5 古の森、再び
『古の森』。
それはスウェルダ王国北部に位置する、何人も立ち寄らない魔の地として知られている。灰色をした、時の止まったかのような森は、かつて僕とエルを大いに苦しめてくれた。
不気味なモンスター、さらには挑戦者を惑わす幻を見せたりと出来ればもう二度と行きたくない場所だけど――今、僕たちはそんな森にやって来ていた。
「久々だね……相変わらずの殺風景だ」
「人が足を踏み入れないのも頷けますね。動物の気配も殆どありません」
僕の言葉にアリスが同意する。森の南端に立つ僕らは、奇妙な感慨と共に緑を失った木々の群れを見上げていた。
エンシオさんとの試合からは今日で二日が経っている。その間、僕は己の剣技と魔法の鍛練に勤しみ、シアンたちも新たな神器を扱えるようになるべく、エミリアさんのもとで特訓を行っていた。
魔法の練習はシアンたちと一緒にやったけど、手応えはバッチリだ。下地があったとはいえ、初心者とは思えないほど彼女らの飲み込みは早かった。そして僕も、彼女らと魔法を試す中で幾つかの『気付き』を得て――エルが教えてくれた新しい魔法も習得できた。
シルさんと再会して何が起こるのか、まだ予測もつかない。しかし準備は入念にしてきたつもりだ。力を身に付け、魔法や戦闘の知識を手にした僕たちなら、きっと戦いが勃発したとしても対応できる。
「エル、《転移魔法》ありがとね。僕たちがここまで一瞬で来れたのも、全ては君のおかげだよ」
「どうも。……ただ、転移魔法は魔力をやたら消費するからね。ポンポン使えるものじゃない貴重なものなんだ。他の皆もそれは理解しておいてくれよ」
そういや、ジェードが前にふざけて「色んな観光名所に行ってみたい」ってエルに頼んでたな……。
僕が回顧していると、当の本人はややばつの悪そうな顔でエルに「……はい」と返事していた。他の面々が苦笑するなか、僕は皆の先頭に立って、森の中へと一歩踏み出す。
ここに来ているのはいつもの旅のメンバーで、エミリアさんたちなど助っ人はいない。
僕達だけでもう一度この森を攻略し、シルさんの待つ最奥部の神殿まで向かうのだ。
「シルさんは『古の森』にて待つ、それしか言ってなかった。だから一応、この辺にいる可能性もないわけじゃないけど……」
念のためシルさんの名前を大声で呼んでみる。しかし返ってくるのは朝の冷え切った風でしかなかった。
さっと確認を済ませれば、あとは森に突き進むのみ。『古の森』という名の《迷宮》への挑戦――僕はいつものごとく声を上げ、高らかに皆を鼓舞する。
「――さあ、皆! これから僕たちの《迷宮》攻略がまた始まる! 信念を貫き、必ずあの人のもとまで向かうんだ! 僕たちの冒険のクライマックス――自らの手で、勝利と真実を掴む。求めるのはそれだけだ!」
「「おうッ!!」」
僕の言葉にシアンたちは拳を掲げ、叫び返す。皆の表情は引き締まっていて、最高の士気だ。
すっかり定着した《影の傭兵団》の紺色の革鎧を身に纏い、万全の装備で僕らは戦いの始まりの地、『古の森』に足を踏み入れていく。
◆
もう初夏だというのに、森の中を吹き抜ける風はいやに冷たい。
光の差さない曇天の下、生命の鼓動を感じさせない無機質な木々の中を僕たちは歩き進む。
一歩一歩、しっかりと踏みしめて。焦らず、慎重に。
思い返せば、あの時の森の脅威は今の僕たちからしたら何ともないようなものだったけど……これまで何度も言ってきたように《迷宮》では何が起こるか予測がつかないのだ。
油断が敗北を招く――そのことはアマンダ・リューズとの戦いを経たエルに聞いてよく理解している。
「寒い……それに、先が見えないわね。後ろを振り向いても……ほら」
パーティーの最後部についたユーミが囁く。その声を耳ざとく捉えた僕は、ここに来て初めて背後に首を回してみた。
それから目を見開く。僕らが振り返った先には、ただ木が立ち並んでいた。それ以外には何があるわけでもなく、辺りを見渡しても前後左右、同じような風景が続く。
やや焦りを孕んだ口調で言うのはヒューゴさんだ。
「森の《入口》は確かにあったよね……だけど、ここに来て十分も経ってないのにもう見えなくなってる。俺たちは一直線にしか進んでないのに」
「兄上……これは思った以上に厄介かもしれませんね」
これまで、洞窟や山岳地帯、氷の迷路など直接的な《迷宮》を経験してきた彼女らだけど、『古の森』は違う。
この場所は進みづらい道もなければ、行く手を遮る暗闇もない。そこにあるのは普通の森よりも恐ろしい、魔の森だ。この森の中では右も左も同様の光景しかなく、特徴的な形の樹木や根っこ、植物の類も存在しない。
