24 邂逅
エストラスたちとの別れを済ませたシルは、その翌日、『上層』に帰還した。
『アルフヘイム』にて一日を共に過ごした少年たち――何も知らなかったシルに『中層』の現実を叩き込んでくれたエストラス、温かいひと時を一緒にしたカトレアとアイル――あの紛争でのシルの活躍を聞いた彼らは、感謝と激励の言葉とでシルの背中を押してくれた。
まだ、話したいことは山ほどある――そんな名残惜しさを残しながらも、使命のためにシルはアスガルドに舞い戻ったのだった。
「ヘズ様とここで逢ったのが、一週間前……。とても長く感じるけれど、まだそれしか経ってないなんてね」
背後にそびえる『ユグドラシル』の黒い威容を振り仰ぎ、彼女は感慨深げに呟く。
この短い時の中で、シル・ヴァルキュリアという人間は大きく変わった。世界樹について自らに根差していた疑いもしていなかった常識が打ち破られ、『中層』での戦いで自身が力に驕っていたのだということも気づかされた。
また、『マインドブレイク』により彼女は覚えていないが、時間を操る大魔法までもを生み出せたのだ。一時ではあったものの、彼女は名実ともに【永久の魔導士】と名乗るに相応しい魔女になれた。
「その声……! 約束通り来てくれたんですね、【永久の魔導士】さん!」
ややハスキーである、中性的な声が弾んだ調子でシルの二つ名を呼ぶ。
正面に向き直ると、黒いローブに身を包んだ少年が王城の石壁をバックに立っていた。彼の隣には以前と同様に一人の侍女がおり、シルににこりと会釈してくる。
この少年が盲目の神、ヘズだ。緩く波打つ黒髪を肩まで伸ばした髪型や華奢な体躯から女の子に見られがちだが、彼はれっきとした男の子である。
「ヘズ様……ただいま帰りました」
「無事に戻ってきてくれて良かったです。『中層』でエルフとダークエルフの紛争が起こったと聞いて、不安で胸が押し潰されそうだった」
安堵に微笑むヘズを見て、シルは改めてこの子が自分のことを強く想っているのだと認識した。
彼の気持ちはありがたい。しかし、フェイにも言ったがシルには既にパールという恋人がいるのだ。ヘズとそういう関係になるわけにはいかない。
「あの、ヘズ様! その……再会してすぐで申し訳ないのですが、どうしても言わねばならないことがあるのです」
「な、何ですか……?」
ヘズが首を傾げ、左腕に彼の手を触れさせる侍女が提案する。
「ではお二人とも、そちらのベンチに移られては?」
シルは彼女に頷きかける。
――立ち話もなんだし、こうして戦いとも使命とも関係のない話をゆっくりするのも悪くない。
そう思いつつ彼女はヘズの左手をそっと取って、その小ささに僅かに息を呑んだ。
この手は、中層で握ったカトレアのそれと同じだ。守らなくてはならない、か弱い者の手。
そのか弱い者の心を、これから自分は傷つける。深く恋慕してくれる彼の思いを、残酷にも手折らなくてはいけない。
ユグドラシル入り口前の広い芝の庭園には、格子状に敷かれた石畳の通路と各所にベンチがある。さらには一流の職人による金色の像や噴水まで設置された、イヴが贅沢に金を注ぎ込んで作らせた大庭園だ。
シルにとってはもう見慣れた光景であるが、初めて訪れた時はそのあまりの広大さと豪奢さに目を丸くしたものである。
ヘズと手を握りあったまま手近なベンチにかけ、シルは彼の顔を正面からじっと見つめた。
綺麗な顔だ。真っ白で傷のない、シルの戦いにしごかれた顔とは全く異なる、精緻な彫刻のような美しさ。
遠慮なく見入ってしまっていることを少々申し訳なく思いつつも、シルは彼から目を離せなかった。
「ヘズ様……まずは、お詫びしなくてはなりません。私はあなたに、嘘をついていました」
初対面の時からヘズの純粋な性格は理解している。シルが真実を明かさない限り、少年の中では彼女はシル・ヴァルキュリアとは別人の【永久の魔導士】であり続けるだろう。
自分の本当の立場をしっかりと話した上で、彼とは恋愛関係になれないことを伝えるのだ。そうでなくては、きっと納得してもらえない。
もしこの先もシルが嘘をつき続けたとして、この少年がそれに気づかないはずはなく――シルも、ただ辛くなるだけだ。
「嘘、ですか……?」
「そう、嘘です。私はあなたに、本当の姿を隠していました。よく聞いてください、ヘズ様。私の名前は――」
「やあやあ、シル・ヴァルキュリア! こんな所で奇遇だね!」
と、その時だった。シルとヘズの二人だけの空間に、突如としていやに陽気な声が割って入ったのは。
真摯な気持ちで少年に本名を告げよう――そうするはずだったのに先にそれを言われ、シルは口をあんぐり開けるしかなかった。
呆然と視線を向ける先にいたのは朱色の髪を短いポニーテールにした、遠目にもこの人だと分かる真っ赤なローブを着用している一柱の神である。目を弓なりにして顔中で笑う男とも女ともとれる顔立ちのこの神こそが、悪知恵と悪戯好きで知られるアスガルドの【トリックスター】ことロキだ。
「おっ、ヘズ君も一緒なの? いやはや珍しいね、どういう風の吹き回し? いやちょっと待って、二人の間に漂うこの空気、もしや……シルちゃん、浮気?」
