22 人の心
瞼を開き、まず見えてきたのは真っ白い布張りの天井だった。
吊るされたランプがオレンジの光を仄かに灯し、彼女を照らしている。
彼女はこの光景に覚えがあった。幼少の頃、両親と妹とで行ったキャンプのテントだ。
その当時と違うのは、隣に大切な人がいないこと。彼女は一人であり、誰も手を握ってすらくれないこと。
「ここ、は……? 私は、何をして……?」
寝起きであるが、意識は不思議とはっきりしていた。
ベッドで上体を起こすシルは、辺りを見回して呟く。
今彼女がいるのはひどく簡素なテントだった。彼女が眠っていた折り畳み式の簡易ベッドの他には何もなく、床は剥き出しの地面。テント自体は四本の柱に支えられた、三角形の小さなものだ。
自分がどういった理由でこの場所にいるのか、そもそも今は何時なのか、彼女はそんな自身の事情がはっきりとは分からなかった。
記憶を辿ってみて覚えている最後は、『フィライト』上空で女王ティターニアとダークエルフの少年の対峙している場面だった。そこに着いた後、何かをしたのだろうことは推測できる。恐らくは戦闘――彼らの激突に割って入った結果、何らかの魔法を受けて意識を失ったと考えるのが妥当か。
「あ、起きたんですね。良かった!」
と、そこで若い男性の声がしてシルは視線をそちらへ向ける。テントの入り口を捲って顔を覗かせていたのは、黒髪に褐色の肌、尖った耳が特徴的な精悍な顔立ちの美青年だった。
青年は顔中に安堵の笑みを浮かべると、一礼してテント内に入ってくる。
「貴方は……?」
シルが訊ねると青年は首を少し傾げ、ほどなく一人納得したように頷いた。
目を柔らかく細める彼は、地面に膝をついてベッドで体を起こすシルと視線を合わせ、名乗った。
「僕はフェイ・チャロアイト少佐です。ネメシスの『神器使い』で、『神化』すると紫紺の髪の男の娘っぽい見た目になるって言えば分かるかな。僕がティターニアと戦っている時に、あなたはそれを止めるために必死に叫んでくれたんです。それは覚えてますか……?」
「そう――確かに、私はティターニアたちが戦うのを止めようとしてた。でもその時の、えっと……『神器使い』があなただったなんて信じられない。全然別人じゃないの」
大袈裟に声を上げはしなかったが、シルは彼の正体に驚嘆していた。あの神器使いと違って、目の前のフェイ少佐は切れ長の鋭い目の黒い軍服の似合う青年であり、女性と見紛ってしまう要素はない。
そんな反応にフェイ少佐は苦笑した。
「よく言われます。残念でしょう、魔法が解けたらこんな姿で」
「いえ、そんなことないわよ。素のあなたもイケメンだし素敵だと思う」
「え、あ、あのっ――口説いてるんですか?」
シルとしては普通に褒めたつもりだったのだが、青年の様子はどうもおかしい。頬を赤くするフェイに、しまった、とシルは思わず額に手を当てる。
実はシルは異性との会話でこういうことを言ってしまいがちだと、前々からエルに指摘されていたのだ。どう考えてもハルマの影響だと分かっていて、本人も直そうと思っているが未だに直らない。
フェイに頭を下げたシルは、両手を拝むように合わせて謝罪した。
「ち、違うの! 今のは単純に褒めただけで、そういう意図は一切ないから安心して! 私、既に恋人いるし」
「あ、そうなんですか。あはは……一瞬舞い上がりかけた自分が恥ずかしいです……。まぁでも、面倒なことにならなくて良かったですけど」
一層顔を真っ赤にして俯くフェイに、シルは何故かつられて羞恥心を抱く。
互いに視線をずらし、しばし訪れた沈黙にもどかしさを感じていると――そこで、テントにもう一人の来訪者が顔を見せた。
「マスター、彼女の様子はどうでしたか? ……マ、マスター?」
銀色の髪を後ろで纏め、眼鏡をかけた理知的な印象の女性。フェイと同型の軍服を着ているが、胸元の階級章は彼の二つ星より一段階落ちる一つ星だった。マスター、と呼んでいることからしても、彼の部下にあたる人物なのだろう。
