23 それぞれの決意
ノアは自分へ手を差し伸べてくる少年を、呆然と見つめるしかなかった。
「…………」
「あれー? 俺、全然信用されてない感じ?」
黒髪の少年は首を傾げ、線の細い顎に指を添えた。
実のところ、少年の台詞はノアの一番の本音から外れている。ノアはこれまでの人生で、人から手を差し出される経験が全くといっていいほどなかったのだ。だから、反応に困ってしまった。
もちろん、見ず知らずの彼への不信感もあったが。
「あんた、何なの……? 人が泣いているところにいきなり現れて、ちょっかいをかけるような真似して――ただ私を笑い者にしたいだけなら、さっさと消えろ」
「噂通りの口の悪さだなぁ。困ってるなら手を貸すって言っただけなのに」
「そんなこと言われても、どこの誰とも知れないあんたに悩みを打ち明けたりなんかしない」
涙に濡れた目元を指先で拭い、ノアは少年を無視して立ち上がった。
床についていた膝を軽く払いながら、彼女は心からの親切心で少年に忠告する。
「ここにいるってことは、イヴ陛下に会いに来たんだろ? それなら今日は帰って、別の日にもう一度来な。今、あの人は機嫌が悪い」
「それもあなたのせいですよね。あなたが女王様に反抗的な態度をとるから」
ノアはむっとして反射的に少年を睨んだ。しかし、生来目付きが悪い上にどす黒い隈まで出来ている彼女の睨みさえ、少年は微笑みで受け流してきた。
「俺はイヴさんに用はないよ。用があったのはシルだ。シル・ヴァルキュリア……あなたも知ってるでしょ?」
――シル・ヴァルキュリア。
その名前は忘れるはずがない。二年前、一人の青年と共に自分とイヴの前に現れて、戦争の調停を求めてきた不遜な女。現在は神フレイの下で働いており――先日の紛争では、エルフの女王とダークエルフの神器使いとの戦闘を止めに入ったという、優秀な【神】たる魔導士である。
「知ってるけど……じゃあ何であんたはここにいるの? あの女は一週間ほど前からフレイの命で『中層』まで降りてる。こんな所に来るまでもなく確認できることだと思うけど」
疑問をそのままぶつけると、黒髪の彼は答えに迷ったのか視線を移ろわせた。
「えーっと……。なんて言ったらいいかな、『もしかしたらここに戻ってくるんじゃないか』って俺の中の勘が囁いてきたというか」
「はぁ? じゃあ何、私は何となくふらついて来た奴に泣き顔を見られたってわけ?」
「意外と綺麗な泣き顔だったよ。ノアさん、兜外せば結構美人だよね」
「意外を強調するな! ……くそっ、調子が狂う……」
掴み所のない少年に、思わず舌打ちするノア。
少年は、緑髪をかきむしり苛立ちを露にする彼女を「まあまあ」と宥めた。
「あ、そういや名前教えてなかったな……」
「今さらか。――別に知りたかないけど」
ノアはつい突っ込み、それからそっぽを向く。一部で【冷血】などと呼ばれる彼女らしからぬ、感情的な台詞回しだった。
黒髪の少年は端正な顔に微笑をたたえ、穏やかな口調で名乗った。
「俺はハルマ。『聖魔導学園』の3年生です。どうぞお見知りおきを」
はるま。ハルマ。口の中で、彼の名の三音を転がしてみる。柔らかく暖かい、優しい響きだとノアは思った。
その割に本人は少しふざけたような、それでいて内心の読めない、ある意味では気難しさともいえる一面も持っている。
――わからない奴だ。この男の子といると、どうにも調子が出なくなる気がする。
ノアの心中の呟きなどいざ知らず、ハルマは懐から一冊の手帳を取り出すと彼女へ渡した。
「これ、シル姉さんに渡してあげてほしいんだ。彼女にとって絶対に必要になるものだから、彼女が戻り次第早めにね。あと……これはシルと俺との秘密のノートだから、盗み見はNGってことでよろしく」
やけに軽い調子で頼まれ、ノアは困惑したが断りはしなかった。
自分はイヴとの絆を失った人間なのだ。そのため近いうちに初代ノアと同様に、凍結睡眠の魔法にかけられるだろう。
それまでの猶予期間中に、誰かの役に立つのも悪くない。
「承ったよ。……もう用は済んだか? なら、そろそろ帰る時間だよ」
「うん。もう門限の20時が近いからね。――じゃね、ノアお姉さん!」
ノアは手帳を受けとるのと引き換えに、少年の帰宅を促した。
頷いたハルマはにっこりと笑みを浮かべ、おまけにウインクまでしながら別れ際にノアへ手を振ってくる。
