25 盟約
シルがノアに連れられて繁華街の一角にあるバーへ到着したのは、空が深い群青色に染まった頃だった。
黒い外壁のその建物は、周囲の派手に飾られた店たちに比べれば質素で目立たない。だからこそ、ノアはそこを好んだのだろう。
「リサ、いつものを頼む。あと、こいつにも同じやつを」
ノアが入店して開口一番、バーの主である人物に注文した。
黒一色の内装をオレンジの灯りが仄かに照らす店内は、L字のカウンター席と幾つかのテーブル席からなっている。そのカウンターでまだまばらな客たちに酒を振る舞っている妙齢の女性が、リサであった。
「ノアちゃん、こんばんは! 連れがいるなんて珍しいわね」
長い絹のような白髪を流す、切れ長な赤い目の美しい顔立ち。ゆったりと開かれた胸元からは豊満な双丘を覗かせる、上下白の衣装がトレードマークの魔女だ。
快活な笑顔で二人を迎えたリサは、宇宙人でも見るような目でシルを観察する。
シルがまじまじと見られることに居心地の悪さを感じる中、ややあって彼女はシルへ頭を下げた。
「ごめんなさいね、あまりに驚いたものだからつい。あたしはリサよ。あなた、お名前は?」
「シル・ヴァルキュリアです。豊穣神フレイ様の一の側近であります」
「あら、豊穣神様の!? それは凄いわね、エリートじゃない! それでいきなり悪いんだけど、ノアとはどういう関係なの?」
彼女との関係――どう表現したらいいものかとシルは言葉に詰まった。仕事での関わりは大してないし、プライベートな付き合いも勿論ない。単純に、シルはノアを利用したくて声をかけたのだ。だが、ノア本人の前でそうのたまうのは憚られる。
「とにかく、まずは座ろう。話はそれからだ」
「ん、そうね。じゃ、好きなとこ掛けて頂戴」
ノアが助け船を出してくれ、その流れでシルたちは一番奥のテーブル席についた。二人で向かい合って座り、ひとまずは注文の品が用意されるのを待つ。
赤々としたカクテルを運んできたリサはそれをテーブルに丁寧な所作で置くと、二人の顔を見比べて訊ねた。
「ノアちゃん。始めに聞いとくけど、これって浮気ではないのよね? あたし、あなたのこと嫌いじゃなかったのよ」
「私は【冷血】のノアだよ? 生まれてこのかた、恋愛なんてしたことはない」
「頷いて欲しいとは思ったけど、そんな寂しい返しは求めてなかったわよ。はぁ……ノアちゃん可愛いのに、他の誰も魅力に気づいてくれないのよね。もっとオープンになった方がいいわよ、あなた」
「……知ってるさ。シルとの付き合いもその一環だ」
ぶすっとした顔で女店主を見上げ、ノアは答えた。
これが普段は無表情を貫いている【冷血】の素顔なのか――二人の会話を他所に、シルは一人ポカンと口を開けながら彼女を見つめる。
「シルちゃん、ノアちゃんはこう見えても寂しがりやだから、大切にしてあげてね。……じゃあ、ゆっくり楽しんでって」
「あ、はい。ノア様は私が、大切にします」
貴重な人材だから無下に扱うことは出来ない。至極真面目に、シルはリサに頷いて答えた。
カウンターの奥に戻っていくリサの背中を眺めつつ、シルはノアに聞く。
「ノア様……ノア様はリサさんと長い付き合いなのですか? リサさん、ノア様のことを私よりもずっと知っているようでしたから。それと、リサさんは女の人に恋愛をする方なのでしょうか? 浮気だの何だの言ってましたが……」
「質問は一つずつ、あと様づけも気にくわない。城じゃともかく、ここでは対等な立場でいいよ。その方が話しやすいでしょ」
確かに、それもそうだ。
