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黄昏英雄譚 ~アナザーワールド・クロニクル~  作者: 憂木 ヒロ
第9章 『ユグドラシル』編

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35  死を司る者

 双子が光の粒となって消失した後、『双星の間』はしばし静寂に満たされた。

 彼らの機械の体は、その身に宿していた魔力と共に跡形もなく蒸発し、一切の痕跡を残すこともなかった。

 高慢なカインの、暴虐なアベルの金属質な声ももう聞こえてこない。

 新たなアバターが用意されていない限り、双子がこの場にすぐに干渉してくることはないだろう。


 ――俺たち、勝ったのか。あの神の双子のコピーに、本当に勝ってしまったのか……。


 喜び、安堵、疲労……様々なものが綯交ぜになって、パールは床にへたりこんでしまった。

 世界を変えるための試練の第一をクリアした。それもこれまで可能性の一端としてしか見ていなかった「心意の力」を使い、敵の魔法の権限を超えて、打ち勝ったのだ。

 

「パール先輩、それにノアさん。私、感激の涙で前が見えないよ!」

「真っ直ぐあたしに向かってきて、がっちり抱きついてきてる奴の台詞じゃないだろ、それ。……まぁともかく、その言葉はありがたく受け取っておくよ」


 涙でぐしゃぐしゃの顔を、エルはノアのはだけた胸元に摺り寄せる。

 背中に回された彼女の腕から伝わる体温に、ノアは痛みに擦り切れそうになった心が和らいでいくのを感じた。

 彼女にそっと抱き返してやりながら、傷ついた自身の体が修復されていく様子を眺める。

 カインとアベルの魔力が解き放たれたおかげか、この場の魔力(リソース)を吸い取って彼女の肉体は急速に回復していた。緑の魔力光がみるみるうちに傷を塞いでいくのを見て、エルもパールも目を丸くする。


「本当に不死者なんだね、ノアさん」

「今まで黙っていて悪かったね。――あんたたち、怪我はない? 不死者の血液には、この世のどの魔法薬よりも優れた回復効果があるんだ。あんたたちが嫌じゃなければ、飲ませてあげるよ」


 エルに離れてもらい、ノアは彼女の前に右手首を突き出した。

 まだ治癒していない傷から血液がポタポタと垂れていくのには、流石のエルも辟易する。それはパールも同感だった。


「……い、嫌か?」

「の、飲みます! 飲ませてください!」


 思いのほかノアがしょんぼりと俯いてしまい、エルはやや裏返った声で答える。

 ちょっと不味いトマトジュースと思えばいける! と自分に言い聞かせ、彼女はノアの手首に口を近づけた。

 その血を一舐めすると、吸血鬼(ヴァンパイア)ではないが体に活力がみなぎってくるような気がした。体温と心拍数が僅かに上昇し、魔力も万全の状態まで回復する。五感も研ぎ澄まされ、目の前に立つノアの姿が普段よりも鮮やかに見えた。


「これ売ったら大儲けできるよ、ノアさん!」

「それは考えたことあるけど、むやみに血を流すと身体がおかしくなる。だから無理だ」

「考えたことあるのかい……というか、まず飲ませるならシルじゃないの」


 瞳を黄金色に輝かせるエル、真顔で答えるノア、額に手を当てため息を吐くパール。

 ノアのもとまで歩み寄ったパールは、彼女の手を引くとシルの方へと連れて行く。

 そこで彼は女性のボロボロになった衣服と、そこから視界に入り込む肌色に今更気づき、慌てて目を逸らした。

 シルやエルに比べれば慎ましやかな双丘だが、それでも初心な青年を赤面させるには十分すぎる。

 彼の反応にノアは彼女らしくなく意地悪してみたくなって、訊いた。


「あんた、シルの恋人なんでしょ? その……そういう経験、ないわけ?」

「い、いきなり何聞いてんですか!? ……いや、その、べっ別にないわけじゃなくて、慣れてないだけで……」

「ふうん。奥手なんだ……あの子、ハルマとは真逆だね」


 比べないでください、と俯きがちに口の中で呟くパールに、ノアはついにやけてしまう。 

 横たわるシルのもとにしゃがみ込みながら、彼女は笑みを収めて青年を振り仰いだ。


「この試練が終わって無事にアスガルドへ帰れたら、シルを抱いてやりな。あんたにはその資格がある……シルを、幸せにしてやれ」


 この戦いが彼女たちにとって最後の試練になればと、ノアは願う。

 彼女たちには、ノアのように戦いに明け暮れる修羅の道を歩んで欲しくない。神や悪魔とは無縁のどこか郊外で、穏やかに子供を育てる……そんな平和な暮らしが二人には似合っている。

