28 無垢な感情
「準備は出来ているな、シル・ヴァルキュリア」
眩い白に照らされた四方を漆黒の壁に囲まれた空間で、ノアは彼女を待っていた。
場所は『世界樹』内部、以前シルが女神ノートと会話したのと同じ『エレベーター広場』である。
集合時間を早朝にしたのは、人の往来が少なく不審に思われないようにするためだ。シルは辺りに素早く目を走らせ、誰も見ていないのを確認すると一番右のエレベーター前に立っている黒スーツのノアへ駆け寄る。
いつもの制服――黒無地の魔導士のローブ――をはためかせながら小走りでやってきたシルを、ノアはそんな言葉で迎えたのだった。
「少なくとも、心の準備は。あの秘技に関しては、まだ未完成なのですが……」
「気に病むな。私の方でもやれるだけの策は用意してきた。それに、あんたには土壇場で究極の魔法を発現させた実績がある。今回も、きっと何か起こせるはずさ」
「評判とは正反対の前向きさですね、ノアさん」
「まあな。沢山の敵にも屈さずに生きるには、これくらいの気概が要るんだよ」
表情の晴れないシルに、ノアは不敵な笑みを浮かべて言う。
あの【冷血】のノアとこうして笑い混じりの会話ができるなど、以前は思ってもみなかった。だが、先日のバーでのひと時から、二人の距離は急速に縮まっていた。
ノアは殆どの他人に心を開くことはないが、シルのことはどうしてかすんなりと受け入れられた。その理由は彼女自身にはよく分からなかったが、後にリサは「ノアは所謂もの好きな人種なのよ」と語っている。
「で……来てくれたのはあんただけなの? あんたの彼氏と妹も来るって話だったけど」
「あぁ、パールたちはパスポート作るので少し遅れているんです。そこまで時間はかからないですけど」
当たり前のことを当たり前に答えるシルに、ノアはつい呆れ顔を返してしまった。
変な所で真面目な女だ。ノアに頼めば煩雑な手続きをスキップして通してやれるのに。
そう口を尖らせると、金髪碧眼の魔女はどこかで見た悪戯っ子のウインクで答える。
「ふふっ、そんなこと分かってましたよ。本当は、あなたと二人きりで少し話したかったんです」
「……わざわざこれだけのために時間を割かなくてもいいのに」
ため息混じりにぶつくさ言うノアの隣で、壁に背を預けるシルはけらけらと笑った。
その横顔はやはりあの少年と重なる。ノアはシルと彼がどういう関係にあるのか訊ねたかったが、自分が少年を変に意識していることを感づかれたくなくて何も言わなかった。
「ノアさん……『コントロールルーム』へ到達するには『ニブルヘイム』を通らなくてはならないんですよね?」
サファイアの眼差しがノアを射抜く。その瞳が宿す真剣な色を見て、ノアはシルが何か大きなものを抱えているのだと気づいた。
「そうだよ。『下層』のさらに下、世界の最果てに『世界樹』の脳はある。……お前は、ニブルヘイムは初めてだったな」
ニブルヘイムに足を踏み入れたことのある人間は、ここ百年のうちではノアと彼女の側近くらいしかいない。
普通の人間ならばまず侵入しようとも思わない、極寒の地獄――それが、『ニブルヘイム』という世界なのだ。そこには亜人も人間も住んでおらず、ただ静寂だけがある。
【冷血】と呼ばれた女にとって、この場所は誰に敵意を向けられることもない安息の地であった。だがシルからしたら、生命の気配すらしないあの国は恐ろしいものなのだろう。
「あそこは皆が言うような地獄じゃない。あの無音の空間は、神の支配する上層の国々と比べれば天国だよ。なにせ、『何もない』んだから。人が暮らすのにえらく苦労することを除けば、いいところさ」
「それは、楽しみですね。争いもない、ある意味では最も平和な国……人間社会から切り離された安寧が、そこにはあるんですね」
口調に反してシルの表情は晴れない。
わずかに伏せた長い睫毛の下の瞳は哀しげで、ここにはいない誰かを見つめているようだった。
「シル。誰に何を言われようと、私たちはこの試練を達成しなくてはならない。それが救いの大前提であることを忘れないで」
戦いの直前に心理的な揺らぎがあってはいけない。ノアはシルの胸元に添えられていた手を握り、確固とした口調で告げた。
シルは憂いを宿した目をノアへ向けたが、そこで声を発したのは新たなる登場人物であった。
「ノア、それに……シル・ヴァルキュリア! 珍しい組み合わせね、ここで何をしているのかしら?」
ゆったりとした美声を二人にかけたのは、黒髪を背中に流した、漆黒のドレスローブを身に纏う女神だ。
左目の下の泣き黒子が特徴的なノートは、シルたちにいつもの艶やかな笑みを見せる。