シルが会釈すると、彼女はなんと90度くらいまで上半身を前に倒して一礼した。機械のようにきっちり深々と礼をされ、目を点にするシルに、真面目が服を着て歩いているような女性は名乗る。
「私は、シュヴァルツアルフヘイム国軍・第十八魔導銃士隊隊長、ユリア・ユーディアライト大尉と申します。失礼ですが、あなたのお名前は?」
「シル・ヴァルキュリアです、名乗り遅れてすみません。アスガルドの豊穣神のもとで働いていて、世界の異変に関する調査・報告のために中層まで来ました。しかし、途中何か問題があって意識を失ってしまい……今に至る、って訳なんですけど」
ユリア大尉はふむ、と頷き、一旦外へ出ていった。ほどなくして折り畳みの椅子を二脚持って戻ってきた彼女は、ベッド脇にそれを置く。
フェイと並んで座り、ユリアは記憶を一部なくしたシルに事の始終を語り始めた。
「シル殿……あなたは、マスターとティターニア女王との戦闘の最中に現れ、二人を止めようと声を上げました。その説得もありマスターは矛を収めましたが、ティターニアは戦いをやめる気はなかった。マスターへ攻撃を続ける女王に対し、あなたは『代わりに自分が相手をする』と飛び出していったのです。果敢に攻めた結果、女王は倒れました。ですが……大魔術を使った反動により、あなたは『マインドブレイク』に陥ってしまった。空中で意識を失い落ち行くあなたを助けたのが、このマスターというわけです」
『マインドブレイク』――予想もしていなかった事実にシルは驚く。
知識として知っていたものの、彼女は実際にそれを見聞きしたことがなかった。まさか、そのレアケースに自分が陥るとは。
「マインドブレイクするまで魔力を使い続けたなんて……覚えてないけど、私、物凄い無茶をしてたのね。でも、ティターニアを倒せたって、ほんとなの? アルフヘイムで戦った時、私の最強の魔法は全然通用しなかったのに……」
「それは、シルさんが自身の『最強』を塗り替えたってことです。あの時の魔法はまさに神業で……一瞬で女王との間合いを詰めて、なんというか七色の光がどばーって出てきて。……あ、せ、説明下手ですみません……」
フェイの言うその魔法がどんなものなのか、シルは想像してみるがいまいちイメージを掴めなかった。
ただひたすらに、惜しいと思う。記憶をなくしていなければ、その魔法の発動法が分かれば――あの一戦でのみ越えられた壁を、完全に打ち壊せたはずだったのに。
「マスターが神器の魔力を注ぎ込んだお陰で、シル殿の命はどうにか保つことが出来たのですよ」
ユリアが誇らしげに胸を張って言った。控えめに笑むフェイの手を握り、シルは感謝の言葉を彼に伝える。
彼が助けてくれなければ、自分はそこで終わっていたのだ。シルにとってこの先の未来は、彼から与えられたものに等しい。
「ありがとう。あなたは命の恩人よ」
「恩返ししただけですよ。あなたは僕の中の殻を打ち破ってくれた。あなたの言葉がなかったら、僕はきっと何も為せなかった」
記憶にない自分の行為に礼を言われるのは、何だかもどかしい気分だった。
それでも微笑み、手を握り返してくれるフェイに重ね重ね礼を言う。
自分が確かに一人の青年を変えた、そのことにシルは深い感慨を抱いた。魔導士として優秀なだけのちっぽけな人間……心の奥底で自身をそう評していた彼女だったが、最近は変わってきている気がする。色々な人と出会い、様々な意見に触れ、どのような形であれそれぞれの相手と心を通わせてきた。その結果、こうして成長できたのだ。
「話は変わるんだけど……今はいつなの? あれからどのくらい経ったのかしら」
シルが問うとユリアは「一週間」と答えた。
一週間――短いようで、長い時間だ。勃発した紛争はどうなったのか、女王やエルフ軍の身柄はどこにあるのか、両国の関係はこれからどうなるのか……聞きたいことは山ほどある。
