29 心技
あれは、鬼……!? まさか、あの氷人形が呼び寄せたのか――。
氷人形が耳なりのような高音を発した直後、北側の横穴から現れた新たな怪物。
そいつは身の丈3メートル近い人に似た姿をしていた。剥き出された肌は透き通るような氷の色。筋骨隆々の肉体の上に太い氷のチューブを張り巡らせ、その中で真紅の血液を循環させている。
氷人形と同様に異様に長い腕をしていたが、あれとは異なり両脚も異常に短かった。手の甲を地面に擦りつけながら歩く怪物の顔に、人間との相違は特にない。しかし表情はやはり怪物というべきで、こちらを見下ろす赤の瞳に宿るのは禍々しい殺意である。
「ケルベロス、僕から絶対に離れないで。どうやらあいつらは仲間らしい。二体で僕らを叩き潰すつもりだよ」
氷鬼――とりあえずあいつはそう呼ぶことにする――と氷人形の双方に視線をやりながら、僕は背後に退避してきたケルベロスに囁きかけた。
が、そこで奇妙な「違和感」を覚える。
……相変わらず聞こえてくると思っていた憎まれ口が、返ってこない。それだけじゃなく、背筋に迫るこの感覚は――。
「ケルベロス!!」
がばっと振り向き、僕は彼女の怪物としての名前を叫んだ。
ケルベロスの灼熱の刃が突き出された刹那に、テュールの剣の切っ先を何とかそれにぶつけ、刃の軌道をずらす。
火花が散り、剣と剣が衝突する金属音が音高く鳴る。
「今は戦ってる場合じゃないんだ、ケルベロス! さっきも言ったじゃないか……ケルベロス……?」
衝突を経て後退させられたケルベロスの瞳を覗き込み、僕の声は尻すぼみになっていった。
先ほどまでとは全く違う彼女の目に、喉の奥で嫌な唾を呑む。
戦意に爛々と輝いていたケルベロスの両眼に今あるのは、ただ淡々と目標を射貫こうという暗殺者めいた冷たさだ。これまでも何度か目にしてきた、あの目。
ヒューゴさん越しに見た『蛇』の、神殿ロキで遭遇したシル・ヴァルキュリアさんの目……ケルベロスのそれは彼らと同じだ。
『ガアアアアアアアッッ!!』
『キュルルル……!!』
氷鬼と氷人形の咆哮が、この水晶の部屋中に響き渡る。
僕たちの立つ床をも震撼させる大声に耳を塞ぎたくなる思いを必死にこらえ、ケルベロスをどうするか思考を高速で巡らせる。
ここで仲間割れする状況が一番まずい。いくら神器使いの僕といえども、怪物二匹と《魔獣化使い》一人を同時に相手取るのは無理だ。体力が万全ならばできないこともないだろうけど、生憎さっきケルベロスと一戦交えたばかりである。
「ケルベロス……ちょっとおとなしくしててね」
――女の子に乱暴な真似はしたくないけど……仕方ないか。
睨み合う僕とケルベロス、そしてそれを静止して見つめる氷人形、じりじりと近寄ってくる氷鬼。怪物たちが僕たちへ牙を向けるまで、あと十秒もないはずだ。
僕はテュールの剣を逆手に持ち直し、それを思いっきり凍てつく地面に振り下ろした。
黄金の神器は氷晶の岩盤を穿ち、そこから《氷》の魔力を吸い上げる。
氷の精霊よ……どうかこの僕に、大いなる自然の力を貸してくれ。
ざわ、ざわと、僕の願いを聞いた精霊たちが動き出す。
青い光の粒となって僕の目の前に姿を現した彼らは、テュールの剣の周囲に纏うと囁きながら力を与えてくれた。
『神に認められし人の子よ。汝の願い、その代償と共に受け取った』
――ありがとう。君たちから貰ったこの力、決して無駄にはしないよ。
《精霊の奇跡》――この現象に名を付けるならそれが相応しいだろう。
怪物たちが知る由もない存在である精霊達から力を授かっている僕は、彼らから見ても異質なものに映ったようだ。その証拠に、氷鬼は口を閉ざし、その場で立ち止まってしまっている。赤い瞳を見張った氷鬼はここで初めて、驚きという感情らしい感情を見せた。
青の光粒が渦を巻き、地面に刺した剣を通して僕に魔力を与えてくれる。
