9 ライバル
僕は身動きが取れなかった。エインの前に膝をついたまま、頭の中に聞こえる男の声を黙って聞いている。
『なぜオレがお前の中にいるのか……気になるだろうが、残念ながらもっともな理由はねぇなぁ。悪器が破壊されたそのタイミングで、オレはその依り代から離れて一番近くにいたお前に乗り移った。本当は悪器が壊れた時点でオレは消えるべきなんだが……いや、そんなところで死ねるかって話よ』
若い男の声は、先程より声量を絞って言ってきた。
かつて悪魔ベルフェゴールこと始祖リューズは、悪魔の力を失ったにも関わらず精神体として魔力で肉体を作り出し、僕たちの前に立ちはだかった。今の状況はそれとは異なり、またそれよりも正直かなり不味い。
単純に死にたくないという理由でベルゼブブは僕に取り付いたらしい。そこまではいい。問題は、悪器が燃え尽きたのに悪魔の意思がまだ存在していることだ。
前提条件からみてもおかしい話だ。悪魔は悪器が破壊されれば死ぬはず。まさか、悪器を壊し損ねた?
「トーヤ殿? どうなさいました……?」
「い、いや、何でもない。少し言葉に迷っただけ」
目の前のエインを見ながら僕はアリスに答えた。
涙を流し、その泣き顔を見られないよう顔を俯けている白髪の少年。彼の身から悪魔は消えて、僕の戦いの目的は完璧に果たされてはいるのだけれど……。
『問題が自分にできて災難なこったなぁ。どうするよ、トーヤ? あいつらに言うか? 悪魔に憑かれちまった自分を見て、エルたちはどう思うだろうなぁ?』
悲しい思いを、さらには失望までさせてしまうかもしれない。でも彼女らは僕を見捨てるような選択はしない、はずだ。
『取引をしよう、トーヤ。お前が心を差し出すならば、オレは《力》でお前に報いる。神器の契約と変わらねぇ、悪い話じゃないと思うがな」
――うるさい。僕は神器使いだぞ。お前たち悪魔に対抗する立場の僕が、どうしてお前になびくと思う?
『お前が求めるのは何よりも強い《力》、そうじゃねぇか。色欲や怠惰はお前をたぶらかすことは出来なかったようだが……オレの魔法、本当に欲しいと思えなかったか?』
僕は悪魔に対して何も言い返せなかった。
ベルゼブブの魔法は確かに強力で、実際に習得できるのならしたい。けれど、悪魔に心を売るなんて言語道断だ。出来ない。出来ない、けど……。
「エル、エインに『癒しの魔法』をかけてあげて。傷は完全に治らないかもしれないけど、痛みは和らげられるからね」
「エインくん、いいかな?」
僕は内心の動揺をひた隠し、エルに指示した。頷いたエルはエインの前にしゃがみこみ、訊ねる。
白髪の少年は視線を下に向けたまま動かなかった。どうすべきか躊躇したエルだったが、痛ましい彼の腕を見て魔法をかけることを決めたようだ。詠唱が始まる。
「トーヤ、あんたも怪我はない? 私が魔法で癒してあげるわよ」
「僕は大丈夫だよ、ユーミ。かすり傷程度だし大したもんじゃないから。むしろ、痛いのは……」
言いかけて、止めた。
ユーミは優しい、でも悪魔に憑かれた僕に対しても同じ態度をとってくれるか分からない。彼女はリオほどでないにせよ、悪魔に明確な敵意を持っている。神話を知るものとして当然のことだ。
いや、言うべきだろ。僕の心に悪魔が取り憑き、揺すぶってくることを。言わなくて手遅れになったらどうする? ユーミたちにベルゼブブの力を得た僕を止められるのか?
「トーヤ……? どうしたのよ、さっきから何か変よ」
そもそもなんで言えない。悪魔に憑かれてしまった事実が、僕はそんなに恥ずかしいのか。
言え。僕は神器使い、悪魔に一番与しちゃいけない人間なんだ。
「ユーミ。驚かずに聞いてほしいんだけど……」
赤髪の巨人族の女性を見上げ、戸惑う彼女に口を開く。
しかしその時、また悪魔の囁きが僕の心を引っ張った。
『さっきの答え、まだ聞いてねーんだけど。どっちなんだ? さっさと選べよ』
同時に、僕は喉が詰まるような息苦しさに襲われた。声を出そうとしても言葉が形にならない。口を動かすだけで、喉が震えてくれない。
信じたくはないが、僕は悪魔に声を奪われてしまった。
――君の力はどんな魔導士だって欲しがるだろうさ。でも、君と契約を結びたいかどうかは別だ。共に戦う相棒がこんな暴虐な人物だなんて、誰だって嫌だよ。僕は――君なんかの力は絶対に借りない!
