プロローグ ルーカス・リューズという男 (挿絵あり 作中地図)
こんにちは、作者の憂木ヒロです。
作中世界『ミトガルド地方』の地図を作ってみました。
この章から、トーヤたちは物語の核心へぐっと近づいていきます。
佳境に突入する『黄昏英雄譚』第9章、お楽しみください。
少年の声が主に事の結果を告げる。
「報告です、シル様。アマンダ・リューズの部隊が、リューズ商会の本部に帰還しました」
『悪魔教』――神器使い達が『組織』と呼ぶその者たちの総本山に今、シルはいた。
静寂に満ちる大部屋の上座に置かれた黄金の椅子に、魔女は座す。赤のカーペットが敷かれた部屋には窓がないが、魔法道具のシャンデリアが彼女達を白く照らしていた。
玉座さながらの椅子の背もたれに体を預けながら、シルは少年の言葉に「わかっていた」と内心で返す。
――アマンダ・リューズはトーヤ達に勝てない。万一彼女が勝ったとしたら、それはトーヤが贋作の英雄の器だったということ。
ベルゼブブの悪器を所有する白髪赤目の少年エインは、同胞の敗北の次第を淡々とシルに伝える。
あれだけ慕っていたアマンダが倒されたというのに、エインには動揺も悲しみも微塵もないようだった。
「アマンダ・リューズ、並びに悪器アスモデウスは『神殿ノルン』にて戦死しました。さらに不覚なことに、06(ゼロシックス)までもが我々に反旗を翻し、02らと共に行動を開始したようです。シル様、いや……母さん」
触角のように束ねられた長めの前髪の下で、エインの瞳は鈍い光を宿していた。
少年の訴えに、魔女は無言で続きを促す。
「神殿テュールでの戦いを始め、僕たちはトーヤ君たちに何度も敗北を喫しています。ベルフェゴールもアスモデウスも、神器使いの前には結局敵いませんでした。もう、部下たちのみに任せていればいい時期は終わったのではないか――僕はそう思うんです」
シルは自分から戦地に赴くのを嫌う人間だった。だからこれまでも『赤猫』を自らの分身として送り届けてきたし、神殿ロキに直接乗り込んだ際も、自分ではなくエインを戦わせた。
しかし、そうすべき段階はとっくに過ぎていたのかもしれない。
彼女の想定より遥かに早く神器使い達は成長している。こうしている内にも彼らは技術に磨きをかけ、悪魔を討とうと息巻いているはずだ。悠長な対応は組織を確実に蝕み、滅ぼす。――そうなれば、シルが積み上げてきたあらゆる事物は一挙に崩れ去ってしまうだろう。
「そう、ね。……約束の日を明日に控えた今、私もそろそろ腰を上げなくちゃいけないみたい。気づかせてくれてありがと、エイン」
そう言って魔女はにっこりと笑った。
***
ルーカス・リューズはリューズ家当主ノ工ル・リューズの次男である。
ミトガルド地方で最大の商会を築いた父、母亡き後にノエルを献命に支え商人としても優秀な姉を持ち、恵まれた環境で育ったルーカスだが、彼にはある欠点があった。
それは自分に自信がないことである。偉大な家族のもと何不自由ない生活を送ることができ、容姿だって悪くない。スウェルダ一の名門大学では首席。誰もが羨む彼は、他人の評判に反して自身を嫌っていた。
「俺は……強くなりたかったんだ。けれど……足掻いても、足掻いても姉を越えられない。トーヤ君の神器のような力も持ち得ていない。なぁ、ドリス……俺はどうしたらいい? どうしたら、彼みたいに強くなれる?」
リューズ邸の自室で、大きな一人用ベッドに腰かけるルーカスは側に佇む女性に訊ねる。
時間は深夜。枕元の小机に置かれたランプの灯りのみが、二人の距離を繋いでいた。ドリスと呼ばれた金髪のメイド服の女は小さく頷き、彼の問いに答える。
「貴方が己の弱さを嘆くのに徹するなら、その望みが叶うことは永遠に有り得ないでしょう。しかし……貴方がその嘆きさえも力に変えられるようになれば、大きな進歩になります」
女の碧眼はとにかく鋭かった。ルーカスは、幾人の戦士を斬った剣のごとく鈍く光るドリスのその瞳が好きだった。
「そうか……俺の駄目なところは、そこだったのか。中途半端な自分に文句を言うだけで何もできない……そりゃ、進化なんて夢物語だよな。けどな……あの神殿テュールの戦いの後から、俺は怖くて仕方ないんだよ」
「何が怖いのですか? ノエル氏の息子たる貴方が恐れるものなど、私には思い付きませんが……」
暗がりの中でドリスはやや戸惑ったように身を捩った。
ルーカスは彼女を上目使いに見ると、溜め息を吐き出す。
「実際に見ていない奴には分からないだろうさ。俺は、あの少年が……トーヤ君が怖いんだよ。マーデル国でアスモデウスを倒し、ルノウェルスでベルフェゴールをも討った彼の強さがね。彼の成長は止まることを知らない。その牙が、今度は俺に向けられるんじゃないかって思うと、本当に……」
青年の声が震えを帯びて、ドリスは目の前の彼が小さくなったように感じた。俯いたルーカスに一歩近づいて跪き、膝の上で組み合わせられた彼の手を握る。
