15 世界樹の真実
「……この『ユグドラシル』全域で、原因不明の不作が続いていることは知っておられますよね? 今日はその調査のため、中層へ向かえとフレイ様に命じられているのです」
夜の女神・ノートに事情を明かすべきか一瞬迷ったシルだが、話そうと決めた。
この女神は『ユグドラシル』に長く入り浸り、その姿を見つめてきた人物だ。世界樹に関することなら、こちらがわざわざ隠さずとも知っているだろう。
現地調査をする前に話を聞いておいて損はない――シルはそう考え、黒髪の美女に思いきって訊ねてみた。
「ノート様は、不作の理由に何か心当たりはありませんか? 気象条件も例年通りなのに、今年になって突然実りが減るなんて歴史上初めてのことです。私には原因に見当もつけられませんでした」
「そうね……。あなた、『世界樹』に意思があることは知っていて?」
シルの行き先は『ブラックストリート』奥の中層へ繋がる『エレベータ広場』だったが、ノートの目的地もどうやら同じらしい。シルと肩を並べて歩く彼女は、若い魔女の問い掛けに質問で返した。
投げたものが重力で落ちることを説明するように、常識を語る風にノートは言ってくる。
「えっ? ……い、意思、ですか?」
「信じられないかしら? まさかあなた、『世界樹』がただの植物だと思っていたわけじゃないでしょう」
そのまさかであった。
驚きを馬鹿正直に表情に出すシルに苦笑し、ノートはやや声を潜めて繰り返す。
「『世界樹』には意思があるの。私たちと同様に物事を考え、言葉を話し、おんなじ感情を持っている。この『ユグドラシル』という九つの国々の連邦が出来てから、ずっとね。『ユグドラシル』の国々の気象や気候は全て、樹自身が最適なものを選択して現象として起こしている」
青が眩く映える快晴も、大地を無情に洗い流す大豪雨も、全ては世界樹自身が自己決定していること。
これまで世界樹の仕組みにまるで興味を抱いていなかったシルは、しばし言葉を失った。
――では、この不作の原因も『世界樹』にある……? 理由は定かではないけど、『世界樹』がそうなるように仕向けているってこと?
意味が分からない。ノートの言葉が真実なら、『世界樹』はそこに暮らす者たちの快適な暮らしを実現するために世界を管理しているのではないのか。この不作はそれに真っ向から反している。
黙りこくるシルを他所に、ノートは結論を口にした。
「だから、この不作も『世界樹』が必要だと思って起こした事象なのよ。……言い方はあれだけど、間引きってところかしら。ここ最近、世界の人口は増えるばかりで減らないから。世界のリソースには限りもあるしね」
「――っ、ならばどうして『不作』なのですか!? 限りあるリソースを自ら削っていくなんて、おかしいでしょう! 人を減らすなら疫病とか大災害とか、それこそ戦争だとか――」
自分が口に出した単語に、言ってから気づいたシルは唇を噛み、俯いた。
ノートはそんな彼女を横目にくつくつと笑い、白い無数の『魔力灯』が煌く天井を仰ぐ。
「あなた今、世界の核心にかなり近づいたわよ。フレイをはじめ、多くの神々も知らなかったようだけど、これまでの歴史で人口が大幅に減少する災厄は定期的に起こっているの。中層から多くの死者が出た大地震は80年前、上層の人間たちの3割が亡くなった神々の戦争は130年ほど前。そろそろ来るかと思っていたけど、まさかそれが原因不明の不作だなんて……これはこれで応えるわよ。食べるものもなくじわじわと追い詰められ、しまいには食料を奪い合う戦争だって起きるでしょう。神々が領地を求めて争った130年前の大戦とは違って、今回は『世界樹』が起こした不作によって人々が争う。真実を知らない人間たちは何を恨み、何に怒ればいいのかしらね」
