18 守りたいもの
「ここだよ。ここにいるのが、俺がアルフヘイムで信頼できる数少ないエルフだ」
闇市の路地を抜け、坂道を下りた街の東南端のとある民家。
その前で立ち止まったエストラスは、すっかり疲れた様子のシルを振り仰いで言った。
空は鮮やかな赤に染まり、涼やかな風が吹き抜け始めている。汗に湿る肌を撫でる風に少しの癒しを感じながら、シルは微笑んだ。
「でも、いきなり人間が来て驚かないかしら……」
「平気だよ、【言霊】を飛ばしておいたから」
言霊とは、《アナザーワールド》でリオたちも使っていた、離れた場所にいる相手に声を届ける魔法である。使用者の練度によって対応できる距離は変わるが、エストラスならば広い街の魔力が飛び交うなかでも問題なく『言霊』を飛ばすことが可能だろう。
事前に知らされているなら、ある程度の心の準備はできているはずだ。シルはそう安心する。
『アリア』東部の民家はどこも一律に木造のドーム型の屋根をしていて、玄関口は数段の階段を上がった先にある。エストラスは流石に疲労を滲ませる足取りでそこを上がり、板チョコを思わせるデザインの茶色のドアをノックした。
間を置かず、勢いよく開いた扉からぴょこんと飛び出るのは、少女の尖った耳。
「エスト、おかえりっ! ――シルお姉さんも、お久しぶりです!」
「え? 久しぶりって……!?」
エスト少年の肩越しに手を振ってくる少女を、シルは知っている。
忘れられるわけがない。可愛らしい高めの声や、その笑顔、眼差し……シルが一年前に触れた、彼女の温度は今も心の中にある。
淡い金色の真っ直ぐなロングヘアーに翡翠色の瞳、抜けるように白い肌が美しいエルフの娘に、シルは手を振り返した。
「カトレアちゃん! エストラス君の友達のエルフがあなただったなんて、驚いたわ」
カトレアは階段を駆け下り、再会した女性のもとまで来ると両腕を大きく広げて飛び付いてくる。満開の花のごとき笑顔の少女は、ぎゅっとシルに抱きついて彼女を見上げた。
「シルお姉さん、私たちね、こんな素敵なお家に住めるようになったんだよ! あの頃は辛いこともたくさんあったけど、今は本当に幸せなの。お兄ちゃんも中で待ってるから、早く行こっ!」
「ふふっ、元気そうでなによりね。じゃあお言葉に甘えて、お邪魔させてもらおうかしら」
実の姉のように慕ってくれるエルフの少女――彼女の存在は、シルにとって貴重だ。シルは日頃、エル以外の年下の女の子と関わる機会がほぼほぼない。
だが、慣れない感覚に戸惑うこともさしてなかった。心と心を触れ合わせた間柄に、性別も年齢も関係ない。それがシルの持論だ。
「カトレアがシルと知り合いだったなんてな。まったく、すごい偶然だ」
玄関を通りすぎ、短い廊下を抜けて居間まで移動する。
歩きながら呟かれたエストラスの言葉に頷きつつ、シルは彼の横顔とカトレアのそれとを見比べた。
エルフもダークエルフも見た目は殆ど同じだ。違うのは肌の色だけなのに、多くのエルフ達は文化の差なども理由に彼らを差別する。
皆がカトレアのようにダークエルフとも仲良くする姿勢を見せてくれたら、この中層はより争いの少ない世界になるのに――。
「シルちゃん、なのかい……!? エストが連れてくるって言ってた人間が、まさか君だったなんて」
青年の声に、俯きかけていた顔を上げる。
温かい雰囲気の居間――若草色のカーペットや白い小さめのソファがあり、暖炉まで取り付けられている――に立っていたカトレアの兄である彼は、シルを見ると驚きと喜びをない交ぜにした微笑みを浮かべた。
妹と同じ色の髪を短い三つ編みにし、左肩に垂らした青年にシルは笑みを返す。
「ちゃん付けで呼ばれるの、やっぱり慣れないわ……。呼び捨てでいいって、一年前に言ったと思うんだけど」
「カトレアを助けてくれた君は、僕にとっても恩人だよ。そんな人を呼び捨てなんて、おそれ多い」
「ちゃん付けも大概よ、アイル君。それと――今晩は泊まっていってもいいかしら? 実は私、ホテルの予約取ってなくて」
シルの頼みにアイルが頷いて快諾する。
よかった、と魔女はひとまず胸を撫で下ろした。