 子供ができれば前線からは引かざるを得ない。少なくとも、これまでのように戦いには出られない。

 ノアのそんな意図を汲み取ったのかは定かでないが、パールははっとしたように息を吸い、頷いた。



 ぼんやりと目の前に浮かんできたのは、黒髪の青年の顔だった。彼はこちらを覗き込み、何やらシルに声をかけてきている。


 ――幻覚……ではないわね。


 何度か瞬きすると視界も澄み渡って、パールの表情もはっきりと捉えられた。

 心配そうな顔。これまで幾度となく見てきた彼の表情に、シルは自分がまた無茶をしてしまったことを思い出した。

 中層の時と違い、今回は自分の行動を忘却してはいない。シルは記憶の海に潜り、時を操る魔法の発動法を掴み取ったのだ。

 つまるところ、今のシルならば管理室を守る壁を突破し、試練を乗り越えられる。


「パール……私、やったわ。【時幻領域】魔法の使い方、思い出せた」


 だらりと下がっていた腕に力を入れ、どうにか持ち上げる。

 パールは彼女の手を取ると、指を絡めて強く握り込んだ。


「シル……無事、なんだね? 何も忘れちゃいないんだよね……?」

「当たり前じゃない。私は同じ轍は踏まないわ」


 シルが首を少し傾けると、すぐ側にエルとノアも寄り添ってくれていることに気づいた。

 涙で顔中が濡れてしまっているエル、全身が血塗れになりながらも痛ましく微笑むノア。ボロボロになっていようが、二人が生きていることは現実だ。


「エル、ノアさん……。カインとアベルは……?」

「パール先輩とノアさんが倒してくれたよ。二人とも、本当にすごかったんだから!」

「それは、見てみたかったわね……。エルをして凄いと言わしめる技を……」


 シルはパールに助けてもらいながら上体を起こした。青年は腫れ物に触るような手つきだったが、シルの身体には痛みも怠さもなく、不思議とすっきりしていた。

 彼女を快復させた張本人のノアは、服の胸元の裂かれたところを腕で隠しつつシルに言った。


「あんたの心身は完璧に回復させた。あとは、あんたの魔法で管理室への扉をこじ開けるだけさ」


 すると、シルが頷くのに先回りしてパールが質問する。


「そのことなんですけど、管理室への扉ってどこからアクセスするんでしょうか? 結界のようなものだったら、その範囲内ならどこでも干渉可能だと思いますが……」

「あぁ、それなら専用のコンソールがある。あたしの記憶が定かなら、向こうの壁際に――」


 ノアはすっくと立ち上がり、指揮棒のように右腕を軽く振った。そして呪文を唱え、隠されていた設備を呼び出す。


「【ウォカーレ・マキナ】!」


 彼女の声が響いてほどなく、北の壁際の床から音もなく卓がせり上がった。

 激闘の直後にも関わらずそこへ駆け寄っていくノアを、シルたちは慌てて追い掛ける。

『双星の間』に設置されているコンソールは、彼女らが最初に転移した王城地下室と同型のものだった。ノアは白い石の台の表面、嵌め込まれた液晶パネルに指を滑らせ、パスワードを入力する。

 

「よし、開いた……!」


 パネル上には幾つかのアイコンが表示されていたが、ノアはその中から迷いなく一つを選んでタップした。すると、画面にルーン文字による魔法式の羅列が映し出される。

 彼女はコンソールの前から一旦退くと、シルに立ち位置を譲る。


「これがこの空間に掛けられている全ての防衛魔法の魔法式さ。シル――あんたにはこれらの魔法を掻い潜ってもらった上で、【時幻領域】を発動してもらう。あたしたちもできる限りのサポートを行う」

「わかりました。やり遂げてみせます」


 早口に告げるノアに、落ち着き払った口調でシルは答えた。

 これから難題に正面から挑むと分かっていてもなお、シルの心はいやに凪いでいた。

 そして、確信があった。これまで何度も叩いてきた大口とは根本から異なる、例えばこの世界に重力があるのと同じように当たり前のこととして、シルは自分がこの障壁を打ち砕く未来を見ていた。


