10 夜間飛行
目の前の空中に現れた八芒星の魔法陣に近づき、僕たちはそこに身体をねじ込んだ。
神殿へ転移する光のゲート。転送魔法特有の浮遊感を覚えながら、視界が白く染まっていくのを感じる。
空間を越えて転移するこの瞬間が、正直に言うと僕は苦手であった。本当に一瞬なんだけど、自分がどことも知れない次元にいることが何だか不安になる。その中で肩を貸し、支えてあげているエインの重みは一種の拠り所のようにも思えた。
「――着いたよ、トーヤ君」
エインの声に僕は瞼を開けた。
地面に足が着く感覚。肌を刺す冷気と、纏わり付くじめっとした霧。
懐かしい――と言えるほど昔の話じゃないけれど、僕はそう感じてしまう。
ここは『神殿オーディン』の前庭だ。広大な芝生の庭に、十字に敷かれた石畳の通路、各所に置かれた神や戦乙女を象ったオブジェ。約十ヶ月前、エルと共に訪れた時と何ら変わっていない。
どんよりとした曇天であるのも、前と同じだ。
「エルたちは……もう行ったみたいだね。僕たちも行こう」
辺りを見渡しても僕たち以外に人影はなかった。耳を澄ましても、風の音も精霊たちの声も聞こえない。あるのは僕たちの息づかいだけだった。
前庭の先を見上げると、神オーディンの館『ヴァルハラ』が鎮座している。その正面の扉の前に以前は見られなかったものを見つけ、僕は声を上げた。
「あれは……? 金色をした鳥、みたいだけど……」
石畳の通路を進んでみると、どうやらその鳥は鶏のようだった。とっても長い尾羽や立派な鶏冠が、羽の色と相まって豪奢な印象を与えている。
館を守る番犬ならぬ番鳥、なのだろうか。
「一応聞くけど、あれはシルさんの鳥じゃないよね?」
「違う。シル様が使役する動物はあの赤猫だけだよ」
そうなると、やっぱりオーディン様の鳥ってことか。
じゃあ特に危害を加えてくるようなことはなさそうだ――と考えつつ、僕らは扉の前まで辿り着いた。
黄金の鶏は僕らをじっと見詰めて、というか睨んでくる。それにたじたじとしてしまう僕だったが――。
『コケーッ!!』
突如放たれた大音声に飛び上がる。
な、なんだ!? こいつ、やる気か……!?
鶏はこちらに対し羽を大きく開き、鋭く鳴いて威嚇していた。輝きに満ちたその視線の先にいるのは、エインである。
「っ、ごめん、トーヤ君。ぼくは魔族だから、どうやら入れてもらえないみたいだ」
「そうか……でもシルさんはこの中で待ってるんだよね」
エインは頷く。彼はもう悪魔から解放され、僕たちと敵対するつもりもないのだ。
この鶏に言葉が通じるかは分からないけど、どうにか入れてもらえないか説得してみよう。
「あ、あの――この子はオーディン様に害をなす者じゃないんだ。だから、通してもらえないかな?」
『…………』
無反応。鶏は僕たちを見つめたまま身じろぎもしなかった。
しかし、ダメなのか、と思ったその時――僕らの背後から別の鳥が羽ばたく音がして、はっと振り返る。
そこにいたのは二羽のワタリガラスだった。双子のように瓜二つな黒い鳥たちは嘴を開くと、驚くべきことに声を発した。それも、人間と遜色ない声音で流暢に喋りだしたのだ。
『トーヤよ、久しいな。お前に神器を授け、どのように成長するのか楽しみにしていたが……どうやら期待以上に変わってくれたようだ。誇りに思うぞ』
僕に神器を授けたひと。つまりこのカラスの口を借りて話しているのは、オーディン様……?
