32 怪物の子
――お母、さん……?
温かい背中に揺られながら、まどろみの中で少女は呟いた。
名前も顔も知らない、自分の《オリジナル》の親の記憶。日々戦闘に明け暮れていたケルベロスだったが、どうやら微かな思い出は心に残っていたらしい。
記憶と現実の感覚を重ね合わせ、彼女は心地よさに我知らず笑みを浮かべていた。
――眠い……。あたしはもう、疲れたわ……。
この揺りかごでまだ睡眠を貪っていたい。人の肌の温度を感じていたい。
そんな欲求が胸の奥底から沸き上がってくるも、一方でケルベロスは自分に課された任務を忘れてはいなかった。
意識が深い眠りに沈み込んでしまう前に、どうにか瞼を開く。
「う、ん……」
目を覚まして最初に見えたのは、真っ黒い髪の毛だった。お世辞にも清潔とはいえない、汗と泥に汚れた長めの髪。
自分が頭をもたれかけていた肩は細く、背中も薄い。どう見ても頼りなさげな容貌なのに、人一倍の温かさを持っている。
この人は――。
「お母さん……なの?」
「お、起きたんだね!? って、お、お母さん……?」
驚き、即座に戸惑う少年の声。
どう聞いても「男の子」の声に、流石にケルベロスも自分が盛大な勘違いをしているのだと気がついた。
首を後ろに回し、肩越しにこちらを見てくる彼の顔には、ただ穏やかな微笑みがあった。
「僕はトーヤだよ。そして君は、ケルベロス」
そうだ。この子が、ケルベロスが倒すべき存在だった。
自分はこの少年と戦い、少年の仲間の魔導士によって迷宮内の別の座標に転移させられた。その後、氷のモンスターの襲撃があり、ケルベロスはトーヤと共闘することになって……。
それ以降の記憶が、全くない。
自分がトーヤの背中でこうして眠りこけていた経緯が、さっぱり分からない。普通に考えてありえない話だ。よく知りもしない男の子におんぶされているだなんて、ケルベロスには如何とも受け入れがたい。
怪物として生きたいケルベロスは何も纏わず、在るがままの姿で戦う道を選んだ。そんな彼女の身体にトーヤは何の許可もなく触れている――羞恥に顔を紅潮させつつ、彼女は叫び散らした。
「ちょっと君! 断りもなく女の子の裸体に触れたこと、あたしを下ろしたら土下座で詫びなさい! たとえ神器使いと言えども、行動の分別くらいはつけてもらいたいものです!」
「ま、待った待った! 自分の身体をよーく見て欲しい。今、君はちゃんと服を着ている。僕と肌と肌を触れ合わせるような格好にはなってないよ」
慌てて弁明するトーヤに促されて視線を下に向けると、自分の身体を大きめの黒いローブがすっぽりと包んでいるのが見えた。
今度はよく確認もせず文句をつけた軽率さに、ケルベロスは頬を赤く染める。
「わ、悪かったわね。ところで、この服はどこから出てきたのですか? あなた、こんなダボダボのカビ臭いローブなんて持っていなかったでしょう」
「ああ、それは傭兵団の人たちがね――うん、じゃあまずは、状況の説明からしようかな」
起床直後のおぼろげな頭もだいぶすっきりしてきて、ケルベロスには周りを見る余裕が出てきた。
辺りを見渡してみると、目に入ってくるのはざっと二十人余りの武装した兵士たち。エルフやドワーフが混じっていることから、どこかの軍隊ではなさそうだった。
これが《傭兵団》……トーヤの口ぶりからして、どうやら彼と馴染みの間柄のようだ。
氷と水晶の道を傭兵団は歩いている。横幅の異様に狭い、曲がりくねった緩やかな上り坂だ。
傭兵たちは各々真剣な表情で、黙々と道を進んでいる。その様から、彼らが本気で《迷宮》に挑んでいるのがケルベロスにもひしひしと伝わってきた。
「ここはどこなの……と聞いても、無駄なのでしょうね。地図もなにもない迷宮で、現在地がどの辺りかなんて知りようもないでしょうから。――さぁ、その説明とやらを始めてください」
