36 最後の力
白い長髪をなびかせ、アマンダは胸の前に握った拳を軽く握り込む。
――この相手は絶対に侮ってはならないわ。精霊の魔導士に、トーヤ君のもとで強くなった戦士たち……やるなら入念に、潰してあげないと。
身体をエルたちの来た南端の通路側へ向け、《氷の異形》を背後にアマンダは表情を引き締めた。
エルたちはここで初めて《氷の異形》の存在に気が付いたようだったが、今はそちらに構っている余裕はない。
全員が武器を携えて戦闘態勢に入り、アマンダと睨み合った直後――。
「行くぞ!」
獣人の少年の一声で、戦いは始まった。
まず最初にエルの口が静かに開き、飛び出したジェードとユーミに魔法の加護を施す。
「【聖霊の加護】」
発動待機状態の魔法を解き放つ。
少女の杖から二人の背中へ光が直進、ぶつかると同時に彼らの全身を黄金の輝きで包んだ。
赤い両眼でジェードたちの目を見据え、その燃え上がる闘志に舌舐めずりしたアマンダもまた、呪文を唱える。
「あまねくを捨て、快楽に溺れなさい……【夜の黒薔薇の誘い】!」
黒い霧と甘い香りが、むっとアマンダの周囲に放散していく。
この霧を吸い込んだ者は悪魔に逆らう意志を奪われ、骨抜きになる。さらに相手に幻覚を見せる効果もあり、一度術にかかってしまえば自力での解除はほぼ不可能だ。
が、しかし。
「お前の技なんか、効かない!」
「戦うなら正々堂々とやることね。さぁ、斬るわよ!」
にやり、と獣人と女巨人が笑う。
それでもアマンダは焦らなかった。悪魔アスモデウスの能力は既に知られており、対策を講じられていないわけがないのだから。
敵は何らかの魔法でアマンダの魅了を無力化し、戦闘を継続する――そこまで見据えた上で、彼女は最初から別の魔法を《待機状態》にしていた。
雷を纏った拳と大剣が左右から迫る中、魔女は小さく微笑みながら握った手のひらを開く。
「あは……あはははっ! 正々堂々!? そんな言葉、私には似合わないわ。どんな汚い手を使ってでも、私は勝つの! 勝たなくちゃいけないの!」
蛇のごとき瞳を大きく見開き、アマンダは甲高い声で叫んだ。
何かが来る、ジェードたちはそう察しつつも攻撃の手を止めることはしなかった。今のアマンダは防御の構えを取っておらず、攻撃を当てさえすれば倒せるはず――彼らはそう信じていた。
「やりなさい、私の僕」
ガキン、と金属と金属が激突する音を右からジェードは捉え、そのすぐ後に自分の拳が空中で止まったことに気づく。
アマンダの身体に触れようという刹那の間に、目の前に現れてジェードの拳を片手で受け止めたのは、黒い包帯のあの女。
「姉様の邪魔をする者は、許さない」
女のくぐもった声がジェードの耳朶を打った。
その敵意の強さに、少年は驚愕せざるを得ない。
――俺たちとこの人は何の接点もない他人なのに、悪魔ってのはそこに勝手な怒りを植え付けてしまうのか。
この女性を傷つけることは出来ない。けれど、ここで加減すればいずれは殴り殺されてもおかしくはないのだ。
「くっそおおおッ!」
葛藤する時間さえ、彼には与えられなかった。
ジェードは大声で悪態を吐き散らし、拳骨で包帯の女を押しきるべく全力を傾ける。
体重をその一点に、魔力の電流も何もかもを注ぎ込む!