「とりあえず、お茶を淹れるからソファーに掛けて待ってて。カトレアも積もる話がありそうだし」
シルは彼に促され、先に座っていたカトレアの隣に腰を下ろす。
小さめのソファーにいると、少女との距離は互いの温度や匂いを感じられるほどだった。一年前には感じられなかった、仄かに甘い果実のような香り。
「シルお姉ちゃん。お姉ちゃんは、今日はお仕事でこの街に来てくれたんだよね? どんなことしたの?」
「そうよ。でも、まだやるべきことをやれてないの。本当はエルフの政府にアポをとって、女王と話さなくちゃいけないことがあるんだけど……後回しになっちゃって」
カトレアの笑顔がだんだんと萎んでいくのを見て、シルは正直に言ったことを後悔した。
だが、彼女に対して嘘は吐けなかった。そうしても、この子は絶対に見抜いてくる――そうシルは確信していた。
「そんな顔しなくていいのよ。別に、失敗した訳じゃないし。一日くらい遅れようが、さして影響はない……はずだし」
「アスガルドの役人なんだから、もっときっちりしてるものかと思ったんだけどな。実態は全然違う」
「私は役人の型にはまらない、貴重な人材なのよ」
茶々を入れてくるエストラスへ適当に言い返しつつ、シルは自らの仕事――ユグドラシルが起こす危機の件――について、詳細をカトレアたちに明かすべきか迷っていた。
彼女らも危機の影響を受ける民の一員で、真実を知る権利はある。
けれど、まだ幼い。カトレアは12才で、人間でいうと初等教育を終えて間もない年齢だ。彼女より2、3才年上だろうエストラスも、世界がどうのとかいうより自分のことばかり悩む年頃である。
女神でさえ動かせない世界樹の『運命』を知ったところで、この子達には何もできない。無力感にうちひしがれるだけで、何かが変わるわけでもない。
彼女らに限らず、各種族の民衆に真実を告げるべきなのか――シルの中では問いがぐるぐると巡るだけで、今朝から答えが出てきてくれなかった。
「シルお姉ちゃん……? どうしたの……?」
少女の声にはっとして、意識を眼前の現実に戻す。
笑顔の似合う彼女に、いらない心配をかけてしまった。
やはり隠しておいた方がいいか――。睫毛を伏せたシルは、首を振るとカトレアに答える。
「少し考え事をしてただけよ。――あ、そうだ、楽しい話でもしましょう。カトレアちゃん、エストラス君との馴れ初めとか、私気になるんだけど」
「な、馴れ初めって……最初に言っておくけど、私とエストは恋仲とかじゃなくて、普通の友達同士だからね」
声のトーンからして照れ隠しの発言ではなさそうだった。男女が一緒にいればカップルだとか、シルは一々そんな見方をしない主義の人間である。
「そうだ。カトレアも俺も、別に好きな奴がいるからな。俺たちが付き合うとか、そんなことはあり得ないよ」
椅子を持ってきて背もたれの上に座ったエストラスが言う。
好きな人……最近、パールに会えてないなと思うと、シルは途端に寂しさに襲われてしまった。自分も彼も、それぞれの仕事に追われてばかり。彼の優しい横顔や、真剣な眼差しが恋しくてたまらない。
「好きな人、か……。好きな人がいるって、いいことよね。……それで、さっきの質問の答えはどうなの?」
「一年前、シルお姉ちゃんはピンチだった私たちを助けてくれたでしょ? 同じような人がダークエルフにもいて、それがエストだったの」
過去、路頭に迷っていた兄妹をシルは見つけ、彼らから話を聞いた。二人の悩みを知り、共に現状を打開するために思案した。そして、特に孤独を抱えていたカトレアと話していくうちに、少女の心の中ではシルがある種の希望のようなものになった。
「離れていてもシルお姉ちゃんがどこかで応援してくれるから、私は頑張れるって思った。お姉ちゃんとは違うけど、エストも私と喋ってくれて、なんと言うか、安心感をくれるの。普段は無表情だけどたまに見せてくれる笑顔が、私の心をほぐしてくれる」
「おいおい、シルが知りたいのは俺らが出会ったきっかけだろ。……こいつ、エルフの癖にあの闇市に来てたんだよ。そこで妙な石を売ろうとしててさ、誰にも相手にされてなかった。可哀想だったから様子を見に近づいたら、俺、その石が何故か無性に気になっちゃって。声を掛けたんだ」