その代償に差し出したのは、僕自身の《血》だ。この命を削ってでも僕は彼らから《氷の大魔法》を受け継がねばならない。怪物たちに勝つために。そして、ケルベロスの暴走を止めるために。
「【氷精霊の奥義】!」
まずはケルベロスへ剣尖を向ける。
青い魔力の光に包まれた神器の剣は、その先から目映い光の波を迸らせた。
後退から再度前進へと転じたケルベロスは、僕の生み出したオーロラを直視して足を止める。
「ぐっ……何を、する……!?」
前傾姿勢のまま強制停止させられたケルベロスは、体のバランスを崩して盛大につんのめって倒れた。
鼻先を地面に打ち付けた彼女は顔を仰向け、掠れた声で言葉を絞り出す。
この魔法は浴びた者の肉体の動きを硬直させる、というものだ。その部位は僕が自由に決められる。そして今、ケルベロスは四肢を動かすことが完全に封じられたのだ。
彼女が魔法を使う時、必ず行われていたのが「手のひらに魔力を溜める」動作だ。対象に手のひらを向け、その上で呪文を唱えることで彼女の魔法は初めて成立する。しかし、それはもう彼女にはできなくなった。
僕が魔法を解くまで、ケルベロスはあの攻撃魔法を使えない。
――ケルベロスの動きは止めた。あとは、あの二体の怪物を倒すだけだ。
「さぁ、勝負だ。先に言っておくけど、僕は君たちに負けるつもりなんて……これっぽっちもない!!」
僕の雄叫びに対抗するように怪物たちも両手を挙げて吼えた。精霊の奇跡に驚愕していた彼らの姿は、既にない。
活動を再開した氷人形と氷鬼は、その鍵爪と拳に薄青色の魔力の光を溜め始めた。ここまで馬鹿の一つ覚えみたいに放ち続けてきた、氷属性の打撃攻撃。
『オオオオオ――――ッ!!』
右拳を後ろに振りかぶり、地面を震わせながら氷鬼は猛進する。同時に氷人形も反対側から僕を挟み撃ちするべく、突進してきた。
面白い。魔術の戦いよりも肉体の技で戦う方が僕の好みだ。この氷の加護を得たテュールの剣で、返り討ちにしてやる!
「セイッ!」
鋭い気合、そして踏み込み。《神化》により逞しく強化された右腕で最初に斜め左下に切り払い、斬撃を「残す」ことで前から迫る氷鬼に備える。
続けて回れ右した僕は、その勢いのまま剣を真一文字に薙ぎ、氷人形と互いの「武器」をぶつけ合った。
ガキイイ――ンッ! と耳をつんざく衝撃音。腕に伝わってくる力のあまりの大きさに、胸が震える。
直後、氷人形にやや遅れて氷鬼も僕の「剣」との勝負に入った。背後で自分の斬撃と怪物がせめぎ合っているのを感じながらら僕は目前の敵をきつく睨み据えた。
僕と怪物、力の差はなんと互角。防御ばかりで攻撃に優れるわけじゃないのだろうという予測は、残念ながら外れだった。
「なかなかやるじゃないか……!」
『……』
眉間に皺を刻む僕に、怪物は特に反応を示さなかった。
あの細い腕からは信じられない怪力に押し返されないよう、必死に足を踏ん張るも、この足は徐々に地面を削り出していく。
いやに積極的だ。さっきまでずっと防御と回避に徹していたくせに、急に攻めてくるなんて。氷鬼の加勢に調子づいたからか? それとも、ケルベロスが戦えなくなり、僕が一人になったからか。
「二対一で潰しにかかるなんて、好きじゃないな」
ケルベロスと共に氷人形を倒してしまおうとしたのは棚上げし、僕は唇を尖らせた。
「残った刃」がどこまで氷鬼の拳を阻んでくれるかは分からない。背中を取られる事態は何としても避けたいため、なるべく早く氷人形の方を片付けてしまいたかった。
くそっ、それなのに……。
ばき、ばきっ、と。
後ろから聞こえてくるのは、見えない力の刃が欠けて崩れていく音だ。それと共に、氷鬼の拳に生えた氷の鋲が壊れる音でもある。
――こいつはもう防げない。ならば……。
「うおおおおお!!」
僕の心に宿るのは、燃え上がる青い炎のイメージだ。全てを焼き、その熱で氷塊をも溶かす、不死鳥の火焔。
