあんたらしいか。――始めに説明をしておくと、世界樹の脳はこの部屋全体といっていい。あたしたちの周りにある黒い箱は、脳の一分野であり、それぞれが思考のプロセスを組み立てている」
無邪気に言ってくるエルに苦笑しつつ、ノアは手振りで黒い箱を示して解説する。
すると彼女の台詞に納得がいったようにパールが頷いた。
「なるほど。俺も初めて見るけど、これは全部コンピューターなんだね。今は魔法が世界を支配しているからコンピューターはあまり日の目を見ないけど、魔法が発達する前はこういった科学の発明品が主流だった。つまり、これはイヴの時代の遺物とでも呼べるものってわけだね」
「理解が早くて助かるよ。で、こいつの『人格』にアクセスする入り口が、あそこにあるコンソールなのさ」
ノアが指差した先、カインとアベルの「脳」の間の真下に、例のごとくコンソールは設置されていた。
「シル……準備はいいね?」
ここに来てから殆ど口を開いていないシルに、ノアが聞いた。
緊張した面持ちの彼女の手を取り、不器用ながらも優しく握り込む。
ノアの肌から伝わる温もりに、シルの固くなっていた表情も緩んでいく。
「はい、もう大丈夫です。それより、ノアさんの方が……」
ノアの衣服は所々が裂けたり焼け落ちたりしていて、見える肌には乾いた血がべっとりとこびりついていた。
見るからに痛々しい佇まいの彼女は、静かに首を横に振る。体の痛みはほぼ引いていて、何も心配することはない。
「ノアさんも女性ですから、見た目を綺麗にしておきたくはないですか? 私の魔法なら一瞬で汚れを落とせますよ」
「ああ……そんなことを一々気にすることも、忘れちまってたなんてね」
ノアは溜め息を一つ吐くと、シルの魔法を受けると決めて彼女に身を委ねた。
シルはノアへ杖をかざし、手早く清浄の魔法を発動させる。
蒼い光が女傑の頭から足元までを包み、みるみるうちに血の跡を拭い取っていった。
「感謝するよ。さあ、進もう」
管理室は『ニブルヘイム』とは切り離された別の座標に存在しており、外からの音や振動等は一切伝わってこない。静寂が支配する空間を足早に歩き、四人は目的のコンソールの前までたどり着いた。
灰色の卓上には横長のディスプレイ。その画面は何も表示されず真っ暗だったが、ノアが一声投じると間を置かずに点灯した。
「【ログイン。システムコード002、方舟の管理者ノア】。認証求む」
『生体認証を開始します』とのメッセージが流れ、ややあってコンソール左上の青い球体から一筋の光が発された。光線がノアを上から下までスキャニングしていき、それが終わるとモニターにまた新たな文字列が浮かび上がった。
『システムコード002【方舟の管理者ノア】、認証しました
世界樹メインコンピュータへのアクセスを許可します』
そのメッセージが消えると、整然と並んだアイコンがポップアップする。
それぞれのアイコンには数字が割り振られており、見た限りだと1から100まであるようだ。
「番号だけじゃ、どれがどんな機能なのか分からないね」
「敢えて分かりづらくしているのさ。姉さんは慎重な人だからね。だけど、このシステムコードでログインした今は、呼びかければユグドラシルが応じてくれる」
首を傾げるエルにノアが密やかな声音で答えた。
ディスプレイを正面から見下ろす彼女は、一度瞼を閉じ――三秒ほどそうしていた。
自分が生まれてから、イヴに連れられてここに来たのはたった一度きり。自らのコードを登録した幼いノアは、画面に映し出される文字の意味もよく分かっていなかった。
あれから、500年にも渡る年が過ぎた。当時会話をしたユグドラシルの人格は、果たして変わっているのだろうか。ノアという少女と過去に会っていたことを、覚えているのだろうか。
瞳を開けると彼女は一声、懐かしい名前を呼ぶ。
「ユグドさん……あたし、ノアだよ。あなたと話したいんだ、出てきてくれないかい?」
