8 テュールの魔法
「心をぶっ壊す、ね。アスモデウスもサタンも似たようなこと言ってた気がするな」
「はっ、そうかよ。アイツらと同じにされたかねーが、まぁ同じ悪魔にゃ変わりねぇ。どうしてもそれを求めちまうんだろうなぁ」
悪魔が執着しているものとは、人間の心、精神だ。これまで何度か彼らに触れてきて、僕もよくわかっていた。
色欲、怠惰、憤怒、暴食……人の欲望からなる【大罪】を彼らが司っていることからも言えるが――やはり悪魔を「動かす」には何らかの精神的アプローチが必要なのだろう。
つまるところ、悪魔は人の心と神よりも密接に繋がっており、宿主となる人の心に働きかければその影響も受けやすい。と、いうことにもならないだろうか。
「ベルゼブブ、君について知りたいことは山ほどあるけど、正直お喋りしてる余裕なんてないし、する意味もさしてない。語るとしたら――この、剣で!」
発動していた【蒼炎剣】に、さらに雷の魔力を上乗せする。たぎる炎と爆ぜる雷光。バチバチッ! と大きくスパーク音を立て、僕の《テュールの剣》はエインの《蝿の王の双剣》を弾き飛ばした。
ベルゼブブのことを知りたければあとでシルさんにでも聞けばいい。それに、僕は個人的にこの悪魔が苦手だった。同じ粗野な感じでもヴァルグさんのそれとは違う。覇気がないのだ。暗い、暗い沼の底に引きずり込んでくるような、そんな粘っこい声。
「ちっ、今オレのこと悪く思ったろ」
わかるのかよ! と思わず舌打ちする。だが正直舌打ちどころの問題じゃない。相手の心をベルゼブブが読めるのだとしたら、僕の勝機は限りなく減る。
互いの力が同程度なら相手の動きを読める方が勝つのは当たり前だ。
となると僕が勝つには、何も考えずに戦うか、相手の思考を読む能力を封じるかのどちらかが必要になる。
足で地面を蹴りながら後退したエインに僕はすかさず追い討ちをかける。しかし彼は臆することなく短い呪文を唱え、取り落としたもう一本の剣を呼び戻した。
「戻りな、《悪魔の腕》!!」
僕の刺突攻撃はちょうど目の前に現れた悪器の刃に防がれてしまった。その剣の柄を掴み取ったエインはまた詠唱し、後ろに引き戻した剣を前へ突き出す。
「《屍の血化粧》!」
赤い光の粒が刃の周囲を竜巻のように回転していく。先程から使っていたベルゼブブの付与魔法だ。
僕は咄嗟に《破邪の防壁》を展開、その嵐のごとき爆発力の剣撃から身を守る。
「相手の能力を奪い、思考を読み、物を自在に引き寄せ、優れた付与魔法も持つ……ちょっと属性盛りすぎじゃない?」
「てめーに言われたくねぇな。テュールの剣も十分頭おかしい性能してるぜ」
まあ、確かに。僕自身も驚くほど、テュールの剣は戦いの中や特訓を通して新たな力に目覚めている。こいつはもう誰にも止められない――そう錯覚させるような全能感をこの神器は与えてくれるのだ。
それに振り回され、調子に乗りすぎちゃいけない。油断は敗北を招く、それはアマンダさんが身をもって僕らに教えてくれた。
暴れ狂う赤い光粒が、純白の防壁上に猛烈な勢いで波紋を広げる。激突した剣先から発される魔力は半球形のバリアーの表面をそのまま伝い、地面に流れ去っていった。
魔力の壁越しに僕らは睨み合う。エインの瞳が揺らめき、暗かったその色は再度輝きを取り戻した。
「っ……君、やっぱり強いね。痺れるよ……あれだけ魔力を使った上で、僕の剣で貫けない防壁を生み出せるなんて。いったい、君の魔力量はどれだけあるんだろうね」
――エインが戻ってきた。ベルゼブブは長く表に出ていられないのか、と僕は安堵する。
相手取りやすいのはベルゼブブよりエイン本人だし、彼を救うには彼自身の心に呼び掛けなくてはならない。次にベルゼブブが出る前に、何とか決着をつけたいところだ。
「だけど……僕だって、魔力量では劣らないよ」
キラリ、と一瞬だがエインの髪留めに付けられた青い宝石の粒が輝いた。
その直後、二つの剣に纏う赤い嵐は青く色を変える。
「――――っ!?」
心臓を掴まれ、揺さぶられたような衝撃が僕の脳天から足元までを貫いた。
ゆっくり、しかし着実にエインの二刀は白の防壁を蝕んでいた。青い魔力の渦が僕の魔法の壁を、徐々に剥がし取っている。
ガリッ、ガリッ。白い鉄壁の表層が欠けて剥げ落ち、どんどん守りは薄くなっていき――。
「くそっ、無理矢理こじ開けてくるなんて!」
「あははっ! ベルゼブブなんかより僕の方が凄いんだよ。アイツは技だけさ。でも僕なら、その技をさらに強められる! アイツは僕にとって単なる道具でしかないんだ」
単なる道具、か……勝手に出てきて喋り出すような道具がこの世にあるのかい、エイン?
