40 魔女の終焉
「ヨル、見つけたぜ。この化け物の《核》は、やはり地中にある。ドームのちょうど真下、地下二十メートルはありそうだ」
自慢の鼻で怪物の本体の眠る位置を探り当てたリルは、同胞である少女にそう知らせた。
青い髪と瞳の美しい少女は頷き、眼前の氷のドームを睨み据える。
「リル、核の大きさと形は?」
「直径五メートル程度の球形の結晶体。素材はあのドームと同じだな」
トーヤはヨルに言葉を残さなかったものの、彼が言いたかったことは分かっている。
世界蛇の毒を地面に染み渡らせ、怪物の本体を仕留める――それがヨルのやるべきことだ。
造作もない。ただ危惧するのは、自分が毒を生み出すことで正体が発覚してしまわないかどうかだが……これも、ヴァルグらがここに押し寄せて来る前に済ませるまで。
「【あまねく生命を停滞させ、我が糧とせん】……。【世界蛇の呪毒】」
誰にも聞き取られないほどの最低限の声量で、ヨルは詠唱した。
手のひらの中に紫の液が一滴、現れてぽたりと落ちる。地面に黒い小さな点を描いて染みていく毒を見下ろしながら、ヨルは背後から近づいてきた男たちに言った。
「あのドームに近づかないで! あれはしばらくしたら脆くなる。そうなればリルが穴を開けて突入するから……皆さんは、彼に手を貸してやってください」
「お、おうよ。始終は奥から見てたから、理解できたけどよ……ヨル、お前ドームに何を細工したんだ? 魔法の類いにも見えなくはなかったが」
ヴァルグの問い掛けに、振り返ったヨルは懸命な苦笑いで応じた。彼女の念を察したのか、二刀の剣士はそれ以上訊ねることはなかった。
その直後、ドームの向こうから強烈な魔力の波動を感じ、ヨルは瞠目する。
ぶわっと二の腕が粟立ち、脚が震えた。何という力の大きさ――このドームを挟んだ先では、大魔法使い同士の熾烈な戦闘が行われているのだ。
「大丈夫……あの緑髪の魔導士が、色欲の魔女なんかに負けるはずはないのだから。私はただ、彼女らの帰還をここで待つだけ」
エルはかつて怪物としてヨルが戦った相手だ。だが今は、彼女への恨みも怒りもない。あの時あの場所でぶつかり合うことは、怪物の子に生まれた自分の運命のようなものだった。
なるべくして起こった戦いの結果、どうなろうがヨルに思い残したことはない。戦士として再戦したい気持ちはあるものの、敵としてのしがらみは既に彼女からは取り払われていた。
「あの時――私は、どれだけ痛め付けようとも立ち上がる二人の闘志に、心の底から震えた。情熱的で、刺激的な彼らがあの瞬間から私を変えたの」
誰に言うともなくヨルは囁いた。
その言葉を隣で聞くリルは、少年の戦意にたぎる黒の瞳を思い起こす。彼のようになれたら……戦いの先にある何かを、知ることが出来るのだろうか?
「オレ達って、案外変わりやすいものだったんだな。前はずっと戦う機械でしかなかったのに……。ようやく、人間らしくなれた気がするよ」
自分を組織から切り離してくれた、その意味でリルはトーヤ達に感謝している。
彼らがもし自分達の力を求めるなら、手を貸したい。彼らの近くで何かを学び、一人の人間として成長したい。
氷のドームの床側に亀裂が一筋、ぴきりと走った。そこから罅はゆっくりと放射状に広がっていく。
「行くぜ、氷のバケモン――」
――最初にひび割れたあの場所を、力魔法《神速》を絡めた槍の一撃で貫き壊す!