少年からしたら、別に誰にでもやる仕草なのだが――人付き合いに疎いノアから見れば、それは特別なものと捉えられた。
「ノア、お姉さん、か……」
来た道を早足に戻る少年の背中を見送りながら、彼女は小さくそう口にした。
◆
首都『ヘマタイト』への帰路を行くダークエルフ軍は現在、『シュヴァルツアルフヘイム』の中央部まで進んでいた。
『ヘマタイト』はこの国の東端に位置しており、『アルフヘイム』との国境からは最も離れた場所にある。小人の国『ニダヴェリール』も含めた三国の首都は、それぞれが近づきすぎないように配置されていた。
フェイやユリアから状況の説明を受けたシルは、体がすっかり回復したこともあり天幕の外へ出た。
彼女は自身が軍の帰還が遅れる原因になってしまったことを申し訳なく思いつつ、傍らについてくれているフェイたちに告げる。
「助けてくれて本当にありがとうね、フェイ君、ユリアさん。話はだいたい分かった……ティターニアのこととか、戦後処理について気になる点はまだあるけれど、ひとまず私は報告のためアスガルドへ帰ろうと思うの」
「はい、それがいいですね。既に情報はある程度伝わっているとは思いますけど、関与した当人からの詳細な説明も必要でしょうから。それと――改めて、お礼を言わせてください」
シルより頭ひとつ低い位置から見上げてくるフェイは、彼らしい柔らかな笑顔で言った。
「シルさんの言葉で、僕は自分の殻を破ることができました。あなたは僕を人として変えてくれた恩人です。――ありがとう、ございました」
平和な世界を願い、イヴに抗おうと決めたシルにとって、彼は同志たりえる存在だ。
種族も国籍も異なるが志は同じ。彼のような人材が各国に増えてくれれば、その国の内側から平和に近づいていけるかもしれない。
「私からもいいですか、シル殿。……正直に言いますと、戦争を止めに入ったあなたの行為を疑念視する者はそれなりにいるのです。彼らが募らせてきたエルフへの憎しみはあまりに強く、深いもの。エルフにされたことを考えれば、それは当然のことでしょう。しかし――あなたは間違えてはいない。軍隊とは殺戮のためにあるのではなく、平和を守るためにあるのだと……その理念に則れば、あなたの行動は至極正しかった。
私たちのした侵攻は、平たく言えば感情のままに振るった暴力のようなものです。戦に依らず物事を解決することこそが、本来あるべき国の姿。それに反してしまったことを、私たちはこの先も悔い、決して忘れないようにしなくてはならない」
魔導銃士部隊の一隊長として、ユリア大尉はフェイの隣で多くのエルフ兵への攻撃を指揮した。
目標は殲滅――誰が言うともなく、戦場では皆がそう胸に刻んで武器をとっていた。ユリアも例外ではなく、部下たちと共に自らの手で幾人もの敵兵を殺した。
彼女は悔いている。倒した敵にも家族がいて、恋人がいて、もしかしたらフェイのように本心では平和を求めていたかもしれない。彼らは自分達とは違うようで、全く同じ――そんな彼らを殺害するという、取り返しのつかない罪を犯してしまったのだと。
「ユリアさん……これは、あなた個人の罪ではないわ。いうなれば軍全体の、いえ、国民の『民意』によって生まれた罪。私たち力を持つ人間は、その罪を犯させず、またその原因を作らせないように世界を変えていかなきゃならないわ。二度とこんなことが起こらないよう、共に尽力しましょう」
「はい。マスターと一緒に、私も出来ることをやっていきます」
ただ過去を悔いるだけでは何も変えられない。未来を見て、前へ進んでいかなければならないのだ。
頷くユリアに頷きかけ、シルは握っていた杖を高く掲げた。
「じゃあ、行くわね。いつかまた、会いましょう」
それから彼女は呪文を小さく唱え、ふわりと宙に浮き上がる。
どんどん高度を増していく彼女を見上げ、フェイたちは大きく手を振りながら声を投じた。
「シル殿! ユグドラシルまでは遠いですから、気をつけて! 急ぎすぎず、周りによく注意を払って行ってください!」
「えっと、僕からは――次会ったら、魔法の手合わせをお願いしたいです! その時は負けませんよ!」
二人を振り向き、シルはウインクしながら手を振り返す。
「ええ――分かったわ! 二人とも、元気で!」
浮遊魔法を駆使して鳥のように飛翔する魔女は、フェイたちとの別れを惜しみつつ、意識を早くも次の目的地に馳せていた。
