27 魔女と少女の夢想曲
「はぁ~、もうお腹いっぱいだよ~。姉さん、奢ってくれてありがと!」
シルが上層に帰還した、その翌日。
昼過ぎまでたっぷりと睡眠を取った彼女は、日曜日のため学校が休みの妹とのんびり街を散策していた。
エルとメールで連絡は日々しているが、こうして肩を並べて歩くのは本当に久しぶりだ。人や車が忙しなく行き交うアスガルドのメインストリートを眺めながら、シルは礼を言ってくる妹に微笑みかける。
「愛しの妹のためなら、そんくらい大した出費じゃないわよ。何ならもっと高い店でも良かったんだけど」
「出会い頭にお小遣いもくれたし、なんか姉さん、久々に孫に会ったお婆ちゃんみたいだね」
「うそ、私そんなに老けちゃった? 若者らしい振る舞いを心がけてるつもりだったのに」
シルが冗談めかして驚いてみせると、エルは昔と変わらず朗らかに声を上げて笑った。
今日の空模様も彼女らの心を映し出したかのように快晴で、涼やかな風が穏やかに吹いている。絶好の散歩日和になってよかった、とエルを見つめ、そこでシルはふとあることに気づいた。
「あらっ、エル、あんたちょっと背が伸びたんじゃない? というか……全体的に大きくなったような」
魔導士のローブでなく私服であるせいかもしれないが、上から下までエルを見ると、彼女のシルエットはいつの間にか細身で長身なシルのスタイルに着実に近づいている気がした。シルが密かに自慢に思っていた豊満な双丘も、早くも追いつかれてしまいそうになっている。
シルの指摘にエルはぱっと顔を輝かせ、誇らしげに胸を張った。
「そりゃあ、私だってもう成長期だもん。大きくもなるよ。まぁ、おっぱいのサイズが増したせいでハルマくんが度々休み時間に揉みにくるようになったのは、困りものだけど」
「呆れた。あのエロガキ、今度はそんなセクハラやってんの? ちゃんとやめさせないと、あいつ調子のってやり続けるわよ」
「ハルマくんって顔はいいし、魔法にかけては私より凄くて頭もいいし、ああ見えても優しいし……性欲がやたら強いことを除けば、ほんとに完璧なんだけどね。それに私も普段彼にはインスピレーションをたくさん貰ってるから、あんまり強く拒めなくてね……」
「揉みたいならエルの胸じゃなくて、私の肩でも揉んでくれればいいのに。最近、疲れからか凝りが酷くて」
「あはっ、それいいねー」
談笑しつつ、二人はどちらが言うともなく自然とある場所へ足を進めていた。
人で溢れたビル街から離れた、都市の外れの公園。幼い頃、シルたちが両親と共によく遊んだ、緑豊かな憩いの場だ。
木の葉が屋根となって日差しを遮る遊歩道を行く人はまばらだ。草木や花の匂い、鳥や虫たちのさえずり、静かに吹く風の音……自然を肌いっぱいに感じるシルは、かつてここを歩いた自分たちの姿を瞼の裏に浮かべた。
「母さんと父さんがもし、生きていたら……今の私たちを見て何を思うのかしらね」
シルたちの両親はとある【神】の家に出身の優秀な魔導士だったが、シルが学園の一年生だった年に実験室で未完成の大魔術を暴発させる事故で亡くなっていた。
厳格さと優しさを併せ持つ母、おおらかでとにかく笑みを絶やさなかった父。誰よりも尊敬していた二人が突然にしていなくなる――想像してもいなかった最悪の運命が、まだ幼いシルたちに無情にも降りかかったのだ。
親類も裕福な家庭であるため、親が死んだ後も暮らしには困らなかった。けれども、まだ年端のいかない少女にとって両親をいっぺんに失うショックは大きく、その頃のエルは部屋に閉じこもって塞ぎ込んでばかりいた。そんな妹を元気づけ、どうにか支えていこうと、シルは学校を休んでまで彼女に寄り添い続けた。