世界樹に住み、この樹のことを誰よりも知っている夜の女神は、妖艶な舌で唇を一舐めしてから言った。
「と言っても、何を企んでいるかは大体察しがつくけれど……。シル・ヴァルキュリア、ノアと手を組むのがあなたの選択ってわけなのね」
「ノート様……。邪魔はしないでくださいね。イヴが導く運命から逃れるには、世界樹に干渉するしか手段はないのですから」
「そんな無粋な真似はしないわよ。私は傍観者、あなたに手を貸すこともなければ、足を引っ張ることもない」
やや身構えるシルに対し、ノートは首を横に振ってみせる。
世界樹を何より愛する存在である彼女なら、その樹の意思を変えようとするシルたちを阻んでもおかしくはなかったが、どうやら違うらしかった。
「おーい、姉さーん!」
「やっと手続きが終わったよ。――あれ、その人は?」
と、その時。この場の雰囲気にそぐわない快活な声がシルを呼んだ。
とっとこ駆け寄ってくるエルと一歩遅れてくるパールに、シルは口許を緩める。
ノートは目を細めてやって来る二人を見、シルへ訊ねた。
「お友だちかしら? 二人とも綺麗なお顔ね」
「妹と、恋人です。二人も私に協力すると言ってくれました」
以前、神ヘズはニブルヘイムに行くなとシルに告げた。予知夢を見た彼はその未来に危機を感じ、止めようとしたのだ。
その言葉を踏みにじってしまうことはシルも申し訳なく思っている。が、彼女には逃げるという選択肢がなかった。
危機が迫るというなら、その試練を乗り越えて進み続ける――シルにはそれしかない。
「エル、パール。この方はノート様といって、世界樹を守る夜の女神様よ。あ、ノート様は私たちを止めるつもりはないそうだから、心配いらないわよ」
シルの紹介を受けてパールたちは女神に会釈した。微笑みで応えるノートは、黒いドレスの裾を翻すとシルたちに手を振る。
「じゃあね、皆。あなたたちが試練を乗り越え、世界に大いなる福音をもたらしてくれることを期待してるわ」
「はい。必ず、やり遂げます」
広く肌を露出した女の背中を見送りながら、シルはその言葉に答えた。
何だかんだでノートはシルのことを気にかけてくれている。期待してくれているなら応えるのが筋だ。そう思えば、なおさらヘズの警告を無視するのが心苦しい。脳裏にちらつくあのきめ細やかな乳の色をした顔が、今ばかりは忌まわしかった。
シルはヘズの予知夢について、他の誰にも話してはいない。このことは心の奥底に仕舞い続けるしかない、そう心中で呟いて、彼女は集合した仲間たちに改めて向き直った。
「エル、パール、それにノアさん。私たちならどんな障壁だって破れるわ。このパーティーは強い、私はそう信じてる」
半ば自分に言い聞かせるようにシルは言った。
エルたちも顔を見合わせ、頷く。ノアと二人はほぼ初対面だったが、シルから話を聞いてお互いの人となりは分かっていた。
「二人とも、よろしく頼む」
「はい! サポートは任せてください!」
「こちらこそ、よろしくお願いします。背中は俺たちに預けて、思いっきり戦ってくれれば有難いです」
二人はそれぞれノアと握手を交わした。
今日のエルは学園の制服である黒いローブに、生徒用の木製のステッキといった装備である。パールは私服の紺のロングコートを纏い、腰にお気に入りの銀の杖を差した出で立ちだ。
それから全員の立ち姿を一通り眺めたパールは、ぽつりとこぼす。
「ところで、今更つっこむ話じゃないかもしれないけど……。エル、それにノアさんも、何で普段着で来ちゃうのかなぁ……誰かに見られてたら一発で所属がばれちゃうじゃないか」
「う、うるさいな。私服持ってなくて何が悪い」
「いや、悪いとは言いませんけど……」
「まあまあノアさん、そう睨まないで! この戦いが終わったらみんなで服、買いに行きましょう! ね、パールもいいと思うでしょ」
「んー、俺たちでノアさんをコーディネートするのか……それはそれで変な感じだなぁ」
睨むノア、それを宥めるシル、想像してみて首を傾げるパール。
三人を傍から見るエルは「ちゃんと噛み合うのかな」と少しの不安を抱えながらも、彼女らしい朗らかな笑みと共に声を上げた。
「みんな、さあ行こう!」
短い言葉。だがその一言だけで、この場の全員の心は引き締まった。
かざされたエルの手の上に皆が手を重ね、気持ちを一つにする。
今ここに、四人の「世界樹攻略作戦」が始動した。
◆
物言わぬエレベータはひたすらに下層目指して降りていく。
徐々に数字が減っていくドアの上の階層表示を眺めながら、唇を引き結んだシルは物思いにふけっていた。
