39 戦場に軋む因果のねじ巻き
少女の口から発された名乗りに、僕は茫然と立ち尽くすことしかできなかった。
「我が名はアスモデウス。世界に安寧の夜をもたらさん」
見知った顔に浮かぶ表情は、かつてと正反対の悪意に満たされたもの。
美しい相貌はそのままに髪は深いグリーン、肌は瑞々しい褐色に変化していた。宝石のような瞳は鮮血の赤で、その色彩が彼女がアスモデウスの《神化》を発動していることを明確に示していた。
「そんな……嘘だよ、よりによってエルが悪魔に憑かれるなんて、あるはずがない……」
弱々しく声が震えてしまう。
ただでさえ寒い部屋の温度が、みるみるうちに氷点下まで下がる錯覚すらある。
衝撃と驚愕、そして恐怖によって脱力しかけた身体にむち打ち、僕は眼前の少女に問いかけた。
「君は、本当にアスモデウスなんだね……?」
問われても、少女はただ笑って僕を見ているだけだった。
何がおかしい、いいから答えてくれ――。
その念が届いたのかは知らないが、少女はゆっくりと、しかし確かに頷いた。
「エル殿……っ」
「どうする、どうすればいい!? アマンダの時とは訳が違う――悪魔は倒さなきゃいけない敵だけど、エルは傷つけられない……!」
アリスの呻きとヒューゴさんの迷いの声が届いてくる。
「エル……俺たちが、助ける」
「――トーヤ。人から悪魔を祓う方法、あなたは知っていますか!?」
ジェードが起き上がり、彼に手を引かれてシアンも再び戦場へ立つ。
獣人の少女に訊かれ、僕は咄嗟に神器《テュールの剣》に手を当てながら考えた。
人の心に取り憑いた悪魔への対処法。それは何だ?
魔術の類いでなくては不可能だということは分かる。僕がそんな技を身に付けていないことも、同じくらい痛切に理解している。
「【夜に踊れ。夜に狂え。汝の心を解き放ち、汝の全てを委ねたまえ】」
アスモデウスの詠唱が淀みなく執り行われる。
僕の対応は一瞬遅れた。《エル》である女の子に剣を向け、魔法を撃つことを僅かでも躊躇してしまったから。
そのせいで仲間たちが苦しむことを予期していながら、僕はエルを傷つけられなかった。
「【氷と風の精霊よ、大自然の主よ。その冷たさで我らを守らんことを】! 【氷晶壁】!」
クリスタルの防壁が形成される間にも、既に色欲の魔手は這い寄ってきていた。
地面から湧き出でる黒い魔力の粒が集まって形となり、無数の人の腕を作り出す。僕たちの足を掴み、服を引っ張り、悪魔の腕は触れるものを闇へと誘おうとする。
強引だ。以前戦った時よりも遥かに、悪魔アスモデウスは強硬な手段で僕たちを黒く染め上げようとしている。
「くっ……こんなものッ!!」
テュールの剣を抜き放った僕は、足元を蠢く魔手へとその刃を振り下ろした。
軍神の剣は黄金の光を纏い、アスモデウスの魔法に抗う。
悪魔の闇属性に対して、僕の神器は光の魔力を存分に有している。「闇」を打ち消す「光」――敵の技への返しとしては、これがベストな選択なはずだ。
「効かん。神器使い、お前の未熟な力では……到底、私を破れまい」
耳を貸すな。これは僕を精神的に揺さぶろうというアスモデウスの策なんだ。
そう必死に言い聞かせながらも、しかし悪魔の声を聞かずにはいられない。
何故だろう……前回のアスモデウスと、雰囲気が異なるから? いま目の前にいるのは、アスモデウスの能力を持った別の人格――僕にはそんな気がしてならない。
「深淵より這い上がり、巻き起これ……無常の闇よ。無垢なる魂を誘い……今、私のものに!!」
エルの身体を乗っ取った女は叫んだ。
彼女の感情の高まりに呼応して、大悪魔の腕は太さと勢いを更に増す。ガチリ、ガチリ、とようやく形になったクリスタルの防壁をこじ開け、テュールの剣の光さえも吸い取って腕は僕の身体に纏わりついた。
「あっ……ぐッ、こんな、もの……!」
瞬間、僕の視界は狭まり、周囲の音がやけに遠ざかった。
無数の闇の腕は両脚から腰、それから胸の辺りまで絡み付いてきて身体を完全に固定する。
「エル……止めてくれ……ッ」
全身をきつく縛られる苦痛に顔を歪めながら、僕はエルに訴えた。
しかし少女は無言だった。代わりに頭の中で響くのは、悪魔の囁き。
『神器使いよ……私はお前の心を知っている。お前が欲望を常に抑えた人間であることも、理解している』
「何を、理解してるだって?」
アスモデウス、お前に僕の何がわかる。僕はお前なんかにはたぶらかされない。それに、僕はエミリアさんの《魅了》を既に受けている。お前のちっぽけな《愛》に上書きされたりしない!