「オーディン様、ですか? あの、僕から貴方に頼みたいことがあるのですが――」
『それは承知している。そこの子供を神殿へ通せと言うのだろう。――他ならぬお前の願いなのだ、それくらい聞き入れてやる』
しゃがれ声が答え、僕とエインは顔を見合わせてほっと胸を撫で下ろした。
だが続く神オーディンの言葉に、表情を真剣なものに改める。
『シル・ヴァルキュリアは《望みの間》にてお前たちを待っている。彼女について、私も思うところはあるが……トーヤ、お前は彼女と会って話すべきだ。彼女の過去を知り、悪魔の由来を目に焼き付け、それから自分の在り方を考えろ。彼女はきっと、我々神とは別の視点で歴史を語ってくれるはずだ』
平易な言葉選びでオーディン様は僕に告げた。
彼はシルさんを拒絶しないのか、と瞠目しつつ、こくりと頷く。
その驚愕を感じ取ったのか、神様はやや硬い口調になって最後に言った。
『この先の道は私の使い魔、ワタリガラスのフギンとムニンが導こう。彼らについて行けば決して迷うことはない』
それきり、ワタリガラスは口を閉ざした。フギンとムニン――どっちがどっちだか分からないが――は、パタパタと扉まで飛んで進む。すると神殿の横開きの扉が音もなく勝手に開き、彼らを中へ招き入れた。僕たちも後に続く。
「っ……!」
これまで薄暗い空間にいたから、一歩足を踏み入れた先の光は一層強く僕らの眼を刺激した。
白大理石で作られた大ホール。天井にぶら下がる幾つものシャンデリアが狂った太陽のように僕らを照らし、『神殿』という場所にやって来たのだと鮮烈に意識させてきた。
ここで僕はかつて、エルとマティアスと共に牛頭人体の怪物『ミノタウロス』と交戦したのだ。
「……」
今回は、ここに怪物はいないようだ。
助かった。エインとの戦闘で僕は少なからず体力を消耗している。エインに至っては僕が両腕を焼き尽くしてしまったため、存分なパフォーマンスを発揮できない。だから戦闘は避けたかった。
二羽のワタリガラスは僕たちを何度も振り返りつつ、どんどん先へ進んでいく。エインに肩を貸しながら僕も急いだ。
フギンとムニンの案内を受ける間、僕たちの会話は殆どなかった。
エインにも先の戦いを経て思うことはあるだろうし、僕もシルさんのことを考えていて、お喋りに興じる気にはなれなかったのだ。
シル・ヴァルキュリア――あの人は僕を試している。エインとの戦いもきっと、その一環だ。
彼女は以前、僕を【特異点】と呼んでいた。その意味は判然としないけど、特別視されているのは分かる。別に、だから何だって話だけど。
「……はぁ」
シルさんは僕に執着している。エルの姉である彼女が僕にちょっかいをかけてくるのも、もしかしたら前世のことが関係してくるのだろうか。
そこまで考えてため息をついた。僕は僕だ。前世様がどうだとか、気にしてもしょうがない。
魂や前世についてエインにどう思うか聞いてみようとして、僕は止めた。口が開かなかった。
彼の横顔は物憂げで、どこか寂しそうだったから。この先に待つ運命を憂うような、そんな哀しさがあったから。
フギンとムニンはホールの左手へ移動し、やがて壁の端で止まった。
僕たちが彼らに追い付くと、その瞬間、突然何もない白い壁に木の扉が浮き出てくる。
「これが、《望みの間》への入り口か……」
僕が呟きを落とすと、ワタリガラスたちは頷くように首を動かした。
ごくり、と生唾を呑む。手に滲んだ汗をズボンに擦り付け、僕はドアノブへ左手を伸ばした。
右肩で支えてやっているエインに目配せし、彼の赤い瞳がしっかりと前を見ているのを確認してから、ノブを回す。
これからシルさんと正面から対峙して、話をする。そして、僕がどれだけ成長したのか、どれほど変化したのかを見せるのだ。
神器使いのトーヤとして――エルの恋人であるトーヤとして、シル・ヴァルキュリアという一人の女性と向き合う。
偽らない気持ちをぶつければ、きっと彼女のことが少しでも理解できると思うから。相手は組織の元締めの女だけど――勇気をもって。
「行くよ」
エインに囁きかけ、僕はドアを思いっきり押し開けた。
次に目に飛び込んできたのは、大理石のホールとはうって変わって鬱蒼とした樹木の群れ。
「ここは……?」
『古の森』ではない。
この森の木々は葉を青々と繁らせ、また様々な音に満ちていた。
風で葉擦れする音。小動物が木陰を駆けるカサカサという音。虫のさえずり。モンスターの凶暴な唸り声。それを仲間に伝える狼の遠吠え。
僕は不思議と懐かしさを感じた。生命の匂いに満ちたこの森は、昔暮らしていた『精霊樹の森』を思い起こさせる。
『神器使いの少年よ……いや、トーヤよ。よく戻ってきたな』
え、誰……?