そうしなくては、この女は倒れない。
「喚くな、犬。あんたの貧弱な拳なんて……あたしにとっちゃ赤子のそれでしかない」
激しい怒りに駆られているはずなのに、女の口調はあまりに冷静だった。
荒れ狂う感情を胸に留めた包帯の女は、ジェードの《雷光鉄拳》など意に介さずに、強引な力業で押し返そうとしてくる。
青い火花が散り、暫し拮抗状態が続くも――ジェードの身体は大きく跳ね上げられ、そのまま後ろに思いっきり吹き飛んだ。
「ぐああッ――!?」
「あたしの大切な仲間に、何してくれんのよッ!!」
女の左手の剣で後退させられたユーミが、激情に任せて敵への再度の突撃を敢行する。
それはシアンとリオも同じだった。足具に火炎を宿す獣人の少女は烈帛の咆哮を上げ、エルフの王女が気合いと共に鋭い風の一閃を見舞う。
正面、そして左右から肉薄する少女たちに、女は軽く瞠目した。
「ユーミ、突っ込むな! あいつに力押しは通じない!!」
「気概は称賛に値するが……やはり、遅いな」
空中に浮き上がりながらも、下を見るジェードは警鐘を鳴らす。
だが彼の言葉は間に合わなかった。包帯の女の銀の長剣が瞬き、女自身の身体も刹那にしてユーミたちの視界から消えている。
自分の身に何が起こったのか、少女たちが理解した時にはもう、その魔手は後衛のアリスたちまで及んでしまっていた。
「うっ!? がっ……!」
背後でヒューゴの苦悶の声が上がる。
それから僅かに遅れて、腹部に激しい熱を感じた。肌を焼くような猛烈な痛みがユーミを襲い、鮮血が脚を伝ってどくどくと流れていく。
――そんな、速すぎる。
自分の力不足を嘆く暇もなく、ユーミは掴んだ剣を地面に突き立て、何とか体を支えた。
この一秒にも満たない時間でどれだけの被害が出たか。目を背けたい感情を理性で振り切って、彼女は周囲を見渡す。
「あ、あぁ…………」
右腕の切断面を左手で押さえ、俯いて荒い呼吸をしているリオ。
シアンは右脚を大きく斜めに斬られ、立てなくなって床に膝を突いている。脚自体は完全に切断されていないが、出血量は多かった。放っておけば、十分と経たずに死んでしまうだろう。
「こ、来ないで……いや、やめて……」
小刻みに頭を振り、か細い声を漏らすのはアリスだ。
その眼前には、あの包帯の女が剣を真っ直ぐ向けて仁王立ちしている。女は左手に小柄な少年の首根っこを吊るし、無造作に揺らして見せた。
「兄妹か? 美しい愛だ……勇敢な戦士は、嫌いじゃないよ」
そしてヒューゴの軽い体を放り捨てる。どさりと崩れ落ちた少年は、ぴくりとも動く気配がなかった。
――あの子は戦えない。今、あの女に抵抗できるのは……エルしかいない。
恐怖に凍りついたアリスから目を離し、ユーミは黒ローブの魔導士の姿を探す。
彼女はすぐに見つかった。しかし、ユーミの胸に灯った希望の火は、冷たい風に吹かれて消えてしまう。
エルの全身は《色欲の魔女》アマンダの細いしなやかな腕に絡め取られ、肩を極められて反撃に転じることも出来ずにいた。
「エ、ル……っ」
ごめんね、とユーミは胸中で呟く。
魔法の戦いでエルがアマンダに敗れるわけがないと、彼女はたかをくくっていたのだ。それは実際間違ってはいなかったのかもしれないが……けれども、「戦い」の手段は魔法だけとは限らない。
脆弱な魔導士の少女が体術で敵に対抗するなど、不可能だ。アマンダはそこを突き、力で強引にねじ伏せる選択をした。
――ごめんね、力になれなくて。
悔恨の念に苛まれながら、ユーミは遂に地面に倒れ込んだ。
傷口に手をかざし、自らに治癒術をかける彼女の視界は、なぜだか段々と色を失っていく。
治しきれないかもしれない――ユーミは瞼を下ろし、体の力を全て抜きつつそう思った。
*
「魔術の戦いを期待してたかしら? うふふ、ごめんなさいね……私、格闘技も扱えるのよ。一流の武人ほどとはいかないけれど、こうして実戦で使える程度にはね」