親密な関係が築けるのならそれがベストなため、ここは彼女との距離をどんどん詰めていくべきだろう。
と思って呼んでみたのだが――。
「ノ、ノア……ちゃん?」
「ちゃん付けはやめて。なんだか、恥ずかしいし」
顔を真っ赤にし、うつむきがちにぼそぼそと言うノア。
その様子が普段の彼女とあまりにギャップがあるため、シルはついからかいたくなってしまう。
「でも、リサさんはノア様をちゃん付けで呼んでるじゃないですかー」
「っ、それとこれとは話が別! ……普通に、先輩に話すような感じで呼んで。それじゃ時間も惜しいし、質問に答えるよ」
おちょくろうとするシルを往なし、ノアはさっさと彼女の問いへの返答に移った。
「私とリサの付き合いはそこまで長くない。五年くらいだよ。あいつがここに店を出して間もない頃だった。だからかな、あいつにとって私は思い入れの深い客ってわけ。
リサが同性愛者だってのは、事実だよ。それでも普通さ。少なくとも、私なんかよりずっと温かくて、人間らしいやつだ」
「ノアさんにも、イヴ様以外にそんな特別な人がいたんですね。なんだか、安心しました」
ノアが主のイヴ以外に心を開かず、常に冷徹な女性だとシルは思っていた。しかし、それはどうやら違ったようだ。先程のやり取りからもわかる――この人は、このバーの店主を信用している。
「で……私とリサの話は本題じゃないでしょ? シル、あんたの聞きたいことは何なの?」
ノアはグラスに口をつけ、赤い酒で唇を湿らしてからシルを上目遣いで窺う。
そう、ここからが本番だ。『ユグドラシル』がもたらす世界の大いなる異変――それを食い止めるための手がかりを握っているかもしれない者から、答えを引き出さなくては。
渇いた喉を慣れない酒で潤し、そしてシルは切り込んだ。
「ノアさん。『ユグドラシル』が世界に大規模な穀物の不作を起こしていることは、知っていますか。私は、イヴ様ならあの世界樹の意思を変えられるのではないかと、あなたに打診してみようと思ったんです。世界樹を作ったのはイヴ様です。作った本人ならそれを動かすこともできるはず。そうでしょう?」
シルの言葉に、ノアは鬱屈した沈黙を返すのみであった。
彼女の瞳に宿っているのは、シルが『アルフヘイム』で目にしたとある神の眼のそれと同じものだった。海の深淵のような、とてつもない諦念。
自分にはどうすることもできないと、ノアは瞳でシルに言っている。
「なぜです……? まさか、イヴ様にも制御できないほどに、世界樹は力を増しているんですか……?」
ノアは答えない。答えようと、しない。
その張り詰めた瞳もシルは知っていた。エストラスがシルに何度も向けた、哀しみと怒りに満ちた暗い目だ。
「ノアさん……何か、あったんですよね。あなたの目は常に鋭く、自信と誇りに満ちていました。しかし、今はそれがありません。――【冷血】と呼ばれたあなたからは、その冷たい強さが失われてしまった」
「私を憐れむのか、シル・ヴァルキュリア」
沈黙を破った彼女の第一声が、それだった。
自嘲気味に笑うノアに、今度はシルが言葉を失う。
「そうだろうな。私は可哀想な人間だ。尽くした主からは突き放され、周りの者からは【冷血】だのと蔑まれ、見えない敵ばかり作ってきた私が、憐れでなければ何なんだ? ……シル・ヴァルキュリア、あんたが求めるものを私が与えられるとは考えない方がいい。今の私に、そんな力はない……」
シルは息を呑んで彼女の言葉を聞いていた。
――ノアがイヴからもう必要とされず、手放された? 女王の隣に常に立っていて、全幅の信頼を寄せられていたであろう彼女が?