紆余曲折はあったものの、半年が経った頃にはエルは立ち直ることができた。シルの心にも傷はあったが、それはなかったこととして封じ込め、重苦しい影を抱えながら彼女は学園生活を再会した。
元々クラス内で浮きがちだったのに加えて、半年もの休止期間があればクラスメイトはシルを完全に他人のように扱うようになっていた。当時のシル自身もエルと自分しか信じられなくなっており、学園で彼女が笑顔を見せることは完全になくなってしまった。その暗い学園生活に一筋の光を照らしかけたのが、クラスメイトの一人である「地味な男子」ことパールであった。
「絶対、喜んでるよ。姉さんも私も魔導士として立派に成長してるもん。姉さんがこれからやろうとしてることも、きっと応援してくれる」
ふと呟いたシルの言葉をそっと受け取り、エルは柔らかい笑顔で答える。
シルの左手を右手で握り、八年前から見違えて明るくなった彼女は重ねて言った。
「今、私と姉さんで繋いでいる手の温度……この熱を絶やさないために、姉さんは戦うんだよね。私も、思うことは同じだよ」
「エル、あなたも一緒に戦いたいのね。ふふっ、それなら歓迎するわ」
「え、止めないの……? 姉さん、いつもだったら私を危険から極力遠ざけようとするのに……」
快諾したシルにエルは緑の目を丸くする。
妹の父親譲りのエメラルドの頭をポンポンと軽く叩きながら、シルは頷いた。
「あなたの実力が本物だからよ。私たちについていっても足手まといにはならない。私は回復系の魔法が下手だから、そこを補えるあなたは貴重な存在なの。あなたの勇気に感謝するわ、エル」
攻撃魔法に特化したシル、防御に優れたパール、回復や状態異常など搦め手が得意なエル。パーティとして申し分のないバランスの良さだ。ここにノアを加えれば攻守の均衡も2:2で丁度いい。
と、ここでふと思い出してシルは訊ねた。
「そういえば、ハルマは何か言ってた? 私が大きな試練に挑むことは分かっていたみたいなんだけど、昨夜のメールを最後に連絡がないのよね」
「あぁ……えっとね、今朝、ハルマくんは『シル姉さんの誘いには乗れないと伝えてほしい』って言ってたな。私がその訳を聞いても教えてくれなかったけど」
釈然としない様子のエルに、シルも首を傾げてみせるしかない。
パートナーのエルに理由も明かさず断るのだから、面倒だからとか軽い理由ではあるまい。何か重要なことが、シルたちの知らない何かが彼には見えているのかも……そう考えるが、シルたちに話せない訳など想像もつかなかった。
「ねえ、最近ハルマと上手くいってる?」
単純にエルに詳しく語りたくなかっただけなのでは、とシルは妹に確認した。
エルは顎に指を添えて視線を上向け、少し黙考してから答える。
「今までと関係は変わってないよ。ただ……最近、ハルマくんが一人でぶつぶつ呟いてたり、かと思ったら鋭く叫んだり、何故か片目を押さえてたりするんだよね。とにかく変なんだよ」
「…………ただの中二病じゃない」
エルに理由を話さなかったのも、大方無口キャラに憧れたとかなんだろう。この心配は何だったのだ、と肩を落とすシルはため息をついた。
「エロガキが中二病のガキに進化したわけね……。ま、学生生活に支障がないのならそれでもいいか」
「ねえ姉さん、ちゅーにびょうって何?」
「どうでもいい知識よ。端的に言うと黒歴史ね」
「黒……歴史? 歴史が何なの?」
「思い出したくない過去のことよ」
「へえ、そんな言葉があるなんて知らなかったよ。あ、知ってるってことは姉さんもそうだったの?」