 ――ノアさんの転送魔法陣で越えられない壁なら、私の未完成のそれでは到底歯が立たない。けれど、要はそれ以上の出力で時空を歪める大魔法を発動させればいいだけのこと。


「では、行きます」


 シルの意識は無数の魔法式の中へ吸い込まれていく。

 余計な要素の何もかもを排除し、まずはこの場を支配する魔導の全貌を頭に叩き込むのだ。

 押し寄せる膨大な情報の渦――しかし、シルはそれを苦としない。彼女は既にこの量を超過する情報の波を泳ぎ抜いているからだ。


 ――不思議ね……文字をなぞるのは一瞬なのに、滞りなく頭に入っていくわ。


 見たこともない数字と記号の組み合わせ。しかしそれを紐解く手がかりがないわけではない。

 並んで記載されている詠唱文から、属性と込められた効果はある程度予測が可能だ。

 むしろ問題はその式の量だったのだが、シルは見守っているエルたちが言葉を失うほどの速度でそれを読み進めていた。


 この時、シル自身は自覚していなかったが、彼女は確かに新たな力に目覚めていた。

 パールやノアが発現させた「心意の力」――それと同種のものが、彼女にも開花していたのだ。

 きっかけは自身の記憶領域に干渉する魔法を使い、目的を達成できたこと。女王イヴや限られた神にしか扱えなかった魔法を用い、それによる苦難を超克したことで彼女は次なるステージに立っていた。それはつまり、彼女が女王イヴのいる領域にまた一歩近づいたことを意味している。 

 

「――この魔法式、全部読み込んだわ! 量は多いけどその実単純……強度は段違いだけど、基本的には私たちが使う【防衛魔法】とメカニズムは変わらない。解除式は普通の防衛魔法と同じでいい代わりに、膨大な魔力が必要になるわね」

「流石だな。やることが分かれば話は早い。あたしたち三人でありったけの魔力を絞り出そう」


 シルの分析の早さに驚愕しつつ、ノアたちは対応を急いだ。

 目配せして頷く三人は、それぞれの杖先を合わせて三角形の頂点を作るように掲げる。魔力の放出先を一点に集中させることで、魔法の威力は格段に高まるためだ。


「さぁ、いくよ――【解除魔法(アペリエンス)】!」


 呼吸を揃え、三人は解除の魔法を完全にシンクロさせる。

 魔力に直接働きかける「力属性」の白い光が、一本の柱となって天井まで立ち上がった。

 

 ――管理室へアクセスするには魔法で空間を歪め、そこに「狭間」を生み出さなくてはいけない。そのためにどれだけの魔力が必要になるか……単純に計算しても、人間三人分だけじゃ足りはしない。……だけど。

 見上げた視線の先にイヴの微笑みを思い描き、ノアは杖を握る両手に関節が白く浮かぶほどに力を込めた。


「あたしが、あたしたちで成し遂げなくては意味がないんだ! 姉さんを救えるのは他の誰でもない、【女王の影】だったあたしなんだから!」


 諦める選択は最初からない。女王の側近にして右腕、実の姉のように慕い、尽くしてきた彼女の矜持がそれを許しはしない。

 不死の身体が再生できなくなるまで魔力を注ぎ、何としてでも防衛魔法を解除する。そうでなくては、シルが時間を歪めようがここから転移できないのだ。防衛魔法の解除、そしてシルの【時幻領域】――二つのうちどちらが欠けても、管理室への移動は夢物語だ。


 ――エルとパールに過度な負担はかけられない、ここはあたしが踏ん張るときだ。

 

 白い光は際限なく強まっていく。それに比例して、床を踏みしめている女傑の姿が霞んでいく。


「ノアさん……!?」

「まずい、魔力の出しすぎだ! 止めないと消滅してしまう!」


 彼女の異変にパールが鋭く叫びを放った。

 彼の推察は当たっていた。ノアの不死は絶対的なものではなく、彼女に施された術式によるもの。そのため、魔法を維持できるだけの魔力が当人の体から一滴たりともなくなった時点で、その「不死」属性は消えてしまう。

 そして――彼女の肉体は、不死の魔術がなければ維持できないほどにダメージを蓄積しており、その加護が失われた瞬間に灰と化して崩壊してしまうほどに脆くなってい


「ノアさん、一旦離れてください! あとは俺たちでどうにかする、だからあなたは下がっていて!」


 魔力を捧げる全身の力が今にも抜け、足から地面に崩折れてしまいそうになるが、パールは懸命に堪える。

 このままではノアの命が燃え尽きるのも時間の問題だ。持ってあと五分……彼女が魔力の出力を高め続けたら、猶予はさらに縮まる。

 それを分かっていても、ノアはパールの警告を聞き入れなかった。青年の方を見向きもしない彼女の思いは、ただ姉のもとにあった。

 