ヨルとリル、二人の能力を融合させれば必ず突破できる。そう、少年は信じた。
白い光を全身に帯びたリルは、その身を狼の獣人のように変化させ、氷の障壁へ突撃する。
*
「はぁ、はぁ……! くそぉッ!!」
これまで、僕は色んな怪物と戦ってきたし、多くの敵と剣を交えてきた。その戦いの数々は厳しく、命を削る過酷なものもあったが――今この時の辛さと比べれば、何てことはなかった。
「リオ、ごめんッ……!」
純白の風を纏い、唸るリオの木刀。迫り来るエルフの愛武器を神器《テュールの剣》で僕は受け止めた。
そして頭の中で強くイメージする。黄金の剣が深紅の火炎を放ち、目の前の木刀を燃やし尽くす様を。
「はあっ!!」
いつだかエルが教えてくれた無詠唱での魔法の発動を、僕はこのとき成功させることができていた。
それに感慨を抱く暇もなく、仲間の大切な刀が灰塵と化していく光景を見送る。
刃と刃を交わした二つの武器の対決は、テュールの剣がエルフの木刀を一方的に燃やすことで決着した。
「あのお方のためにィ――!!」
甲高い絶叫と共に、少女たちは次々と僕に襲い掛かってくる。
リオが武器を失ったのを見ても怯みやしない。いや……悪魔に戦闘を強制される彼女たちは、怯んでいたとしても走る足を止められないのだ。
「あの魔法を、もう一度……!」
僕はリオの襟首を掴んで地面に引き倒し、剣先を彼女に向けた。
ケルベロスの動きを拘束するのに使用した【氷精霊の奥義】を再び発動すれば、この戦闘は終わる。だけど――。
「精霊よ、僕に力を! 精霊よ!」
呼び掛けても、答える声はない。
彼らは力を扱いきれない者には力を授けてくれないのだ。さっきから神器の技を連続で使っている僕の魔力は残り僅かで、精霊の大魔法を使うにはあまりに力が枯渇している。
僕は一瞬の間に唇を噛み、顔を上げた。
もう《神化》は使えない。この剣一本のみで少女たちの攻撃を捌き、何とか耐えなくてはならないんだ。
「負けないよ……かかってこい」
シアンたちも僕と同様に、旅の中で強くなった。そんな彼女たちの戦闘の技の集大成が、悪魔によって容赦なく僕へと繰り出される。
ならばもう、それを全力で受けるだけだ。結果として僕の体がどれだけ傷つこうが構わない。
炎、風、雷。三つの属性、五つの技。
前後左右から刹那にして間合いを詰めた五人の攻撃に、僕はテュールの剣を神速で振るうことで応じた。
一秒が永遠にも感じられる中――僕はシアンの蹴りを剣の柄で弾き、アリスとヒューゴさんの矢が身に触れる前に刃で受け、そしてユーミとジェードの雷の砲撃は咄嗟に地面に伏せることで回避する。
「……はあ、はあっ……エル、戻ってきて――」
息つく間もなく攻撃は続行される。
床から起き上がった僕を、ユーミたちの雷撃が執拗に追いかけ、シアンもまた僕の逃げ先を予測して炎を打ち出してきた。
いつの間に、魔具から魔法を撃つ術を習得したんだ!?
驚きつつ、僕は彼女たちが予想以上に成長していたのだと認めざるを得なかった。
力を増したとはいえ、彼女たちは神器も何も持っていない一般人だ――正直僕は内心でそう侮っていたのだ。だけど、違った。戦士の強さの全ては武器で決まるものじゃない。戦いにかける信念、修練で身に付けた技術、さらにはその一瞬の運までもが強さの一因となる。
武器が神器でないだけで、技術面で彼女たちは僕と同じ土俵に立っていたのだ。神化がなければ肉体の力だって殆ど変わらない。ジェードなんかはもしかしたら、本気で殴り合えば僕を倒せるくらい強いのかもしれない。
「それでも、僕はこの運命に勝ってみせる。これが女神様の試練だと言うのなら……最後まで足掻いてやる」
僕は、どこかから見ているだろう女神様達に吐き捨てるように言った。
シアンたちの追撃を、曲芸のごとき動きで避けながら走って逃げる。カッコ悪くてもいい。シアンたちが疲れきるまで、こうしてやり過ごすんだ。
小柄な僕だけど、根性なら誰にも引けを取らない。悪魔が仰天するほどしつこく、粘り強く凌いでみせよう。
*
剣劇の最中――。
どす黒い粘液がエルの目や鼻、口から溢れ出す。こぼれたそれは彼女の周囲に浮遊し、主を守るように取り囲んだ。
「あの液体は……!?」