これからエストラスたちの元へ戻り、状況説明をした後すぐにアスガルドへ上がる。それから久々にパールやエル、ハルマたちと会い、情報の交換をする必要がある。何せこれだけのことに首を突っ込んだ直後なため、伝えたいことは山ほどあった。
――やれやれ、ね。仕事はまだまだたっぷり残ってるわ。
だが、そう愚痴る割にはシルの表情は晴れやかだった。
自分の行動の結果、戦争は中断されて最悪のシナリオとなるのを回避できたのだ。
達成感に満たされるシルの前に更なる苦難が押し寄せることを、しかしこの時、彼女自身は予覚すらしていなかった。
◆
「ふふっ、いい子ねグリームニル。あなたには特別に報酬を弾んであげるわ。何がほしい?」
『上層』の一国にして、ヴァン神族と呼ばれる神々が支配する『ヴァナヘイム』。
その王都にある、一柱の女神の大邸宅――軍部を牛耳る彼女の居城にて、グリームニルはその女神と対面していた。
女神フレイヤ――波打つ豊かな金髪を背中に流し、白い薄手のワンピースを纏った、美と愛を司る【神】である。
黒い壁紙の広々とした自室のベッドに腰かける彼女は、目の前に跪くグリームニルを見下ろして微笑んだ。
「これといって欲しいものはありません。強いて言うなら、貴女のハートとでも答えておきましょうか」
「あらあら、私にそんな口説き文句言える男って珍しいのよ。みーんな私の目を見た瞬間に魅了され、糸の切れた人形みたいに動けなくなっちゃうもの。あなた……本当は私に興味なんて欠片もないんでしょう?」
あざとい笑みを作るグリームニルは、即座に本心を見抜かれて冷や汗をかく。
が、表情はぴくりとも変えずにフレイヤに切り返した。
「ご冗談を。この世の男は誰しもがあなたの美に酔いしれ、惚れ込んでいます。それはボクも例外ではありません」
「あなたの外面だけは可愛らしいところ、私は好きよ? でもちょっと寂しい。私があなたにとっては、本音で話せない相手だってことでしょ?」
頬に手を当て、大袈裟にため息を吐いて見せるフレイヤ。
それでもグリームニルは頑なに彼女への態度を変えなかった。
この部屋にいると、黒い箱の中に閉じ込められた気がしてどうにも居心地が悪い。だから、できることなら早く出ていきたかった。
「……だとしても、ボクがあなたにとって大切な人材であることは確かです。神フレイの動向を探り、継続的にそれを伝えられるのはボクくらいですから」
現在、フレイヤの下で侍従として仕えているグリームニルは、神フレイの部下であるシル・ヴァルキュリアと定期的に連絡を取っている。また、他にも何名かの神や力のある魔導士とのパイプも持っており、そこから得たアスガルド政権の動向をいち早く女神に知らせていた。
彼自身も時おりアスガルドへ向かい、現地調査を行っている。顔の知れた【神】ではない彼がヴァナヘイムとアスガルドを行き来していても、誰も怪しむことはない。『流浪の吟遊詩人』という肩書きはこういう時、大いに役立った。
「……ねえ、グリームニル。明日にでもシル・ヴァルキュリアに手紙を出してほしいのだけれど、頼めるかしら」
「手紙、ですか」
フレイヤが兄であるフレイを『ヴァナヘイム』に連れ戻したがっていることは、彼女の側近の中でもグリームニル含む数名しかいない。
それは離れてもなお兄を慕う彼女の、もう130年にも渡って抱き続けた悲願だ。
かつて起こったアスガルドとヴァナヘイムの戦争――その停戦の条件に、二国間の人質の交換も含まれた。その人質の一人がフレイだったのだ。人質を盾にして互いに侵攻を牽制させる、イヴのその狙いは的中し戦争は再開されることなく現在まで至っている。
「私は……私は、兄さんに会いたいの! これまで何人もの男と付き合ってきたけど、兄さんを失った寂寥感を埋めることは叶わなかった。あなたは子供時代の兄さんに似てるから、ずっと側にいてくれたら癒されると思ったわ。でも、あなたは私に決して心を開いてくれない……」
「だから、ボクにそこまで入れ込んでいたのですね……」
フレイヤが過去の兄とグリームニルとを重ねて見ていたとは、初耳だった。
そう聞いて彼の心中で僅かながら同情の念が湧く。
愛の女神でありながら、この人はただ愛情に飢えているのだ。唯一の兄弟で片割れたる存在のフレイを、ただ求めている。
自分が代わりになれるなら――側にいてやるだけで彼女の傷が癒えるなら、フレイヤの本当の従者になるべきなのだろうか?