何から訊ねるか迷うシルの表情に、フェイとユリアは目配せする。少し身を乗り出して、黒髪の青年はまず紛争の行方から話し始めた。
◆
「『中層』に介入せずとも構わない……そう言うのですか、姉さん」
アスガルドの王城、『女王の間』にてイヴと二人きりになったノアは姉に確認した。
古代の神殿を思わせる円柱に囲まれた荘厳な空間において、女王の微笑みはまさしく女神のよう。
その笑みを正直に呑み込んで受け入れる――普段ならそうできるはずであるのに、この時ノアは何故だかイヴの言葉に頷けなかった。
「ええ。私は既にアスガルド以外の国の実権は手放してるから、その国のことは各国主に任せるのが道理でしょ? 仕事が減って楽になってるんだから、そんな不満そうな顔しなくてもいいのに」
「不満などありません。しかし、ユグドラシルの民衆は姉さんを平和をもたらす太母と崇めている。傍観に徹していては、それが揺らいで支配に支障を来すかもしれないのです。ただでさえ反乱分子が水面下で動き出しているというのに、悠長すぎではありませんか」
鎧兜を取り払った黒のスーツ姿でいるノアは、隈が濃く残る目でイヴを睨んだ。
このまま放置していれば取り返しのつかないことになる可能性がある以上、どうにかして姉を動かさなければならない。いつまでもイエスマンでいるわけにはいかなかった。
他の神どもは女王に強く意見を言えず、それを為せるのはノアしかいないのだ。
「エルフとダークエルフの紛争から一週間……ダークエルフ側が撤退し、エルフの女王や生き残った兵士たちを捕虜とする幕引きになりましたが、私にはそれで終わったとは思えません。ダークエルフたちのエルフへの憎悪はまだ、消えていないのですから。姉さんも知っているでしょう――悲しみや怒り、憎しみは人の心に深く根差して離れない」
その場の指揮権を持っていたフェイ少佐が兵を引き、約半日続いた『フィライト』での戦闘は終結した。動員されたダークエルフ軍1000名中、死者・負傷者は100名にも満たなかったのに対し、エルフ側は半数近い約2500名もの人員が命を落とす結果となった。
攻めた側のダークエルフの動機は領土侵略などではなく、彼らのエルフへの憤怒が爆発したことであった。
突如現れた女魔導士によってティターニアが倒れ、エルフ軍の士気は地の底まで落ち、その瞬間に戦いはほぼ決してしまったという。ティターニアの命に別状はなく、彼女は捕らえられたその日の夜に意識を取り戻したが、目覚めた彼女はまるで別人のように穏やかな正確になっていたらしい。
ダークエルフの王はティターニアや捕虜の兵士たちを返還することを条件に、現在代理の女王を立てているエルフ国に歪んだ関係の改善を求めているそうだ。
その交渉の中で、これまで隠されていた真実も暴かれている。エルフ軍は『シュヴァルツアルフヘイム』の村々に度々夜襲をかけて略奪行為を行っていたとか、各町に高い税金を『アリア』の王政府に貢がせ、逆らえば住民を虐殺すると脅していたとか――等々、聞くだけで吐き気のするような悪政がのさばっていた。
――どうして、私達はその隠蔽に気づけなかったのか。中層の国々のねじ曲がったパワーバランスをもっと早く見抜いていれば、戦が起こる前に食い止められたかもしれなかったのに。
ノアは愚かにも『中層』に注意を払いもしていなかった自身を呪った。
神々と人間の支配する『上層』にのみ気を配り、他の『亜人』の国には目を留めもしなかった。そうなったのが無意識に『亜人』を下に見ていたためと指摘されれば、彼女は決してノーとは言えない。
この『上層』には、女王を頂点として【神】、魔導士、そうでない人間という順に絶対的なカーストがあるのだ。亜人はそこにカテゴライズすらされていない。彼らは普段関わることのないマイノリティな存在であり、理解もされていなかった。
よく分からないものを人は忌避する。無理解から亜人を嫌い、差別的な言動をとる人も『上層』には少なからずいる。