僕はきょろきょろと辺りを見回した。この場には僕とエインしかいないはずなのに、一体どこから話しかけてきたんだ。それに、何だか僕を知ってるような口ぶりだった。
「どうしたの、トーヤ君? 何か異変でも感じた?」
「ああ、誰か知らない男の人が、僕に声をかけてきて……。君には聞こえなかったのかい?」
エインはふるふると首を横に振った。
僕に聞こえて、彼には知覚できない声。どこか懐かしさを抱かせる森に、僕を知ってるらしい声の主――そこまで頭の中で並べてみて、僕ははっと息を呑んだ。
まさか、ここは――。
「精霊さん……あなたはかつて僕を、いや僕たちを見守ってくれていた。そうですよね?」
『ああ、その通りだ。私は世界樹の魂より生み出された、光の精』
僕の視界の右下で白い光がちかっと瞬く。精霊の存在を確認し、その口から『世界樹』の名を聞いて自分の気づきが正しいのだと確信した。
ここは『精霊樹の森』に似ているのではなく、正真正銘その森なのだ。僕が幼い頃から暮らしてきた故郷と言える場所。家族を失った後も僕を心の面で支えてくれた、老賢者の棲む森だ。
「エイン。この森は『精霊樹の森』といって、僕が昔住んでいた所なんだ。そして……世界樹ユグドラシルの、分かたれた九つの魂の一つが根差した場所でもある」
「……! それは、本当に?」
「うん、間違いない。――ここが精霊樹の森なら、行くべき所もおのずとわかってくる」
世界樹の根の一つ、僕が『ユグド』と呼んでいた年老いた巨木の根本。そこにある泉にシルさんは待ち構えているはずだ。
『アスガルド神話』では神々の暮らすアースガルズ、人間の住まうミッドガルド、極寒の世界ニブルヘイムの根本にそれぞれ泉が存在したという。僕が何度も畔でユグドと語ったのも、そのうちのどれか――ユグドはその三つの世界のどれかを支える枝だったのかもしれない。
ユグドは僕にとって当たり前にいる存在だったから、これまでは考えもしなかったけど、改めて思えば物凄い話だ。
「泉へ向かうんだ。見上げれば分かるんだけど、あそこに飛び抜けて大きな樹が見えるだろう? あれが森の中心の『精霊樹』ユグドだよ。あの根本にある泉でシルさんは待ってるんだと思う」
「泉か……そういえば、シル様がかつて【悪魔の心臓】を出現させた地点も『真実の泉』とか呼ばれてたっけ」
「そう、だからシル様――んんっ、シルさんは泉に思い入れがあるんじゃないかってね。さ、急いで向かおう」
うっかり呼び方が移ってしまい慌てて咳払いしながら、僕は言った。
しかし、道なき道を、しかも真夜中の森を歩いていくのはかなり骨が折れる。ここは近道していこう。
「エイン、君は空を飛べるかい?」
「ベルゼブブの力があれば、楽勝だったんだけど。……ごめんね、迷惑かけて」
「構わないさ。この森なら僕は精霊の加護を受けられるからね。多少の無理も、無理じゃなくなる」
にっと笑い、浮遊魔法の呪文を唱える。
ふわりと身体が浮き上がり、木々の間を抜けて夜空の下に僕らは飛び出した。
今日は満月で雲もない。月光に照らされた森や近くの村を上空から眺め、最後に視線を目的地へ据える。
浮遊魔法で重力を自在に制御し、僕らは空中を飛行した。
障害物だらけの森とは異なり、ここは邪魔するものが何もない。ひんやりとした風を体に受けながら飛ぶ僕は、こんな時なのに思わず笑んでいた。
「ふふっ、こうして飛ぶのは初めてさ! 昼間じゃ人目を気にして使えないし、何よりいつもエルが転送魔法陣を用意してくれてたから、こいつの出番はなかったんだけどね。たまにはこんなのも悪くない!」