「くそっ、こうなったら……」

 

 魔法を中断してでもノアを止める、そう決心してパールは一歩足を踏み出す。

 が、さっと横に出された少女の左腕がそれを制した。

 

「エル――」


 何故止める、とパールは訊けなかった。

 彼女が言わんとすることを理解してしまったから。ノアという女性の死に場所はここにしかないのだと、突きつけられてしまったから。

 何を言ってもノアは自分たちには応えてくれないのだと、パールは受け入れざるを得なかった。


「ノアさんっ! 俺はあなたを、絶対に死なせない!!」


 ノアを止められないなら、彼女が燃え尽きてしまう前に解除を完了させる以外に選択肢はない。

 パールは誓いの言葉を腹の底からの大声で女傑に告げた。

 叫び、気持ちを高ぶらせ――そして彼は、両の瞼をそっと閉じる。

 息を深く吸い、ゆっくりと吐いていく。すると一瞬最高潮へ達した感情の波が穏やかになっていった。


 ――そろそろシルが魔法を準備し出す頃だ。彼女の魔法が完成するまでどの程度なのかは分からないけれど、当時の話からしてそこまで長い詠唱ではないはず。


 まずは落ち着くこと。精神を研ぎ澄まし、魔法を掛ける対象だけを頭に思い描くことが肝要だ。

 

 ――正方形の大広間。その部屋の外側には、もう一つの箱があり――そいつが俺たちの管理室への転移を阻んでいる。


 イヴが用意した鳥籠の中にパールたちはいるのだ。

 そう、彼らは鳥だ。だが、人に簡単にあしらわれるような無力な鳥ではない。

 彼らは新天地を求めて世界を飛び出していく探求者。地上から発ち、空を越え、星々の煌めく宇宙の果てまで進み行く、偉大な挑戦者。

 自分達はロケットだ。そしてイヴの防壁魔法は、地球と宇宙の狭間の成層圏。それさえ抜ければ、未知の世界へと続く宇宙空間が待っている。危険だが無限の可能性を秘めた、命を費やしても到達する価値のある場所だ。


「絶対に、辿り着いてみせる!」


 パールが目を見開くのと同時に、彼の杖から放たれていた白い光の筋は太さを増し、さらには輪郭が無数の赤い魔力の粒に縁取られていた。

 それは彼の【心意の力】がもたらした、本来の魔法の威力を遥かに超越した一撃だった。

 何倍もの火力に膨れ上がった光条の先を見据えながら、青年は最愛の女性の名を呼ぶ。


「今だよ、シル!!」

「ええ――【永久を我が手に】、【時幻領域】!」


 互いに視線を交わさずとも、完全に二人の呼吸はリンクしていた。

 エルとノアの技も巻き込んで天井を貫通したパールの魔法に、シルが時を引き伸ばす究極奥義を上乗せする。

 虹色の軌跡を残して昇っていく魔力の光は、瞬間、その先の空中に一点の歪みを生み出した。そこだけが黒く凹んでしまったかのような歪みは、ほどなくして漆黒の裂け目に変わる。

 何も見えない深淵のごとき闇を見上げ、エルが声を震わせた。


「あ……あれが、管理室への入り口なの……?」

「間違いないわ。あれが現れるのは本来は一瞬の出来事だったはずだけど、私の魔法が働き続ける限りあそこに残る」


 妹の呟きに答えながら、シルは右手にパールの、左手にノアの手を取った。視線はエルへ送り、三人と気持ちを通じ合わせる。

 長く険しい道のりだった。フレイに命じられて世界の異変の調査をしたことから始まった、シルの戦いの終着点があの空間の狭間の裏側にある。

 

 ――さあ、行こう。


 シルはそう密やかに呟いた。

 四人はそれぞれ隣に立つ者の手を握り、輪を作る。


「目を閉じて……気持ちを合わせて」


 彼女らの意識は頭上の「狭間」ただ一つに注がれる。ゆっくりと呼吸を整え、シンクロさせていくと――四人は、徐々に体が軽くなるような感覚を覚えた。

 ふわりと彼女らは空中に浮かび上がった。瞼を開けた彼女らは、自分たちの周囲に幾つにも連なりチューブ状となっている光のリングの存在に気づく。そのリングの中をエレベーターのように上昇していきながら、ノアは最後に『双星の間』の床面を見下ろした。