目と鼻の先で微笑む女の顔を睨み、エルは必死に歯を食い縛っている。
今の彼女は背中を地面に着け、アマンダに上から押さえつけられた体勢だった。自分よりずっと背の高い、体術に嗜みのある女性の腕からどうやって逃れるのか――エルは咄嗟に思い付かない。
ユーミたちが突撃した直後に、エルもアマンダへ魔法攻撃を放っていた。アマンダはそれを難なく迎撃し、刹那に魔法の撃ち合いが繰り広げられた。
アマンダは防御魔法を一切用いず、ひたすら炎の矢でごり押ししてきた。あれを食らえば致命傷を負う――そのリスクを回避するべく、エルは光の防壁で身を守ることを選んだ。
が、それは失策だったのだ。アマンダは戦いを自分のペースに持ち込み、エルに攻める手を許さなかった。
「攻めて攻めて攻めまくる! それが私の戦い方よ。まどろっこしい手段は使わない。悪器で操れない相手は必要ない……そんな奴らはこうやって、壊してしまえばいいの」
バキッ、と自分の右肩が外れる音をエルは聞いた。
耳元で囁く魔女の声に何を言い返すことも出来ず、彼女は瞳を閉じる。
「あら、諦めたの? ふふっ、偉い子ね」
アマンダの身体が離れていく気配がする。
――私がもう抵抗しないと見て、放置を決め込んだのか。いや、あの慎重な女に限ってそんなことは――。
何にせよ、諦める訳にはいかない。隙を見て呪文を唱え、アマンダに少しでも痛手を負わせるのだ。
「ふふ、っ」
諦めたように演技するエルが、肩を襲う激痛に耐えて《無音詠唱》を開始しようとする中。
アマンダ・リューズは眼下で死んだように動きを止めたエルに、小さく笑いかけた。
そして、その美しい顔に一切の躊躇なく足を蹴り下ろす。
「ぐ、がっ……!? あ、あッ!?」
エルの押し殺された悲鳴は、アマンダにとって何よりの甘美であった。
それは、エルの顔面が醜く歪んだことに対してではない。彼女の上げる声が、感じている苦痛が、魔女の宿す《悪魔》に更なる力を与え――アマンダの心に、尋常ではない高揚をもたらしているのだ。
「あはは、あはははははは!! エルちゃん、あなたはまだ食べないわ! トーヤ君を捕らえて縛り付けた後、彼の目の前であなたをじっくり調理してあげるから!!」
「……そん、な、こと……させる、もんか……」
顔に蹴りを入れられ、痛みのあまり《無音詠唱》も途絶えてしまったはずなのに、エルはアマンダに反抗の言葉を放った。
諦めたふりを続けたくとも、トーヤを傷つけようというアマンダに黙っているなど無理だった。
トーヤは自分が傷つくのも厭わないが、仲間がそうなれば他人以上に心を痛める人だ。
エルは彼に傷ついてほしくない。彼が悲しむ姿はもう、見たくない。
「私は、単純な力ではあなたに敵わないかもしれない……。けれど、それは、逃げる理由になんか……ならない! 血まみれになろうと……どれほど痛みに、身を引き裂かれようとも、私は負けない……ッ!」
戦いの結果、己がどうなろうが関係ない。ここでこの女を倒し、悪魔の脅威を必ずに一つ減らさなくてはならないのだ。
鼻が歪み、血が流れるのもエルは気にしなかった。最後まで無様に足掻く――そう覚悟した少女は、歯を食い縛りながら上体を起こす。
「……本当におかしいわね。まるで物語の主人公みたいじゃない、あなた? ふふふ……なら私は、最高の悪役としてあなたの相手をしましょう。無駄口を叩くのも、これでおしまい」
体を小刻みに震わせながら、エルは立ち上がっていた。
興奮から冷めたアマンダは悪器《烏羽の扇子》を腰帯から抜き、少女へ向ける。
「どこまで耐えられるかしらね……【灼熱砲】」
扇子を開くと、そこには既に青い火球が一つ浮き上がっている。
小さな、小さな火の玉だ。しかしそこに秘める熱量は余りに大きい。この部屋の空気を揺るがすほどの高温に、エルは思わず目をすがめた。
――周囲を巻き込むことも辞さないってことか!