ノアは自分がそのような浅ましい人間ではないと思ってきた。しかし――今、こうして真実を洗い出され、彼女は自身が嫌っていた『浅ましい人間』そのものだったのだと突きつけられた。
「姉さん……姉さんは、知っていたのですか? 中層の現実や、そこに住む人々の苦悩を。もしや、知っていた上で放置していたのですか……?」
「……言わなきゃ分からないかしら? こうなることも全て計画のうちよ。私には導くべき未来が見えているの。その未来のためには亜人たちの犠牲が不可欠だった……それだけよ」
無表情にも拘わらず口許に笑みをたたえるイヴに、ノアは何も言い返せなかった。
世界の支配のために戦争が必要である――以前から何度となく女王はそう言っていた。戦争が兵器や技術の発展を生み、文明を更なる高みへ押し上げるのだと。
それに関しては理解できる。これまで、少なくとも『ユグドラシル』の中ではそうして国々は進歩してきたのだから。
ノアもイヴのその思想に賛同した上で、もう500年に渡って彼女に仕えてきたのだ。
しかし、今この時に限って、彼女の胸中には何とも形容しがたい違和感が淀んでいた。
「エルフ族のダークエルフ族に対する差別は、ダークエルフ側の人権を大いに侵害したものでした。また、小人族に対しても彼らはダークエルフほどではないにせよ、迫害していたとの報告がありました。……姉さん、人の恨みや憎しみを煽るような今回の手段、私には正解だったのか疑問です。戦争を起こさせるなら、食料危機に追い込むだけで十分だったではありませんか。彼らの心に深い爪痕を残す必要が、本当にあったのですか……?」
「何よ、ノア……あなたは私を否定するの? 私はあなたの姉であり、母であり、支配者なのよ。何も疑問を持たず、従順にすること――ずっと前に言ったことだから、忘れちゃったのかしら?」
忘れてはいない。ノアが物心ついて間もない頃、イヴの前に連れられ、彼女にそう言い聞かされた。それが、イヴとの最初の記憶だ。
「そろそろ代え時かもしれないわね。私の右腕として動かすには、あなたは長く生きすぎた」
ため息と共にイヴは口にする。
その台詞の意味を知るノアは、「姉」たる彼女を無言で見返した。
『方舟』の役目の交代。その人の記憶領域に刻み込まれた、世界の歴史の全てを別の『器』へ移す――かつてノアも、先代の「ノア」である男から記憶を丸々継承していた。
それと同じことだと、理解はしている。自分の体が限界を迎えたら次の『方舟』にバトンタッチする。これまで綿々と紡がれてきた、イヴの定めた支配のルールだ。
千年の時を生きる中で、イヴは自身の脳の記憶領域が限界に達してしまわないように、百年に一度の頻度で記憶の整理を行ってきた。この世で最も魔術を究めた彼女にしか扱えない、人の記憶を編集する魔法を用いて。
自身の記憶から不必要なものを抽出し、別の人間に移動させることで彼女は自身という『入れ物』が破裂しないように守ってきたのだ。
その移動先の器として選ばれたノアは、自身の記憶とは別にイヴの過去も鮮明に覚えている。女王が既に忘れ去った、彼女がいらないと判断したもの全てを持っている。
「私は……姉さんと、お別れしたくありません」
人間らしく笑っていた頃のイヴが、ノアは好きだった。純粋に平和を愛し、揉め事が起これば飛んでいって解決に尽力した、かつての彼女の姿を尊敬していた。
イヴとノアの間には、実の姉妹のそれと変わらない温もりがあった。「私達は本当の姉妹よ」……彼女のその言葉は、二人の絆を確かに証明していた。
しかし、今は異なる。彼女は神になってしまったのだ。
人間らしい感情を――優しい心の温度を不必要なものとして取り払い、ただ淡々と世界を支配する存在となった。いつしか、彼女は異次元の果てに封印されていた悪魔の一人を引きずり出し、その手を借りて人々の記憶を改竄してまで『平和』な世界を作ろうとしていた。