僕たちの方向感覚を狂わせる灰色の世界。僕が最初から『焦らず慎重に』と言ったのは、少しでも心を乱せば途端に判断力が鈍ってしまうからだ。迷ったら最後、永遠に同じ道をぐるぐる回る可能性だってある。
時折目印を付けつつ行くつもりだが、《入口》が見えなくなったようにこの森には魔力が渦巻いている。それがどれほど功を奏すかは不明瞭だ。
「時計は……くそっ、機能しないか。リオ、方位磁石は?」
「ジェード、こっちもダメじゃ。まるで役に立たん」
懐中時計に目を落として舌打ちするジェードに、力なく首を横に振るリオ。
北に直進すれば森の最奥部に近づくので、せめて方角がわかればと思ったけど……。
「このまま前進し続けるしかないね。私たちは南からずっと直進してる。道を曲がることさえなければ、必ず目的地に着けるさ」
エルの言う通りだ。ひたむきに前進、それで大丈夫。
が、しかし――そんな安心感もぶち壊してくるのが《迷宮》というものだ。
「……っ!」
さ、さっ――ごくごく小さな、葉擦れのような音。普通なら風に紛れて聞こえない微小なその音を、精霊の血を引き五感が常人より優れた僕は聞き逃さなかった。
「何か来る! 止まって!」
鋭く指示を飛ばし、剣を抜く。樹木に囲まれた戦場では槍は大きすぎて扱いにくい。《テュールの剣》ならば狭い場所でも存分にパフォーマンスを発揮できるはずだ。
皆も各々の武器を手に背中を預け合う。何が襲い来るか――緊張の一瞬の後、僕らの目の前に現れたのは、やはりあのモンスターであった。
『グルアアアッ!!』
まるで木の陰から湧き出すみたいに出てきたそいつらは、漆黒の体躯の大犬だ。モンスター名は『ブラックドッグ』。凶暴で口から炎を吐き、牙には毒を持つという手ごわい怪物だ。
最初の《迷宮攻略》でもこのモンスターが僕とエルを出迎えた。当時の再現……にはさせない。今回はモンスターに指一本触れさせず完封してみせる。
「行くぞッ!」
先陣を切ったのは僕だ。テュールの剣を持つ腕に意識を集中させ、魔力を込める。
「皆、下がって! くれぐれも巻き込まれないように――」
一瞬エルとアイコンタクトし、指示を出した。
テュールの剣の必殺技――「斬撃を飛ばす」能力をフルに使えば、近くにいる者全てがこの刃に斬られてしまう。
ブラックドッグの瞳が赤々と燃え、その口からも火の粉がちらつき始めた。攻撃の前触れである。
目の前にいる怪物は、三体。決して多すぎる数じゃない。奴らが魔力を溜め終わる前に、決着をつける!
「はああッ!!」
エルたちが全員後退したのを視界の隅に確認してから、僕は鋭く気合いを放った。
テュールの剣を一薙ぎする。ただ真一文字に、余計な力を込めず、自然体で。
白い光の刃が怪物たちを斬っていく――その光景を頭の中で形づくり、魔力を使うことで具現化させる。
『――――――』
悲鳴を上げることも叶わずにブラックドッグたちは絶命した。
彼らの断末魔の代わりにこぼれたのは、これから発射される予定だった炎の残滓。上下に分かたれた顎からぶわっと火炎とガスが吹き上がり、その熱と臭いに僕は鼻を手で覆いながら飛びすさる。
わずかに遅れて怪物の緑色の血液が飛散し、乾いた灰色の地面を濡らした。
「いいスタートだね、トーヤくん。本当に一瞬だった」
「どうも。魔力の調子も完璧みたいだ」
エルに誉められ、素直に微笑む。誇張抜きで最高のコンディションだと、自分でもそう思う。
「流石だな。俺たちも頑張らないと」
「そうですね! 神器使い同士、全力で行きましょう、ジェード!」
ジェードとシアンの獣人コンビも僕に触発されて、俄然やる気を上げたようだ。
いい流れだ。実際最初は不安もなくはなかったけど、この流れなら行ける。
僕はテュールの剣を鞘に収め、皆を振り返った。
「アリス、ここに来てから何分くらい経ったか分かる?」
「あ、はい! えっとですね……大体、20分ほどかと」
答えてくれたアリスに礼を言いつつ、僕は考える。神殿オーディンに繋がる《光の門》。あれを出現させる条件は何なのか、と。
前回のことは正直、無我夢中だったためよく覚えていない。確か、凍える闇に震えながら歩いていた時に両親と妹の声が聞こえ、それから目の前に《光の門》が現れた――それだけはわかっている。
「20分か……。皆、聞いてほしいんだけど、もしかしたらこの森はいくら進んでもゴールに辿り着けないかもしれない」
「そんな……どういうことなんだ、トーヤ君!?」
ヒューゴさんの言葉に小さく頷きながら、僕は説明を続けた。
他の面々の顔も見渡しつつ、淡々と告げる。