シルにはノアの台詞がにわかには信じられなかった。
けれど、ノアが冗談を言っているのだとは、口が裂けても言えない。彼女のその瞳を見てしまったら、決して言えることではない。
「話してくださいませんか。イヴ様との間に何があったのか……何故、あなたとイヴ様との絆が失われてしまったのか、聞かせてくれませんか。私は――今のあなたと同じ目を、中層で何度も見てきました。だから分かるんです、あなたがとても辛い気持ちを抱えていることも。お節介かもしれませんが……」
凪いだ海のように穏やかにシルは言った。
血の色をした液体をぐいっと煽り、緑髪の女性はため息混じりに答える。
「はぁ……いいよ、話してやる。そうしたら、このやり場のない悔しさも晴らせるかもしれないからね」
◆
ノアから事の顛末を聞き、シルはどうしようもない怒りとまさしく【神】になろうとしているイヴへの畏怖を胸に抱いた。
戦争により世界を発展させようとしてきたイヴが、ダークエルフのエルフへの憎しみを煽動する形で戦争へと導いたこと。それに疑念を持ったイヴを『代え時』だと一蹴したこと。ノアの中にイヴの不要な記憶が全て詰まっていること。そして――「自分の人形として働けないのならゴミ箱行き」との、イヴの無情な台詞。これらを経て、ノアは無人の廊下で一人涙したこと。
その全てを、シルは受け止めた。
「ノアさんの言うことは正しいです。戦争と世界の発展のことはともかく、ダークエルフの人権を踏みにじるような結果をもたらしたイヴ様は間違ってます。ティターニアをあのように変えさせたのも、イヴ様がやったことなんですよね」
「そう。異空間に封印されていた傲慢の悪魔ルシファーを引きずり出し、ティターニアに憑けたのは姉さんだ。私がそれを知ったのは、姉さんがティターニアに『悪器』を渡した後のことだった」
ベルフェゴールの力は、人々にまやかしの平和を信じ込ませるためのもので、まだ「平和のため」という大義を持てた。
しかし、今回のルシファーは亜人たちの争いを引き起こすためだけに使われた。イヴと共に、例えまやかしであっても平和な世界を作る――その使命感を原動力として生きてきたノアにとって、それは決して許せることではなかった。
「今までは、こんなことはなかった。戦争を積極的に起こすなど、私たちは一度もしなかった。人は勝手に争うもの、そして争いの中で進歩するもの――そう考えて戦争を早期に調停はしなかったけど、終戦の後になるべく禍根が残らないよう配慮してきた。それなのに……姉さんはダークエルフたちにエルフへの憎悪を植え付け、エルフたちのダークエルフへの差別を当たり前のものに変えてしまった。彼女は無理矢理、人々にその思想を押し付けた」
「その過程は、私もアルフヘイムで一人の少年から聞いていました。ティターニアはメディアの力を駆使して、エルフたちを差別へ向かわせたと。ティターニアと対面して、あの女を絶対許せないと思ったけれど……彼女もまた、悪魔に心を蝕まれただけの被害者だったんですね……」
イヴの目的は何なのだろう、シルは話しながらそう思索する。
彼女は『ユグドラシル』の支配者であり、創造者だ。かつて神と悪魔の戦争で壊滅寸前となった大陸から、空へ伸びる大樹と新しい国を生み出したイヴは、この世界の平和を願う存在でなくてはいけないのだ。
それにも関わらず、彼女は悪魔の力を借りてまで『中層』に戦争をもたらした。それが意味するところは――。
「イヴ様は、世界を壊そうとしている……?」
ノアはシルの呟きを反駁しなかった。
「それが真実だとしたら、先の私の質問の答えは――イヴ様が世界樹を制御できないのではなく、彼女がそれを為そうとしないから。いいえ――最初から、世界樹の意思はイヴ様の意思と同じだったのかも……」
そうだとしたら、ノアにどうにもできないというのも頷ける。が、それと同時に、世界樹の意思が誰も干渉できないものであることも確定的になってしまった。
「いや、それは否だ。世界樹の意思は、私が姉さんと別の人間であるように、イヴとは異なる人格によるもの。姉さんが『彼』と話していた記憶があるから、確かだ」
「ノアさん、それは本当なのですか!? だとしたら、まだやりようはあります! 世界樹という一人格を説得して、道を変えさせれば……!」
視界を覆っていた霧が晴れ、残された手に飛び付いたシル。
しかし、ノアは首を横に振って彼女の希望を打ち砕いた。
「あんたは世界樹の人格とコンタクトする方法を知らないから、そんな望みを持てるのさ。彼と対話するには世界樹最下層の『コントロールルーム』に行く必要があるけど、そこへ入れるのは姉さんだけなんだよ」
そんな、と落胆しかけてから、それも当然だろうとシルは冷静に思い直した。