シルたちが固唾を飲んで見守る中――カインとアベルの『本体』たる球体の間に、青白い光の膜が出現した。
そのスクリーン上に描き出されたのは、豊かな緑の長髪を背中に流した、エルフのように尖った耳を持つ精悍な男性の姿である。優しげに目を細める研究者然とした白衣の彼は、軽く手を上げてノアに挨拶した。
『あれから長い、長い時が過ぎた……よく来てくれたのう、ノアよ』
若く逞しい見た目に反して、ユグドラシルの声音も口調も老人のように嗄れていた。
過ぎ去った時間はあまりに長く、彼の人格も老熟したようだが、それでもノアとの記憶は失っていなかったようだ。
安堵に胸を撫で下ろすノアに、ユグドラシルは言った。
『お主らがニブルヘイム王城の地下室に侵入してからの始終は、見守らせてもらった。その無茶ぶりには大変ヒヤヒヤさせられたのじゃが……ともかく、お主らがここまで到達できたことを、まずは祝福しよう』
彼の言葉はノアも、シルたちも全く予想だにしないものであった。
世界樹の意思はイヴの意思。なれば、彼はノアたちに敵意を持って接してくるのが道理なはず。にも関わらず、ユグドラシルは彼女らを歓迎した。
――これはどういうわけか?
四人の誰もがそんな疑問を抱く。ノアやシル、パールはそれを露にはしなかったが、エルは感情をわかりやすく顔に出してしまうタイプだ。少女の表情を見てユグドラシルは苦笑し、導入として状況の説明を行った。
『では始めに問うが、お主らは「魂」の存在を信じるかね?』
「い、いきなり変な質問だね」
『いいから答えるのじゃ。その答えしだいでは、解説せねばならんことがうんと増えるのじゃから』
老賢人に急かされ、四人は「魂」について考えてみた。
エルやパールは黙り込んで答えに迷っているようだったが、シルにとって老賢人からの質問は改めて聞かれるまでもないことであった。
「私は信じます。少なくとも、この世界には……世界樹に生きる人間には、確かに魂が宿っているのではないかと」
「あたしも同感だよ。姉さんやあたしらが発現させた『心意の力』は、言わば魂の力だ。魂とはあたしたちの命の中枢であり、源……そうだろう、ユグドさん?」
『ああ、ノアの解釈は概ね正しい。この世界にある全ての生命の「命の基盤」こそ、魂というものじゃ。それは実体を持たず、その者の人格を司っている存在なのじゃが……この「魂」とは、何も生命にしか宿らないわけではないのじゃ。儂やカイン、アベルにも、人間と変わらない人格があり、全く同一とは断言できんが魂が存在する。双子と交戦したお主らならば、実感を持って理解できるじゃろう』
カイン、アベルはAIだが、ある意味では人間よりも人間的な存在だったとノアは思う。
そこはパールも同感のようで、彼は「確かにね」と深く頷いた。
イヴからの命令に直接は逆らえない双子も、しかし矛盾する二つの指令を秤にかけ、自身が最適だと考える方を選び取った。単なる機械なら、その矛盾した命令のどちらも選べずに思考のループに陥るエラーを起こしていたはずだ。
彼らは人工知能という枠を超越して、より高次な人間的思考を手に入れていた。人格が成長する中で後天的に芽生えたものといえど、それこそ彼らの「魂」の存在を裏付ける明確な材料に違いない。
「あ、じゃあ、つまりユグドラシルさんにはれっきとした魂があって、イヴとは別の思考、人格を有しているんですね。だから、『世界樹の意思はイヴの意思』というのは間違い」
『うむ、そういうことじゃな。儂は創造主の意見に異を唱えることも可能であり、現に今も彼女のしようとしていることには疑念を抱いている』
――では、なぜ世界には異変が起こっているのか。
湧き上がった疑問をシルが口にするのを先回りするように、ユグドラシルは言う。
