41 新たなる道へ
アマンダとアスモデウスを倒し、迷宮最後の番人である《氷の異形》もリルたちによって死んだ。
激闘を経て満身創痍になった僕は、しばらく動くことも出来ずにその場で膝を突く。
周囲を見ても、まともに立っていられている者の方が少なかった。シアンたちはもちろんのこと、リルやヨル、ケルベロスも疲労の滲む表情で座り込む。ただ一人、ノアさんだけがエルの前に立って小瓶の薬の蓋を開けていた。
「これはとある不死鳥から採取した血液から作成した、特別な薬品だ。一滴あればどんな傷でも瞬時に元通り。これが、最後の一滴だ」
「そんな薬があるんですね……! しかし、あと一滴って……本当にいいんですか!?」
「エルにはかつて世話になったからね。あたしなりの恩返しってことにしといてくれ。……それに《時》の薬はあたしの体力と魔力をちょっと犠牲にすれば、いつでも継ぎ足せる」
僕は、目の前でたちまち生えてくるエルの両腕に驚愕する。
不死鳥なんて伝説の存在に過ぎないと思っていた僕に、その薬はあること自体が一種の感動を覚えさせてくれた。
ノアさんはそんな僕へ笑みを向けたけれど……その瞳がどこか物悲しいものだったのは気のせいだろうか?
「ノアさん。あの、ノアさんは……」
「しっ、トーヤ。神が来るよ」
か、神だって!?
尋ねようとした言葉を遮られ、耳を澄ませる。
するとノアさんの予告通り、勇ましい女の人の声が頭の中に凛と響いてきた。
『我らが迷宮に挑みし者よ……聞くがいい。我が名はスクルド、未来を司る運命の神!』
運命の女神ノルンの三姉妹の内、末っ子にあたるのがスクルド様である。
彼女の声はどうやらこの《最奥の間》にいる全員に届いているようで、リルたちやヴァルグさんたちも顔を上げて一様に驚きを露にしていた。
彼らの反応を観察するような僅かな間があり、そしてスクルド様は話し出す。
『《氷の異形》を破り、更には悪魔アスモデウスとその使い手までも討伐したようだな。感心だ。――さて、未来に突き進むお前たちの信念、存分に見せてもらった。その力を認め、神殿の床を踏むことを許可しよう! ……そこに出現した魔法陣に触れれば、すぐに我が居城に移れるぞ。では、待っている』
期待に弾む声音でスクルド様は言った。
彼女のその台詞の直後、この部屋のちょうど中央に半径2メートルほどの円形の魔法陣が描き出され、紫の輝きを放つ。強烈な存在感を持つ魔法陣は、神殿オーディンやテュールで見た黄金の光とは雰囲気が異なっていた。こっちは何だか、硬い意志に似たものが込められているのを感じる。
「エル……ようやく、神殿ノルンに入れるよ。君や皆がアマンダさんと戦って打ち勝ってくれたから、ここまで来れたんだ」
緑髪の少女の頭をそっと、僕は自分の膝の上に載せた。彼女の柔らかい髪を、ゆっくり手ですくように撫でる。
腕組みしつつも穏やかな表情のノアさんは、エルの寝顔を眺め、彼女の活躍の様子を語ってくれた。
「この子がアマンダの大魔法を一身に受けなければ、あたしたちはあいつを倒せなかっただろう。あたしが同じことをやれと言われても、きっと無理だよ。炎に焼かれ、魔力に肉体を引き裂かれる痛みは……多くの場合、長く耐えられない。しかしエルは、アマンダの魔法を最後まで受けきったんだ」
僕がリルに腕を持っていかれたときより遥かに大きな苦痛を、エルはこの戦いの中で全身に受けていたのだ――。
「無茶、し過ぎだよ。心配かけて……ばかやろう」
傷と泥にまみれた少女の頬に、水滴が一粒こぼれ落ちる。
エルはアマンダさんの攻撃を一人で止めて、そのために《マインドブレイク》状態に陥ったのだ。体内の魔力が許容量の限界を迎えると、精神が消失し、しまいには肉体までもが吹き飛んでしまう――魔法使い同士の対決で起こりうる事態として、僕はエルにそう教わっていた。
決して悪魔に憑かれる筈のない彼女がアマンダさんに支配されてしまったのは、彼女の心が失われていたから。アマンダさんが消えた今も、それが変わることはない。
「エル、エルっ……君がいなくちゃ、僕は何もできないよ。僕たちは二人で一つって、決めたじゃないか……ねぇ、エル……」
誰か、これを嘘だと言ってくれ。実は夢の中で、本当は起きたらエルが笑って「おはよう」って言ってくれる……そうだったら、どれだけいいか。
彼女と共に過ごした時間、共に得た仲間、共に浮かべた笑顔の数々……かつての世界から現在まで、心を共にして愛し合った少女との思い出が、次々と胸に去来しては泡沫のように弾けてなくなっていく。
それに反して涙は止めどなく溢れて頬を伝い、ぼろぼろと流れ落ちる。
「エル、エル……。誰でもいい、僕をこの夢から連れ出してくれ。シアン、アリス、ノアさん、リル君……どうか、僕をこの悪い夢から――」
「これは現実だよ、トーヤくん」
え……?