エルは感情をなくした無機質な表情のまま、こちらに近づいてくる。
彼女の赤く変化した瞳を僕は正面から見つめた。すると、地面から伸び上がった腕に襟首を掴まれ、足が宙に浮く。
視線を周囲に走らせると、僕のみならずシアンたちまでも身体を吊り上げられ自由を奪われてしまっていた。
助けて、という彼女たちの声にならない叫びにも、両腕を背後に束縛されている状況ではどうにもならない。
「エル……聞こえるか!? 僕だよ、トーヤだ! この世界で一番、君を愛する存在だ! 目を覚ましてくれ――エル!!」
彼女は強い人間だ。悪魔に一瞬支配されても、すぐに自己を取り戻すはず。
こうやって呼び掛ければ、僕の名前を……「トーヤくん」って、返事してくれる。
「エル、わかるだろう……? 君が僕たちに攻撃する理由なんてないんだ。僕たちは共に戦ってきた仲間なんだ。思い出して……!」
「何度呼び掛けようと無駄なことよ、神器使い――いいえ、トーヤ君」
懸命に彼女へ言い聞かせていると、エルの口を借りて悪魔は笑った。
その口調が若干変わっているのに気づき、僕は眉間に皺を寄せる。
「貴方の身体は私のもの。もう逃げられはしないわ。ふふ……予定とは異なる道を進んでしまったけれど、私の物語もいよいよクライマックスね」
嗜虐的な笑みが、少女の美麗な顔を彩った。
それを見て僕はここにいる女が誰なのか悟る。
彼女の瞳の深紅――狂えるほどの情愛と戦乱の血の色は、あの人の眼そのものだったのだ。
アスモデウスなんかじゃない。ある意味ではもっとたちの悪い、現代に生きる魔族としての敵がそこに潜んでいる。
「アマンダ・リューズ……!」
「気づいてくれてありがとう。うふふ……英雄には英雄に相応しい最期を演出しなくてはね」
《精霊樹の杖》に黒い炎が灯される。
あれが僕への送り火……? いやだ、そんなの――。
「守れッ、【氷晶壁】!!」
「壊せ――【黒薔薇の炎剣】!」
両手が塞がれていても、魔法は使える。魔力さえあれば、魔導士に不可能はない!
僕が再度出現させた壁に、エルの杖から撃ち出された黒いエネルギーが激突する。剣を象った炎が氷を焼き、その焦熱で厚い壁を蝕んだ。
じわりじわりと、それでも確実な速度で炎熱が僕の防壁に罅を入れていく。
「つ、強い……!」
当たり前だ。エルはこの世界でも最高峰の実力を持つ魔導士なのだから。
彼女を悪魔から解放するためには、最低でも暴れる力を奪わないと話は始まらない。何とか消耗させて動きを封じ、《悪器》を破壊しなくちゃいけないんだ。
どうやって勝つ? 最強の魔導士に、千年もの長い時の中で知識を蓄えた相手に、剣なしで僕は勝てるのか……?
「神器を使えなければ、あなたもただの子供。抵抗さえできずに、炎に炙られたっぷり苦しんで死ぬの」
僕の内心の不安を感じ取ったのか、悪魔は歌うような口調で言った。
バキリ、と大きな音を立て、僕の防壁魔法がど真ん中から一挙に割れて崩れていく。
赤い炎の色が僕の目を焼いた、その瞬間――。
「手間をかけさせるんじゃないよ、少年!」
猛々しい女性の声が響き渡り、その人は僕の腰を無理矢理に引っ張り込んだ。
黒い腕ごと僕を地面に引きずり下ろし、後ろへ投げ飛ばす。
床を転がりながら僕が目にしたのは、黒い炎が何もない空中を焼く光景であった。
そしてその下に立つ、女性の姿。
「私が本当の顔を見せるのは、獲物の首を絞めるその瞬間だ。私の素顔は死者のみが知っている。お前にも教えてやろう、アマンダ・リューズ!」
叫び、その人は顔面を覆い隠す包帯をすべて取り去った。
横顔だけだったが、僕にも彼女の顔は見ることができた。
隠しておくにはもったいないほどの、まさに絶世の美女と称するべき綺麗な容貌。傷だらけで武骨さを感じさせる雰囲気ながら、その顔立ちは非の打ち所がない。輪郭は細く、刀のごとき鋭さを醸していた。
「その胸に刻むがいい、私はノア――方舟の管理者! 《アナザーワールド》に蔓延る大罪の悪魔どもを滅ぼすことが、私の使命だ!」
――《方舟》、だって!? それに、大罪の悪魔を知っている……!?
