31 真実の王者
リリィが研究チームから離脱してからほどなく、『魔女計画』は再開した。
傍目には彼らの活動は順調そのものと言えた。イヴはアダムの助手として働くなかで科学者としても大いに成熟し、愛する彼と肩を並べるまでになった。双子の死に意気消沈していた研究員たちも、「亡くなった二人に面目が立たない」と再起した。
今度は失敗させない――アダムはその決意を胸に、これまでを遥かに超える熱意で計画に取りかかっていた。
『可愛い新たな私の息子……この腕に抱くのが楽しみで仕方ないわ』
イヴは人ひとり入れそうな巨大な水槽に頬を寄せ、分厚いガラス越しに見える幼児ほどの裸の男の子を見つめる。
この水槽に満たされた溶液は母親の胎内の羊水と同様の成分であり、母体と何ら変わらない環境で子供を育てることができる。それだけでなく、子供が生まれてくる時期もある程度は調節でき、イヴは我が子が十二歳ほどの肉体になるまでの一年間を待ってから『出産』しようと決めていた。そこまで待つ理由は十二という年齢が魔導士が魔法の力を開花させる時期だからだ。
カインとアベルの後継となる赤子の一人は「セト」と名付けられた。アダムとイヴの受精卵に双子の遺伝子の一部を組み替えて作り出された、『魔女計画』の終着点となる最高の魔導士となる黒髪の少年だ。
同様の手法で生まれた子供が他に十人。彼らはそれぞれ見た目も性格も異なるが、最初の双子の才能を存分に引き継いでいた。
イヴは彼らに知識を与える。彼女が持つ魔法の全てを魔導書に記して、絵本がわりに読み聞かせた。
父親であるアダムは仕事にかかりきりで子供達と直接触れ合うことは殆どなかったが、それでもイヴの計らいで最低でも週に一度は子供と対面していた。
『彼らは次なる時代を切り開く、革命の戦士だ。そうだろう、イヴ』
子供達に向けられるアダムの視線に、彼らへの愛情はなかった。セトたちは自分たちが手がけた「作品」であり、これから国のために戦う兵士なのだ。兵士である以上、いつ別れの時が来るか分からない。死別の悲しみを味わいたくないのなら、最初から愛さなければいい。
反対にイヴは子供たちへたっぷりの愛を注いだ。産み方が違えど彼らはイヴの子。母親ならば実の子供を愛するのが当然――既に亡くした子がいるなら、それは尚更だった。
子供たちは健やかに、「魔女」の一族として人間離れの速度で成長していった。彼らが魔導士として成熟しきった、アダムがそう判断したのは彼らが水槽の外に出て一年が経った日――『魔女計画』が始動してから四年が過ぎた頃だった。
十人の子供たちは軍の上層部の者たちの前に連れ出され、その力を披露することになった。
『……これでいいの、おじさん? これで満足してもらえた?』
全身を鮮血の赤に染めながら、黒髪の少年は無邪気に笑って大将の男に訊く。
男は何も答えることができなかった。少年の前に倒れているのが、帝国陸軍が誇る屈指の精鋭部隊二十名だったから。
セトという十七、八の少年はたった一人で軍のエリートたちを相手取り、誰ひとり残さず殺戮してしまった。貴族出身のエリート士官たちが、武装もろくにしていない少年に文字通り手も足も触れられず、少年の生み出す「見えざる刃」に切り裂かれて死ぬ――その光景は軍の人間に絶対的な恐怖を植え付けた。
この子供は化物だ。自分たちにとって全く未知の力を使い、幾つもの戦場を生き抜いた精鋭たちを一切の躊躇なしに殺害した彼を、化物以外の何と言えるのか。
『おい……話が違うではないか。戦闘で力を見たいとは言ったが、ここまでしろとは……』
その時、一人の勇気ある者がアダムを咎めた。が、彼のその言葉は次の少年の台詞に塗り潰された。