女王イヴの魔術による洗脳の影響がノートにないということに、この時のシルは考えを回す余裕がなかった。
彼女はただ、ひたすらに狼狽していた。
「世界樹は私たち人類のように意思を有していて、その意思が私たちに抗えない苦難を課そうとしている……ということですよね。それでは私は、『私たち』は、一体どうすれば良いのですか? これから起こりうる災厄を、指をくわえて待つことしか、私たちには許されていないのですか……?」
ノートに会わなければよかった。彼女から真実を聞かされなければ、こんな思いをすることもなかったのに。
シルやパールが戦争を憎み、それを無くそうともしないイヴを打倒しようと画策しようとも、世界樹が紡ぐ運命は戦乱を導き出す。増えすぎた人類を減らすための、理不尽で強引な運命だ。
「さあ、どうでしょうね。私は常にここにいて、民たちが暮らす国々には干渉しないから考えたこともなかったわ。今回も私には関係のないこと……私は【神】で、不死の存在だから。それはあなたも同じでしょ?」
「……私の【神】はただの称号です。イヴ様が施す不死の術式は、まだ受けていません。それに私はあなたとは違って、自分だけが生き残れればいいだなんて思わない。私には、この世界で出会った守りたい人たちがいるのです!」
シルは汗ばんだ拳を固く握り、傍観を決め込む女神を睨み据えた。語気を強めた彼女は言いながら気づく。
――そうだ。私には守りたい大切な人がいる。パールやハルマ、グリームニル、フレイ……それに何よりたった一人の妹、エル。彼らと共にある日常が自分の一番の宝物であり、それを守り抜くために杖を取ってイヴに抗うのだと決意したのではなかったか。
今回も同じだ。イヴという世界の頂点たる女に抵抗しようというなら、世界樹自体に杖を向けることだって大して変わらない。どちらも動かすのは困難で、しかし動かせたのなら世界は派手に翻る。
視線を前に戻すと、『エレベータ広場』はもうすぐそこだった。
シルを見るノートの瞳は先程まで大きく開かれていたが、一度長めに瞼を閉じ、それから彼女は言った。
「あなた、珍しいわね。イヴ様の魔術を受ければ名実ともに【神】になれるのに、どうしてしないの? もったいないわ」
「私は神などではなく、人間ですから。それに、あの女王は個人的な事情で嫌いなんです」
シルが吐き捨てるように言うと、ノートは堪えきれなくなったのか腹に手を当てて笑い声を漏らした。
「くっ、くくっ――うふっ、あははっ! そうよね、嫌いな女の魔法なんか身体に刻みたくないわよね。本当に人間的ね、あなた」
「それで何がおかしいのですか」
「おかしくなんかないわよ。むしろ羨ましいわ。私も幼い頃は力を持たない人間だったけど、その頃のことなんてとっくに忘れてしまったもの。人間らしいってきっと、幸せなことよ」
シルの調子はどうにもよくない。世界樹の真実を聞かされれば精神的に揺らぐのも、当然ではあったが――それを踏まえてもいつも以上に彼女はぐらついていた。
「そろそろエレベータに着きますから、この辺で別れましょう。お話、ありがとうございました」
無理やり笑みを浮かべ、シルはノートにそう告げて頭を下げる。
彼女は女神の返事を待たず、足早に目的のエレベータへと向かった。
夜の女神はそんな彼女の背中を、光のない漆黒の瞳で見送る。傍観者たる女は、小さな呟きをその場にこぼした。
「あなたの選ぶ物語……どんな結末を見せてくれるのか、楽しみよ」
◆
音もなく『幹』を下る黒い箱の中、シルは思考の海をたゆたっていた。
――エルフや小人族の長に真実を伝えるべきだろうか? 自分たちの手ではどうにもならない問題を知らされても、困惑するだけではないか?
