38 愛の救済
どうしようもなく巨大で、硬い。
氷の茨が絡み合い、編まれて出来た氷のドーム――この大部屋のど真ん中を遮るようにして現れたそいつに、僕たちは足止めを食らっていた。
それだけならまだいい。
最悪なのは、ケルベロスと大怪我を負ったモアさんがあの中に閉じ込められてしまったことだ。
僕の《テュールの剣》なら、あの氷を両断することも難しくはないだろう。だけど、そうすれば崩落した氷にケルベロスたちが押し潰される危険が生じる。魔法の熱で溶かすにしろ、僕の腕では時間がかかりすぎる。
そして心配事項は、もう一つ。
「リル君、この怪物の《核》がどこにあるのか探れるかい?」
「か、核? あぁ、俺ならかぎ分けられるけどよ……。でも、壊せるのか?」
「そうか。じゃあ見つけたら、その大まかな場所をヨルちゃんに伝えて。彼女ならきっと何とかしてくれる」
長々と喋っている暇はない。
僕はリル君に短く伝え、携えていた《神槍グングニル》を背中の帯に吊った。それから意を決して目の前のドームを見上げる。
「フゥッ……」
「おいトーヤ、まさか――!?」
深呼吸し、地面を踏みしめる両脚に力を込める。腰の袋から取り出した革製のグローブ――ジェードの魔具の予備でフロッティさんから貰ったものだ――を両手にしっかりと着ける。
この構えの意味を察して瞠目するリル君を横目に、僕は駆け出した。
冷気と無数の棘が挑戦者を拒む怪物の砦。これまで戦ったモンスターの中でも、見たところかなり高い防御力を有しているように思える。だけど、直接破壊できないのなら別の手段を使えばいいだけのこと。それはヨルちゃんがやってくれる。
僕がやるのは――この壁を越えて、向こう側のエルたちのもとへ向かうことだ!
「はっ!」
気合いを放ちながら、僕は思いっきり氷のドームへと飛びかかった。
茨の棘が張り出した部分を掴み、足も同様に体重をかけられそうなところを踏んで行く。
正直、崖登りなんてしたことないけど……大丈夫、きっと上手くいくはずだ。
滑らないよう、慎重に。それでいて迅速に。
僕はエルたちの無事のみを願って、この氷の壁を登っていった。
*
アマンダ・リューズは哄笑していた。
全身全霊で撃ち込んだ大砲撃はエルの魔法に吸収され、彼女は一時は敗北を覚悟した。
しかし、結果は異なった。エルは許容量を超えた魔力に押し潰されて倒れた。
戦いは、アマンダの完全なる勝利で幕を下ろしたのだ。
「ふ、ふ……あは、あはははははは!! 無様ね、精霊の魔導士エル! 私の魔術とあなたの魔術、どちらが真の強者たりえたか、これで理解したでしょう! 命乞いしてもいいのよ……そこに頭を垂れて、私にこう言った――……」
千年の知恵を持つ魔法使いに勝った歓喜に、アマンダは打ち震えていた。真っ暗な天井を仰ぎながら叫ぶ彼女は、言葉を継ごうとして声を失ってしまった。
見下ろし、少女の屈辱に歪む顔でも眺めてやるつもりだった。だが――そこにあったのは飽和した魔力を立ち上らせ、全く動かなくなったエルの姿だった。
「《マインドブレイク》……? 魔力を体内に溜め込み、それが制御しきれなくなった瞬間に起きるっていうあれね。じゃあ彼女の心は、跡形もなく吹き飛んだ……」
仰向けになっている少女の身体に近寄り、しゃがんで脈があるか確かめる。
エルの肉体はまだかろうじて生命活動を続けていた。しかしアマンダの推察が正しければ、その魂はすでにこの世とは別の場所に旅立っている。
そこまで考えて、色欲の魔女は顔中に笑みを浮かべた。
「ふふふ、んふふふ……! とっても面白いこと思い付いちゃった」
立ち上がったアマンダは少女に浮遊魔法をかけて、自分の胸の前に横倒しのまま静止させた。
それから部屋の右手に視線を向け、そちらでのマミーの戦況を確認する。