『じゃが……儂はイヴが定めた規則に逆らえんのじゃ。イヴにとっては儂が何をどう思おうと構わないが、儂が彼女の意向に反する行動を取ることは断じて許せないというわけじゃ。カインとアベル同様、儂もAIである以上、製作者のイヴへの反逆行為は取れないようにプログラミングされているからな』
だから、彼はイヴの行動を否定したくても叶わなかった。ユグドラシルは上位存在であるイヴに言われるまま、世界に異変を起こさざるを得なかったのだ。
事の真相が判明したのはいい。だが、突きつけられたその事実はシルたちにどうにもならない無力感を植え付けた。
ユグドラシルが自らの意思で世界に異変を起こしているのだったら、説得すれば考えを変えられる可能性があった。けれども実態は、全くの逆――彼は己の考えを介入させる余地もなく、行動規範に則りイヴの傀儡として動くほかなかったのだ。
『すまないのう、ノア……それに、勇気ある若者たちよ。これは儂自身には解決できない問題なのじゃ。儂の魂に刻み込まれたそのプログラムが消えてなくならない限り、儂には世界の異変は止められない』
「それなら、あなたに施されたそのプログラムを解除すればいいってことじゃないですか! ユグドラシルさん自身には無理でも、俺たちが力を合わせれば……!」
道はそれしかない――パールが力強い口調で言うが、ノアは瞳を僅かに伏せ、首を横に振った。
「でも、あたしたちにそれが出来るの? あたしたちは魔導士で、コンピュータを作ったこともプログラミングのやり方すら知らないのに」
「それは――」
青年は反駁しようとして、その言葉を見つけられなかった。
自分たちは魔法だけを勉強してきた。その才を磨き、魔法が支配する世界で高みまでのし上がってきた。それが自分たちの進むべき道だと信じて疑わなかった。
事実、これまではそれで何ら不自由することなくやってこれたのだ。
しかし、ここに来て、自分たちの視野の狭さが仇になってしまった。
「ちょっと待って……それじゃあ、私たちには何もできないってこと? そんな……ここまで必死にやってきたのに、そんなのないよ……!」
エルは拳を固く握り締め、俯いて肩を震わせる。
日頃からとびきり明るく振舞っていたエルの様子に、ノアもパールも、何の言葉もかけられなかった。そしてその事が、二人の心に重く冷たい靄をもたらしていく。
ユグドラシルの無言は彼らとはまた別。老賢人がイヴの命令に反感を抱いたことは、彼が生まれてから何度となくあった。しかし彼は、一度たりともイヴに抗えたことはない。永い時の中でユグドラシルを支配したのは、あまりに深い「諦念」。アルフヘイムの現状を憂うことも諦めていた神ヴィーザルのそれとは、比べ物にならないほどに強く染み付いてしまった「諦め」だ。
対して――シル・ヴァルキュリアは絶望による思考の放棄も、無力感に敗北して諦めるようなこともしていなかった。
「待って、エル、パール、ノアさん。その方法が無理でも、まだやりようはあるかもしれないわ。今の私たちに出来ることが何なのか、考えなきゃ! 考えることを止めたら、それは敗けを認めたことになる」
使命のために命さえ賭すと誓ったのだ、何があっても引き下がれない。
今この時代においてイヴに抗おうという魔導士はシルたちしかいない以上、ここで彼女らが潰えてしまえば女王への対抗勢力は完全に消滅してしまう。それだけは避けなければならない。
「でも……他の方法があるなんて思えないよ。というか、思いつけない。私たちはコンピュータについて、全くの無知なんだよ……」
「あなたらしくないわね、エル。あなたは学園一の天才魔導士、そうでしょ!? なら分かるわよね――魔導士に求められる一番の力は何なのかを!」
「それは――」
シルはエルの両頬をむにっと手のひらで挟み込み、強引に顔を上げさせた。そして語気を強めて言う。
姉からの問いかけに緑髪の少女は瞠目した。
――なぜ、忘れていたのか。私の心は、魂はこんなことで折れるほどやわじゃないはずだ。魔導士が魔法を生み出す上で要になるもの、それこそが……。
