33 抗う者
――何なのだ、こいつは。
食い千切られた右足を見つめながら、氷の床に尻餅をついたモアは呟いた。
今、彼女の目の前にはこれまでに見たことのない異形の怪物が鎮座している。
そいつの上半身は人間のものとよく似た形状をしていた。ひどく細い胴体に長い腕と小さな頭が載せられ、目のない顔が挑戦者を無感情に見下ろす。
そこまではトーヤが相手をした《氷人形》と共通しているが、下半身はだいぶ様相が異なっていた。
白い、白い結晶の塊。無数に地面から伸び上がったそれらが束になり、まるで樹の根っこのように上半身を支えている。
全身は巨大で、あの《氷の巨人》の倍以上はある。放散する殺気も戦意も奴の比ではなかった。
「最後の難関、と言ったところでしょうか。ふ、ふ……でも、私は守れました。最愛の友人を……何よりも大切な、私の仲間たちを……」
アマンダ・リューズの命令で、シェスティンとベアトリスは迷宮最奥部への突入を余儀なくされた。
そこには尋常ならざる力を持つ怪物がいる――包帯の女のその言葉にいてもたってもいられず、モアはアマンダを無視してシェスティンらを追いかけたのだ。
最後の大部屋に辿り着いた時には既に、二人が怪物の魔手に絡め取られようとしている瞬間だった。
――私は誓ったはずです、何としてでも二人を守ってみせると!!
彼女に恐れはなかった。
友を救いたい。その一心でエルフの女は自らの十八番である《防衛魔法》を発動し、光の防壁で二人を包み込んだ。
しかし刹那にして標的を変更した異形の怪物は、先端が蛇の口のように裂けた触手を地面から撃ちだし、モアの右足を根こそぎ奪い去った。
「も、モア……! ごめん、私たちの反応が遅れたせいで……」
「くそっ、待っててくれ、今治癒魔法をかける!」
純白の防壁によって辛うじて触手攻撃を免れたハーフドワーフとダークエルフの二人は、自責の念に駆られながらモアへ駆け寄ろうとする。
だがモアは、彼女らに向けて首を横に振った。
「来てはいけません! あの怪物は私たちに倒せる相手ではない! 動けない私は置いて、撤退しなさい」
静かな、それでいて強い覚悟の込められた叫びだった。
モアの言うことが紛れもない真実であることを、シェスティンもベアトリスも初めの一撃で悟ってしまっていて――だから、彼女の言葉に反駁できなかった。
敵わない敵と戦おうとしても、命を無駄に散らすだけ。死んでしまっては元も子もないのだ。
亜人族として生を受けたシェスティンたちは、これまでずっと過酷な道を歩んできた。差別や迫害に苦しみ、故郷を失い、の垂れ死ぬ寸前のところをノエル・リューズに救われ、何とか命を繋いできた。
彼の下で働いて見えた、商売の世界が彼女らは好きだった。そこから広がる世界の大きさに、心を揺さぶられた。海の向こうには人間と亜人が対等に商売をしている国がある――その国へいつか行ってみたいという願いは、まだ叶えられていない。
それに――あの子たちとも、再会の約束をしている。
彼らに会うまでは絶対に死ねない。自分たちが志半ばで倒れたと知ったら、彼らは涙を流して悲しむだろう。そんな思いをさせたくはなかった。
「私なら、大丈夫です。この程度の傷は……一瞬で、治せますから。さぁ……行きなさい」
気丈にもモアは笑みを浮かべて言った。
短杖の先を傷口に向け、光魔法で傷を癒していく彼女の姿に、ベアトリスたちはこの場で躊躇すること自体がモアへの裏切りなのだと気づいてしまった。
モアは命を懸けたのだ。ベアトリスたちが逆らえなかったアマンダの呪縛を越えて、彼女らを護るために。
「すまない、モア……!」
怪物は一秒たりとも待ってはくれない。
その手がモアを掴みかかろうとした瞬間、ベアトリスたちは彼女に背中を向けて足を一歩踏み込んだ。
それと同時にベアトリスたちを包んでいた防壁が解かれ、彼女らはそこから脱兎のごとき逃走を始める。