「そう、ありがとう。あなたは初代ノアより優秀だったわ」
「……わ、私はっ」
丁寧に、それでいて義務的に。使ってきた物に感謝を込め、箱の中へしまうように。イヴの中ではそんな風に、ノアは片付けられているようだった。
記憶の編集を行う毎にイヴの心からはノアへの愛情が失せていた。普通なら時間と共に絆は深まるはずなのに、彼女の場合は逆で、どんどん距離が離れていく。
ここ最近はイヴの心身が限界に近づき、「記憶編集」の頻度も年に一度のペースにまで増えていて、彼女たちの間にあった些細な日常はそれを思い返す間もなく消えていた。
その泡沫の日々がノアは大好きだった。今やイヴの人を愛する心を完全に受け継いだ彼女は、そのあまりの愛の大きさに、積み重ねたこの時間を「手放したくない」と痛切に願っていた。
「姉さん、私は――姉さんが大切なんです。姉さんのことをずっと尊敬し、人として愛してきました。姉さんはもう覚えてない時間の中で、たくさんの愛情を注がれて私は育ってきた。まだ、その恩返しもろくにできていないのに……お別れだなんて、嫌です」
目に涙が滲んでまともにイヴの姿が見えない。
それは彼女にとってある意味では幸運なことだった。無情にも偽らざる意思を告げるイヴの表情を、正視せずに済んだのだから。
「じゃあ教えてあげる。これからも私の側に居たいなら、その心を捨てなさい。私の意のままに働く人形でなければ、私にとっては邪魔なだけなの。邪魔者がどうなるか、わかるわよね? 文字通りのゴミ箱行きよ」
返す言葉も失い、ノアは力なく項垂れるしかなかった。
自分の愛したイヴという人格は、既にこの女にはないのだ。あるのは【神】としての、ただ支配に衝き動かされる人でない何者かの心。
「はぁ……何だか疲れたわ。ノア、今日はもう下がって結構よ」
黙って一礼し、唇を噛み締めながらノアはイヴの前から退場した。
姉を振り返ることなく足早に『女王の間』を去る彼女は、こぼれそうになる涙を我慢しようとしたが――走って、走ってたどり着いた廊下の突き当たりに崩れ落ちると、ついに嗚咽をこらえきることができなかった。
「うっ……ああっ、ああああああああっ……!」
感情の奔流が溢れて止まらない。ノアはその場にうずくまり、乾いた床を掻きむしりながら、やり場のない感情を吐き散らした。
――もう、私は必要ないのか。私がこれまで積み上げてきたものは、一体なんだったのか。嫌だ、嫌だ、私は私のまま、あの人の側にいつまでもいたい!
「姉さんから、離れたくない……。私は、あの人と一緒に、ユグドラシルの安寧を守り続けると……誓ったのに、どうして……」
塞がらない穴が胸に開いてしまったかのようだった。
生きる支柱であったイヴに見放されたノアの存在意義など、どこにもない。この先彼女はただ空虚に、死ぬことも叶わず、眠ったように過去の記憶の中に微睡むしかないのだろう。
「人の心を捨てられたら、とっくにそうしている……。でも私には無理だった。姉さんとの記憶をなかったことにするなんて、出来やしない……」
「へえ、さっきから意外だなー。あの【冷血】のノアさんが、こんな人間らしく泣きわめくなんてさ」
その時、頭上から面白がるような少年の声がした。
だが、この場所に子供がいる訳がない。これは幻聴なのだ。全てを失った女が聞いた、ありもしない誰かの言葉。
しかし――幻聴にしては、妙に質感のある音のような……。
「泣いちゃいけないか。私だって人間だ! 人間が泣いていて何がおかしい!」
「おー怖い。やっぱ【冷血】……いや、目が真っ赤だから【赤眼鬼】か」
バッと顔を上げ、ノアはその声の主を睨み付けた。
壁に背中を預けてニヤニヤと笑う黒髪の少年――服装からして『聖魔導学園』の生徒だろう――は、床に膝をつくとノアへ向けて手を差し出してきた。
「お姉さん、イヴさんと何かあったんだろ? 悩んでるなら、俺が助けてあげようか」