彼女の声を忘れたことなんて、一度もない。今、聞こえたのは紛れもなくエルの声だ。
でも、エルは《マインドブレイク》で……。
「私は『転生者』のエル。君が世界に生きる限り、何度だって会いに行く。それが私の決めた運命だから」
ぱち、ぱち。瞬きの後、少女の翠の瞳は僕を見つめていた。
見る人を引き込む魔力を宿し、きめ細やかに輝く宝石のような瞳。あの光が……エルという少女が、この身体に戻ってきたのだ。
エルは微笑み、一瞬にして完治した右腕を伸ばすと僕の濡れた顔に触れる。
「泣かないで。君は笑顔が一番似合うんだから」
そう言われたけれど、無理だった。胸の奥から熱いものが込み上がってきて、嗚咽となって僕の中から出ていく。
「エル、君が生きてて……本当に、よかった。ぼ、僕、もうダメかと……」
「終わりよければ全て良し、さ。アマンダもアスモデウスも死んで、私たちは生き残った。それで十分さ」
彼女は僕の目から溢れた涙を指先で拭い、満面の笑みを浮かべた。
泣いてばかりじゃいられない。僕もエルに笑顔を返すと、こちらに駆け寄ってくる軽やかな足音が耳に届いてきた。
「エルさん! 一時はどうなるかと思いましたが、全員が無事で一安心です!」
「ああ。どんな気まぐれかは知らぬが、私たちの斬られた体も元通りになっておるしな」
シアンとリオは快活な口調で言う。悪魔に憑かれていた時の闇は完全に取り除かれ、いつもの明るい彼女たちがそこにいた。
対して顔を俯けているのは、ジェードとユーミだった。彼らは僕に牙を剥いたことについて、頭を下げて謝罪する。
「トーヤ……操られていたとはいえ、俺たちはお前を襲った。……悪魔に勝てなくて、ごめんな……」
「あたしたちの心が弱かったから、あいつの言いなりになっちゃったのよ。ごめんなさい、トーヤ。あたしたちはあんたを傷つけてしまったけれど……どうか、許してほしい」
チクリと心が痛む。
彼女たちは被害者だ。自分の意思ではなく悪魔の洗脳によって、僕に敵意を抱いたのだ。それに――。
「君たちは僕を散々疲れさせたとはいえ、殺してないし怪我すらさせてないじゃないか。それといった実害もないし、僕は君たちを責めたりなんかしないよ」
何より僕たちは家族同然の特別な仲間だ。そんな間柄の彼女らを許さずに遠ざけるなど、僕にはできない。
そうするくらいなら、これから悪魔にどう立ち向かうのか考えた方が実るものもある。
「トーヤ殿……」
「ありがとう。君は優しいな、人を憎むことを知らない」
「あはは……。ヒューゴさん、僕があなたたちを憎むなんて、絶対ありえませんよ。どうして大切な家族を恨めるんですか」
それもそうだな、とヒューゴさんは目を細めた。
と、笑みを交わす僕たちに《怪物の子》たちが声を掛けてくる。
「おい、トーヤ! 俺たちは先に行ってるぜ!」
「神器はあたしが手に入れますから! こーいうのは早い者勝ちよね」
「そんなんで決まるものかしら……? まぁ、私は別にそこまで欲しくもないけど」
前へ突き進みがちな彼ららしい台詞だった。
ヨルの言う通り、神器は早い者勝ちじゃなくて神様が渡す人を決めるんだけどな……。
けれども僕がそれを口にするより先に、三人の怪物たちは紫に輝く魔法陣に足を踏み入れ、一瞬のうちにこの部屋から姿を消してしまった。
「慌ただしいガキどもだな、全く。しかしお前らが無事で良かったよ。あの恐ろしい悪魔相手によく勝ったもんだ。素直に俺は感動しちまったよ」
「凄かったわ……あたしたちが介入する余地もないくらい激しい、究極の魔法対決だった。君たちもあの緑髪の女の人も、あたしたちよりも遥かな高みにいるんだって分かったわ」
頭を掻きながら《氷のドーム》跡の向こうからやって来たヴァルグさんが唸った。
