37 魂の管理者
真っ白い光。
それだけが、この場所にあった。人も、物も、音も、風も、臭いも温度もない。ただ光だけが溢れている。
ここは、どこだ……?
私は、いったい何者だったのだ――?
何も思い出せない。自分が何なのか分からないまま、彼女はこの光に満ちた空間を見回してみた。
一面、ひたすらに白い。見る向きを変えても風景は全く同じだった。
――見えてる、のか? それとも、これは私が作り出した幻想に過ぎないのか……?
彼女にはどちらとも判断がつかなかった。
体を見下ろそうとしても、そこにあるはずのものはない。しゃがみこんで床に手を触れようとするも――視点が下がるような感覚はあるものの、触覚は一切なかった。
「わ、わたし、は……っ」
重い口を開く。嗄れた声が細く漏れる。
喉に何かがつかえる息苦しさはあったが、話せた。
話せるならば、誰かに呼び掛けることができる。
この夢幻の世界にもし自分以外の人がいるのなら、きっと応えてくれるはずだ。こんな寂しい場所にいて、人肌を求めない者などありえないのだから。
「だれ、か……誰か、いないのか……?」
叫びたいのに情けない声しか出せない。
誰にも届かないかもしれない、それどころか誰もいない可能性の方が大きいのでは――と、彼女が不安を抱いたその時だった。
まるで彼女の気持ちを読み取ったかのようなタイミングで、どこからか低い男の声が聞こえてきた。
『ここは魂の終着点。あまねく全ての生命は、ここに生まれ、帰還する。君は……人間の魔導士の少女だった。名をエルといった』
抑揚の少ない、無感情な声音。若くもないし、年老いても聞こえない、特徴の掴みにくい男性の声であった。
「エ、ル……? それが、私の名前……?」
『そうだ。君はある魔女との戦いで莫大な魔力を抱え込み、許容量を超えたそれに潰されたのだ。魔力を制御するために精神を極限まですり減らし……そして、』
「その先は言わなくていいよ……。つまり、私はもう死んでしまったんだね」
名前を告げられても、彼女は過去を思い出せなかった。
しかし「エル」と呼ばれてしっくりくると感じたので、この人が言うことは真実なのだろうと信じられた。
自分が元々どんな人間で、何のために戦って死んだのか……それを訊ねようとは思わない。訊いても他人事のようにしか感じられないと、わかっていたから。
『厳密には、脳死状態だ。肉体はまだ辛うじて生きている。君は今、魂だけをさ迷わせ、この場にやって来ているのだ。――君にはやり残した使命がある、思い出せるか……精霊の少女よ』
男の語調がわずかに強まった。
《思い出せ》、その言葉は彼女の胸の中で反響するが、しかし彼女は記憶の引き出しを開けられない。
「思い、出せないよ……。私が何者だったのか、私には分からない……。でもさ、私の魂は死んだんだろ? 生前のことを今さら思い出して、どうしろっていうんだい? それで何か変わる訳じゃないだろう」
押しても引いても遠い記憶は出てきそうになく、彼女は諦めかかっていた。
思い出せないと苦しんでも仕方がない。自分には「エル」という名前がある、それで十分ではないか。
『この場所に還った者はよくそう言う。……しかし、エルよ。君の魂はそこらの人間のものとは異なるのだよ。一度《輪廻》から外れた君は、もう二度と他の者たちのように新たな命として生まれることができない』
慣れた口調で男は言った。
彼女は彼の台詞にあった単語を、口の中で反芻する。
――輪廻。人や動物、植物、魚、鳥、虫……生命が形を変えて生まれ代わっていくという、東方に伝わる宗教の考え方だ。
けれども、そこから外れる意味を彼女は知らなかった。この時になってようやく、彼女は明確な『恐れ』の感情を抱く。
「私が、その理から外れし者……。とりあえず信じるとして、そうなった魂の行く先は? 私は誰にも生まれ変われずに、ずっとここにいるってこと?」
『それは違う。君はまた、下界に降りるのだよ。あの少年の魂がそこにあり続ける限りはな。これは、かつて君が選んだ運命なのだ。「彼の魂が世界をさ迷うのなら、私は何度だって彼を探しに行く」――君が言ったことだ』
下界、とはこれまで自分が生きていた世界のことだろうか。
あの少年――《彼》は、《エル》という少女にとってそれほどに大切な存在だったのか。
何度も生まれ変わって会いに行く、もしかしたら永遠に繰り返されるかもしれない運命を、《エル》は選んだのか。
「なんて……」
――美しく、そして愚かな愛なのだろう。
彼女は傲慢だ。普通なら死別したらそれでおしまいのところを、無限に生を得て前世に《彼》を持つ者を探し続けるなど、傲慢でしかない。
「君は……いや、あなたは、神なのですか。《エル》のその願いを、あなたは何故叶えたのですか」
本物の神がいるのなら、問いたかった。
生死の理を無視する《エル》の魂が許される理由とは何なのか――これは祝福なのか、あるいは罰なのか、また生まれる前に知り得ておきたかった。
男はしゃがれた笑いを小さく溢し、答える。
『私は神ではない、ただの魔導士だ。経緯は語れないが、しばらく前からこの空間の管理者をやらせてもらっている。《エル》の願いを叶えたのは私ではないゆえ、訳は説明できない。ただ言えるのは――同じ記憶を持って転生を繰り返す君は、神に愛されていたのだろうな』
神に愛された……すなわち神からの信用を得て、エルの願いは達せられたというわけか。
彼女の愛は神をも動かした。その対価として、彼女に託されたのが、さきほど管理者の男が口にした《使命》……?