いつの時代も新たな魔法を生み出すのは魔導士の想像力だ。こんな魔法があったらいいな、と考え、その完成のためにいくつもの《魔素》を組み合わせて魔力を練り、更に魔法としての形に変えていく。
燃やせ、燃やせ、壊せ。
黄金の剣には氷に代わって揺らめく炎が纏い、この部屋を蒼い輝きで染め上げた。
炎と力、二つの属性の合わせ技。
名付けるならば――。
「【蒼炎剣】」
じゅわっ、と激しく音を立て、テュールの剣に触れていた氷人形の鉤爪が一瞬にして蒸発した。
同時に、後背の「見えない刃」も完全に破壊される。
「グオオオオッ!!」
拳の氷鋲が砕けたくらいで氷鬼は止まりはしなかった。
だが、それでいい。僕はこの瞬間に発生した蒸気を利用し、おつむの悪そうな怪物に目眩ましをかけることにした。
ひょいっと姿勢を低くし、そそ右側に全力で横っ飛びする。
白い水蒸気のせいで氷鬼は僕が消えたことに気づけない。氷人形の方はもしかしたら察知したかもしれないけれど、氷鬼の勢いは止まらなかった。ひたすらに敵を殴り殺そうとする怪物を、もう一方の痩せた怪物が避ける時間は残されていない。
――ドゴッ!!
重く鈍い殴打音に続いてやって来たのは、固い氷に亀裂が走りだすピキリ、ピキリという細い音だった。
よし……やった。
氷鬼の全力の拳は氷人形の胸の辺りに直撃し、致命傷を負わせたのだ。氷人形は仲間に加勢を求め、氷鬼もそれに応じたわけだが、結果的にそれは氷人形自身の首を絞めることとなった。
「……グルルルッ」
顔をしかめ、氷鬼は流石に動揺しているようだった。しかしすぐに表情を戻すと、改めて憎悪と憤激の炎をたぎらせた眼で僕を睨んでくる。
今の手段が正々堂々とはかけ離れたものであることは、自覚していた。けれどそれを間違いだとは思わない。勝負の世界は結果が全てだ。最後に笑えるのは戦いを制したただ一人のみ。そしてそれは――この、僕のことだ!
「炎と氷――二つの力を得たテュールの剣。こいつで君を、確実に斬ってみせる。そうして僕は強くなる。神様の試練を乗り越えて、新たな力を掴み取る!」
怪物の原動力が敵への殺意であるなら、僕が持つのは「強さ」……つまり力への執着だ。
なぜ自分が力を求めるのか。答えは即座に出る。それは、自分の大切な人たちを守り抜くためだ。愛する人たちのために、もう二度と過ちを犯さないように、僕は強くあらなくてはならない。
何度でも言う。僕は力を更に手にしたい。だからここで……お前を倒す!!
「はああああッ!!」
「グラアアアッ!!」
僕と氷鬼の雄叫びが空気を震わせ、直後、互いの剣と拳がぶつかり――合わなかった。
「……グオッ?」
氷鬼は拳を振りかぶった体勢のまま、一切の動きを止めた。
筋肉に盛り上がった胸部から突き出ているのは、銀の輝き。
――何者かが現れ、氷鬼の背後から刃を刺し貫いたのだ。
「……誰、ですか」
怪物ではない。氷鬼の胸を貫通したのは、黒い柄をした長槍のようだった。
槍を深々と怪物に突き刺し、絶命させることに成功したのを確認したその人物は、静かに得物を引き抜いた。
心臓の真上に開いた穴から血液がどっと迸り、巨体が仰向けに倒れる。
目の前に立っていた新たな狩人は、僕と一度戦ったことのある人物であった。
「……よォ、トーヤ。会いたかったぜ」
前部分を二本の触角のように垂らした、白い髪。大きな瞳は深紅。女の子と見紛うような顔立ちに、それとは似つかわしくない戦意に満ちた凄絶な笑みを浮かべている。纏った衣装は僕と同種の――というか全く同じ型の鎧だった。
リューズの血を引く、シルの配下エイン。
いや、この荒い言葉遣いは、彼の分身である「アイツ」だろうか。
「君は、フェンリル……?」
「そうだ。――俺はお前と再戦するため、ここに来た。この挑戦、拒むことなんざ許さねえ!!」