――あたしたちが無力だったせいで、モアが傷ついた。今、あたしたちに必要なのは、どんな化け物も倒せる力。それを手に入れるためには……。
ベアトリスの黒い瞳は涙に濡れていた。
悔しさに唇を噛む彼女はシェスティンの手を引きながら、この大部屋の入り口へと一直線に駆け戻っていき――。
やって来る魔女の赤い目を直視した。
失望と軽蔑がない交ぜになった瞳が二人を射抜く。
人の負の感情が具現化したような、まさしく悪魔と呼べる女のどす黒い両目。
見ただけで抗う気力すら奪われてしまうそれに対し、ベアトリスたちは心の底から沸き上がる恐怖を無理やりに振り切った。
「アマンダ、お前は恐れるに足らない敵だ! 悪魔に呑まれたお前なんかより、もっとずっと強い奴はこの世界にごまんといる! いつまでも思い上がるなよ、お前の暴虐もこの迷宮で終わりだ!」
ダークエルフの女の声は空虚に響く。アマンダ・リューズは部屋の入り口手前で部隊を停止させ、遁走してくるベアトリスたちを迎えた。
「…………」
アマンダらの前で足を止めよう――そんなことをベアトリスはこれっぽっちも考えてはいなかった。
ただ無言で待ち構えるアマンダに、無謀な突貫が通じるとは思えない。けれど、彼女は抵抗しなくてはならなかった。
商会を率いていたアマンダ・リューズはもういない。ここに存在するのは悪魔アスモデウスに呑み込まれ、さらに自らの欲望の全てを解放した人にして人ならざる女なのだ。
野放しにしておけば、彼女の毒牙はまた誰かを殺めてしまう。
――ここでアマンダを殺す。刺し違えてもいい、彼女を止めることが出来るのなら、何でも構わない。
ダークエルフの女は口許ににやりと笑みを張り付け、アマンダを正面から睨み据えた。
ベアトリスの手が繋いだシェスティンの手を離し、ドワーフの少女が彼女の真意に気づいたその時。
バキッ、と。
何か硬いものがへし折られる音が、背後で無情にも上がった。
***
ケルベロスの警告した《怪物》の気配は、流石に僕たち人間にも関知できる距離まで迫っていた。
やけに長く感じる氷の通路を一気に駆け抜けながら、僕はエルたちのことを思った。
もし、彼女たちがこの先で《怪物》と遭遇していたとすれば。
果たして、無事でいてくれるだろうか?
エルたちの戦闘技術は疑いようもない。魔法に剣、拳術、弓矢……彼女らの誇るべき技の数々ならば、並みの怪物には手も足も出させないはずだ。
けれど、この相手は並みの怪物じゃない。それだけは確かだ。
「怪物を見つけたら、まず僕が《神化》してそいつに攻撃します。その、ケルベロスたちが血相を変えるほどの敵ですから……すみません、ヴァルグさん」
「何を謝る? お前は神器使いだ。立派な一つの戦力として提案なんざ幾らでも言っていい。それと、俺はお前に対する拘束力は持たねえ。自由に動け」
並走するヴァルグさんの言葉を受け、僕はこの状況でも隊列を一切乱さずに走る傭兵団員たちをちらりと振り返った。
強いリーダーが統率する精鋭集団――傭兵らしからぬ綿密な連携を得意とする彼らに、胸の内で頭を下げる。
神器使いと普通の人間の力は対等ではない。だから、僕が全力を出せば連携は途端に取れなくなってしまう。
最高の実力を発揮して戦うには、一人で怪物に立ち向かわなくちゃいけないのだ。
傭兵団の人たちは、僕と協力して戦おうと言ってくれたけど……残念ながら、今回はそれは叶いそうにない。
「あの、トーヤ君? くれぐれもあたしの足を引っ張らないでくださいね。今のあなた、状態としては万全といえないんですから!」
「それは君も同じでしょ、ケルベロス! いいか、君たちは僕と足並みを揃えて戦うんだ! 焦りは禁物だよ!」
僕とヴァルグさんの会話を聞いていたようで、ケルベロスがこちらを振り返って念を押してくる。
彼女らしい物言いに思わず笑みをこぼしながら、僕は警告を返事の代わりとした。
足を早め、ケルベロスたちとヴァルグさんたちの間を、付かず離れずの距離で駆けていく。
『い、いやああああああッッ!!?』
何だ、今の声!?