『そうかよ……オレならお前を強くしてやれると思ったんだがなぁ。《悪魔に憑かれた弱い自分》を見られなくない、強い神器使いのトーヤでいたい――そんな風に、弱い人間ほど強さに執着するんだ。オーディンやテュールより優れた破壊の力、これを捨てるなんてどう考えても勿体ない』
自分が一度言おうとしてして止めた理由を看破され、僕は顔を俯けた。
そう――僕の中には『強い神器使いのトーヤ』というイメージがあった。自分が世界で一握りの特別な存在だと、自惚れていたのだ。だから言えなかった。『特別な存在』に傷をつけたくないから。名声に傷がつき、蔑まれるのが怖いから。
何が神の力だ。何が英雄だ。僕はこんなちっぽけな、他人の評価ばかりに気を取られるような人間じゃないか。
悪魔に契約を持ちかけられ、一瞬でもその手を取る選択を考えた――神器使いとして、失格だ。
「け……い、やく、を……ぼ、僕は、あく、まの」
「悪魔の契約? それが何なの……?」
ユーミは僕の顔を覗き込み、真剣な瞳を向けてくる。
リオたちがこちらを注視するのも感じながら、僕は無理矢理に固まった喉を震わせ、声を発した。
「ベル、ゼブブの……けい、やくを……」
契約。僕が悪魔から持ちかけられ、自分の意思で否定したもの。そのことをユーミに伝えるのだ。僕が悪魔に憑かれてしまったことも……。
「トーヤ君」
名を呼ばれ、そちらに視線を移すとエインが僕を見ていた。
彼の深紅の瞳は涙に濡れて妖艶な光を宿している。
「エイン?」
何か言いたいことがあるのか。僕のことで、何か――。
僕はエインをじっと見つめた。その真っ赤な瞳を覗き、考える。
「えっ……?」
鮮血の色をしたルビーのような眼。そいつが突如、不自然なまでに大きく見開かれた。
何だ、どうしたんだ――? 明らかにおかしい、けどその理由が分からない。彼は何を見ているんだ? 僕の中の悪魔なのか? それとも……悪魔とは別に、僕自身だけを見ているのか。
見張られた目にあるのは恐怖心だろうか。ならば言わなくては。僕は危険じゃない、君に危害は加えないって。
強張る喉から懸命に声を絞り出し、僕はエインに訴えた。
「エ、エイン、僕は悪魔に魂を売ったりしない! 力に呑まれ、暴走してしまうような、そんな愚かな失敗は決してしない! 僕はもう大切な人を失いたくないから……それに、その大切な人には、君だって含まれるんだ。君は僕の大事なライバルなんだよ。カイやリル君、ケルベロスと同じ、戦いの中で高め合った関係なんだ」
僕にとって出会った全ての人が愛すべき者で、生きる上での「師」だ。
オリビエさんやヴァルグさんたち傭兵団、モアさん達、ノアさん、フィンドラの王族たち、ヘルガさんやフロッティさん――さらには敵であるリリスやシルさん、アマンダさんだって僕に色んなことを教えてくれた。人との関わり方から戦場での生き抜き方まで、幅広く。
昔の僕は虐げられていた自分の境遇を嘆き、周りの人を嫌っていた。僕を傷つける奴らが大嫌いだった。
でも今は違う。エルと出会い、僕を認めてくれるたくさんの人たちに触れて、僕は確かに変われたと思うのだ。
例え悪人でも、こちらに牙を向けて来ようと、それはその人を何も考えず排除する理由にはならない。話せば分かり合えるかもしれない。分かり合えずとも存在を認めることは出来るかもしれない。僕にとってエインは前者だと思う。
「だから、信じてほしい。僕は君の本当の顔を知ってる。最初に会った時のシャイで優しげな君が本物だって、僕も信じてるから!」
エインの硬直した両目が緩み、また俯いた。
彼の小さな肩が小刻みに震える。濡れそぼった声の少年は、ありのままの感情を僕にぶつけてきた。
「今まで……そんな風に言われたこと、なかった。母上も――シル様だって僕に自分の気持ちをぶつけてきたことなんて、一度もなかった。君は何なの……僕のためにどうしてそこまで言えるの!? 君と僕は敵同士で、決して交わるなどあり得ない、はずなのに……」
エインに睨まれるが、僕は反対に微笑んで応じた。
「僕は後悔しているんだ。アマンダさんともう少し話せてれば、彼女が死なずに悪魔アスモデウスだけが消える――そんな結果が生まれたんじゃないかって思うんだよ。君で同じことを繰り返したくなかった、それだけさ」