――? あの女、何をしているの。
マミーの行動はアマンダを大いに困惑させるものだった。
巨人とエルフ、獣人の少女が斬られ、獣人の少年も頭から血を流して倒れている、そこまではいい。
が、マミーは何故だか小人族の兄妹に剣を突き付けた状態で止まっているのだ。
これはどういうことか。アスモデウスの魅了でマミーは今、アマンダの意思に従う人形となっているはずだ。
――まさか、魅了が解けた? いや、あり得ない。あの女は私を最も愛した誰かだと思い込んでいる。逆らえるわけがない。
「…………」
マミーは体ごとこちらを向き、愕然とするアマンダを見つめてきた。
その虚ろな瞳が、アマンダには嫌に恐ろしく感じられた。魂を抜かれたエルの目と似たようなものなのに、この怖じ気は何なのか。
絶句する魔女に、マミーは包帯の下からでもはっきりと通る声で告げる。
「姉様! ――いや、アマンダ・リューズ! あたしの姉様は、あたしに誰かを排除するよう命じる人ではなかった。あの人はむしろ、何もかも自分でやろうとする性格だった。……一瞬、都合のいい幻に酔ってしまったけれど、あたしはもう惑わされない。姉様の妹として、あんたは許しちゃおけない敵――今ここで、討つ!!」
アマンダには理解が追い付かなかった。自分の中の常識が、ルールが破壊される。こうあるべきだという因果が、軋んで捻れていく。
マミーは小人族の二人に懐から取り出した小瓶を放り、白銀の剣を中段に構えながら突進してきた。
旋風が巻き起こり、女の刃に青い光が宿る。風の付与魔法――対抗するには、同類の魔法を使用する必要があるが……。
「【雷よ】!」
電流が一瞬放出され、そして消えた。もう彼女はまともに魔法を使うことが出来ない。
エルとの戦闘で魔力を大量に使いすぎたのだ。通常、体内にある魔力は自然回復するのにある程度時間を伴う。回復魔法を誰かにかけてもらったとしても、アマンダの部下たちの腕なら効果は微々たるものだ。到底、この化け物じみた剣力の女に太刀打ちできる魔力量には達しない。
「【物質転換】――【組成】」
マミーの剣が迫る刹那に、アマンダは決断した。
強敵に勝つためには代償が必要なのだ。エルに対しては全身の魔力を。そしてこの女には、彼女の《美》を。
短い詠唱が行われ――アマンダの白い絹のような長髪が全て、根本からばっさりと抜け落ちた。それは空中を漂い、アマンダの目の前で凝集して形を変えていく。
自身の髪の毛を元にして生み出された、純白の刃を持つ剣。これを掴み取り、魔女は突き出されたマミーの剣を真っ向から受け止めた。
両刃の側面で攻撃を防いだアマンダは、瞋意の炎を眼に燃やすマミーに笑ってみせる。
「女としての見た目を捨てたのは、あなたと同じね」
「まだ無駄口を叩くか、魔族! お前の死に場所はここだと思えッ!」
ぎりり、と歯軋りしながらマミーは剣を持つ腕と肩、腰、脚の力をさらに強化する。
彼女の魔力はまだ殆ど消費されていないため、存分な出力の風の付与魔法を発動することが可能だった。
「風よ――嵐よ! もっと強く、もっと速く!」
アマンダの剣は見た目こそ特異であるが、実態は何の能力もないただの刃物だ。そんなものがマミーの《白銀剣》に敵うわけがない。
女の叫びに呼応して、刃に纏う風も勢いを増す。追い風はやがて、何をも押し飛ばす暴風へとなる。
「……っ! 嫌ね、こんな――」
アマンダの声は烈風に上書きされ、マミーの耳にも届かなかった。
彼女の美を犠牲に生まれた剣が、活躍の場をこれっぽっちも与えられないまま死んでいく。刃がひび割れ、白い光粒となって散っていく。
魔女の身体を守るものはなくなった。彼女はその胸に突き刺さる《白銀剣》を見下ろしながら、虚ろに笑っていた。
――悪魔め。どうして笑っていられる?