女の声だ。前方から発せられたその絶叫が、わんわんと洞窟内を反響して不協和音を奏でる。
そして悲鳴に重なり、何かがへし折られるかのような鈍い音も。
僕は歯を食い縛って、身体の奥から沸き上がってくる震えを懸命に堪えた。
間違いなく、怪物が誰かに食らいついたのだ。僕たちは間に合わなかった。
「くそっ、くそっ、くそっ!! 早く、早く行かなきゃ――守るべき人たちが、もっと死ぬ」
声の主はエルでもシアンでもアリスでもない。離れてしまった僕の仲間たちではなく、恐らくアマンダ・リューズの部隊の誰か。
自分にとって敵たる部隊の危機だったけど、それでも、もしかしたら僕の大切な人たちがそこにいるかもしれない。アマンダさんがリューズ商会から実力者を募ったのなら、ベアトリスさんやモアさん、シェスティンさんたちが同行している可能性が高いのだ。アマンダさんの弟のルーカスさんも、ひょっとしたら。
僕は彼女らとまた話がしたい。絶対に、こんな所で死んでほしくなんかないんだ。
「と、トーヤ!? あの野郎、生き急ぐなって言ったそばから……!」
気づけば僕はフェンリルたちを追い抜き、神オーディンの神化を発動して白い長髪をなびかせていた。
フェンリルの声にも耳を貸さず、この先に待つ怪物のもとへただひたすらに向かっていく。
視線を前に据えながら、僕は手のひらに意識を集中させて魔力を練り上げる。これまで交戦した大型モンスターは全て氷属性だったため、それに対抗できる炎属性の魔力だ。
「エル……僕は必ず、この向こうにいる怪物を倒してみせる。だから、待っていて」
エルたちが行く先にいるのだという確信が僕にはあった。彼女たちが進む道の最奥部を守るのが《奴》なのだと、直感的に解っていた。
――私たち魔導士の力は、他者を護るために与えられたものなんだよ。この特別な力は、決して悪用していいものじゃない。
そう、エルの言った通りだ。本当は魔法は何かを傷つけるために使うものなどではない。人を救い、人を支え、人を愛することのできる者にこそ、与えられてしかるべしものなのだ。
その力の使い道を誤っている者は、放っておけない。
明確な悪意と殺意、そして魔力の波動――それは前方から強烈に放たれている。
しかも、二人分。一つの波動は確実に怪物のものだろう。そしてもう一つは、きっとアマンダ・リューズのものだ。
急がなきゃ。僕が、彼女らの悪意を終わらせなくちゃ――。
*
「がっ!? な、んだ……!?」
アマンダへの捨て身の突撃を敢行したベアトリスだったが、結果から言うとそれは叶うことなく終わってしまった。
ベアトリスの目の前に現れたのは、見えない壁のようなものだった。彼女がアマンダに至近距離での魔法攻撃をぶつけようとした刹那、何者かがそれで妨害してきたのだ。
「あら、興ざめね」
退屈そうに溜め息を吐き、アマンダは言った。
数歩前に出てベアトリスが衝突した透明な壁に手を触れ、呟く。
「これを作り出したのは誰かしら? いえ、誰だかはあらかた見当がつくわ。――あなたね、マミー」
怪物《氷の異形》がモアのもう一本の脚まで奪い取ったことに目もくれず、アマンダは背後を振り向いた。
黒い包帯で顔を隠した女が、部隊員を掻き分けて最後尾から進み出てくる。
彼女の表情はやはり不明だった。その緑色の瞳からも、感情らしきものは一抹も見受けられない。
しかし、モアの背中を押した彼女に感情がないわけではない。悪意に揺らいでしまわないように、《心》というものを完膚なきまでに殺したのだ。
「そう。やったのはあたし……ベアトリスがあんたに突っかかって、反撃されないようにするためにだ。こいつらじゃアマンダ・リューズを倒すことなど到底できない。できるのは、このあたしさ」
腰の剣を抜き、包帯の女はその切っ先をアマンダへ向けた。
ここでお前を討つ――女からの宣戦布告に、アマンダは口許に亀裂のような笑みを刻む。
「あなたが最初から味方なんかじゃなかったこと、私は知っていたわ。いつ本性を表すのか、それだけが楽しみだった……。ふふ、今日は特別よ。私の《色欲》で、あなたのその仮面を剥ぎ取ってアゲル。その怖い顔も、すぐに可愛い雌のものにしてやるわ」
アマンダの右手中指にはめられた紫宝玉の指輪が、これまでになく強い光を放って瞬いた。
《悪器使い》の女と対峙するマミーを見上げ、地面に尻餅をついていたベアトリスは早口に訊ねる。
「あの怪物は……あの怪物はどうする!? 放っておくのか……!?」
「あんたもシェスティンも、後ろに下がって黙って見てな。他にできることもないんでしょ?」
「いや、そうじゃなくて! あんたが戦わなくて、他の誰があの化け物の相手をするんだ……!?」
髪を振り乱しながら言ってくるベアトリスに、マミーは小さく「あぁ……」と声を漏らした。
眼前のアマンダから目を逸らさぬまま、包帯の女は短く答える。
「心配は要らない。もうすぐ《彼》が来る」
それ以上の問答はなかった。
マミーが剣を握る手に魔力を溜め、詠唱を開始し。アマンダもまた指輪に宿る力を解放していく中――ベアトリスとシェスティンは、背後から駆けつける《彼》の存在に気がついた。
長い指先でモアをつまみ上げる《氷の異形》の向こう、アマンダらのいる地点の正反対にある横穴。
そこから紫紺の光と共に飛び出してくる、黒い鎧とマントの姿――それ自体には見覚えはない。しかし、その中身の少年のことは、決して忘れることなく覚えている。
自分達の知らない間に《神化》を習得していた、トーヤだ。
衣装も髪の長さや色も変わっているが、その顔と瞳は今も同じだった。
「その人を離せ、怪物ッ!!」
紫紺の炎と雷を纏う、神の槍が少年の叫びと同時に投擲される。
その魔力の暴威を感じながら、睨み合うアマンダたちもまた、戦闘を開始した。
二つの局面で行われる、桁外れの力を持つ者同士の決闘――それを見守る者たちの想いを胸に、少年と女は巨大な《悪意》を討つべく身命をなげうっていく。