『ご明察だな。…………全てを忘れた君だが、それは今が記憶の整理段階にあるからだ。再び生を得た暁には思い出すだろう。己が蓄えた魔導の知識も、使命も、少年との思い出も。真っ白な景色も、やがてあらゆる情報の渦で鮮やかに色づくだろう』
妙に詩的な言い方をするな、と彼女は思った。
そこでふと思い付き、訊ねる。
「《管理者》さん、あなたは私に姿を見せてくれないのですか? もしくは、実態を持たない存在なのですか……?」
『ふむ、そうだな……。ここでの問答は下界に降りれば忘れてしまうことだが、今、知りたいのなら教えてやろう』
男の応答は早かった。直後、光だけの世界にコツ、コツという足音と衣擦れの音が加わる。
男は彼女の前方正面から現れ、近づいてきた。
白い世界で鮮明に映し出される、黒い姿。それは闇を内包したようなボロのマントを身に纏った、神聖さとはかけ離れた容貌であった。長い髪の色もまた、漆黒。顔は目元などの皺が目立つものの、鋭い瞳に宿る光は驚くほどギラギラと輝いている。見たところ、年齢は四十後半くらいか。
「なんというか、普通のおじさんだね」
『失礼な。これでも昔はハンサムだとよく言われたものだ。……さて、君はそろそろ行かねばならない。《彼》も待っているからな』
《彼》が待っている――《エル》を愛する少年が、自分のことを現世で待っている。
黄金の瞳を持つ男に、彼女は最後の問いを投げ掛けた。
もといた場所に戻る前に、どうしても確かめておかねばならないことだった。
「一つ、いいですか。私の魂が愛し続けた《彼》は、どういった人なのか――また会う前に、少しでもその面影を胸に留めておくために、聞かせてください。もしかしたら、何か思い出せるかもしれないし」
男は頷き、骨ばった顎に手を当てて瞳を閉じた。
なぜだか僅かに穏やかな表情になったようにも見える男は、静かに答える。
『彼は人の痛みを共に感じられる、温かい心を持つ人間だ。世界から悲しみを減らそうと、神器使いとして戦う道を選んだ勇気ある存在だ。黒い髪に黒い目をした、優しげで整った顔の男の子だ。そして彼の笑顔が《エル》は何よりも好きだったそうだ。――どうかね、思い出したか?』
男の言葉を、彼女は終わりまで聞いていなかった。
この瞬間、脳裏に蘇ったある「声」に、彼女は震えていた。
『エル、愛してる。君と出会えて本当によかった。ありがとう――また、会おうね』
彼女を抱き締めてキスをした少年は、そのすぐ後に哀しげな笑顔でそう言ったのだ。
《エル》を戦場から遠ざけ、自分が単身で敵に立ち向かおうとした彼に――あの時の彼女は、なされるがままだった。
「今も、また……彼は、一人で戦っているの? 皆のために、仲間のために、大きすぎる敵に抗っているの……? それなのに、私はこんな所で時間を無為に使っている」
俯いた彼女は拳を強く握り込み、唇を噛んだ。
そんなことは許せない。彼女は――エルは、少年と二人で戦い抜くと決めたではないか!
「早く、私をエルの身体に戻して。私はあの子に……トーヤくんに、まだ何も返せちゃいない。彼や仲間たちを全力で支えるのが、誰にも代えられない私の役割なんだ!」
エルは叫んだ。いてもたってもいられなく、男の胸にすがりついて懇願した。
男は実体のないエルを確かに「見下ろし」、目許を少し細めて言う。
『彼への愛は、君の魂の中核にしっかりと刻まれていたようだな。……目覚めた後、するべき行動は分かるな?』
「はい。目の前の敵を全身全霊で倒す、それだけです」
『意識が戻る時は一瞬だ。冷静でいろ』
男の手の中に赤い光が灯る。不死鳥の復活の炎の色だ。
温かなそれがエルを包み込み、そして。
男に言葉を返す間もなく、彼女の魂は純白の世界から消失した。
眠りに落ちる少女の耳に微かに届くのは、戦場に響く人々の叫び声――。