問いかけながら僕はエインの二刀に、剣を高速で閃かせることで応じた。
二つの剣を繰り出す彼に対して、僕は一本の剣で何とかしなくてはならないけど――遅れを取るつもりは更々ない。
武器を単なる道具扱いする人間に負けるほど、僕は弱くなんかないから。
テュールの剣の声を聞き、剣と一つになること。それが勝利に繋がると信じて――。
「【心を交わし、共に歩む我が戦友よ。汝に願おう】」
神化テュールの最後にして最強の魔法、その詠唱を僕は始めた。
全力のエインの剣を受け、弾きながら。一合、二合……剣をぶつけると同時に高まる鼓動を感じつつ、僕はその剣に祈った。
と、同時にエインも呪文の詠唱を開始する。それはかつて異端者の巨人を葬った、死の魔法であった。
「【我は悪魔の僕、屍より出でし王に告ぐ】!」
「【窮境を明転させし黄金の剣は、輝きをもって輩を導く。黄昏の英雄、これに続き邪悪なる悪魔を滅ぼし去る。今、伝説は再誕する――】」
出し惜しみなしの力の衝突。
僕とエインが踊るのは神速の剣舞だ。一合打ち付けるごとに互いの位置は逆転し、ぐるぐるとまるでダンスのよう。
奇しくも前回の再現という形になったが、今はその状況に感慨を抱いてる場合じゃない。
エインに先に魔法を発動されたら終わりなのだ。この剣戟の中、彼よりも早く正確に詠唱を紡ぎ、魔法を完成させなければ。
「【護るため、救うため、我はこの秘術を解き放とう。神よ――降臨せよ】!」
「【広がるは荒野。燃え上がるは炎。汚れたこの世に死の裁きを】」
あと少し。あと一単語口にすれば完成だ。
しかしそれはエインとて同じ。僕は彼の燃える血の色の眼を見据え、歯を食い縛って剣に全体重を乗せるつもりで踏み込んだ。
突然大きな動きに出た僕に対し、エインはニヤリと笑って地面を蹴り飛ばす。背中の翅が光速ではためき、彼に怪物じみた加速を与えた。
――今だ!
「【武神光斬】!!」
この動作こそ、テュールの魔法を発動する最後のトリガー。
黄金の光を引き、大上段から一切の邪魔もなく剣は振り下ろされる。地面にその切っ先が触れた瞬間、溢れ出した金の魔力光が刃の形を成して地表を抉りながらエインに猛進する。
「【喰らい尽くせ、世界の全て】――っ!?」
エインがベルゼブブの切り札を僕に見せることは叶わなかった。例え後退しようが防御の壁を貼ろうが、僕の光の剣を防ぐことは出来ないのだ。
《武神光斬》は光と力属性の合わせ技。目の前にどんなに厚い物理的な障壁があろうと、この剣はそれを透過していく。
そして――文字通りの「光速」で剣は進むため、横っ飛びで回避できるような代物でもない。
「――――――」
悲鳴を上げる猶予さえ与えない。
僕の放った回避不能の一撃は、エインの肘から先、さらに悪器の二刀をもその光で焼ききった。
何が起こったのか理解できない、白髪の少年はそんな表情で自分の腕を見下ろしていたが――己の身の惨状に気づくと、体から力が抜けて地面にへたり込んでしまった。
「……どうして。どうして……いや、まさか、僕が、負けた……? なんで――」
消し炭と化した腕に、ポタリ、と滴が落ちる。エインの声は震えていた。この結果を認められない、肩をわななかせて少年は僕を見上げてくる。
「ハァ、ハァ……これで、僕の勝ちだよね、エイン。君はもう、剣を振るえない。それに……悪器ももう、使い物にならない。そうだろう」
「うるさい……僕は、僕がなぜ負けたのか聞いてるんだ! そんな文句はいらない……!」
足元に落ちた黒こげの二刀を見てエインは言った。
もう、僕にだって喋る余力はないんだけど――言わなきゃ彼は納得できないだろう。言って納得してもらえなくても、文句は言えないが。