ケルベロスに促され、トーヤは手短にこれまでの出来事を報告する。
その中でケルベロスには二つ、腑に落ちないところがあった。
まず自分が戦いの最中に、共闘すると決めたトーヤに襲いかかったということ。普段のケルベロスなら、自分の意に反した行動など絶対にしない。《自分第一》がケルベロスの主義だ。この行動は彼女の主義に根底から違っている。
第二に、『影の傭兵団』とやらに《怪物の子》であるフェンリルとヨルムンガンドの姿があること。シルの命でこの団に潜り込み、何か起こそうとしているのか――考えて、ケルベロスはそれを否定する。
影の傭兵団は先のルノウェルス革命で組織に楯突いた一団だったが、他ならぬシル当人が『さして力を持たない連中よ』と評していたのだ。事実、傭兵団から『女王の間』まで辿り着けた者は出ておらず、一番の実力者である団長ヴァルグもヨルムンガンドとの戦いで満身創痍となっている。
その気になれば、意図も容易く潰せる相手。それが『影の傭兵団』であるはず。フェンリルたちにそんな奴らのスパイをさせる理由が、シルには存在しない。
「あ、彼女起きたのね。――おはよ、私ヴァルグ団長の一番の右腕、リリアンよ。よろしくねっ!」
考え込んでいたところていきなり顔を覗かれ、ケルベロスは仰天した。
天真爛漫に笑う褐色の肌の女は、ケルベロスの銀髪の頭を無遠慮にも撫で回してくる。
「綺麗な髪ね! この迷宮の水晶たちと相まって、すっごく幻想的に見えるわ……」
うっとりと溜め息まで漏らす女をケルベロスは睨み付けた。
――何なのだ、この女は。初対面で図々しく触れてくるなど、無礼だと思わないのか。
敵意全開の眼をリリアンに向けていると――突如。
「団長、出ました――モンスターです!!」
前方にいる若い男の大声が、洞窟の中でわんわんと反響する。
続いて上げられたのは指揮官の冷静な声。洞窟という狭い空間での戦いに、団長はすでに完璧に順応しているようであった。
「『スプリガン』か――奴は闇魔法を使う、それだけは気をつけろ! ナイト、お前が先陣を切れ! 奴は刃への耐性を持たない!」
「了解ですよ団長殿。騎士たる私が、邪悪なるモンスターを成敗致しましょう」
『ナイト』と呼ばれた男は颯爽と駆け出し、モンスターの前に躍り出る。
そのダークエルフの青年と対峙する怪物――『ゴブリン』とさして変わらない体躯の妖精たちは、けたけたと甲高く笑っていた。
長い耳と黒い髪の毛を揺らす妖精たちは、背中の翅を震わせて坂の上から人間たちを襲撃する。
スプリガンは自らが迷宮の守護者であるのだと強く自負している。彼らはひ弱な妖精だが、その意志を強靭な力に変えて挑戦者に慈悲なき攻撃を与えることで知られていた。
もちろんヴァルグもナイトもそれを忘れてはいない。
闇の色をした長髪をなびかせながら、騎士を自称する青年は口上を爽やかに述べた。
「かつてダークエルフの里を護った私だが、今はその故郷もない……亡国の騎士たる誇りにかけて、このナイト、お前たちを華麗に打ち払って見せよう。さぁ、かかってきなさい!」
腰から深紅のレイピアを抜き、青年騎士は『スプリガン』へ突撃していく。
ガッ、と地面を蹴り――続く刹那には、彼の姿はケルベロスの視界から消え去っていた。
直後、三匹にも達する妖精たちの絶鳴が響き渡る。
「あの男、エルフのくせに速い……。瞬発力が極限まで高まるよう、訓練を重ねてきたのでしょうね」
「あぁ、きっとそうだよ。そうして彼らは強くなってきたんだ」
トーヤの背中から降り、坂道の上まで一瞬にして登り詰めた騎士に思いを馳せる。
そうして見守る内にまた二つ、モンスターの悲鳴は届いてきた。青年の武器は僅かな雑音すら立てず、沈黙と共にスプリガンの急所を正確に穿っているようだ。