彼女の名乗りに僕は驚愕した。
方舟というのは、かつてユーミが語ってくれた巨人族の伝説にあった用語だ。それが何を指しているのかは、僕にはよくわからない。方舟とは古い世界と新たな世界を繋ぐ鍵――そんな抽象的な記述しか巨人の伝説にはなかったのだ。
加えて大罪の悪魔について知っており、さっき僕を『ハルマ』と呼んだことから、この人は――。
「過去の世界の……《アナザーワールド》の、人」
エル以外にもいたのか。同じ使命を持ち、同じように戦う人が、ここにも。
「あたしから見りゃ、今あんたらの生きる世界の方が《アナザーワールド》って言えるんだけどね。まぁいい。少年、あんたとの話はまた後だ」
男勝りな口調の女傑は、白銀の剣を左腰から抜き放って肩に担いだ。
露になった顔に戦意にまみれた凄烈な笑みを浮かべ、彼女は緑髪の少女に突撃を開始する。風のオーラを纏い、急加速するノアさんに、僕は慌てて黒い腕を振りほどこうとする。
「【刃風、足元】」
上手くほどけずにじたばたしてしまっていると、ノアさんが詠唱を呟くのが耳に入った。
直後、地面すれすれのところを風の刃が一撫でし――僕の倒れる場所をちょうど避けて――、黒い腕を根本から切断する。
床から切り離されると同時に魔力を失ったらしく、腕はみるみるうちに締め付けを弱めていった。全ての腕を一瞬にして無力化して見せたノアさんの実力に、僕は思わず息を呑む。
「と、トーヤ……?」
おぼつかない少年の声が、僕の名を呼んだ。
ジェードだ。彼も黒い腕から解放されて、もう戦いに復帰できる状態になっている、はずだった。
けれど――。
「ごめん。俺は、お前をここで討たなくちゃいけない」
目から大粒の涙をこぼしながら、獣人の少年は言った。
アスモデウスの魔法への対抗策を、彼は何も施していなかったのだ。それはシアンたちも同様で、彼女らもまた僕へ明確な敵意を持って武器を向けてくる。
「私たちであなたを、倒さなくては……」
「ここで神器使いを仕留め、主に捧げる――それが私の、わたしの役割」
言葉とは裏腹に彼女らは泣いていた。
幾筋も涙を流しているのに、身体は悪魔の意思に服従させられて僕へと迫り来る。
「あ、あぁ……ああああああああッ!!」
悲鳴じみた絶叫と共に、少女の足具に炎が燃え盛り、弓矢には風の魔力が宿った。
雷の手甲と魔剣、風を唸らせる木刀、毒を纏う吹き矢――仲間たちの自慢の武器が、持ち主の本心に逆らって牙を剥く。
「くそっ、《テュールの剣》!」
腰から神器を抜剣し、一薙ぎして兄妹の矢を払い落とす。
神器に魔力は込められない。テュールの剣の特殊能力は、斬撃をその場に残すため、下手に使っては突っ込んできたシアンたちを斬り殺しかねない。
右から来るシアンの蹴りに対し、こちらも蹴り技で応戦しようとした僕にノアさんは告げた。
「少年、あんたは時間を稼いでくれるだけでいい! エルはあたしが何とかする!」
「わ、わかりました! 死なない程度に頼みます」
初対面の相手だが、ノアさんは信頼に足る人物だと感じた。この人にならエルを任せられる。
僕がエルに刃を向けられないのを察して、彼女は悪魔討伐の大役を背負ってくれたのだ。そのことに感謝しつつ、僕は目の前のシアンたちの瞳を覗き込む。
「シアン、ジェード……僕のことを忘れた訳じゃないだろう!? 君たちは決して弱い人じゃない。悪魔なんかに負けるなッ!」
声音を強めて僕は言った。シアンに蹴りを返し、ジェードの拳を手のひらで受け止める。
尖った歯を剥き出しにする獣人の少年は、止めどなく涙を流しながら答えた。
「俺を止めてくれよ、トーヤ!! 俺はお前と戦いたくなんかない! だけど、体が勝手に動いちまうんだ。止まれ、止まれって念じてるのに、ダメなんだよ……!」
アスモデウスの《黒い腕》は、対象の意思を無視して操り人形のように扱う技で……解除魔法がどのようなものであるかもわからない。