「この魔法は、一言で言えば《回避不能の剣》だ。触れたものを灰塵と化す、光と力の魔力……。使えば今度こそ僕の魔力はなくなるけど、代償としては軽いものさ」
僕も既に限界で、立っていられず地面に片膝をついた。
無言で項垂れたままのエインを見つめ、僕は内心で呟く。
――ベルゼブブ本人が表に出ていてもきっと、戦いの結果は変わらなかっただろう。
魔法の発動は心を読む以前に詠唱で知られてしまう。しかしあの悪魔でもきっと、全く未知の魔法を完璧に防ぎきることは出来なかったはずだ。
変わったとしたら、悪器を手放して魔法の破壊から逃すことくらいか。……それも、本当に一時しのぎの策にしかならないけど。
「君はなぜ、手加減した? あの魔法なら僕を避ける間もなく殺せたはず。それなのに……」
「僕は君を救いたかった。単なるエゴかもしれないけど、悪魔から解放してあげれば君が楽になると思って」
喉の奥から絞り出すようにエインは言ってきた。
僕は彼に気持ちを包み隠さず伝える。エインという人間と戦って、彼の戦いにかける思いの丈を知った。そこから共感を得、彼と再戦したい、彼を知りたいと思うようになったのだ。
しかし今はまだ、エインのことを僕はろくに知らない。だから、殺せなかった。僕のことを好きだといい、僕に興味を持ってくれる人を剣の一撃に伏すなんてもったいない――そんな思考がテュールの剣の魔法から全力を奪った。
「……エイン」
僕はエインに歩み寄る。《神化》を解除し、神器を鞘に収めた僕は白髪の少年の前にしゃがみ込んだ。
エルたちの視線を感じながら、何と声をかけようかと少し考える。
エインは真っ赤な目から静かに涙を流していた。圧し殺した嗚咽。悔しさか、悲しさか、それとも怒りか――大きく揺らいでいる彼の心に自分がずけずけと踏み込んでいいものか、僕は躊躇してしまう。
「トーヤくん」
と、そこでエルが僕の名を呼んだ。彼女の方を振り仰ぐと、エルは安堵と心配の相反する感情がない交ぜになったような顔で続けた。
「今は、何も言わないでおこう。エインくんはトーヤくんに負けて悔しいのもあるけど、悪魔に支配されかけた心が同時に解放されてもいるんだ。彼の精神は良くも悪くも《揺れて》いる。だから、ただ側にいてあげるだけでいい」
僕はエルに頷いて答えた。余計なお節介はするな、という彼女の言葉にはおおむね同意だけど、真っ先にやるべきことはまだある。
「エインの腕――これはどうする? 肘より先が掻き消えて、切り口が炭みたいになってるけど……治癒魔法は壊死した体の部位は戻せないんだっけ?」
「治癒魔法はね。新しく体の組織を作る生命の魔法もあるらしいけど、それは高度すぎて私には使えない。彼の腕を治すなら、トーヤくんの左腕みたいに何かで代用するしかないだろうね」
顎まで垂れてきた汗を手の甲で拭いつつ、僕は短く唸った。代用の腕になりそうなものなんてこの近くにはない。あるのは灰色の樹木だけで、しかしそんなものは使えたとしても長持ちはしないだろう。
彼は本気で悔しがってるのに、僕の方は戦いの昂りをとっくに収めていた。その温度差に瞳を伏せる。
エインに勝てたのはやっぱり嬉しい。けれど、どうしてだろう? ようやく決着をつけたというのにどこか心にモヤモヤが残っている。
この気持ちは、何なんだ――?
『お前の中、案外居心地いいなぁ』
と、その時聞こえたのは粘っこい男の掠れ声。
誰だ――!? 驚愕したが、何とか声に出さずこらえる。
待て。焦るな。この声は耳に聞こえてるものじゃなく……僕の頭の中で響く、何者かのものだ。そしてその者とは、悪魔ベルゼブブただ一人しかありえない。
『トーヤ、今からオレが言うことをよく聞きな。そして従え。それが一番お前のためになるからよ』