ぶっ――とシルは盛大に吹き出し、顔を真っ赤にしてロキを怒鳴りつけた。
「ちょっと、そこまでストレートな物言いないじゃないですか! 私はヘズ様がとっても切実に思いを伝えてくるから、ばっさり切り捨てるのもどうかと思って……」
そこまで口に出してしまってから、シルは慌てて口を塞いだ。
「修羅場かなー」などと呑気にニヤニヤ笑うロキを睨みつけ、目線をヘズのもとに戻した。
「ご、ごめんなさい……あなたを騙すような真似」
「――あ、あなたがシル・ヴァルキュリアさんって、本当なんですか!?」
「えっ?」
ピュアな彼を酷く打ちのめす結果をもたらしてしまった……そうシルが項垂れる中、少年の声はそれに反して妙に弾んでいて――。
「あの『中層』で活躍したシル・ヴァルキュリアさんが、【永久の魔導士】さんの正体だったなんて! ボク、そんなすごい人を好きになってたんですね……」
「ヘ、ヘズ様……? 怒らないのですか? 私、あなたの気持ちに最初から応える気はなかったのですよ。ただお情けで、少し話すくらいならって、弄んでるとも取れるようなことをしたのに……」
盲目な上、普段は城の奥まった場所に閉じ込められているヘズをシルは下に見て、可哀想だと身勝手な優しさを押し付けたのだ。
しかし、ヘズは後悔するシルに首を傾げて言う。
「え、どうしてボクが怒る必要があるんです? ボクがシルさんを好きになったのは事実ですけど、それを言葉にして伝えたわけじゃないし……あなたから付き合おうだとかも言われてないですよね。だから、別に騙されたとは思ってません。
シル・ヴァルキュリアさんにパールさんという学生時代からのパートナーがいることは、知ってました。ボクの初恋は叶わなかったけど、これから友達として仲良くできたらいいなって。それならいいでしょう?」
笑顔の中に少しの苦味を滲ませながら、ヘズは左隣のシルに手を差し出した。
どこまでも優しい子だ。こんな綺麗な子との関わりを自分などが継続する資格はあるのだろうか……そう躊躇するシルに、ヘズの侍女がジェスチャーで握手するよう促してくる。
あなたなら信頼できる、彼女の目はそう告げていた。
普段は色恋沙汰に興味本意のちょっかいを出すロキも、二人を黙って見守っている。
「――ありがとうございます。神様と友達だなんて畏れ多いですが、これほど光栄なこともありません」
「し、シルさん、そんなに畏まることないですよ。ボクなんて、神の中でもしたっぱなんですから」
握手に応じ、彼には見えないが頭を下げるシル。
胸の前で両手を振り苦笑してみせるヘズに対し「謙遜しないでください」とシルは口にして、それから付け加えた。
「あなたが怒らないと言っても、私にはやはり負い目があるのです。あなたは笑ってますけれど、本心では変に期待させて傷つけてしまったかもしれませんから」
「そ、そんなこと……! というか、ボクのあれはどちらかと言えば憧れに近いものだし。それに……さっきも言いましたけど、あなたがボクを誘ったとか、そんな事実もないわけですから。だから、気にしないで――」
ヘズは自責するシルの発言を否定する。彼の優しさがどんどん言葉を紡ぎだそうとするなか、パンパンと手を叩いてロキがそれを中断させた。
「はいはい、もうめんどくさいからそこまで! シルちゃんは大人しくヘズ君の友達になればいいのさ。これは光栄なことなんだぜ? 神様がただの役人でしかない魔導士と対等に仲良くなれるなんて、滅多にあることじゃないからね。どんな思いがあれど、素直に受け止めてやるのがベストさ。ヘズ君もそれが一番嬉しいはず。でしょ? ヘズ君」
ロキに聞かれヘズがこくこくと頷く。
周囲を掻き乱すのが趣味の【トリックスター】らしくない台詞ではあったが、確かにそうするのが最善だろう。これまでの過程がどうあれ、結果的にヘズが喜んでくれれば万事オッケーなのだ。
「それじゃあ……よろしくね、ヘズ君」
「はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」
ハルマやグリームニル、エストラスに話すときと同じ口調で、シルは顔を綻ばせた。
ヘズもまた、満面の笑顔でそれに応じる。
本来ならば友人になる間柄ではなかった二人だが、ヘズの見た予知夢から出会い、今日このとき友達となった。
これは数奇な運命だとシルは思う。そして、巡り会うきっかけとなった神の予知夢――それに思いを馳せながら、目の前の少年の閉ざされた瞳を彼女は見つめた。
「ロキ様、ありがとうございました。驚きましたよ、あなたがあんなこと言うなんて」
「ふふっ、私は君たちのイメージより遥かにまともな神様なんだよ。であるから、もっと尊敬してくれたまえ」
「やっぱりロキ様はロキ様ですね……」
朱髪の神とのそんなやり取りの最中も、シルは自分が行くなと釘を刺された『ニブルヘイム』について思索していた。
なぜあそこなのか。そもそも行くなと言われるということは、これから自分がそこへ向かう理由が何かしら出てくるわけである。では、その理由は何か。『ニブルヘイム』には一体、何が隠されているのか――?