自分の剣がアマンダの背中を貫通した感触を味わうマミーには、魔女の表情が不可解でしょうがなかった。
剣の白い光のみならず、魔女の傷口からは血と一緒に緑色の光が漏れ出ている。マミーの嵐はそれらが流出する側から吹き飛ばした。
「ふふ、ありがとう……アマンダ・リューズ」
マミーは魔女のその台詞に耳を疑った。
――この女は自分に礼を言ったのか……? 何故だ? これから死にゆく己の身体に、最後の感謝を告げた――それだけなのだろうか。
「……はあッ!」
剣に纏う風が激しく回転を増し、アマンダの胸を内蔵ごと抉った。
この女から確実に命を奪う。この場所で悪魔を一人、何としてでも滅ぼさなければ。この時代に、かつてと同じ悲劇を起こすわけにはいかないのだから。
マミーは叫んだ。剣を前に全体重を乗せて押し込み、風と共に敵の全てを砂塵に変える。
「――――」
最期の悲鳴を上げることなく、アマンダの肉体は文字通り粉々になった。
緑の光となって飛散した女の残骸は、誰の肌にも触れずに風により片付けられる。
嵐が止み、部屋は静寂を取り戻した。これだけの大攻撃を行っていながら、どうしてかマミーは一切息切れしていなかった。
「…………アスモデウスが死んだが、まだ終わりじゃない。残る【大罪】は五つ……その全員を討ち滅ぼすまでは、あたしの戦いは続く」
部屋を見渡しながら、マミーは誰に言うともなく呟く。
悪魔に操られ、自分が斬ってしまった少女たちの姿が目に留まった。小人族の兄妹に渡した小瓶は、彼女の秘蔵の薬《フェニックスの血》である。いま二人が他の手負いの少女たちに薬を投与しているが、しばらくすればきちんと回復するはずだ。
それでも、マミーは心配になって小人族の二人のもとまで歩み寄る。
「あんたたち……大丈夫かい?」
マミーの声にアリスたちはびくんと身体を震わせ、彼女を振り仰いだ。
腕を失ったエルフの少女を介抱している二人に対し、マミーは跪いて目線を合わせる。それから、懺悔の念を二人に伝えた。
「悪魔に操られていたとはいえ、あんたたちの仲間をあたしは傷付けてしまった。そのことは謝ろう。だが、信じてほしい……あたしは悪魔を倒すため、戦っているんだ。その薬も、あんたたちの傷を完璧に治してくれる。量は限られるが、この世界で唯一の《不死鳥の薬》だ」
マミーの翠の瞳が、アリスたちの蒼い瞳と視線を交える。
しばし沈黙していた二人だったが、やがておずおずといった様子で兄の方が口を開く。
「あ、アマンダ・リューズを倒したあなたを、今さら疑いはしないよ。でもさ……仲間が血を流したんだから、やっぱ複雑。それに、《不死鳥の薬》なんて本当か怪しい」
「そう、だよな……あたしがやったのはそれほど重いことだ。彼女らの心身に刻んだ傷は、あまりに深すぎるかもしれない……。しかし、薬については真実だ。ある不死鳥の血液から生成したこれは飲んだ者の肉体を潤し、癒す。例え腕を失おうと、こいつなら一滴で元通りだ」
マミーはアリスに赤い液体の入った小瓶を渡すよう促した。受け取ったそれを開け、エルフの右腕の切断面に滴を垂らす。
「見ていろ……すぐに再生を始める」
直後、アリスたちが目を疑う現象が起こった。
リオの腕の切断面から白い蒸気と緑の魔力の光が立ち上ぼり、そこから先に新しい腕が生え出してきたのだ。
人智が成せるものではない。どんなに優秀な治癒術師にも、肉体の欠損は治せない――その常識を真正面からマミーの薬は打ち破ってみせた。
「これは、魔法なのですか……?」
畏怖にアリスの声は震えた。
マミーは返答しながら、ユーミやシアン、ジェードたちのもとを回って治癒薬を施していく。
「いや、そいつはただの血液だ。だが、作る段階で多少の魔法をかけているから、その意味では魔法に属するかもな」
淡々とマミーは説明した。
話しながら彼女は考える。今回の神殿攻略を制するのは、いったい誰なのかと。