――世界樹のコントロールルームを突破した先に、何が待っているのか。《ユグドラシル》を制御する「脳」の人格は果たしてどのような性格なのか。その人格は何を語り、何を覆い隠すのか。
そこにいるのは「世界そのもの」という大いなる存在だ。千年の歴史の全てを内包する、人知を超越した畏怖すべきもの。
自分たちはなんと不遜な人間なのだろう、とシルは自嘲的に笑った。
イヴという神からしたら、シルたちは紛れもない「悪」だ。その行動が人々を破滅から救い出すという目的であっても、「神」と「世界」から見れば悪魔の所業でしかない。イヴを信奉する事情を知らない多くの民たちからも、シルたちは排斥される対象になってしまうのかもしれない。
だが、それでもやらなくてはならない。たとえ悪魔と蔑まれようとも、自分たちの正義を貫き通さねば未来はないのだ。
「…………」
シル以外の皆も無言であった。
これからの試練を失敗すれば、命は確実にない。無事生還できたとしても、戻った先でイヴの鉄槌を食らってしまう可能性が高いだろう。どう転ぼうが、自分たちのタイムリミットはそう遠くはないのだ。それを考えれば、重苦しい空気になってしまっても仕方がない。
イヴといえば――。
「あの、ノアさん。イヴが倒れたと聞きましたけど、その原因は判明しているんですか? 先日、『ヴァナヘイム』の王ニョルズ様が崩御されたと聞きましたが、彼と同じく寿命が近づいて……?」
「どう、だろうね。姉さんの時間が残り僅かであるのは明らかだったけど……まさかね」
自身の左腕をきつく握り、顔をそちらに背けるノアの表情はうかがい知れない。
シルにとってイヴは討つべき敵だが、ノアには大切な姉なのだ。かつての人格とは別人に変わってしまったとはいえ、彼女への愛が揺らぐことはない。
今朝会ってからずっと平静さを保っていた彼女だが、内心では姉の安否が気になっているはずだ。こんな時に彼女の側にいられず、もどかしい思いをしているのだろう。
「ねえ、ノアさん。イヴさんって元々は優しい人だったんでしょ? 私たちが頑張って試練を乗り越えれば、きっと彼女も変わってくれるよ!」
と、ここでエルがにっこりとノアに笑いかけた。苹果のようなその頬は、無垢な輝きに満ちている。シルやパールには持ち得ない、エルだけの純粋な笑顔。
ノアは顔を上げ、緑髪の少女を睨み据えて歯ぎしりする。
「……なんの根拠があってそう言える? これまで私がどれだけ努力して、姉さんのために動いてきたか、あんたは知らないだろう。何も知らないくせに、口出しするな」
深い緑の瞳に炎が湧き上がった。怒りを発露させるノアだったが、彼女と相対するエルは笑みを崩しもしない。常人なら尻尾を巻いて逃げ出す【冷血】の憤怒にも、天真爛漫な少女は全く動じなかった。
「うん、知らないよ。でも、信じることはできる。それに、ノアさんはこれまでずっと一人でイヴさんのためにやってきたんでしょ? 一人じゃ無理でも、誰かと協力すれば道が開けるかもしれないよ。新しい魔法を生み出すときみたいに、大切なのは『組み合わせる』ことだと思うんだ」
「そんな、説教くさいこと……」
反駁しようとしたが、ノアはその先の言葉を思いつけなかった。
エルの発言は正論だ。他者の力を借りればどうにかなる可能性を否定できる材料はない。
口をモゴモゴさせるしかないノアに、エルは話を続ける。
「私、ノアさんと仲良くなりたい。ノアさんが巷で言われるよりずっといい人だってことはわかったし、ハルマくんから聞いてどれほどイヴさんを愛しているかも理解した。理解した上で、助けたいって思ったんだ。――一緒に考えたいんだ、イヴさんのために何ができるのかを。私なんかでよければ、だけど」
「……『私なんか』なんて、言うもんじゃないよ。あんたにはあんたの良さがある」
目を逸らしつつも、ノアはそう思ったことを吐露した。
素直に「ああ」と言えないノアの心情を汲み取って、エルは彼女へ手を差し出した。
「じゃあ、握手しよう。それが礼儀ってもんだからね」
「……わかった」
ノアはエルの手をこわごわと握り、やり場のない視線を彷徨わせる。
彼女と目があったシルが保護者面してウンウン頷いているのが無性に腹立たしくなりつつも、ノアはただ頬を染めることしかできなかった。
「ノアさんがどんな人なのか、今ので大体わかったよ」
「わ、わかんなくていい! そんな笑顔で私を見るなっ……!」
最後の良心だと思っていたパールまでそんな風に言い出すので、ノアはたまらなくなって叫ぶ。
試練を前に緊張していた一同の空気は、こうして一時弛緩するのだった。