『いいじゃん、別に。これで分かったでしょ……僕がどれだけ強く、完璧な存在なのか。僕ら魔導士ならば人間なんてこうやって捻り潰せるんだって、理解したでしょう? それでも頷けないほどおじさんたちが馬鹿な奴じゃないって、僕は思うけど。……違った?』
アダムは満足げに口元に弧を描いた。セトが一言口にする毎に、彼から放散される魔力は強さを増す。彼の魔力は魔導士でないこの場の者たちにも肌で感じられるほどで、その凍てつく冷気に誰もが身じろぎ一つ出来ずにいた。
それから間もなく、子供たちの力は軍の上層部のみならず帝国の全域――さらには世界全体に知らしめられることとなった。
帝国と長期の戦争を続けていたある隣国の大軍勢が、わずか十人の少年少女の手によって海の藻屑と化したのだから、その脅威が拡散されるのは一瞬だった。
セトたちの仕事は至って単純。浮遊魔法を用いて敵艦を空中へ投げ出し、それから海面へ落下させるだけ。帝国軍が散々苦戦した大艦隊はものの数分で片付き、少年たちはその日から英雄になった。
いや――彼らをそう呼ぶのは間違っているだろう。彼らの本質は決してテレビアニメの正義のヒーローなどではなく、目の前の標的を無情に喰らう怪物に過ぎなかった。だが、帝国は彼らを過剰に祭り上げ、救国の戦士に仕立てた。
『これでは、私たちはまるで聖典の救世主のようですね。セト』
『あはっ、冗談よしてよ。僕たちはそんな綺麗な存在じゃないさ。でも、まぁ……誰かに崇められることに悪い気はしないけどね』
最初はセトたちは言われるがまま戦場に赴き、幼い子供が虫を殺して遊ぶように敵を潰滅させていた。これまで戦場で使われてきた兵器など彼らには効かず、流石に効果があるだろう核兵器や毒ガスは国際条約で禁止されている。彼らにとって戦場は自由に力を振るえる唯一の場であり、誰にも邪魔されることのない最高の舞台でしかない。
セトたち魔導士の子が戦果を上げる度、イヴの当初のもくろみ通り『魔女の一族』の国内での立場は高まっていった。彼らを生み出したアダムとイヴには莫大な褒賞金が与えられ、富と権威を手にいれるという科学者の男の野望は叶えられた。
だが、アダムの野心に底はない。――この子たちの力を使えば自分は王にだってなれる、彼はそう信じて疑わなかった。
欲望のままに邁進する男を止めることは、既に誰にも不可能となっていた。
『君たちが結果を出せば、帝国での私の立場は限りなく上がっていく。これからも頼んだぞ――僕は君たちを信頼している』
イヴはパートナーである彼に深く干渉はしなかった。王になりたければなればいい。それでアダムが満足するなら、余計なことは望まない。彼女が求めるのは、我が子達の安寧ただ一つ。
『お父さんはああ言うけれど、あなたたちは無理しなくていいのよ。疲れたらいつでもおいで……この胸で抱きしめてあげるから』
セトたちの味方となり、心のケアができるのはもはやイヴしかいなかった。彼女の愛を少年たちは全身で受け止め、戦闘時には見せない笑顔を向けてくれた。
そうした日々が一年、二年と過ぎて行き、少年は青年へと成長していった。帝国を取り巻く状況もだいぶ好転し、破竹の勢いで勝利を挙げるこの国が世界の覇者となるのも目前となる。
だが、しかし――世界を本当に制覇したのは、帝国の皇帝でも軍の元帥でも、『最高の科学者』たるアダムでもなく。
『僕たちが世界の王者。僕たちこそが本当の支配者……それが真理さ。そうでしょう、陛下? その玉座が誰のものなのか、聡明なあなたなら理解できるはずですよ』
――魔導士の青年、その人であった。