何なのか、ノアには見当もつかなかった。
剣を突き込もうとしたところでエルの身を守った液体のベールに、女は攻撃を躊躇する。
刃を握る右手を素早く引っ込めたノアは、剣をエルに向けたまま呪文を短く唱えた。突進する脚は止めず、胸の前の剣が壊れんばかりに握りしめる。
「【吹き荒れろ、嵐よ】! 《大神風》!」
先ほどアマンダ・リューズの肉体を吹き消したのと同じ魔法である。
小さくも激しい風が巻き起こり、エルの体を覆い隠した黒いベールを強引に剥ぎ取ろうとする。風が触れたベールは一部が剥がれ落ちるも、全てを消滅させるまでは及ばなかった。
「剣での勝負ではなかったか、アマンダ・リューズ?」
「この体は鎧を着ていないから、防御の技を使ったまでよ。それに剣で決着をつけるつもりでも、補助魔法を使うのは当たり前のことでしょう?」
アマンダの発言は理屈としては通っている。ノアは魔女に沈黙で応じ、剣に宿した風の範囲を全身に移した。
肉体の動きを加速させる風の《付与魔法》。それに合わせるのは、彼女の得意とする属性の一つである水の魔法――。
「【我は方舟の使者、この世の摂理を司る汝に祈る。その音を響かせ、その蒼き救いを世界にもたらしたまえ】」
蒼い水が白銀の剣を彩る。渦巻く風に混ざった水流は風の冷気にたちまち凍りつき、氷の刃と化した。
ノアの剣の一振りで、幾つもの氷刃はエルの身を借りたアマンダへと飛来していく。
空気を鋭く切り裂く刃に対し、アマンダは不敵な笑みを消すことはなかった。
杖を軽く振るだけでノアの技を瞬時に跳ね返し、自らの身が一切傷つかないまま敵の攻撃を利用してしまう。
「フン、そんなもの……私に通用すると思って?」
「思っていないさ。これはただの――」
無表情を変えることなく、ノアは呟く。
その言葉を怪訝に思ったアマンダは何かがある、と察したものの、遅かった。
「――時間稼ぎだよ」
背後から轟く爆音に、アマンダは振り返ることもできなかった。
氷のドームの崩落音に混じって聞こえるのは少年と少女の咆哮。雄叫びに乗せて放たれた二人の牙が、魔女の小さな両腕の根本に食らいつく。
「ぎぃやぁあああああ!?」
流石の魔女でも、腕を噛み千切られた痛みに絶叫していては状況への対応などまともにできようはずもなかった。
地面を削りながら停止した二人の怪物の子は、エルに憑依したアマンダに体ごと向き直る。全身をわななかせて欠損した肉体を見下ろす魔女へ、少年は言葉を吐きかけた。
「あんた、アマンダ・リューズだよな? 前から言おうと思ってたんだけど、オレ、あんたのことがずっと嫌いだった。漠然とした感情だったけど、その理由も今わかった」
まともに立つことも叶わず、アマンダは地面に転がり伏せた。
そんな魔女を見下しながらリルは続ける。
「あんたは傲慢すぎるから……かつてのオレ自身と重ね合わせて嫌ってたんだ。トーヤやエインとは違って、あんたは自分の力量を過信しすぎた。一人で全てこなせるのだと、思い込んでしまった」
「あたしからも言わせてもらっていいですか? ――今の貴女、ほんっとうに無様ですわよ」
訥々と告げるリルと、不快感を露にするケルベロス。
獣の姿を晒す二人に、アマンダはこの時初めて「恐怖」という感情を抱いた。
――殺される。人の心を持たぬ化け物に、私は殺される――。
「【な、汝が】――」
呪文を唱えて身を守ろうとするも、口許が震えて上手くいかない。失神寸前の痛みに懸命に耐えることがやっとだった。
いっそ、気絶してしまえば楽になる。しかしそれは《アマンダ・リューズ》の本当の死にほかならない。
「ノアさん! それにケルベロス、リル君! エルは……!?」
神化も既に解け、全身ボロボロとなったトーヤをアマンダは見た。
少年の目が彼女を確認して見張られる。黒髪の彼に寄り添い、ノアは落ち着いた低い声で言った。
「大丈夫だ。あの娘の腕は私が治せる」
トーヤは無言だった。自らがフェンリルに腕を食われた時のことを思い出して、彼は顔を歪める。
労るような視線を少年へ向け、ノアは訊ねた。
「あの少女たちは、無事か?」
「ええ……。さっきのエルの絶叫と同時に、僕への殺意もぴたりと収まりましたよ。あとは、アマンダをエルの身体から追い出すだけ」