「掘り返さないでちょうだい」
公園をぐるりと一周するまで、二人はこんな調子で他愛のないお喋りを続けるのであった。
姉妹水入らずの午後はあっという間に過ぎ、夕陽の沈む頃にはシルはエルと学園前で別れた。
卒業する数ヶ月前、エルと夕暮れに交わした会話を思い返しながら道路を歩いていたシルだったが、背後から声をかけられて立ち止まり振り返った。
「シル・ヴァルキュリア。会うのは久々だな」
浅葱色のふんわりしたミディアムヘアーに同色の丸い瞳をした、白い学生服に黒のスラックスを履いている美少年がそこにいた。
シルと盟約を結んだ【神】兼吟遊詩人のグリームニルである。
「手紙は読んでくれたか? ヴァナヘイムは今、揺れている。何たって何百年も国を治めてきた王が没したのだからな」
「3ヶ月ぶりね、グリームニル。神ニョルズの訃報は昨日にも上層全域に知れ渡ったわ。あなたにも苦労をかけることになるわね」
シルは隣をついて歩く小柄な少年を見下ろし、労るような声音で言った。
グリームニルはふるふると首を横に振り、「私が選んだ道だ」と答える。
「王位継承権第一位は女神フレイヤ、つまりは今の私の主となっている。すぐにでも新たな女王の戴冠式が行われるだろう。そうなれば、私は女王の側近となれるわけだ」
「それは……名誉ある話じゃない! すごいわね、やるじゃない!」
前から通行人がやって来てシルは声のボリュームを上げ、グリームニルの肩を笑って叩いた。
彼からの詳しい話は自宅に戻ってからしよう。それを目で伝えると、少年はふむ、と前だけ見て頷いた。
◆
「ここがシルとパールの愛の巣か。ふむ……まあ普通だな」
きょろきょろとあちこちを物色するグリームニルをシルは居間に案内し、椅子に掛けるよう勧めた。
キッチンでお茶菓子を用意しながら彼女は「普通で悪かったわね」と口をへの字に曲げる。
「色々と大変だったそうだな。こちらにもお前の活躍は伝わってきたぞ。しかし、アルフヘイムでのお前の行動、アスガルド政府はどう受け止めたんだ?」
「特に処罰はなかったわ。ただ、これは私が勝手にやったことでアスガルド政府は関係ない、って声明を出しただけ。紛争に割り込んだことで文句を言われるかと思ったけど、意外にも何もなかった」
シルはティーカップとショートケーキを載せた皿をテーブルに置き、グリームニルと向かい合って座った。
彼からの問いに答えると、少年は小さく口を開けて驚いた様子だった。
「ノアという女は、イヴが意図的に戦の火種を作ったと言っていたそうだな。それからして、イヴが何かしてくると思ったんだが……彼女はお前の行動など問題ではないと考えたのか」
「イヴの真意が読めない以上、なんとも言えないわね。ノアさんの話だと女王は人間らしい心を失いつつあるそうだし……常人には理解不能な何かを見ているのかもしれない」
「ふん、それは哀れな話だな。だいたい、人の心を捨てて何になるというのだ」
イヴについては、二人の間では行動の予測が断定できないとの認識で固まっている。
名実ともに【神】になろうとしている魔女、その狙いが何なのかを知りうる人物は今現在【ユグドラシル】には誰ひとりとしていないであろう。
「……イヴの考えを議論しても仕方ないな。さて、シル・ヴァルキュリア、私から警告したいことが一つある。わかっていることだとは思うが、今後の『ヴァナヘイム』のことだ」
「頂点に立っていた神が死に、しばし国が不安定になる……あなたはそう言いたいのね。でも、次の王は前王のニョルズ様の娘であるフレイヤ様でしょ? そこまで危惧することかしら」