この神殿で得られる神器は三つ。自分がそれを手にする資格を持つとはマミーは一切思っていなかった。
最も相応しい活躍を見せたのは、あの緑髪の少女だ。しかし、彼女はアマンダとの激戦を経て死んでいる。かといって他に《英雄》となる器の人間がこの場にいるとも言えない。
「……あの氷の怪物を壊した者が、おそらく神器の所有者になるのだろうな」
獣人の少年に薬を与えながらマミーは呟く。
重い瞼をうっすらと開いた少年は、彼女の言葉に意識をはっきりと取り戻したようだった。
「――神器の、所有者……。そうだ、俺は……あの包帯の女と戦って、それで――――っ!?」
がばっと身体を起こしたジェードは、上げかけた絶叫を何とか押し留めた。
抑制されたくぐもった声で、彼は眼前の女に訊ねる。
「あんた……アマンダの呪縛から、解放されたのか……? アマンダは――みんなは、どうなってる?」
「そう。アマンダはあたしが倒した。肉体も完全に消滅し、悪魔アスモデウスも死んだ。お前の仲間は、皆生きている。すぐに動けるようになるだろう」
マミーからそう聞いて、ジェードは泥まみれの顔に安堵の表情を浮かべる。
辺りを見渡すとシアンやユーミたちの姿や、地面にへたりこんでいるアマンダの部隊の面々など、戦いの後で消耗しきった者たちがそこにいた。
――本当に、アマンダを倒したのか。悪魔をまた一人、討つことが出来たのか……!
感慨で胸がいっぱいになる。この迷宮で起こった争いの数々には、ちゃんと意味はあったのだ。流した血も涙も、無意味ではなかった。
マミーも言う。
「あんたたちを排除するために、アマンダはあたしを差し向けるのに魔力を使わざるをえなかった。あたしがあの女の支配から抜け出せたのは、あの小人族の少年の姿があったからだ。彼の勇姿に打たれて、あたしはアマンダを殺す覚悟を決められたんだよ」
ちょうど、その時だった。
背後で誰かが地面に飛び降りる音がして、マミーはそちらを振り返る。
氷のドームに寄りかかって立つ、黒髪の軽装をした少年。
酷く懐かしさを覚えるその容貌に瞠目する女は、我知らず彼に声を投じていた。
「あたしを覚えているか……!? 《ハルマ》――!」
「あ、あなたは……?」
長く再開を願っていたマミーに反して、少年は彼女を全く知らない様子であった。
無理もない、自分と今の少年には何の面識もないのだから。頭では理解しつつも、マミーは落胆を表に出さずにはいられなかった。
やや肩を落とした彼女の挙動に戸惑う少年は――マミーたちのもとに駆け寄ろうとして、足を止めた。
「妙な魔力の流れを感じる。……怪物か、悪魔か。まだ終わっちゃいない」
部屋の北側の奥の方からこちらに押し寄せてくるような、黒い魔力。
背筋に悪寒を感じてマミーが立ち上がった束の間、その力は一気に強まった。まるで、彼女に明確な殺意を抱いたかのように。
「どういうことだ……!? アマンダの肉体は、肉片も残さず消し飛ばしたはずなのに――」
「悪魔は宿主を変える。宿主を殺しただけじゃ、根本的な解決にはなってないんです! いま、悪魔が憑いているのは――憑いて、いるのは……」
力強く冷静だった少年の語気が、闇に蠢く《悪魔》を視認した途端に弱まっていく。
彼は何を見たのだ、とマミーもその影に目を凝らす。
「……まさか、ありえん」
そう言うしかなかった。
光を吸い込む闇の中に立つ、小さな小さなシルエット。揺らめく長い髪は深い緑に輝き、その瞳は赤い血の色をしている。纏う衣服は魔導士の黒ローブで、手には木製の長杖を握っていた。
悪魔の眼をした少女のことを忘れるはずがない。
マミーに人の心を、温かい友情を教えてくれた彼女の顔を忘れたことなど、これまで一度たりともなかった。
「エル……!」
光に満ちていた少女の瞳は、既に憎悪と欲望の闇に埋もれてしまっていた。