「お前たち、必要以上に近寄るなよ。巻き添え食らうぞ」
ヴァルグが静かに警告する。彼の言葉にケルベロスはあっさりと従った。
何故だか今のケルベロスからは、あれだけ燃え上がっていた戦意の炎が消え失せてしまっていたのだ。
反対にヴァルグの側で今にも飛び出しそうなフェンリルを見ても、彼に追随したくならないほどに。
――あたし、どうしてしまったのかしら。あの戦いの後、目が覚めてから頭の中で何かが変わったような気がする。
その何かの正体はケルベロスに図り知れることではなかったが、彼女の隣にいるトーヤはそれでもいいと思った。
実はシルが彼女へ術をかけていた――そう告げられたら、きっとケルベロスは大きなショックを受けるだろう。命を削り合う激闘の後であることに加え、《迷宮》という予測不可能な事態がいつ起きてもおかしくない場所において、それは不要な危険を生むかもしれない。
神殿攻略を終えたら全てを話そうと、トーヤは決めていた。
「あのダークエルフが戦っている最中で悪いのですが、あたし、あの子たちに訊きたいことがあります。いいでしょうか、トーヤ君?」
「う、うん。構わないよ」
ややぎこちない笑顔でトーヤは頷く。
彼の表情に奇妙なものを感じつつ、ケルベロスは傭兵団員の間を縫って前方のヴァルグらのところへ向かった。
彼女の接近にすぐさま気づいたのだろう、ヨルムンガンドがこちらを殺気のこもった視線をぶつけてくる。
「…………」
それを無言で受け流すと、まずケルベロスはヴァルグに声をかけた。
腕組みし前方を黙って見据える男は、首を動かさずに彼女の挨拶に訥々と応じる。
「おはようございます、ヴァルグさん。あたしの同行を許してくださったこと、大変感謝しておりますわ。他の皆様にも、それは同様です」
「聞いていたよりも随分とへりくだった話し方をするな。……まぁ、儀礼的な挨拶はいい。お前はどうやらこいつらと関係があるらしいな? 話したいなら話すといい」
――ただし、ナイトがスプリガンを倒し終わるまでだ。
釘を押されてしまったが、それで充分だ。ケルベロスがヨルムンガンドたちにしたい質問は、ただひとつなのだから。
「02、08。あなたたちは組織に翻意を持った……そう認識していいのかしら?」
フェンリルこと02は揺らがない赤い瞳を、ヨルムンガンドこと08は深々と首肯を返した。
傭兵団と同じ鎧を纏った彼らはもう、自分が連れ戻すべき仲間ではなくなっている。
あのエイン・リューズと瓜二つであった02の冷たい眼も、そこにはない。彼の眼には人間らしい感情が、年相応の少年のような輝きがあった。
「俺はここ一ヶ月の生活が本当に気に入ってるんだ。毎日新しい道を歩いて、違う飯を食って、知らない誰かと出会う。組織に飼われていた頃には気づけなかった喜びを、俺は知ったんだよ。……失敗作として処分されたくなくて、逃げたのが始まりだったけど――恥じることのない、これが俺の新しい生き方だ」
純真な笑みを顔中に浮かべ、02は喜びを表現していた。
それを見た途端、ケルベロスの胸はずきんと不思議にも痛む。
自分の心を苛むこの感覚が何なのか、ケルベロスには理解が出来なかった。
彼女が内心で苦悶する間、それを知る由もない08が話を畳み掛ける。
「私たちを情けないと思うのなら、勝手にして。でも、彼とこの人たちを傷つけようとしたら許さない。その時は、私があなたを力ずくで止める」
「ヨル……」
08は本気であった。それは彼女のあざなを呟く02と、正面から相対しているケルベロスの身を一瞬すくませるほどに鋭い言葉だった。
ケルベロスと二人はもう、相容れることはないのだろう。
これまでも殆ど会話はしなかったが――しかし、数少ない手合わせの中で通じ合うものはあった。