「危惧しなくてはならない状況なんだよ、今は。自分のことでいっぱいになるのもわかるが、目を背けないでもらいたい」
少年に諫められ、シルは吐き出した自分の言葉に反省した。
女王フレイヤの精神が不安定な状態にあるのは、グリームニルの手紙に目を通して知っている。だが彼女に最も信頼されている少年が側にいてやれば、安定に近づくのではないか――シルはそう見ていたのだが、彼の言い方からして決して楽観視はできないようだ。
「本音を言えば、私はあの女神に王になってほしくなかった。彼女はそれほどまでに情緒不安定なんだよ。悪意のある者に甘い言葉で少しでも何か吹き込まれれば、言いなりになってしまう……。彼女の求めるものを目の前にちらつかせれば簡単にすがり付いてくる、そこに付け入る輩は必ず現れるだろう」
「国の内部にも敵対勢力はいるのよね。そうなると、彼らが女王を動かしてこれまでの政治をひっくり返してくるかも……ってことね。グリームニル、あなたにそれを防ぐ手立てはあるの?」
シルが問うと、グリームニルは眉間に皺を寄せて俯く。
彼のヴァナヘイムでの立場は女神フレイヤの侍従でしかなく、政治に口出しできる立場にない。フレイヤは彼をアスガルドへ密偵として遣わせることもあったが、それは彼が公に名を知られない存在であったからだ。密偵として働くのが、少年がフレイヤのためにやれる最大限のことだった。
「たとえ女神の従者以外の道を選んだとしても、もとより部外者の私がたった二年で政権内に強い影響力を持てるようになるわけもなかった。……あまりに時間が足りなさすぎた。あと五年、十年あれば変えることもできた可能性はあったのだがな」
「それは……悔いてもしょうがないわ。今見るべきは、今後のフレイヤ様の動きよ。彼女を利用しようとする勢力から、あなたが守ってあげなきゃ。女神フレイヤに寄り添ってケアできる一番の存在は、あなたなんだから」
しかしグリームニルは頷かなかった。彼は固く腕を抱え、下を向いたまま身動ぎすらしない。
何かに葛藤している少年にシルはどう声をかけるべきか逡巡した。
シルは、同じような状況をアルフヘイムで体験したことがある。カトレアという少女が悩みを抱え、手を差し伸べたシルに打ち明けるか迷っていた場面だ。
「グリームニル……【永久の魔導士】として誓って、他言しないわ。だから話してくれないかしら、あなたが抱える女神に関する何かを」
優しく穏やかな声音で、彼女はグリームニルにそう促した。
少年は顔を上げ、揺らぐ浅葱色の瞳でシルを正視する。頷く彼女に、彼は一度ごくりと生唾を飲み込み、それから口を開いた。
「…………女神フレイヤは、おそらくだが悪魔に憑かれている。そいつは千年前に暴虐の限りを尽くしたという【大罪の悪魔】の一人、アスモデウスだ。私は彼女の両眼が妖しく紅に光るのをこの目で見た。手紙にではフレイヤの精神状態について簡単な言葉で済ましてしまったが、あれは明らかに常軌を逸していたのだ。お前は傲慢の悪魔に憑かれたエルフの女王と相対したと言ったな。ならば、わかるだろう。あの目はまさしく、悪魔そのものだったのだ」
堰を切ったようにグリームニルは一気に語りだした。
シルが上層に帰還した日にフレイヤとの間でどんな会話が交わされたか、その時の女神の様子をくまなく少年は魔女に伝える。
全てを聞き終えたシルは、固く腕組みしてしばらく黙考していた。
(イヴは一体何人の悪魔を《ユグドラシル》に呼び戻したの。確認されてるだけで既に二人いたのに、アスモデウスを加えて三人目だなんて。いや――見つかっていないだけで、悪魔は他にも……?)