もし世界樹に誰でも干渉できたら、世界は滅茶苦茶なことになっていたかもしれない。世界の意思とは、すなわち本物の【神】の意思だ。決して、人間ごときが触れていいものではない。
あのノアにも解決不可能な問題なのだ。若輩のシルがぶつかってどうにかなるとも思えない。
このまま諦めるしかないのか……唇を噛んだ、その時だった。
「それなら、その『コントロールルーム』の扉をぶち壊せばいいじゃない」
沈鬱とした二人の前にホイップ特盛のパンケーキを出しつつ、リサがふてぶてしく笑って言った。
「リサ……」
「ちょっと待ってください! 『コントロールルーム』はおそらく、イヴ様の魔法で異空間に置かれているはず。そうでしょう、ノアさん」
「……あ、ああ。だから『コントロールルーム』に侵入するには、空間と空間を繋げる魔法が必須になる。だが……私はそんな魔法を会得していない。シル、それはあんたもでしょ?」
目配せし合う二人の言葉にも、リサは動じることはなかった。
むしろその不敵な笑みを深め、二人の肩に手を置いて顔を近づけ、囁きかける。
「だったら、その魔法を習得すればいい話よ。シルちゃん、あなたは中層の戦いで『時』を操る魔法を発現させたそうじゃない。それを再び用い、応用すれば女王の壁を破れるんじゃないかしら」
この人は何なのだ――シルは彼女の深紅の瞳を見上げながら、自分の胸がざわついているのを感じていた。
「『時間』を操る魔法と、『空間』に働きかける魔法は別物です。それで何とかなるとは……」
「あなた、意外と頭が固いのね。あたしは応用しろって言ったのよ。新たな魔法を生むには、まず横の繋がりを注視しろ――魔導学園で教わってきたでしょ? 既存の魔法の中には必ず新たな魔法を生み出すヒントがある」
リサはウインクしながら言い、ついでにシルの頭をポンポンと優しく叩いた。
その手は柔らかく、そして温かくて、シルは遠い記憶にある母親の面影をリサに抱いてしまった。
彼女のそんな心情もいざ知らず、リサは言葉を続ける。
「この頭に詰まってる魔導の知識を活かすべきは、今なんじゃない? 世界を破滅から救うためなら、神に抗うことも間違ってない……あたしはそう思うわよ。最後に背中を押す勇気さえあれば、あなたたちは何だってできる。これまでの功績がそれを証明してるわ」
燃える炎の目がシルを射抜き、その刹那、シルの体に電流が走った。
――あなたならやれる。だから、やるの。何がなんでも!
女のそんな叫びが聞こえてくるようだった。ドクン、一拍を刻んだ後、シルの鼓動は激しさを増していく。
しかしその体の異変もあっけなく収まり、彼女は深呼吸してから言うべき言葉をなぞった。
「はい――やってみせます。もう、残された道はそれしかないのだから」
「よく言ったわね。【永久の魔導士】の名に恥じない活躍を期待するわ」
リサはシルたちから一歩身を引き、微笑を浮かべた。その目には先の一瞬の苛烈な色はなく、柔らかな母性を感じさせる穏やかさだけがあった。
「私も、協力しよう。姉さんが世界を壊そうとしているのなら、止めるべきだ。そうすれば……その先に、姉さんのことを知る糸口が見つかるかもしれないから」
確固とした口調でノアは言う。そこには揺るぎない意志が――姉とのかつての日々を取り戻したいという、強い信念があった。
イヴと並んで敵だと見なしていた人物に手を差し出されたことを感慨深く思いながら、シルは彼女へ頭を下げた。
「ノアさん……! ありがとう、ございます。あなたがいれば百人力です」
「勘違いするなよ、あたしは姉さんのために戦うと決めたんだ。あんたを手助けしたいからじゃない」
「照れ隠しが下手くそよね、ノアちゃんって」
「リサ、あんたは黙ってて……」
頬をほんのりと赤くするノアをリサがおちょくり、それにノアはこめかみに青筋を立てる。
それからもごちゃごちゃとやりあう二人を微笑んで見守っていたシルだったが、ふと目の前に置かれていたモノに目を留め、冷や汗を流した。
「あ、あの……これ、食べるんですか??」
先程までの深刻な雰囲気の中では大して意識しなかったが、よく見ればパンケーキもそれを載せた皿も妙にでかかった。
そのサイズを例えるなら、小さめのピザくらい。その上にこれでもかとホイップクリームが盛り付けられ、さらに苺のソースもたっぷりとかかっている。
「あたしはいつもこれ食べてるんだけど、何か変か?」
「の、ノアさんって、だいぶ健啖家なんですね……」
「……え?」
「いえ、何でもないです。私、頑張って平らげて見せますから」
ナイフとフォークを両手に気合いを入れ、ノアには苦し紛れの笑顔を見せておく。
イヴと世界樹への挑戦を前にして、予期せぬ小さな試練に臨むことになるシルであった。