トーヤは汗で額に張り付いた髪を払いながら、黄金の剣を携えてエルとの距離を少しずつ詰める。
彼は至って冷静であった。アマンダ・リューズ、そして色欲の悪魔との決着をつけるべく、少年は強い信念をもって剣を持つ。
「悪魔の力がこの地にあるには《依り代》となる《器》が必要になる。今、アスモデウスが宿っているのは恐らく……《精霊樹の杖》だ」
愛する気持ちを込めて自分がエルに贈った、大切な杖。
これを壊さなくてはアスモデウスの力は失われず、肉体を失って精神体となったアマンダを排除することもできない。
「アスモデウス……僕と話をしよう」
魔法を使う上で、精霊樹の杖は何にも代えがたい業物だ。以前アスモデウスが使っていた指輪より、遥かに優れている。
きっと気に入ったのだろう、と思いつつトーヤは悪魔に呼び掛けた。
するとエルの口ではなく、手放されて床に落ちた杖から刺々しい女の声が発せられる。
「会うのは二度目だな、トーヤ。私を討つつもりか?」
「そうだよ。君たち悪魔を野放しにしてはおけないからね」
「お前たちはいつもいつも……この世界でもやはり、邪魔をするってのか!」
「…………」
トーヤは杖とエルを睨み付ける。
エルの肉体に憑いたアマンダは、ここでは何も言うまいと決めていた。必死に激痛を凌ごうとする女は、なおもしぶとく打開策を求めて頭を回転させる。
しかし、少年がアマンダのその考えを読まないはずがなかった。
「――アマンダさん、あなたはもう終わりだ。ここには僕とノアさん、リル君、ケルベロスがいる。シアン達も悪魔の手から離れ、ヴァルグさん達だって今にもここを囲い込もうとしている。逃げ場なんてどこにもないんです」
地面に倒れるエルに馬乗りになったトーヤは、鼻と鼻が触れるほど彼女に顔を近づけて言った。
両腕を奪われ、さらにこうして肉体の動きも制限されれば、アマンダの逃走は完全に不可能。魔女はそう認め、最後の足掻きも諦めた。
「私の負け、ね。……まさか、ここまで追い詰められるとは思わなかったわ。私は君を倒すことだけを考えて、この神殿に臨んだけれど――敗因はきっとそれね。戦場にある者全てを見なかったこと……マミーや怪物の子たち、この地に棲む精霊たち、私の魔術に懸命に抗ったシアンたち……彼らの力も合わさって、私という一人の魔女を破れたのね」
赤い瞳がトーヤの漆黒の瞳を覗き、細められた。
本当なら手を伸ばし、激闘を戦い抜いた少年の頭を撫でてやりたかった。姉のような気持ちで接した日々を思い返し――あの時が永遠に続けばよかったのに、とアマンダは叶わない望みを胸に抱く。
「計画通りに事が運べばシアンたちは容赦なく貴方に襲いかかり、貴方は死んでいる筈だった。けれど、そうはならなかった。貴方を想うあの子たちが、本気で貴方を殺そうなんてするわけがないものね。――いい仲間を持ったわね、トーヤ君。彼女たちをこれからも、大切にするのよ」
言うだけ言って、アマンダは目を閉じた。
少年の息遣いを間近で感じながら、彼の言葉を待つ。
トーヤは己のあらゆる感情を殺し、剣の柄をぎゅっと強く握り締めた。エルから視線を外さないまま彼はリルたちに指示を出す。
「《精霊樹の杖》を」
「……ああ」
杖の一番近くにいたリルがそれを拾い上げ、トーヤに放って寄越した。
銀の左手で受け止め、立ち上がったトーヤはエルから数歩離れる。《精霊樹の杖》を足元に置き、少年は黄金の剣を逆手に構えた。
「さよならだ、アスモデウス。君との最初の剣戟は正直楽しかった。素晴らしい剣士だと、あの時は思ったよ」
「思い出話などするな! 過ぎた話など要らない、今の私を見ろ! 私は、私は――」
一方的にトーヤは悪魔へ別れを告げる。
輝きに包まれる剣を見上げ、アスモデウスは焦燥に駆られた声で叫んだ。振り下ろされるそれを見ていることしかできないまま、悪魔の最後の声は《悪器》の砕け散る音と光の奔流に呑み込まれた。
「私は、ここに――――」
やがて光は途切れ、静寂がこの場に戻ってきた。
悪魔の声も、アマンダの声も、もう聞こえない。《色欲》は依り代を失い、《魔女》は最高の悪役に成りきれないまま消え失せた。