そう心中で叫びつつ、彼女は駆け出した。
アマンダに組み敷かれた際、取りこぼした杖のもとまで全力で急ぐ。
杖はエルが倒れた場所から五メートルは離れたところに飛ばされていた。アマンダが蹴り飛ばしたそれに手を伸ばす。
時間が何十倍にも引き伸ばされたように感じる。
魔女の灼熱が強まっていくのに比例して、エルの鼓動も否応なく早まる。
まだ、まだ届かないか――少女は瞬発力に欠ける己の脚を恨みながら、ひたすらに間に合うことを願った。
旅の始まりの森でトーヤがくれた《精霊樹の杖》。決して美しい造形ではないが、エルの手に不思議と馴染んだ魔法の杖だ。あれがあったからこそ、エルは魔法を完璧に扱えた。杖はトーヤからの力を与えてくれる――そう信じた彼女を、杖は常に支えてくれたのだ。
さあ、いつものように……君と一緒に、魔術を組み上げよう。
指先が氷の地面に転がる杖に触れた、その瞬間。
アマンダの炎の熱は最高潮に達し、全てを焼き尽くす砲撃が発射されようとしていた。
「精霊の魔導士よ……今ここで、消し炭となりなさい!」
「――神の御業が汝の悪しき意思を打ち砕く! 【戦神の魂】!!」
火球が膨張し、そこに秘めた破壊の魔力を解き放つべく破裂する。
視界が白き光に染まり、この場にいた者たち全員の姿を塗り消した。
炎が全てを燃やそうとする、その刹那――エルは魔女のその魔法に対し、神オーディンから受け継いだ魔法の一つを発動する。
残る魔力を振り絞って撃ち出す、悪意を退ける光魔法。今エルの手の中に現れた翠の光球は、あらゆる攻撃魔法の魔力を吸い取り、無力化することができた。
「ぐあッ……! なんて、巨大な力……!?」
アマンダが瞠目する最中、しかしエルは余裕ではいられなかった。
神オーディンによれば、吸い込んだ魔力は魔法の発動者が全て背負い込むことになるという。つまり、アマンダがこの部屋もろとも吹き飛ばそうとした大魔法の力を、エルはたった一人で受けなくてはならない。
そんなことをすれば、彼女の精神は確実に負担に耐えられなくなり崩壊してしまうだろう。
「これがあなたに一番ふさわしい死に様よね、エルちゃん? 魔法使い同士、最後は魔法で決着をつける。あなたの矜持にも反しないでしょう」
アマンダは浮かべていた笑みを消し、密やかに呟いた。
魔女の生み出した白い灼熱に代わってこの場を支配する翠の光――その主である少女は、アマンダの言葉に無言で頷いた。
乾いてひび割れ、魔法と同色の光粒となって蒸発していく指先を見つめながら、エルは囁く。
――あぁ……今にも、壊れてしまいそう。これは私に残された最後の手段……。私はもう戦えないけど、それは最大限の魔力を攻撃に注ぎ込んだアマンダも同じだ。
アマンダからありったけの魔力を引き出し、魔法による戦闘を継続不可能にする。あの女の武器を一つ、エルは奪った。
彼女はもう魔女ではなく、ただの人間なのだ。魔力がなくては悪器の力を完全に制御することもできないだろう。
――あとは、頼んだよ。
――トーヤくん……私はここで終わるけど、きっとまた、戻ってくるから……。泣かないで、待っててね……。
エルという一人の魔導士の少女の意識は、その言葉を最後にぷつりと途絶えた。
静寂の中、彼女の小さな身体が崩れ落ちる音だけが短く響いた。