戦闘への飽くなき意欲。強欲に強さを求める心。自分の半身にして好敵手とも言えた少女と決別してしまうのは残念だが、仕方がない。
「……あなたたち、彼らには本名を名乗らないのね」
トーヤと傭兵団がいなくては恐らくモンスターに喰われていた身のケルベロスは、彼らに恩義を感じている。
それは二人も同じだ。けれど、ケルベロスの組織への忠義は未だ心の奥底に根付いている。仲良く手を取り合っていこう――などとは到底言えないが……。
「なら、あたしもそうしましょう。これから神殿攻略を終えるまでは休戦です。その間、呼び名に困るといけませんからね」
何とか顔に笑みを作り、ケルベロスは目の前の二人に手を差し出すことに成功した。
ポカンと口を開けるリルは数秒硬直してから、握手に応じる。
「よろしく、ケルベロス。いや……ケル」
「リル君、と呼べばよろしいんでしたよね? それから、08はヨルちゃん。よろしくお願いしますね」
怪物名の頭文字二つから取ったあざなを付けられ、ケルベロスはむず痒く思いながらも不快ではなかった。
これまでの苛烈さを一切感じさせない、本心からの笑顔で彼女は二人に改めて頭を下げた。
組織が全てであった少女は今、外の世界と交わるリルたちに無自覚の憧憬を抱いていたが――それが表面上に現れるのは、もう少し先のことになる。
「おい、お前ら! スプリガンの群れは全滅した、お喋りの時間は終わりだ!」
ヴァルグの声に三人は表情を引き締め直し、視線を前方へ向けた。
迷宮に突入してから既に12時間以上が経過している。間に何度か休憩は挟んだが、彼らは体力も精神力もそれなりに削られていた。
「俺たちは止まるわけにはいかない。そうだろ、ヨル」
これまで繰り返してきた言葉をリルは言う。彼の心の力はまだ、激しい炎を燃やしていた。
そうね、と青い髪の少女は頷いて答える。
「私たちが生きる意味、それを探したくて戦うの」
《怪物の子》は本来生まれるべきではなかった命だ。組織によって作られた、殺戮のための獣の力。
自分達の運命は変えられない。それを受け入れた上で、彼女たちは自らがどうするべきかを考え続ける。
「ケル……あなたも、何か見つけられたらいい」
「……? 何か、って――っ!?」
眉間にシワを寄せたケルベロスだが、その時、彼女はそう遠くない場所で巨大な怪物の気配が目覚めるのを感じた。
目を限界まで見開き、獣の耳をしきりに動かす。怪物の優れた五感が捉えた《同類》の脅威に、彼女は鋭い叫びを上げる。
「ここからほど近いところで、新しい怪物が産声を上げた――! ヴァルグさん、早く行かなければ! あたしが先導します!」
強い殺意と黒い魔力。暴れている怪物の声は聞こえないが、しかし《彼》に打ち倒される人間の悲鳴は幾つもはっきりと届いた。
ケルベロスと同じく獣耳を持つリルも、彼女の後を追って隊列から飛び出していく。
「お前ら、いきなり行くな! 俺たちから離れすぎるんじゃねえ!!」
「リル君、ケルベロス! 焦らないで、足並みを揃えて――」
そんな二人に対し、ヴァルグとトーヤは彼らを呼び止めようとした。
この迷宮内での個人行動はあまりに危険だ。集団からはぐれてしまえば、助けてくれる者は誰もいなくなる。それはつまり死を意味するのだ。
だがケルベロスもリルも死を恐れない。命を冒涜した科学者によって生み出された彼らは、一度走り出したら止まることを知らなかった。
「くそっ! お前ら、全速前進! あいつらを追うぞ!」
「了解です、団長!! ――みんな、決して焦らず行くのよ! いいわね!?」
ヴァルグの指示を受け、リリアンが全隊員に言い含める。
二列縦隊で水晶の坂道を駆け上がっていく彼らもまた、怪物の子たちと同様に嫌な予感を胸の内に抱きつつあった。