「……僕に特別な感情はないの」
「あまり踏み込んでほしくなさそうだからね。無視してずけずけと踏み入るほど、僕は不躾じゃない」
正直に答える。すっかり伸びた髪をくしゃくしゃと掻き混ぜながら、僕は笑った。
エインの目尻もつられて下がりそうになるが、そこは彼なりの意地なのか目をしばたたかせて表情をキープする。
「トーヤ君に一つ、謝らなきゃいけない。僕は君を騙してたんだ。君はベルゼブブに憑かれたと思って慌ててたみたいだけど、実際は悪魔はまだ僕の手の中にいた。君が勘違いするよう差し向け、自然に悪魔が心に住み着けるようにしたんだよ。でも、君は悪魔を否定してきた。心の内に取り付いたと自認したものを否定し、排除した。……加えて、これだ。ほんと、君には叶わないな」
「えっ……そうだったのか」
最初から悪魔の嘘に騙されてたってことかよ……。よかった、じゃあ僕の身に悪魔が入り込んだわけじゃなかったのか。
僕が安堵の息をついていると、ユーミたちも「言おうとしてたのはそのことだったのね」とほっとしたように言う。
「ベルゼブブの悪器は、僕の髪留めの宝石だよ。君たちの神器で破壊してほしい」
エインは僕たち全員に視線を巡らせ、確固とした口調で告げた。
彼の触角のような前髪を束ねる紐に付けられた、赤い宝石。持ち主の瞳と同色のそれは僕に見られたのを感じたのか、一瞬ちかっと瞬く。
「ベルゼブブ……覚悟はできてるよね」
『認めたかねぇが、他の悪魔同様、オレにかつて奮っていた最大の力はねぇ。悪器という媒介なしには世界に姿も現せねぇ小物になっちまった。それは神々の野郎共も同じだがな……』
ベルゼブブは力なく溜め息を吐いた。宿主であるエインが僕に抵抗する意思をなくした以上、悪魔にはもう何もできない。《悪器》単体で神器と神器使いに敵うわけもないため、ベルゼブブも完全に矛を収めるしかなかった。
『所詮は死に損ないの悪魔、か……。なんというか、虚しいなぁ。喰っても喰っても結局オレの腹は満たされなかった。神も、他の悪魔どもも、魔導士も神器使いも――オレを満足させてはくれなかった』
ベルゼブブは独白する。【暴食】の悪魔は他の誰よりもあらゆるものを『喰って』来たにも拘わらず、未だに空腹でいるのだ。
渇きや飢えが自分にはないとは、僕は言えない。何かを強烈に求めることだって、人間なら誰だって沸き上がる欲望だ。そこは理解している。けれど――行きすぎて他者に危害を加えてしまうのなら、それは罪だ。【大罪】だ。
「僕との戦いでも、物足りなかったのかい……?」
エインの前に跪き、彼の前髪にそっと触れる。腫れ物を扱うような慎重さで僕が彼の髪留めを外すと、ベルゼブブは答えた。
『お前の前世の野郎に比べりゃ、だいぶ甘ったるかったよ。ただ……この新世界で戦った相手の中じゃ、ましな方ではあったなぁ』
それだけ聞ければ十分だ。神とか悪魔とか抜きに戦いの相手としてよく思ってくれたのなら、それでいい。
手のひらの中の赤い宝石を見つめ、僕は内心で呟いた。
大罪は裁かなければならない。神オーディンとテュールに選ばれたこの僕が、神器使いの代表として。そしてエイン・リューズを悪魔の呪縛から解放する者として。
僕は地面に髪留めの玉飾りを置いて立ち上がり、背中に吊っていた剣帯から《魔剣グラム》を抜き放った。
「トーヤ、魔力は大丈夫なんですか」
「平気だよ。この悪器は小さいから、少ない魔力でも破壊は可能だと思う」
心配してくれるシアンに頷きかける。
漆黒の剣を上段に構え、僕はすうっと息を吸い込んだ。
僕がこの手で葬る二人目の悪魔、ベルゼブブ――君とはこれで、さよならだ。
「はあああッ――!」
叫び、同時に神器に闘気を込める。紫紺の炎がグラムの刃を包み、悪器の宝石の表面に光が反射して揺らめいた。
『――――――――!!!』
僕、そしてエインの中に無音の絶叫は確かに届いてきた。
真下に打ち付けた剣は、そのまま赤の宝玉を粉砕する。
刹那、悪魔が有していた魔力の最後の残光が視界を埋めた。だが目を閉じ、開いたときにはもうそれは消えていて、あったのは輝きを失った宝石の残骸。
地面にへたりこんだエインは、乾いた声で呟いた。
「ベルゼブブは、もういないんだね」