「でも、きっと近いうちにわかる」
明確な根拠はなくとも、確信はあった。
世界は否応なしに変化していく。その予感もまた現実になるのだろうと、シルは女王イヴの老いに懸命に抗う美を思い返して胸中で呟くのだった。
◆
その後、シルはフレイの執務室へ一週間ぶりに戻った。
これまでに得た情報の全て――ユグドラシルの真実や中層の実情、紛争の経緯など――をフレイに伝え終えたシルは、深々と溜め息を吐く。入室したのは昼過ぎだったが、窓に目をやると空は既に赤らみ始めていた。
「以上が、私がこの一週間で集めた情報です。主であるあなた様には余すことなく伝えましたが……どこまで表に出すつもりなのですか?」
「そうだな……中層の現実は、上層の者たちも知るべきことだろう。紛争のきっかけもそれに起因するものであるから、これも明かして構わない。しかし、ユグドラシルに関しては私もどうすればよいか判断に迷っているところだ」
フレイの意見はシルのそれと同じだった。
夜の女神ノートの語ったユグドラシルの意思――人々に彼の樹の真意を知らしめて、何か変わるのか? いつものように世界樹に入って「迷惑だからやめてくれ」と叫んだところで、世界樹が決めた運命を簡単にねじ曲げるとは思えない。
いや、世界樹がその声を認識する可能性はあるだろうが、言った当人が樹に認められるほどの者でなくては、樹の判断材料にも入らないというのが正しいか。
卓を挟んで向かい合わせのソファに掛けるフレイを凝視し、彼が今はそれ以上の考えを絞り出せないとみると、シルは提案した。
「少し時間を置きましょう。ユグドラシルについてはそのうち、答えが出る気がするのです。あとちょっとで手が届きそうな場所まで、私は近づいているような……そんな感触が確かにあります」
「わかった、ではそうしよう。今日はもう帰って、ゆっくり身体を休めなさい」
彼から話を切り上げる言葉を引き出して、シルは頷くと一礼してから退出した。
フレイには、シルが聞いて驚嘆したあれこれを動じずに受け止める冷静さがあるが、シルには彼が現状を変える力があるとは思えなかった。
フレイは良くも悪くも常識に囚われすぎる。これまで上層に【豊穣】をもたらしてきた実績はあれど、困難を打破する奇策は生み出せまい。
そんな考えに没頭するシルは、城内の廊下を歩きながらぶつぶつと呟く。
「やっぱり頼るべきは、型にはまらない策を考え出せる人材……。でもそうなると、最も当てはまるのがロキ様ってのがなぁ。あの人、気まぐれだし私の言うことに耳を貸すかわかんないし……。あーもう、何とかすべき相手が世界樹だなんて無理ゲーじゃない……」
このまま何の手も打たずにいたら、上層でも近い未来に戦争が起きてしまう。
先の戦いでは焼けたのが街一つで済んだとはいえ、それなりの数のエルフが落命していた。中層の国々よりもさらに力を持つ上層の国家が争えば、おそらくその程度では済まないだろう。
まず真実を知った自分が、この事の解決に尽力しなくてはいけない。そう焦る彼女はそれ故にすぐ目の前が見えておらず、次の瞬間――。
「きゃあっ!?」
「ひぐっ!?」
ゴッツーン!! と、前方より来た誰かに頭から激突してしまった。
シルは思わずよろけるがどうにか堪え、尻餅はつかずに済む。予期せぬ衝撃に涙が滲むも、それも出した声の調子を上げることで誤魔化した。
「いったぁ……。ご、ごめんなさい、お怪我は……?」
「くっ……前をよく見て歩けと教わらなかったのか、お前は!」
視界の下から飛んできた激怒の声に、シルはひっ、とすくんでしまった。
それと併せて聞き覚えのある声だとも気づく。目線を下げると、そこにへたりこんでいたのは黒スーツを着こなす、女性にしては短い緑髪の人物だった。
「ノ、ノア様……!? も、申し訳ありません! 私の不注意で貴女にお怪我をさせてしまい……どうお詫びしたらよいか――」