何か言うべきかと思ったが、その手の冷たさにドリスはしばらく口を開くこともできなかった。
「……ドリスは変わり者だな。リューズ家の闇に気づきながら、俺のもとに居ようと思うなんて。俺といても、悪魔たちと運命を共にするだけだっていうのに」
ルーカスは父と姉が《七つの大罪の悪魔》と《組織》に関わっていることを理解していた。それもかなりどっぷりと浸かってしまっているのも、幼い頃から分かっていた。幼いルーカスはそれについて何の疑念も抱かなかったし、むしろ自分も組織や悪魔のために働きたいと思っていた。
だから。
自分が組織から意図的に遠ざけられている――アマンダの意向でそうされているのだが、ルーカスはそのことを思うと、心の奥底から沸々と熱が生まれてくるのだ。
――俺は戦力にならないというのか。姉さんや父さんからしてみたら、俺なんかは足手まといになるって言いたいのか。
そう自覚してから、ルーカスは自己の研鑽を欠かさず続けてきた。しかし武芸や学問で優秀な結果を残そうとも、父や姉からの評価は変わらなかった。
いつまで経っても未熟な子供扱い。幹部に上り詰めた姉とは異なり商会の要職にも選ばれず、組織に至っては入ることすら許されない。彼が焦りに駆られるのも当然だった。
「貴方には貴方の強みがあります。私はそれを知っているからこそ、貴方に付いているのです。貴方はリューズ家でありながら組織に属していない。悪魔の最も近くにいながら悪魔に与していない――こんな人材、他にはいませんよ」
ドリスの声音はただひたすらに落ち着いていた。
淀みない口調で言った彼女は、澄んだ青の瞳でルーカスを見つめる。すると、青年の眼に光が戻ってくるのがはっきりと確認できた。
どうにかして彼に自信を持たせてやりたいドリスは、間を置かず言葉を続ける。
「それが貴方だけの属性です。『神器使いのトーヤ』ともシル・ヴァルキュリアとも違う、貴方の立場なのです。その立場で何ができるのか……どうか、貴方の意思で考えてください」
「俺の、意思……。ずっと姉を見上げてやってきたから、思い付きそうにないよ。ドリス、お前にいい案はないか……?」
「ダメです。貴方が自分で立ち上がらないと、意味がないんです! いつまでもヘタレでは私も困ります」
それでも仕方ないなと思ってしまう辺り、ドリスはルーカスに甘いのだろう。彼を支えることが彼女の今の生き甲斐なのだ。組織や悪魔など、末端のメイドには何の関係もない。ただ、ルーカス・リューズという一人の男性が好きなのだ。
「……俺の意思、か」
上半身をベッドに仰向けに倒し、ルーカスは繰り返した。
それから布団にごそごそと入ると、右手だけ出して手招きする。
青年もまた、ドリスという女を愛していた。ドリスはルーカスが15の頃に勤め始めたメイドで、年も近く互いに気を引かれる部分がその当初からあった。しかし、こうして会う関係になったのはごく最近、トーヤ達が邸を出ていってからのことである。あの少年少女たちが自らの元を離れたのを埋め合わせるように、ルーカスはドリスを求めるようになった。
「いつも、すまないな。嫌だったらいつでも遠慮なく言ってほしい。強要はしたくないんだ」
「いいえ……私などで満足していただけるのなら、いつだって側にいます。何度も言いますが、私は貴方を本気で愛しているのです」
眉を下げて言うルーカスに、ドリスは胸の前で両手を振る。
彼と共に過ごす夜は、どんな宝石にも代えがたい情熱的で甘美な時間だ。永遠に続けばいいと思えるほど、魔族たる彼は不思議な魔力でドリスを深く魅了してくれる。
と、ドリスがメイド服を脱ごうとエプロンの紐に手をかけた、その時――。
「ル、ルーカス様! 大変です――って、きゃあっ!? ご、ごめんなさい!?」
バタンとドアが開き、慌ただしい少女の声が部屋中に響き渡った。
これから夜が始まるっていうのに――と舌打ちしかけたが、使いの少女の切羽詰まった様子は流石に見過ごせない。勢いよく閉められたドアの向こうにすかさず声を投げ掛け、訊く。
「待ちなさい、プレーナ!! 何があったのか、話を聞かせなさい!」
「大丈夫、まだ『事前』だ――恥ずかしがらず、入ってこい」
ルーカスは上半身をがばっと起こし、妙に堂々とした調子で言った。
その声に安堵したのか、ドアが少し開いて少女の猫耳が隙間から覗く。が、遠慮がちに顔を出した黒髪の獣人メイドは、ルーカスを見たまま口を開くことをしばし躊躇していた。
「どうしたの、プレーナ……?」
ただ事ではない。それだけは確かだが、言われないと何も分からない。ドリスがなるべく優しい声音になるよう努めて訊くと、猫耳のプレーナは涙混じりの震え声で答えた。
「あ、アマンダ様が……アマンダ・リューズ様が、神殿ノルンにて、お亡くなりになりました。彼女を殺したのは、トーヤ君だと――モアさん達が、言いました」
自分の中で何かが激しく崩れ落ちる音を、ルーカスは聞いた。