リリアンさんも僕たちへ称賛の言葉を贈り、特に僕にはウィンクを投げ掛けてくる。
「――どうやら命拾いしたようですね……。一度は死を覚悟したものですが、私はまだ死ぬべき時ではなかったのですね」
そう呟くのは、崩れたドームの尖った破片の根元に座り込むモアさんだ。彼女もまた、ノアさんの《不死鳥の薬》で命を繋いだ一人である。失った両脚はすっかり元通りになり、新しく生えた陶器のような白い脚が外に晒されている。
ヴァルグさんたちも神殿へ行くんですか? ……なんて、野暮な質問だよね。ここに来た以上、神器を得られる可能性があるのなら誰だってそれを望むのだから。
そうなると、結構な倍率になっちゃうけど……。
「で、あんたらはどうするんだい? 一緒に来るの?」
よく通る大きな声で、ノアさんがアマンダ・リューズの元部下の面々に訊ねる。
この部屋にいる者は今、大多数が女神スクルドの魔法陣の周囲に集まっている。その中で彼らだけは、肩身が狭そうに隅っこに引っ込んでいた。
ノアさんの力を知っているらしい彼らは何だかびくつきながらも、はっきりと答えを出す。
「我々に神器を得る資格などありはしません。共に行くなど……神がお許しになられないでしょう」
「待って、資格がなくても神殿には向かうべきだよ! じゃないと私たち、帰れなくなっちゃう!」
「そういえばそうだったな……。歩いて元の道を戻るのは、流石にごめんだ」
獣人の男性がかぶりを振るが、シェスティンさんとベアトリスさんは反駁した。
だけど彼女たちがついて来ることについて、決める前に一つ訊ねておかなくちゃならない。
「ベアトリスさん、シェスティンさん……。貴女たちは悪魔に荷担する意思は持ってないんですよね? 洗脳も、今は解けているようですし」
「当たり前だろ! あんな化け物、二度と関わりたくないくらいだよ。
――言い訳にもならないかもしれないけど……あの女に来いと言われて、あたしたちはどうしても断れなかったんだ。あの女の魔力がそうさせた。結果的には悪魔は死んだけど、もしあいつが勝ってたと思うと――本当に、あたしたちは悪魔の力を増大させるところだった。あいつに抗えない、不甲斐ない女で……すまなかった」
ベアトリスさんは自分の弱さを悔い、深く頭を下げた。シェスティンさんも、部隊の他の亜人たちも同じだった。
僕はそんな彼女らに、なるべく明るい声音になるよう努めつつ言った。
「さっきも言ったことですけど、終わり良ければ何とやらです! 反省会は元の世界に帰還してからにしましょう。ケルベロスたちが向こうで待ってますし、僕たちも早く移動した方が良さそうです」
彼女らの側まで歩み寄り、手を差し伸べる。かつてシアンやジェードたちにしたように、暗闇に囚われていた彼女らを僕はそこから引き出してあげたかった。
「トーヤ君……私たち、ここを出たらリューズ家とは縁を切る。それから新しい生き方を探すよ。少数派でもやっていけるって、君たちが示してくれたから……」
前を向いて進みだそうというシェスティンさんに、僕は頷いて応えた。
戦いが終わり、一人の魔女と悪魔の死を経て僕たちは変化していくのだ。苦難に打ち勝った者、そうでなかった者――それぞれが新たな道へまた一歩、踏み出す。
「トーヤくん! 行くときは一緒だからね。手、繋いで行こっ!」
「う、うん! わかったよ――じゃあ皆さん、僕たちの後に続いてください!」
魔法陣の傍らにいるエルたちの元まで駆け戻り、少女の手を握ってその温もりに思わず笑む。互いの温度を通して、僕たちは体も心も共にあるのだと実感した。
紫に目映く立ち上る光に飛び込み――もう何度目かの浮遊感を心地よく覚えながら、僕は瞳を閉じた。