だから、止められない。方法があるならば、アスモデウスの悪器を破壊するのみだ。
「わ、わたし、は……あなたに、攻撃したくない、のに……っ」
途切れ途切れにシアンが思いを吐き出し、その側からユーミとリオの剛剣が左右から飛んでくる。
ジェードを前方に押しやった僕は、咄嗟にしゃがんで体勢を低くし剣をかわした。ドガッ、と魔力を含む刃が衝突する音が鈍く響く。
「みんな、ごめん……僕は、君たちを解放することができない……」
こうして攻撃を受け流し、時間を稼ぐしかできないけれど――許して欲しい。これがいま僕にやれる、一番のことなんだ。
正直、泣きたくなるくらいきついし辛い。でも、涙なんか溢せない。
シアンたちは僕以上に悲しんでいるのだから。全てが終わるまで、僕は泣くことも止まることも許されちゃいない。
「ノルンの女神たちよ……僕の選択は間違っていましたか……?」
*
後ろ向きになってくれるなよ、少年――。
ノアはそう呟きながら、エルの身を借りた悪魔に《白銀剣》を振り下ろした。
相手は自分よりずっと体格の小さい少女のはずが、刃を杖で受けられて彼女は目を丸くする。
――悪魔は宿主の身体能力まで強化できるのか? それとも、中身のアマンダ・リューズに引き寄せられて、体を動かせるようになった……?
「あんたもしつこいね、アマンダ。一度肉体を失ったのなら、潔く終わってほしかったよ」
「それはこっちの台詞よ。私はトーヤ君と戦いたかったのに、どうしてまた貴女の相手をしなくちゃならないのよ」
エルとは全く異なる口調と態度に、ノアは思わず顔をしかめた。
この女がエルの体を勝手に使っている事実は、彼女の心に激情を呼び起こす。
「さっきのようにはいかないわ。この体には私がぶつけた魔力が溢れているの……きっと、元の私よりも強力な魔術が扱えるはずだわ!」
声を弾ませるアマンダにノアは舌打ちする。
風と氷の剣を敵の杖と打ち付け合いながら、彼女は《精霊樹の杖》が折れないことを怪訝に思った。
――魔法で耐久力を補強しているのか? ただの枝切れを、そこまで硬くするとは……。
「剣での戦いをご所望か、アマンダ・リューズ!」
「貴女に合わせただけよ。魔法使いには魔法で、剣士には剣で相手をするのが私のモットーなの」
緑髪の少女の得物がまばゆい紫紺の光を帯びる。
《力魔法》のオーラだ。杖の周りを覆って剣のように伸び、光の刃を形成する。
一気にリーチを増した相手の剣に、ノアは攻める勢いを削がれてしまう。
アマンダはとにかく強引な女だった。得物の形状が変化したにも関わらず、体勢を建て直すこともせず愚直に突進する。
選局の主導権を無理にでも掴み、ペースを常に自分のものにする――それがアマンダという女の戦い方だ。
「【我らが名を知る者は立ち上がれ。我らが名を知らぬ者は頭を垂れ、忠誠を誓え! 我らは《邪眼》の一族、悪意と憎悪の信念!】」
剣を斬り結びながらアマンダは《高位魔法》の詠唱を開始した。
高らかに歌われるその呪文の一字一句を聞き漏らさないようにしつつ、ノアは歯をきつく食い縛った。
――赤い眼を持つ一族の女は一度、肉体の死を経験している。先程はある程度隙が見えたりもしたが、今は無駄口を叩いているように見えて、油断も隙も一切ない。
強引さも緻密に組み立てられた計算の内、なのだろう。
この女の悪器を、いったいどう狙うべきか……。
鍵になるのは――鍵になりうるのは、何だ? 何があればアマンダの計算を狂わせられる?
「……!」
剣劇が十合にも達した、その刹那。
――あれだ、とノアは直感的に理解した。全てはここに集まっている。これは因果なのだ。ここで悪魔を討つための、運命だったのだ――。
ノアは戦いが始まって初めて、笑った。
通じ合える同胞の存在に高まりゆく鼓動を感じる。《白銀剣》を握り締め、彼女もまた魔法の呪文を紡ぎ始めた。