 双子の魔力の残滓を仄かに感じる彼女は、管理室にいるであろう彼らに何かを呟こうとして、止めた。

 今は何も言うまい。言うべきことは本人と対面した時に言葉にすればいいのだ。


 光のエレベーターの突き当たりにあるのは、空間に刻まれた純黒の裂け目だ。

 その色は、四人が各々抱く暗い体験を想起させる。両親を奪った運命の魔手、親友との絆を永遠に葬った牙、見えざる心の深淵、悪魔が見せた翼とその魔法――。

 しかし、彼女らはもう恐れない。握り合った手の温度を認識している限り、どんな闇も敵だとは思えない。

 黒い狭間に吸い込まれながらもシルたちは不思議と穏やかな気持ちで、その向こう側に到着する瞬間を待つのだった。



 シルたちが「空間の狭間」を突破したのと、同時刻。

 ニブルヘイム王城の『玉座の間』にて、一人の少年が女王と対峙していた。


「やあ。はじめまして、ヘルさん」


 至ってフレンドリーに挨拶してくる少年を女神ヘルは無視した。

『玉座の間』とは名ばかりで、この部屋は広いが豪奢な装飾等はない。北側の壁一面が巨大なモニターになっている部屋は暗く、画面から発される光のみが辛うじて視界を保ってくれる。ヘルが玉座と呼ぶ高い背もたれのある椅子と周辺のコンソールを除けば、ここはさながら映画館のようにも思えた。

 今も地下の様子をリアルタイムで映し出しているモニターを背後に、黒髪の少年は笑みを深める。その表情は逆光でヘルにはよく見えなかったが、彼女は少年の魔力の「色」を見透かして彼の感情を読み取ろうとした。

 だが、大狼フェンリルと世界蛇ヨルムンガンドと並んで【禁忌の獣】と呼ばれる彼女の眼をもってしても、少年の「色」は陽炎のような揺らぎとしか捉えられなかった。


「俺から目を離せない癖に、無視なんかしないでよ。俺はお姉さんの綺麗な顔を見たいだけなんだ」


 少年は話しながら、玉座に掛けるヘルとの距離を詰めていく。じりじりと近づいてくる彼に観念したヘルは、眼前の黒い瞳を睨み据えて声を返した。

 

「私の顔は、半分が腐敗している出来損ないです。冗談はおよしなさい。……あなたは何者で、なぜ私の前に現れたのか。まず、それを明かしてもらいましょうか」


 丁寧だが硬い口調でヘルは言った。

 少年は首を少し後ろへ回し、モニター上の四人の魔導士を見つめつつ答える。


「俺はハルマ。ヘルさん、あんた変な気を起こそうとしてるだろ? 俺はそれを止めに来たってわけさ」


 少年は飄々とした声音を崩さない。彼の言葉に嘘がないということは、その時鮮明になった魔力の白色で明らかだった。

 そしてその事実を飲み込み――世界の底に住まう女王は、口元に深々と笑みを刻んだ。


「一歩、遅かったようですね、坊や。私の計画は既に始動しました。無数の同胞が立ち上がり、我が兄弟たちも目覚めた……先ほどの地鳴りがその合図だったのです」


 ニブルヘイムの支配者、女神ヘル。

 長らく世界の最下層に押し込められてきた彼女は、上層の美しく恵まれた神々を妬んでこれまで生きてきた。人の体を持ちながら怪物と蔑まれてきたヘルは、自らを嘲った者どもを見返すためだけに力を蓄えてきたのだ。

 彼女の国に民はない。あるのは極寒の地でも生き残れる強靭な生命力を誇る、怪物の数々だ。彼らには意思も理性もないが、ヘルの力ならばそれを植え付けることは容易だった。


 怪物たちの大軍隊を従え、上層の国々まで攻め上がる侵略戦争を起こす。

 そしてヘルが世界の唯一の王となり、頂点に立って全てを見下すのだ。


「【ユグドラシル】の運命が歪んだ今こそが好機。イヴも神々も、私の下では等しく無価値です」

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新作ロボットSF書きました。こちらの作品もよろしくお願いいたします
『悪魔喰らいの機動天使《プシュコマキア》』
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