まるで自分が鳥になったみたいだ。風に乗って上昇したり、旋回してみたり――そんな風に遊んでたら、エインがちょっと怒った声音で叫んでくる。
「君は楽しいんだろうけど、こっちはすっごいヒヤヒヤするよ! もう少し穏やかに飛んで欲しいな!」
僕とエインにそれぞれ別の動きが出来るような魔法の調整は、僕の腕じゃまだ出来ない。そのため僕が派手に動けばエインも同じ動作をしてしまうのだ。自分で重力制御していない彼からしたら、動きに全く予測がつかなくて怖がるのも当然だろう。
「ごめん! こっからは真面目に、まっすぐ向かうから」
エインに謝り、僕は一直線に精霊樹へのルートを見定めた。
ぐんと上昇、それからは気流も利用して降下していく。
落下傘もなしに空中を降りていくなんて、危険極まりない行為をしてるとは思うけど、その危険を楽しんでいる自分に僕は気づいた。
魔力の制御を間違えたら死ぬ。でも今は、失敗する気がしないんだ。
僕の身体はこの森から貰った魔力に満ちている。溢れる力の全能感に酔いつつ――それでいて、道を見失わないように注意した。
「そういえば、トーヤ君! 今、夜だよね。ぼくたちが戦っていた時はまだ朝方だったのに、どうしてこんなに暗いんだろう?」
「確かに、言われてみれば……。こればっかりは神オーディンか、シルさんの意向だとしか言えないよ。理由は不明だけど『夜の精霊樹の森』である必要があったんだ。これが昨日の夜なのか、それとも明日の夜なのかも判別できないけど……」
満月の夜は、僕がエルの《精霊樹の杖》を作った時のことを思い出す。彼女の杖は神殿ノルンの戦いで破損し、今はフィルン魔導学園の学生用の杖を代用としているが、もし時間があるならここで精霊樹から枝を拝借して新たな杖を作ってあげたい。リオの木刀も、同じように。
と、喋ったり考え事をしたりしているうちに、すぐ目の前に精霊樹の杖が迫ってきていた。
樹に激突しないようそこに斥力を発生させ、僕らは少し後退する。足の裏が触れる位置を予測してまた、同じ力を魔法で生み出す。そうして下へ進み、これを何度か繰り返す。
最後に地面との衝突を避けるため、着地地点からの斥力をだんだんと弱めながら、僕たちは足から降りていった。
すたっ、と草を踏んだ僕の隣で、エインは尻餅をついて気の抜けた声を出す。
「はぁ~……。こんな飛行術、もうごめんだね」
「あはは……。僕も転送魔法を覚えられるよう、努力するよ」
実際こんなのより、転送魔法陣の方が百倍早いし便利だ。
「さて」と呟き、僕は周囲を見回す。僕たちが着地したのは泉の畔、精霊樹のちょうど対岸に当たる部分だ。澄みきった水面には満月が煌めき、風に波立っている。そしてその先に――精霊樹の根本にエルたちと、その女性はいた。
黒い魔導士のローブ姿の、金のロングヘアーを風に流すシルエット。紛れもなく、神殿ロキで出会った【永久の魔導士】と同様だ。
「っ!」
僕が動き出す前にエインはもう駆け出していた。彼が草を蹴る音を耳にし、間髪入れず僕もあとを追う。
泉の外周はそこまで長くない。鍛えられた僕らの脚なら、向かい側に辿り着くのもそう時間はかからなかった。
「うふふ……月が綺麗ね、トーヤ君」
魔女の透明な碧眼が僕を射留め、その妖艶な笑みはしばしこちらの言葉を奪った。
シル・ヴァルキュリア。この人こそが組織を束ねる首領であり、大罪の悪魔をも従える大魔女。神を憎み神に仇なす、そんな存在だ。
同時に――僕に試練を与える、ある意味では神のような人。
緊張と共に、僕は彼女の眼をじっと見返した。