「想像力。心の……心意の力」
「大正解よ。『心意の力』が魔導の粋を超越した現象を起こせることは、さっきパールやノアさんが実証してくれたわね。それなら、今回も何とかなる可能性もあるんじゃないかしら?」
「だけど、それは極めて不安定だ。既に激しく消耗してしまったあたしらに、それが可能なのか……」
エルが出した回答にシルは微笑しつつ花丸を付ける。
が、彼女らが見出した可能性をノアは疑問視した。彼女の意見は至って正論。いくら治癒魔法で回復したとはいえ、彼女らはいつ死んでもおかしくない激闘を潜り抜けてここまできたのだ。
今度はシルが口を閉ざしてしまう中、律儀に挙手してから発言するのはパールである。
「世界樹のシステムやプログラムに干渉せずとも問題を解決できる策が、あるかもしれない。……ユグドラシルさん、あなたは『イヴへの反逆行為が取れない』と言いましたよね? それは裏を返せば、反逆行為にならなければ何でも出来ると捉えられませんか」
『な、何を言うのじゃ、お主……? それは、つまり――』
瞠目するユグドラシルに、パールはシルそっくりの強気な笑みを浮かべてみせた。
「どんな法にも抜け穴があるってことですよ。ユグドラシルさん、あなたは善良な人だから思い付きもしなかっただろうけど、この世の中ってのはそんなものなんです」
ユグドラシルはイヴ以外の人間と触れ合うことは全くなく、そのため彼の性格はイヴが操りやすいようなものに形成されていた。女王は自身が持つずる賢さを、決して彼に伝えようとはしなかった。だから純朴なユグドラシルは、これまでパールの言う方法に辿り着けなかったのだ。
パールの台詞に、ノアは誰にも聞こえないくらいのボリュームで声を漏らす。
「……そうか……!」
――いける、これなら。
最初から難解だと決めつけていたからすぐに思い至れなかったことだが、AIの彼の人格は人間とほぼ同じなのだ。つまるところ、彼と自分達との差異はイヴに行動を縛られていることのみで、真に人間的な思考が可能。
「思い込み」が人にもたらす影響の大きさはよく知られている。彼が紛う事なき機械であるならそれもないだろうが――彼が純朴な人間であるのならば、プログラムに引っ掛からないような思考を取れるはずだ。
「ユグドさん。姉さんがあなたに施したプログラムというのは『思考』を縛り付けるものとして見ていいんだよね? あなたは行動を縛られると言ったけど、双子のような体を持たないあなたにとっては、『思考』と『行動』は完全にリンクするもの……そうでしょ?」
『確かに、そう言えるが……』
「なら、その思考の枷が外せれば。こじつけでも何でもいい、ユグドさん自身が納得を持って『イヴの命令に違反しない』行動だと思えれば、それで構わない」
ユグドラシルは当惑していた。ノアたちの言うことは理解できるが、それをどのように実行したら良いかがさっぱり分からない。
カインやアベルと比べれば彼の人格は発展途上なのだ。世界から得たデータを元に進歩していても、ある意味では卑小な人間的な思考は得られていない。
スクリーンに映るそんな彼の表情を仰ぎ見て、シルは細い顎に指先を沿わせながら考え込む。
――違反を違反と捉えない考え方を、私は知っている。罪悪感を捨てて罪を犯す……学則という狭い範囲内だけど、私はその規則に何度も抵触し、その都度もみ消してきた。
でも、ユグドラシルさんが私と同じような心理になれるとは思えない。彼に悪事は為せない。イヴの命令に違反することが絶対に犯せない禁忌だと刷り込まれている以上、どんな思い込みで騙そうとも深層心理で拒絶するはず。
『悪事』だと心の片隅で思えてしまったらもうアウト。それなら……いっそ『善事』を貫くつもりで臨んだら? ユグドラシルさんの人格なら、善のためにイヴの呪縛から自ら解き放たれることも、可能なんじゃないかしら……?