「ああ……そうだよ」
「僕の身を満たしていたあの力も、なくなってしまったんだね」
「そうなるね」
「…………」
僕の立場に置き換えたら神器が全て失われたのと同じ。エインが感じている喪失感は、僕にも痛いほど理解できた。
この力をなくした自分に、何ができる? 彼はそう自問しているはずだ。
「エイン、君の魔力は強い。それは実際に剣を交えた僕が一番知ってる。だから、気を落とさないで。君はきっと、一魔導士としてまた立ち上がれる」
エインは僕と同じでまだまだ未熟だ。人から与えられた力で強さを得た、弱い人間だと思う。
でも、弱いということは強くなる伸び代がまだまだあるってことだ。
「私からもいいかい? エインくん、君はリューズといってもアマンダやノエルさんとは生まれが違うんだろう? 君は純粋な、根っからの魔族じゃない。きっと、フェンリルやケルベロスのような、戦うために作られた人間。そうだろう?」
「ご明察。でもなんで知ってるの?」
「神殿ロキでトーヤくんと戦ったとき、君は言ってたそうじゃないか。『僕は何度だって蘇り、君の前に立ちはだかる』と。君はシルが生み出した勇者の魂……あの女を支え、使役されるための存在」
エインはエルの言葉に嘆息し、そして瞑目した。
しばらく沈黙があり、言葉に迷う素振りを見せたが、彼は話を再開する。
「トーヤくん……ありがとう。僕を救おうとしてくれて。僕たちは普通の人間とは違うけど、人並みに生きていけるように、これからは努力するよ」
「どうも。僕のこと、そこまで恨んでいないようで正直ほっとした」
リル君は僕にリベンジするため会いに来たくらいだったが、エインは報復などは考えていないように見えた。
僕が言うと、エインはふっと小さく笑みをこぼす。
「腕をもぎ取られたのは最悪だけど、それ以上に悪魔から解放された安心感の方が大きいんだ。僕の心は鎖でがんじがらめに縛られてた……それがなくなった今、ほんとに気持ちが軽く感じる。それに、さっき散々泣いてすっきりしたし」
この森で再会した当初と、現在のエインの表情は随分異なっていた。文字通り憑き物が落ちた彼の顔は清々しい。
この戦いを通して彼と少しは分かり合えたと思う。エインと和睦して、彼をシルさんとの架け橋にできればそれは大きな前進だ。
「あっ、トーヤ! あれ、見てください!」
と、そこでシアンが声を上げた。彼女が指差す先にあるのは、先程エインが現れた時の空間の裂け目に似た《転送魔法陣》の光。
僕から見て左手、木々の中で頭ひとつ背の高いものの前の空中に出現したあれこそが、神殿オーディンに繋がる《光の門》だろう。
「あれに飛び込めば神殿に行ける。エイン、君も来るよね?」
「うん。シル様に、戦いの結果を報告しなくちゃいけないから」
答えたエインの表情がやや硬くなった。彼は任務に失敗したのだ。シルさんからどんな処分を受けるのか、不安な面ももちろんあるのだろう。
「肩、貸すよ」と僕は肘から先が失われたエインを支えて歩き出す。
唇を引き結んだエインの横顔は、何か決意や覚悟といった感情を醸し出していた。
まずはエルが《転送魔法陣》に乗り込み、シアンたちがそれに続く。
仲間たちが光の中に消えていくのを見つめながら、最後に残った僕は白髪の少年に言った。
「僕はシルさんを殺したいとか、そんなことは一切考えてない。ちゃんと話し合って彼女が何を思っているのか知れば、新しい道は開けるはずだ。戦わずに済むならそれが一番だからね」
「君は……悪魔の勢力を、一概に否定はしないんだね。君の立場なら断固として拒否してもいいのに」
「悪魔が行う悪事は許せない。けど、悪魔にだって人格はある。悪魔に関わる人にも、憑かれた人にも同じように。何も考えずただ否定して、戦うのは違うと思うんだ。相手の主張を聞き入れ、存在を認めた上で説得する。――これが、過ちを犯した僕が精一杯考えて導きだした結論さ」
「過ち?」
「神殿オーディンで、僕は人を殺したんだ」
僕は詳しく話す気になれなかったが、エインもそこは察してくれて追及はしてこなかった。
また、あの場所へ行く。僕が正義を主張し、力を手にし、そして間違えた場所へ。
怖くはない。心は凪いだ水面のように平静だった。
「さあ、行こう」