「無理を承知でいながら、フレイ様を取り戻せと……あなたはそう言うのですね」
「そうよ。まずは外堀から、シル・ヴァルキュリアから動かす。これまでも散々あなたに利用された彼女だけど、今回も同様に役立ってもらうわ」
グリームニルの役目は二重スパイだ。
シルやアスガルドの要人と接触して得た情報をフレイヤに流すと同時に、フレイヤら『ヴァナヘイム』の者からの情報をシルたちに渡している。彼の本性を知らないのはフレイヤたち『ヴァナヘイム』の者のみであった。
「了解しました。早急にシルに手紙を送っておきます」
スパイである自分が、スパイ対象の人物に肩入れしてはいけない。
いつもの人の好い笑顔を顔に張り付け、グリームニルは立ち上がって退出しようとしたが――。
フレイヤの白く冷たい手が、彼の腕をいやに強い力で掴んで引き止めてきた。
「待って……今日も、私と寝てくれないの? ねえ、一回くらいいいじゃないの。あなたはどうして、そんなに強情なの」
「……気が乗らないだけです。あなたを見ていても、ボクには他の男が抱くような劣情は沸き上がらない。あなたの完璧な美は一種の芸術品のようなもので、見て感動しても無闇に触れようとは思えないんですよ」
どう弁明しようか、グリームニルは毎度のことながら悩んでしまう。
気を悪くしなけりゃいいが、とフレイヤの美を強調しつつ断ると、彼の願いもむなしくフレイヤはヒステリックに叫んだ。
「何よ、あなたは私を女として見てくれないのね! 私は女神である以前に一人の女なのよ。特別なことは何もない、中身は普通の女。それとも何、あなた自身が普通じゃないから私と関係を持てないというの!?」
面倒くさい――彼女の事情を理解していながら、また自分が彼女から常に信頼を勝ち取らなくてはならないのを棚に上げ、グリームニルはつい内心で呟いてしまった。
そんな彼の心情はいざ知らず、フレイヤは胸元をはだけさせると豊満な乳房を露出させる。
「私を見なさい、グリームニル! どう? 触れたいでしょう、貪りたいでしょう……? 私と一夜を共にしたい、一つになりたいと心の底から欲望が込み上げてくるでしょう!?」
青かった女神の両の瞳が、鮮血のごとき紅に染まっていることにグリームニルは気がついた。
――何かの魔術か? いや……まさか。
思い至った答えを思わず口に出しそうになりつつも、どうにかそれを飲み下す。
大罪の悪魔は神々によって異空間に封印され、内側からは絶対に出られないはずだ。つまり、イヴがベルフェゴールを引きずり出したのと同じく、アスモデウスまでもが『ユグドラシル』に復活したということになる。
「っ、私はお前などには屈しない!」
腹の底から大声を出し、グリームニルは歯を食い縛ってフレイヤを睨んだ。
妖艶な笑みを浮かべ、目だけは獲物を狙う狩人のように鋭くするフレイヤに、彼は腰から抜いた杖を向けた。
「その杖、その態度、その目……これほど美しい私が誘っても、あなたはなびかないというの? 私の何がいけないのよ、グリームニル!? 私は、私は何も悪くないのに……周りは私から大事な人を奪い、そのくせ私の期待に応じやしない。何の罪があって、私はこんな目に遭わなくちゃいけないの!」
――動じるな。この人には悪魔が憑いている、油断したら敗けだ。
悲痛な女神の叫びに杖を持つ手を下げそうになるが、思い直す。
今やるべきはこの人から悪魔を取り除き、元の人格に戻すことだ。
汗に濡れた手で杖を握り込み、服をさらにはだけさせたフレイヤを見つめる。
「フレイヤ……あなたは、私が救う」
グリームニルが呟き、得物に魔力を溜め始めた、その時だった。
彼の耳が、外の廊下からこの部屋に駆けてくる数名の足音を捉えた。
――不味い。彼女に杖を向けている姿を見られれば、私のこの国での立場がなくなってしまう。