シルが思案したことを言葉にしようとした、その瞬間だった。
キィ――――――、と何かが軋むような、はたまた耳鳴りのような細く高い音が、管理室中に響き渡った。
それと同時にスクリーン上のユグドラシルの姿も揺らぎ、霞む。コンソールの光が激しく明滅し、カイン・アベルの二つの球体も同様の反応を起こした。
「何、これっ!?」
「魔力の揺らぎ――この場の魔力が不安定になってるんだわ」
「ユグドさん! 異常の原因は突き止められる!?」
エルが悲鳴を上げ、咄嗟に妹の肩を抱きながらシルが囁く。
ノアは途切れとぎれの表示になっているスクリーンに呼びかけ、ユグドラシルに訊ねるが――彼女の問いに答えたのは、彼とは似ても似つかない別人の声であった。
『お久しぶりです、【方舟の管理者】。まさか貴方ほどの人物が私程度の術式を感知できないなんて……見損ないましたよ』
ソリッドな響きを帯びた、棘のある女性の鋭い声。
シルやエル、パールには聞き覚えがない。だがノアは、彼女を知っていた。年に一度、『世界樹』の幹内部にて開催される九国による首脳会談の場で、彼女はイヴやノアの前に参じていたのだ。
とは言っても、民のいない国を支配する彼女が発言したことは殆どなかった。それでも彼女の声が記憶に残っているのは、その音の節々から滲み出る怨嗟や欲望があまりに巨大だったから。
『シル・ヴァルキュリア、並びに彼女を支援する者たちに告ぎます。私の名はヘル……死と怪物の国・ニヴルヘイムの統治者です。あなた方はイヴ女王の運命によって、この空間からの脱出が封じられました』
シルは耳を疑った。この空間は世界樹「双星の間」からしか侵入できないはず。そしてシルたちが管理室への扉を開いた際、その場には彼女ら以外の何者もいなかった。
「まさか、私たちが来るのを知っていて『双星の間』で待ち伏せしていたの……!?」
『そんな面倒なこと、この私がわざわざするとでも? 愚かですね、シル・ヴァルキュリア。『双星の間』は私の居城の下にある。そして私は【転移魔法】を用いてニヴルヘイム中のどこにでも、一瞬で移動可能なのですよ』
「……っ、そんなことが……!?」
矢継ぎ早に放たれるヘルの言葉に、シルは驚愕を隠しきれずに声を震わせた。
転移魔法はイヴ女王とノア、そしてハルマしか使用できない技であるというのが、この場の四人の共通認識であった。
『魔導士であるなら当然理解していると思いますが、魔法を解除することは困難であっても、新たに上書きするのは実に容易い。ふふふ……そのまま閉ざされた空間で、無力を思い知りなさい』
最後に嘲笑を残してヘルの声は聞こえなくなった。
光の膜がスクリーンとなっていた場所を凝視しつつ、立ち尽くすシルたちへノアは言った。
「ひとまず、あたしは本当にこの空間が閉ざされてしまったのか確かめてくる。お前たちは、そこで動かずに待っていな。下手なことをすれば、予期せぬ問題が起きるかもしれないからね」
わかりました、と彼女らから返事を受け、ノアは踵を翻して黒い箱の間の通路を戻っていく。
コツ、コツと靴音をゆっくりと刻みながら、彼女は胸の中で姉への呟きをこぼした。
――姉さん。本物の「神」になろうという貴女にとって、人間のあたしはもう必要ないんだろうけど……あたしたちは人間としての貴女を求めてるんだよ。神様になんかならなくていい。ただ、戻ってきてくれれば構わないんだ……。
結局、ノアの叫びは姉には届かなかった。
言葉で理解してもらえなかったのなら、行動で示すしかない。
「どんな試練が来ようとも、あたしは負けない」
決意を改めて口に出し、ノアは姉や酒場のリサ、そしてシル達を想った。