かといって何も言わず、事実を隠すのも間違いな気がする。
この世界に生きる民たちが、本当のことを知らされずに一生を終えていく――ノートの口ぶりからして、これまではそうだったのだろう。シルの押し付けがましい考えかもしれないが、やはりそれは不幸なことだと思う。知る権利は誰にだってあるのだ。その機会を奪い、情報を隠匿するなど許容するべきではない。
「真実を知るのは恐ろしいことかもしれない。エルフや小人の族長にはまず、それを知りたいか聞いてから話す内容を決めたほうがいいわね」
現地調査の任務で中層へ降りることになったシルだが、結果は既に出ていた。世界の不作は世界樹が意図的に作り出したもので、自分たちにはどうにもならないことなのだと。
だからシルがこれから中層に向かうのは、単なる使命感からだ。このまま何もせずに終わるなんて、彼女には許せなかった。
ノートに会って予期せず真実を知り得たように、亜人の長たちと話せば「どうにもならないこと」をどうにかする手段が見つかるかもしれない。
「何も全部をネガティブに考える必要はないわ。私ならこの状況を打破する策が、きっと見つけられる! 追い詰められているからこそ、前向きでいなくちゃ」
せめて言葉だけでもポジティブにしよう。
シルは顔を上げ、胸に手を当てて声を出した。
迷って立ち止まることが一番よくない。シルはパールと戦争を無くすために闘うと誓ったのだ。不作による飢餓から争いが起こるのなら、それを防ぐための策を講じる他にない。
「とにかく、今は現場を見る。そして考えるのよ。魔導の可能性が無限大だってことを、そこで証明する」
シルはこれでも【神】の称号を持つ魔導士だ。あらゆる種の魔術に長け、高い魔力と妹に負けず劣らずの柔軟な発想力も併せ持っている。
自分を奮い立たせたシルの耳に、そこでちょうどエレベータの機械的なアナウンスが届いた。
『ユグドラシル中層一階、『アルフヘイム』入り口前でございます』
エレベータを降り、先程の『ブラックストリート』よりも人気の少ない通路を早足に抜けていく。
黒い石敷きの床に靴音を鳴らしながら、魔導士の女はこれから訪れる国の民たちを思った。
森の妖精たちの住む国、『アルフヘイム』。そこで一年前に出会った一人の小さな女の子を彼女は思い出す。
貧しさから同族の子供たちの輪に入れず、孤独だった少女。仕事でこの国を訪ねたシルは、その時個人で街を歩き、暗い顔をしていた少女に声を掛けた。
『どうしたの? 困っているなら、私が助けてあげようか』
切羽詰まった少女の、あの瞬間の瞳のすがり付くような光はよく覚えている。彼女の眼の中に見えた影はシルの抱えていたそれとそっくりだったから、忘れるわけがない。
「今、あの子はどうしているかしら――。元気でやっていたらいいけど」
門を潜り、『世界樹』を出る。
上層より降り立った異国の女を迎えたのは、一年ぶりに吸う緑が醸す芽吹きの匂い。そして、木々と共生する街の建物たちと、そこに暮らす住民たち。
世界樹を出てすぐの見晴台から一望できる首都『アリア』の通称は、ツリーハウスの町といった。魔導や文明が発展しようが森から離れることを拒んだエルフ族たちの、聖域とも言える『アールヴの森』の中に作られた、自然と文明の共同体。
「この国の平穏も、このままでは近いうちに壊れてしまうものなのよね……何とかして食い止めないと。それが真実を知るものの責務だから」
「近いうちに平穏が壊れるだって? 随分と、物騒なことを言う人間だな」
と、少年の声が隣から聞こえ、シルはそちらを向いた。
短めの黒髪と尖った長い耳、黒を基調とした軽装のシルより少し年下に見える少年。その顔を見て魔女は息を呑んだ。
彼の肌は浅黒く、瞳は漆黒。右頬に鳥をかたどった刺青をしており、左耳を三日月型のピアスで飾っている。その外見的特徴は、『アルフヘイム』に暮らすエルフ族とは似て非なる『ダークエルフ』族のものであった。
「人間がわざわざこっちまで降りてくるなんて、珍しいよね。お姉さん、何しに来たの?」
ダークエルフの少年はシルを見上げ、訊ねてくる。
彼の瞳に、シルはこの時確かに竦んだ。
とにかく暗いのだ。悪意はないが、善意もない。誰もが持つような感情が、この子には見当たらない。それはまさしく色のない瞳だった。
「私は……」