「ちっ、仕方ないな……」
そう舌打ちして彼が杖を収めたのは、部屋のドアがバンと勢いよく開け放たれるのと同時だった。
「フレイヤ様!! 王様が――ニョルズ様が!」
文官たちの切迫した様子から、良い報せではないことは明白だった。
フレイヤの乱れた衣服も「いつものこと」と片付ける彼らは、矢継ぎ早に続ける。
「先程ニョルズ様が執務中に倒れ、意識不明の重体とのことです……! 今医師たちが診ていますが、原因はまだ――」
「どういう、こと……? お父様が倒れるわけない……お父様は確かにお年を召しているけど、健康そのものでそんな兆候なんてなかったわ!」
頭を振って叫び散らすフレイヤの瞳の色は、元の青色に戻っていた。
立ち上がった彼女は呆然と立ち尽くすグリームニルの横を通りすぎ、はだけた胸元を直しながら文官のもとに駆け寄る。
「お父様はどこにいるの……? 早く連れていって」
足早にその場を去るフレイヤたちを、取り残されたグリームニルは一人見送っていた。
悪魔を目前にした緊張感から解放された彼は、深く溜め息を吐き、それから床にへたりこんだ。
「嗚呼……この世に本物の神がいるのなら、救ってやってくれ。あの女神を、呪縛から解放してやってくれ……」
俯き、無力感に苛まれるグリームニル。
彼はこの二年間で女神フレイヤが見せてきた笑顔の数々を脳裏に浮かべ、感じた胸の痛みに自分がどれだけ彼女に情を抱いていたのか改めて知った。
「あの娘なら……シル・ヴァルキュリアならば、こんな逆境にも真っ向から飛び込んでいくのだろうな」
彼女が『中層』で自らの命を賭してまで使命を果たしたのだ。ならば自分も、ここでフレイヤのために尽くすのみ。
懐から手帳を取り出して開き、その一ページを破った彼はそこにペンを走らせ始めた。
◆
同じ頃、『聖魔導学園』の寮内のハルマの部屋では、彼の新たな発明にエルは興奮しっぱなしだった。
「ハルマくん――君の作り上げた魔法、これは革命だよ。……まだ私とパールさん以外の人には明かしてないんだよね?」
「ああ。規則では魔法を作ったら教師に報告しなくちゃいけないけど、俺はしない。広まって万が一悪用でもされたらたまらないからな。まぁ、有象無象に扱える魔法じゃあないけどね」
真面目くさった様子でハルマは言い、最後ににやりと笑みを付け加える。
椅子に浅く掛けて長い脚を組む彼は、ベッドに腰を下ろしているエルをブラックダイヤモンドのような瞳で真っ直ぐ見つめた。
「ねえ、エル。俺の新しい魔法が、世界に文字通りの革命をもたらすと思う?」
エルは少年の瞳を覗き、そこに宿る光が何を企んでいるのか思案する。
魔法に関する話は合うし、一緒にいて落ち着ける存在の彼だが、実のところ本心で何を考えているのか掴みにくい部分があるのだ。
自分を試すような視線を送ってくるハルマに、エルはしばしの間を置いてから答えた。
「……起こそうと思えば、確実に。君の魔法はまだまだ発展の余地がある、つまりどんな分野にでも利用できる可能性があるんだ。この魔法を編み出せたのは、君がこの世で二人目で――一人目と同じく、世界を変革させられると思う」
「そう。ありがと、その確信が欲しかったんだ」
ハルマは俯き、エルから目を逸らす。胸の中に巨大なブラックボックスを抱えてしまった少年の横顔は物憂げで、うっすらと汗ばんだその頬は普段より余裕に欠けていた。
「ハルマくん……」
「――エル! 聞いてくれ」
立ち上がりかけたエルだったが、少年が突然顔を上げて自分を呼ぶのでびくりと座り直す。
いつになく切迫した表情の彼は、言葉に迷うように口を何度か開閉した後――無理やり作った強気な笑みを浮かべ、言った。
「俺はイヴを超える。そして……彼女の箱庭をぶち壊し、本当の理想郷を作ってみせる」