「心配せずとも怪我はしていない。それより、何なんだその態度は? 二年前に比べりゃ、最近のあんたは随分猫っかぶりじゃないか」
何度も頭を下げて必死に謝罪するシルを、ノアは大変不快そうに瞥視した。
尻の埃を払いながら立ち上がった彼女は、顔をシルから僅かに逸らして口許を歪める。
「ね、猫っかぶり……。まぁ確かに、否定はできませんが」
「そこは言い返すところだよ。ちくしょう、こんな奴のために私がお使いさせられなきゃならないなんて」
「お使い? 私のために、ですか?」
舌打ちするノアにシルは訊ねた。
大袈裟に溜め息を吐いてみせるノアは、懐から一冊の手帳を取り出すとそれを示して答える。
「あのガキ……ハルマとか言う魔導学園の三年生が、昨日いきなり私の前に現れたんだ。それで、シル・ヴァルキュリアにこれを渡せと。何でもあいつによれば、この手帳はあんたとの『秘密のノート』らしいよ」
「ハルマから? いったい、何が書かれているのかしら……」
青い表紙の手帳には鍵がかけられていて、解除の呪文を唱えなければ開くことができない。
受け取ったところでパスワードが分からなくては意味がない――気づいたシルはノアに聞くが、緑髪の彼女は無言で首を横に振るだけだった。
「はぁ……相変わらず意地悪な子ね。最初から教えてくれればいいのに」
ハルマの悪戯っ子の笑みを脳裏に過らせ、シルは苦笑した。
それにつられたのか、普段は強面のノアまでもが小さく口許を綻ばせ、シルは目を丸くする。
「あいつは何を考えているか分からない子だけど、悪いやつじゃない。そうだろ、シル・ヴァルキュリア?」
「えっ? あ、はい。……それにしても、ノア様が他人を好意的に評するなんて珍しいですね」
「文句ある? 私だって血の通った人間だよ」
「いえっ、な、何も文句などはありませんよ!」
「ほんとかい? あんた、何だかんだで不満ばかり抱えてきたように見えるけど」
正直な感想を述べたシルに【冷血】ことノアは唇を尖らせる。
この人は怒らせると手がつけられない――冷や汗をかきながら、慌てて首をブンブンと横に振ってシルは弁明した。
そこまで言って、彼女は自分がノアという人間とここまで長く会話をしたのは初めてだと思い至った。二年前のあの日はもちろん、政府入りしてからもノアと言葉を交わしたのは一、二言くらいで長々とした会話はない。
ノアにどのような心境の変化があったのかは知らないが、これは大きなチャンスだ。
シル・ヴァルキュリアという魔女を売り込み、ノアとの信頼を結びつけられる初めての機会。これを利用しない手はないだろう。イヴの一番の側近の彼女と話せば、先の考え事の答えも得られる可能性だって高いのだ。
「ノア様……ノア様は普段、小説を読むことはありますか?」
「時々なら。というか、この質問は何なの」
「では、ピンと来るはずです。今、廊下でぶつかって起こった私たちの再会――これはとっても運命的なものだと思いませんか」
こんな口説き文句で興味を持ってもらえるかは怪しい。しかし、咄嗟に口から出せるものがこれしかなかった。
長身であるシルと同じ高さにある手を取って、感情的に訴えかける。
「……はぁ、分かったよ。で、あんたは私を誘って何をしたいの?」
「少し、お話したいだけです。場所はそちらで決めて構いませんから」
よし、乗ってくれた。シルはそう内心でガッツポーズして、営業スマイルを彼女に向けた。
打算によるものだとはノアも理解している。それでも、彼女も現状を打破する『起爆剤』を求めていたのだ。イヴに否定され、揺らぐ自身を安定させるためのパーツを探して、彼女はシルの口説きに応えた。
目の下に常以上に黒々とできた隈や、一晩中泣き腫らしたのが一目瞭然の眼――シルが気づきながら触れなかった傷を癒し、また自分が関心を持った少年のことを知るために、ノアはシルの手を握り返す。
「城下町に私の行きつけの酒場がある。案内してやるから、ついてくればいい」