悪魔は災いを、争いを呼び起こす。傲慢の悪魔が火種を生んだ中層の紛争に続いて、他の悪魔らにより次なる戦争が勃発する可能性は高い。
シルと戦って倒れたティターニアは、目覚めたあと記憶が混濁し性格も別人のようにおとなしくなっていたという。またノアとの会話の中で「ルシフェルの【悪器】」というワードが登場した。それはおそらく、名称からしてフェイが持っていた【神器】と対をなす存在だろう。
これらのことから察するに、あの戦いの際にティターニアが身につけていた【悪器】が破壊され、彼女から悪魔が離れたといえるのではないか。
「フレイヤ様からアスモデウスを追い出さないといけない……でも、そのためには彼女と戦わなくてはならない。一応聞いておくけど、フレイヤ様がひとりきりになるタイミングは?」
「外出中はありえない。就寝時は一人だが、寝室の前には常に番人が交代で立っているし、監視用の魔道具も設置されている。見つからずに侵入するのは不可能だ」
女神の侍従はきっぱりと答えた。フレイヤと一番近い位置にいる彼が言うならば、間違いはない。
部外者が彼女に触れることは決して叶わない、それならば――。
「やはり、あなたにやってもらうしかないわね」
少年はきつく唇を噛み、関節が白く浮き出るほどに両拳を握り締めた。
二年間フレイヤのもとで働いてきた彼にとって、もう女神はシルたちと変わらないかそれ以上に大切な存在になっている。それは、彼の手紙の文面や彼女について話すときの口調からして明確だ。
酷なことをさせるのは百も承知だ。だが、行動に移せるのはもはや彼しかいない。ヴァナヘイム内でフレイヤの異変に気付いた人物がたとえ彼以外にいたとしても、悪魔に対抗できるだけの実力者となると、現実的に考えてそこまでいないだろう。
「任せられるのはあなただけなのよ。あなたがフレイヤ様の持つアスモデウスの【悪器】を壊し、彼女を解放してあげなきゃ。彼女の就寝時にいつもどおりベッドに入って、油断しているところを狙うのよ」
「ちょっと待て……そんな簡単に言うな。私はフレイヤを傷つけたくなどない。それに……べ、ベッドに入るとはどういう意味だ? いつもどおりだのなんだの……お前は何か私を誤解していないか?」
グリームニルは柄にもなく頬を少し赤くして狼狽していた。
何か認識の齟齬があるな、と思い直してシルは訊く。
「フレイヤは性的に奔放な女性だと聞いていたから、てっきりあなたも相手したのかと思ったんだけど、違ったのね」
「当たり前だ。快楽だけを求める性行為など、私はしない。それに……」
「それに?」
「何でもない。とにかくだ、私はそんなことはしないからな」
困ったな、とシルは顎に手を当て考え込んだ。
良くも悪くも少年は【神】であることをやめた【神】なのだ。人間らしい感情が、彼に杖を握らせることを躊躇させている。
――大切な人を思う心は、この人も同じなのね。ちょっと、羨ましい。
一瞬向けられたシルの羨望の瞳にグリームニルは気付かなかったのか、敢えて触れなかったのかは定かでないが、無言だった。
シルは席を立つと少年の後ろまで回り込み、彼の子供のように頼りなさげな肩に手を置いた。
びくんと身動ぎするグリームニルは、やや硬い声音で絞り出すように言ってくる。
「お前だったら、こんな局面でも強引にどうにかしてしまうのだろうな。……期待外れ、だったろう」
「そんなことないわ。主に攻撃したくないと従者が思って何が悪いの? あなたの考えは真っ当よ。――私ね、思うんだけど……何も本番まで持ってかなくてもいいのよ? アスモデウスに力を全て吸い取られてしまうリスクがあるから、体の接触は避けた方がいいでしょうし。あなたはそういう雰囲気を演出するだけでいい。いつもの可愛いあれで誘えばいいのよ。何なら練習に付き合ってあげてもいいわ」
「っ、何百歳も年上の相手に図々しく指図するな! 指示するならそれなりの態度があるだろう」
突如勢いよく立ち上がった少年の頭が、すぐ後ろにいたシルの顎にクリーンヒットする。
わざわざ反り返って攻撃してきたグリームニルに、シルはカチンと来て声を荒げた。
「なっ、何すんのよっ!」
「練習などいらない。私は私のやり方で、女神フレイヤを救ってみせる」
顎をさすっているシルに向き直り、少年はニヤリといつもの強気な笑みを浮かべる。
その顔で、彼が臆病であることを止めたのだとシルはすぐに分かった。
「ありがとう、シル。おかげで決心がついた」
「どういたしまして。これからは、互いに大仕事が待つことになるわね」
「なるべく早く片付けたいものだな。全てが無事に終わった暁には、皆で集まって飲み交わしたい」
「ええ。ノアさんや、ヘズ様やロキ様も誘ってね」
理想のために彼女らは戦う。その先にある本当の幸いを求めて、苦難に立ち向かうのだ。
決戦の時は近い。だが彼女らは、そこに立ちはだかる巨大な壁に背を向けることはなかった。
◆
そして、その二日後――。
シルのメールボックスに、新着が一件。差出人は、ノアだった。
『姉さんが今朝、執務中に倒れた。今が最大の好機だ』