「単純に歩くだけじゃ、神様は神殿への門を開いちゃくれないってことだよ。あの時門を潜った僕も、恐らくはマティアスも、死の淵の中で強く願ったんだ。神殿に辿り着きたい――それだけが自分の進むべき道なんだと、命を懸けて。果たして、僕たちは今度も同じように戦えるだろうか……もし、神様が命を懸けて挑戦する者を選ぶとしたら、僕たちは――」
今のブラックドッグとの戦いからして、僕がこの森で苦戦する要素は微塵もないだろう。それはエルたちも同様だ。
既に強者たる者に、神様は力を授けたいと思うのか? 神殿テュールの時とノルンの時とで比べると、僕が三つ目の神器を得られなかった理由も浮かんでくる。その答えは否――神話に多くの神がいたように、戦力として使える神器使いは多い方がいい。
「あたしたちはもう、神様に選ばれにくい……ってこと? でも、そもそも神オーディンの神器はトーヤが手に入れたわけでしょう。攻略を終えた神殿は、新たな挑戦者を受け入れてくれるのかしら?」
「確かにのう。じゃが神ロキの時は、カイの特訓のために転移魔法でもう一度神殿内部に移動したじゃろう? あの時と同じようには出来ぬのか?」
ユーミの言葉を受けたリオに問われ、エルが転移魔法の呪文詠唱を試してみる。
杖を地面に突き立て、白く輝く魔法陣を放射状に展開していくが、しかし。
完成する直前で魔法陣は光の粒となって霧散し、魔法は失敗に終わってしまった。
「……ダメだね。どうやら、この森は力魔法による干渉を受け付けないらしい」
出口の見えない歪められた空間に、力魔法を妨害する神の高位魔法。
神オーディンは神話の中でも最高級に力の強い神様だ。だからこの森にかけられた魔法も、一際強いものなのかもしれない。
と、ここでジェードが根本的な疑問を僕にぶつけてきた。
「というか、さ。シルさんは具体的に森のどこで待つかは言ってなかったんだろ? じゃあ、必ずしも神殿にいるってことにはならないよな」
「まあね。でも、あの人はこれまで何度も神殿の中に直接乗り込んで、僕に会ってきたんだ。今回も同じな気がする」
シルさんは《神》に強いこだわりを持っている、そんな風に感じるのだ。ベルゼブブの《神化》を発動したエインを見た時の声音や、僕を導いた時の態度からして明らかにわかる。彼女は強大な力に非常に執着しており、それがもたらす『何か』を希求している。
その『何か』の意味は不明だが、僕には話してみれば理解できそうな予感がするのだ。オリビエさんは絵空事だと笑い飛ばしたけれど、僕にはシルさんが完全な悪人だとはどうにも思えない。
「トーヤ、あなたのシルさんへの謎の信頼感は何なんですか? まさか、エルさんの姉だからって警戒を弱めてるんじゃないですよね」
そう言われれば、それまでなんだけどね……。
僕はシアンに反論の言葉も思い付かず、口を閉ざした。
獣人の少女は嘆息し、エルたちをぐるっと見回すと肩を竦めて言う。
「…………けれど、トーヤの言うことを否定する決定的な材料もないんですよね。さて、どうやって神殿まで向かいましょうか……」
「困ってるなら手を貸してあげようか」
何だかんだで神殿に行こうというシアンに、やや低められた少年の声が助け船を出した。
手を貸すって、どうやって? というか――。
「えっ? ヒューゴさん……じゃあないですよね」
「お、俺じゃないよ。今の声は俺よりもう少し高かったような」
今の声はいったい、誰なんだ? ここには僕たち以外誰もいないはずなのに、どこから聞こえてきたんだ。
「ふふ、気づかない? 僕はここにいるよ、トーヤ君」
と、その時。
頭上からさっきよりも大きな声が降ってきて、僕たちは空を仰いだ。
木々の切れ間に見える曇天を背景に現れたのは、空間を切り裂く長さ一メートルほどの黒い裂け目。
驚愕の声すら上げられずに見ていると、その空間の裂け目から人の脚がにょきっと顔を出し――。
「なっ……!?」
真っ白い素足に、ひらりとはためく魔導士の黒ローブ。続いて胴体、腕、細剣を持った手が露になり、最後にこれまで二度会った顔がにこりと笑みを投げかけてきた。
「久しぶりだね。来てくれて嬉しいよ」
深紅の瞳と純白の髪の毛は、紛れもないリューズの血を示すものだ。絹のごとき前髪は二本の触角のように結ばれ、彼の有する悪器の異名『蝿の王』を想起させた。
彼は精緻な人形のように整った顔のせいでひ弱な少女めいて見えるが、本当は剣に情熱を燃やすれっきとした戦士である。
「やあ……君の方から迎えに来てくれるなんて、驚いた」
エイン・リューズ。
彼こそが僕と再戦を誓い合った最高の剣士にして、《組織》の首領たる魔女シル・ヴァルキュリアの右腕であり、【七つの大罪】の一つ【暴食】の悪魔をその身に宿す《悪器使い》だ。