カトレアの持つ黒い石は、見た目はそこらに転がっているものと大差なかった。
が、エストラスはその石から強い魔力を感じたのだ。こいつには何かがある――彼は、それを買うことを即決した。
「有り金叩いて買い取った。おかげでしばらくの間、生活に困ったが……それでも俺はその石に惹かれて仕方なかった。……石を買って一週間が経った頃、カトレアがまた闇市にやって来て、俺は話しかけられた。とりとめのない世間話みたいなものだった。それと、お礼を言われたな。『あなたのお陰で住む場所が見つかった』って」
「私たちは別に、運命的な出会いをした訳じゃないの。売り手と買い手の関係から始まって……私が彼にもう一度会おうと思ったのも、彼があの石に馬鹿みたいな大金を注ぎ込んだ理由を知りたかったからだし。それから、何だかんだ話すうちに友達になってた」
自分たちの出会いを語る二人の顔は輝いていた。
眩しい、とシルは目を細める。温かい――二人は心から繋がっている、本物の友なのだ。
眩しくて、正視できない。思わず目を逸らしてしまい、その態度が訝しまれる前に彼女は先手を打った。
「ねえ、カトレアちゃん。あなたが売った石って、もしかして私と森で拾ったやつじゃない?」
「あ、そうだよ。エストが魔力を感じたって言ってたけど、やっぱりお姉ちゃんも石の力に気づいてたの?」
「ええ。私、天才魔導士だから」
「あはは、シルちゃんの自分をぐいぐい上げていくスタイル、嫌いじゃないよ」
シルが胸を張っていると、横からアイルが笑いながら入ってくる。
ソファー前の小机に紅茶のカップを人数分置いた彼は、笑みを少し気弱なものに変えると続けて言った。
「自分を愛せるシルちゃんが羨ましい。僕は弱い自分が嫌いだし、愛してくれる人だってカトレアくらいしか……」
「――そんなことない!!」
少年の叫びに、エルフの青年はびくりと肩を大きく震わせる。目を見開くアイルもそうだが、言った当人のエストラスも自分の声量に驚いた顔をしていた。
「エスト君――」
「い、いや、俺は……アイルに暗い顔されちゃ、気分が悪くなると思っただけだ」
この少年には珍しく狼狽えた様子に、シルは意味深な笑みを口許に浮かべる。
「じろじろ見るなっ」と赤面する少年の陰でシルに送られる少女の視線には、この時シルは気づかなかった。
――学生時代、似たやり取りをパールとしたわね。
入学する前から、シルは自分のことが嫌いだった。闇の魔術に最も適性を示した自身が、汚らわしい存在に思えた。
だがパールは、「君を愛する人はここにいる」と言ってくれた。彼女がパールに恋情を抱いたのは、この言葉がきっかけであった。
シルが回想する中、アイルは微笑んでエストラスに言う。
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいし、安心した。――じゃ、夕食は君とカトレアの好きなものだけ沢山作ろう」
ティーカップ用のお盆を持ってキッチンへ引っ込んでいくアイルの背中に、物思いから脱したシルは声を掛けた。
「待って、私も手伝うわ。これでも料理には自信があるのよ」
「おっ、本当かい? 頼もしいね」
「わ、私もお手伝いする! お兄ちゃんはダメっていうけど、包丁だってちゃんと使えるもん!」
「いいや、まだ危険だよ。お前は下がってるんだ」
「アイル君、もうカトレアちゃんは12よ。いい加減触らせてあげてもいい年じゃない」
「カトレアには俺が手を貸してやる。そんなら危なくないだろ」
一人が席を立てば、また一人が後を追う。
ひと度騒がしくなったキッチンの温度はそう簡単には下がらない。彼らと共に調理の準備を始めながら、シルはこの温度をいつまでも保てたらいいと思った。
『ユグドラシル』という世界の『中層』の、『アルフヘイム』という一国の首都、そこに暮らす一つの家族――世界全体からすればちっぽけな存在かもしれないが、シルにはそれがいとおしくて仕方なかった。
彼らを守ってあげたい。そのためにはやはり、この世界に降りかかろうとしている戦の火種を、どうにかして取り除かねばならない。