彼は共に生まれた兄弟九人を引き連れ、宮殿にて皇帝と面会した。存在自体が大量殺戮兵器に等しい彼らを前に『玉座の間』に重苦しい緊張が降りる中、セトが帝に投げかけた言葉がそれだった。
『私が頷くと、君は本気で思っているのかね? 二十代続いた帝国の歴史を、私に終わらせろだと……?』
『やだなぁ、思ってるわけないですよ。本心がどうであれ、帝の肩書きは絶対だ。あなたは死ぬまでそれを背負い続けねばならないと決まっている。だからね、陛下。……僕があなたの終止符を打ってあげるよ』
にっこりと、どこか母親と重なる慈愛に満ちた笑み。
あまりに場違いなその表情に帝ですらしばらくの間、反駁することができなかった。
『この国に世界の覇権を握らせたのは誰? あなた方の道を切り開いてきたのは、魔法による恩恵をもたらしてきた存在は誰なのか? 言ってみてよ……陛下』
玉座に歩み寄り、少将の階級章を胸に刻んだ軍服の彼は訊ねた。
帝は顔を上げられない。迫り来る青年を直視してしまえば、それが自分の終焉になる――彼にはその予感があった。
どこまでも聡明で、どこまでも哀れな男だ。立ち止まったセトは三秒ほど瞼を閉じ、皇帝をそう評する。
そして、彼が漆黒の瞳を最後の王者に照準した次の瞬間――。
◆
「その日からセトは新たなる皇帝となり、魔導士の子らは帝国の支配者の座に就いた。彼らは帝位を手にした大義名分として自分たちが【神の使徒】だとし、それを世界中に宣言した。やがて彼らの支配体制が磐石となった頃……気づけば人々は彼らを正真正銘の【神】だと崇め奉るようになった。それが、この世界の【神】の始まりだったのさ」
長い、長い語りを終えて、ノアは深くため息を吐いた。
幾段も下った階段も残り僅か。あと一階過ぎれば、目的の最下層に到達する。
「物語はそこで終わりではないけど、時間もないから今回はここまでだよ。歴史の真実は、姉さんの記憶にある限りなら答えられるから……気になったら後で改めて聞いて」
「えーっ、いいとこで切るなー。アダムやイヴがその後どうなったのか、リリィの消息とか気になることいっぱいあるのに」
深刻な声音のノアに反して、エルは連続ドラマを見終わった後のような調子で感想を口にした。良くも悪くも彼女らしい物言いに、シルもパールもつい顔を見合わせて苦笑する。
自分たちの先祖がどのようにして生まれ、どのように【神】の地位を掴んだのか――その始まりの物語を知った今、敵と定めた女王への考え方も変えていかねばならない。
「やっぱりイヴは神様なんかじゃない。ただの等身大の人間で、一人の女に過ぎないのよ。何も本物の神になろうとしなくても、優しい母として世界を守ってくれれば、それでいいのに……」
「全ての鍵はイヴさんの中にあるってことだね。彼女の考えを解き明かせれば、問題は氷解するはず」
「でも、その問題はイヴさんを最も理解してるノアさんでも解決できないものだよ。簡単にはいかない」
普段は楽観的なエルまでもが真剣に、パールの台詞にそう返した。
今はまだイヴについての手がかりを得ただけで、それ以上は何もない。
「もう着くよ。『ユグドラシル』最下層、『双星の間』……神の双子が眠る、この世界で最も深く昏い場所さ」
階段の先の漆黒の奥で、明かりを微かに反射する金属の扉。あれこそが、シルたちが命を賭して挑もうという試練への入口だ。
両開きの扉まで足早に近づいたノアは、ひと思いにそれを押し開ける。
「久しぶりだな……カイン、アベル」
瞬間――光の激流が迸り、シルたちの視界は純白に染まった。
そして許されざる来訪者である彼女らを迎えたのは、歌うように紡がれる双子の玲瓏な声。




